今回のスケジュールでは、ペナンでの史跡巡りもひとつのイベントだった。マレーシア側のプランには無かったのだが、僕はこの鍾霊中学校を訪ねてみたいと提案した。
マレーシアには華人の為の中学校(日本では高校にあたる)がいくつかあるが、この鍾霊は最も有名で優秀な学校だという。事前の連絡はしていなかったのだが、一行は学校に敷地付近にバスを留め、校内に入っていった。教室では日本と変わらない授業中の生徒が、校庭ではサッカーをしている生徒がいる。
この学校は日本軍がマレーシアを占領下においた時期に、ペナンでの最も激しい抗日運動の拠点だった。教師8名、生徒が38名、日本軍によって虐殺された。現在も講堂の入り口に慰霊碑があるらしい。この情報は『観光コースでない マレーシア シンガポール』という本で知った。
正直に言うと、僕は誤解をしていた。昨年、マレーシアを訪れる前、マレーシアの歴史の本を読んでいたのだが、占領下の日本軍による虐殺などの記述は、ごく少なかった。むしろ、戦後に復権したイギリス政府との関係で、共産党の弾圧や、労働組合の分裂と運動の弾圧などが独立運動を阻んだことが強調されていた。だから、短かった日本軍占領下で、それ程酷いことは起こっていなかったのではないかと考えていた。それは、一面で当たっていて、マレー人に対する抑圧と、華人社会に対する弾圧は大きく開きがあったのだった。つまり、日中戦争後にマレーシアに来た日本軍に対して、この国の華人社会は台湾経由のルーツで国民党支持者が多数であったとはいえ、激しい抗日運動を繰り返した。だから、日本軍によって村ごと虐殺されたところもある。先に挙げた本は、鍾霊中学校出身のジャーナリストが書いたもので、占領下での華人虐殺の様子やその史跡のことが詳しく書いてあった。細菌兵器を製造していた場所もあった。
一般住人や学生、教師に対してそれ程のことが起こっていたとは知らなかった。
中学校を訪ねると副校長・叶福財(縁起のいいお名前)先生が対応してくれたのだが、アーティストだと説明された、この怪しい日本人たちを不審に思ったようだ。それは当然だ。
慰霊碑に案内してくれ、手を合わせた後、写真のように僕が碑に刻まれた文章を日本語で読んでいると、「おまえは今何を言っていたんだ?」と聞いてきた。「この碑に刻まれた文章を日本語にして、皆に伝えた」と言うと、すこし安心したようだった。碑にはこの学校の教師と生徒が日本軍によって虐殺されたことの経緯が記してあった。鍾霊の学生だと判ると殺されるので、生徒たちも変装していたらしい。
その後、校舎とは別棟にある、資料館にも案内してくれた。そこには抗日運動での犠牲者の記録や、記念碑を建立した時の資料などがあった。この時には、叶先生もこの奇妙な集団が、本当に抗日の記念碑を見に来たのだと思ってくれたようだ。
実は不覚にも、僕はバスの中に名刺を置き忘れ、手書きで名前を渡したのだった。不審に思ったのも無理はない。
叶・副校長先生、突然の訪問に親切に対応してくれてありがとうございました。(佐藤)