7月26日の夜、一行はジェティーと呼ばれる場所に向かった。ジェティーは桟橋だが、この桟橋は歴史的に意味が深い。1850年代に華僑系中国人たちがマレーシアに流入するのだが、その仕事は主に港湾労働者だった。木炭などの三角貿易に従事したらしい。このあたりの歴史は、昨年、東京でマレーシアの作品を上映した時に「忘失」という作品があって、人形劇を交えて細かく説明していた。
移民として流入した初期は、住環境も悪く、低賃金での労働など、厳しい環境だったようだ。最近でも決して安全な場所ではないようで、昨年3月に乗ったタクシーの運転手は「このあたりは中国のギャングが多いから気を付けろよ」と言っていた。
ここに案内してくれたのは、バライのキュレイターのクーンだった。彼女はこの地域の環境を改善する為に、アーティストらと共にイベントを行ったことがあるらしい。彼女の案内がなければ、タクシー運転手の言葉を信じて、ずっと近づかなかっただろう。知り合いがいないと入りにくい場所というのはあるものだ。
それにしても、この桟橋の構造は複雑だった。エリアの入り口食堂があり、公共の広場のようなスペースと、寺院の分社のようなものがある。2メートルくらいの細長い通路の両端には、間口の狭い家屋がびっしりと並んでいて、中が見える。テレビを見たり、食事をしたり、涼んでいたりする。
もともとはひとつの家族の家から、息子や娘が独立したり、親戚が後からやってきたりという風に、家が継ぎ足されていき、向かいや隣に新たに建て増ししたりして拡がっていたようだ。
正直なところ、通路を歩いていた時は、狭いところに大家族が暮らしているんだろうな、と気の毒な気がしていた。しばらく歩いて、桟橋の先端近くに行くと、クーンが知り合いの家の前で挨拶を交わし、そこの住人が我々を家の中に案内してくれた。狭い間口だったと思っていたが、奥がもの凄く広い。5LDKが縦に繋がっているような作りで、奥に歩いていくと、ダイニングや居間が現れる。床下は海だ。
家の先端には魚採りの網などの器具顔いてあり、海にせり出したプライベート桟橋になっている。そこには小さな漁船が幾つか繋いであった。この時間は引き潮だったのか、丁度干潟の上にいるような風景だった。一本の桟橋が木の幹だとすると、幹の途中に各家があってそれぞれが枝を伸ばしているような形だ。
住人の話では、かつては漁船がたくさん立ち寄って、この桟橋に停泊して、買い物や食事をしていたらしい。桟橋の先端には、今は使われていない看板があって、舟が何艘泊まっているかを、蒲鉾板のような木札で示していたらしい。
ジェティーを後にした一行は、近くの食堂に陣取り、地元産のJAZZと言うビールをしたたかに飲んだ。つまみはテーブルの周りにある屋台で求めた。ミーゴレンとか串焼きとかだった。どれも辛くてうまかった。服部と田中は少し離れた場所の屋台で、おでんのようなものを仕入れてきた。初日に食べたスチームボートの屋台版みたいなものだ。
この夜、田中廣太郎は5回ほどトイレにいったらしい。他のメンバーも程度の差はあれ、皆、一様に緩くなっていた。翌朝、ホテルのロビーに現れた田中は、少し内股で歩いていた。もしかしたら、じわっと来ていたのかもしれない。何がそうさせたのかはいまだに謎のままで、原因でありそうなものを特定できていない。(佐藤)