頭と手と心:『ことばの喜び・絵本の力』を読んで 小林卓(実践女子大学)

渡辺順子『ことばの喜び・絵本の力:すずらん文庫35年の歩みから』

萌文社、2008

ISBN9784894911604 2520円(税込み)

http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/4353700.html

本書は、副題の示すように、著者渡辺順子さんの35年にもおよぶ「すずらん文庫」の歩みをまとめたものである。当時の文章を継続的に再録するという構成を主としてとっているため、読み手の私たちも「すずらん文庫」とともに、成長していくような気にさせられる。

「絵本の読み聞かせをするということは、子どもの心の畑に種を蒔くこと」という変わらぬ熱き思いとともに、その都度、新しいことを発見し、地域の人と、世界の人と、活動を広げていくさまは、とても感動的である。ぜひ全文を手にとって読んでいただきたいが、限られた誌面の中でいくつかポイントをしぼって、評者の関心からいくつか書いてみたい。

□頭と手と心と

本書の中では、図が多用され、渡辺さんがその都度概念を整理されていった過程が示されるが、p.29の図では、人間の特徴を1)脳…思考、2)手…創造、3)心…感情、とまとめている。評者はこの中で、「手」の概念をとても新鮮に思い、「そうだよなー、頭と心のことはよくいわれるけど、手のことはあまり言われないような気がするなー」と、胸の片隅にそのことをとどめて本書を読み進めていったのであるが、評者の興味に一番合致した、第4章の「広がり深まる布の絵本の世界:人権・環境・平和への願いをこめて」でこの概念はいっぺんにふくらんだ。布の絵本とは、まさしく「手」の世界である。布の絵本は手のぬくもりを伝え、世界に1冊しかない本を手渡しし、手渡される喜びがそこにある。

「手」というのは、人が他者とかかわるための器官ではないか。足が自立するための器官であるのに対し、むすびあい、協働し、共有するための器官が手ではないかという気がしている。私たちの母語である日本語で手に関わる言葉を見てみても、「手塩にかけた」「手伝う」「手向ける」といった言葉は、人と人がぬくもりを伝えあう様を示している。「手当」という言葉があるが、人の痛みというのは、文字通り身近な人に手を当ててもらうとやわらぐことが多い。子どもの頃、風邪を引いて寝込んでいたとき、夜中に母が額に手を当てて、熱をはかってくれるのを夢うつつに感じながら、安心感につつまれたことを思い出す。

この1)脳(頭)、2)手、3)心という概念を子どもの環境にあてはめて、考えてみると、a)学校、b)地域、c)家庭、と対応するのではないか。これは生涯学習でよく使われる概念構成であるが、a)の学校の部分が肥大化しすぎ、学校に何もかも押しつけてしまったことへの反省が生涯学習の概念の提唱だといわれる。もちろん、学校でも、心は伝えられるし、手の動きも伝えられるけれど、何もかも学校で完結させようということに無理があったのではないか(成人男性の場合、この「学校」に「会社」が対応し、3つのバランスがとれていないことが、成人男性の「みじめな」老後を生むといわれている)。

文庫活動とは、上記のa)-c)の中で、主としてb)の地域に、1)-3)の中で主として2)の手に対応するだろう。もちろん、これは無条件でなされるわけでなく、本書では渡辺さんが様々なきっかけを大事に育て、活動を少しずつ広げていった様子が示されている。もちろん、頭と手と心は独立したものではなく、いろいろと「手」で協働作業を行っている中などでこそ、いいアイデアが浮かぶことは多い。ことさら「ブレーンストーミング」などと名付ける必要もない、手を動かしながらの自然な会話の中にこそ創造は生まれやすいものであろう。また、渡辺さんがいろいろなことに出会うたびに多くの本を読み、その考え方を確認しているのも、「手」と「頭」の協働であろう。本書に示された多くの研究書は渡辺さんの読んだものの一部に過ぎないと思われるが、その向学心はとても貴いものに思われる。

□子どもと多文化

さて、特に「多文化サービスの観点から見た書評を」というリクエストがあったので、私なりの視点の「子どもと多文化」を書いてみる。

渡辺さんは本書で、「子育てでなくて、子育ちである」ということを何度か書いている。これは、子どもを自立した一個の人格として重んじるという視点が貫かれている姿勢だと思う。渡辺さんがよりどころとしている「児童憲章」の冒頭に、「児童は、人として尊ばれる」とある。この当たり前といえば、当たり前のことが、果たして本当に普通になされているだろうか。

評者が多文化サービスに関わり始めて以来の持論に、「子どもを多文化の対象として見ること」というのがある。私より以前の世代の児童書に関わる人は必ず読んだといわれる、ポール・アザールの『本・子ども・大人』(紀伊國屋書店、1957年)に、大人と子どもを「異なった種族」としてとらえるべきだという話がある(p.157-159)。「人種が違う」という言葉を「理解できないもの」と同義に使う、いまの日本文化の用語法は私には受け入れられないが、子どもと大人、それぞれが違った文化をもち、それは等しく尊重されなければならないという観点はとても大事だと思う。

子どもの時、「大人になんかなりたくない」「大人は自分たちと違う」と思った人は多いはずで、きっとそれは大切にしていかなければならない、忘れてはいけない感情なのだと思う。「長くつ下のピッピ」シリーズの『ピッピ南の島へ』(岩波書店、1965年)で、ピッピが、大人にならずにすむ「えんどう豆によく似た丸薬」をトニーとアンニカと飲む場面が最後の方にある。

「でもね、これは、暗いところでたべてね、それからこういう文句をいわなきゃだめなの。つまり、こうよ……

『すてきな 生命の丸薬さんわたしは おっきく なりたくない』」

「『大きく』っていうつもりだろ?」と、トミーがいいました。

「わたしが『おっきく』といったのは、『おっきく』というつもりなのよ。」ピッピはいいました。

私は、これはピッピの高らかな多文化宣言であると思う。大人になりたくない呪文は、大人の言葉ではなく、自分たち自身の言葉で語られなければならない。残念ながら、今の私には、このスウェーデン語の原語とそのニュアンスをしる能力はないが(翻訳ですっかり変わっていたら、恥ずかしい限りであるが)、子どもには子どもの世界があり、それは大人の社会の縮小型ではないということを示す話であると思う。

多文化と関わりの深い分野に識字があるが(日本図書館協会の多文化の最初の組織は、「障害者サービス委員会 多文化・識字ワーキンググループ」として設立された)、いまは同僚となった塚原博先生(実践女子大学)に、ずいぶん昔にむすびめの会の会合で、「図書館と識字といっても、それはなんら特別なことではない。なぜなら子どもは最初はみな非識字であり、そのサービスをずっと育んできたのだから」と指摘を受けてはっとしたことがある。渡辺さんのこの本は、そこの、やわらかいところに、あたたかく働きかけてきた活動の記録である。

また、「あとがき」は、「2008年6月15日 『国際言語年』の年に」でむすばれている。

本の紹介としては、焦点がずいぶん限られた部分になってしまったが、最後に本書で印象に残ったエピソードを1つ。渡辺さんの広い活動の中で、ユネスコ・アジア文化センター(ACCU)主催のアジア諸国出版関係者の研修会でのこと。

ある時、インド、モルジブ、インドネシア、タイ、イラン…といった各国の研修生と交流するなかで、布の絵本にも関心が深く、一冊一冊の使い方を紹介していましたら、突然スリランカの男性研修生が、布の絵本「いくつ?」を抱え込んで「この数の本もって帰りたい!」といいだし、他の国の人たちからもいっせいに、「一人だけもらうなんてずるいよ、私も欲しい!」「ぼくも欲しい!」と声が上がり、一年がかりで22か国すべてに発送することになったのです(本書p.241-242)

これこそ、「布の絵本のメッセージ」を伝えるものだろう。彼女ら彼らは、純粋に、「この本が欲しい」と思ったと同時に、「自国の子どもたちにどうしてもこれを伝えたい」という思いからの行動だったのだと思う。

渡辺さんの活動と探求はこれからも拡がりつづけていくだろう。学び続ける人こそ渡辺さんであると思う。そして、その後をおいかける人たちにはぜひ本書を手にとってもらいたい。おいかけるだけでなく、手を携えるためにも。