2025年度第18回学術大会「記憶・夢・預言―20世紀初頭の心理学とユダヤ思想の交差―」
*日程:2025年6月28日(土)
*開催形態:対面(同志社大学今出川キャンパス良心館203教室)とオンライン
*プログラム: 9:30 受付開始(対面会場開場およびZoom開室)
【個人研究発表】(10:00−12:00)
10:00-10:40 研究発表① 「工学者にして芸術パトロン、ヤコフ・カガン=シャブシャイとそのユダヤ美術館構想について」
発表者:吉野 斉志(関西大学非常勤講師)
司会:圀府寺 司(大阪大学名誉教授)
10:40-11:20 研究発表② 「サタン像の変遷―ユダヤ・キリスト教における「悪」の役割について―」
発表者:大澤 耕史(中京大学教養教育研究院講師)
司会:勝又 悦子(同志社大学神学部神学科教授)
11:20-12:00 研究発表③ 「存在のカテゴリーとしての「ユダヤ的実存」―レヴィナスのローゼンツヴァイク読解に寄せて」
発表者:佐藤 香織(富山大学学術研究部教養教育院講師)
司会:渡名喜 庸哲(立教大学文学部教授)
【シンポジウム】(13:00−17:10)
「記憶・夢・預言 ―20世紀初頭の心理学とユダヤ思想の交差―」
13:00-13:05 趣旨説明 北村 徹(同志社大学嘱託講師)
13:05-13:45 基調講演 森岡 正芳(立命館大学大学院人間科学研究科客員教授)
「言語・記憶・他者 ―ユダヤのエートスからもう一つの心理学へ」
13:45-14:15 発題① 堀村 志をり(元東京大学大学院教育学研究科博士課程)
「「凝縮」概念から読み解くヴィゴツキー理論―内言論および遊び論を中心に」
14:15-14:45 発題② 長田 陽一(京都光華女子大学健康科学部心理学科教授)
「消滅をめぐる言葉 ―フロイトとツェラン―」
(休憩15分)
15:00-15:30 発題③ 佐藤 貴史(北海学園大学人文学部英米文化学科教授)
「ユダヤ思想と「民族心理学」の成立」
15:30-16:00 発題④ 手島 勲矢(京都ユダヤ思想学会会長)
「預言者の1人称と自意識―ユダヤの文法伝統から考える「霊魂」と「心」」
(休憩10分)
16:10-17:10 質疑応答
【総会】(17:30−18:00)
【懇親会】(18:30−20:30)
■要旨集録
【個人研究発表】
研究発表① 「工学者にして芸術パトロン、ヤコフ・カガン=シャブシャイとそのユダヤ美術館構想について」
吉野 斉志(関西大学非常勤講師)
ヤコフ・ファビアノヴィッチ・カガン=シャブシャイ(Яаков Фабианович Каган-шабшай, 1877-1939)はロシア帝国のヴィリニュス(現リトアニア)生まれのユダヤ人である。彼の本職は工学者・科学教育者であったが、同時に芸術にも傾倒しており、同胞であるユダヤ人美術家の作品を買い集めてユダヤ美術館の設立を目指していた。また、彼は画家マルク・シャガール(Marc Chagall, 1887-1985)の作品の最初の買い手の一人であり、シャガールが1922年に二度目にロシアを出国してベルリンに向かう際にも支援している。
しかし、カガン=シャブシャイについてはロシア以外ではあまり知られておらず、ロシア語以外では文献もほとんど存在しない状態である。
今回は主としてヤコフ・ブルックによるモノグラフ兼カタログ(Яаков Брук, Яаков Каган-шабшай и его художественная галерея, Москва: Три квапрата, 2015)を参照して、カガン=シャブシャイの生涯とその活動、そして彼のユダヤ美術館構想とコレクションの顛末について紹介する予定である。また、彼のシャガールとの交流、さらには周辺の人間関係とそのシャガールへの影響についても整理して、研究への足掛かりを示したい。
研究発表② 「サタン像の変遷 ―ユダヤ・キリスト教における「悪」の役割について―」
大澤 耕史(中京大学教養教育研究院講師)
現代の辞書的定義に従えば、サタンは悪魔、魔王、神の敵といった存在とされる。しかしこういったイメージは、ダンテの『神曲』やミルトンの『失楽園』などの影響を多分に受けたものと考えられ、どの時代のサタンにも適用できるわけではない。ヘブライ語聖書に現れるサタンの用例を実際に確認すれば、そのような定義が誤りなのは一目瞭然である。ヨブ記のサタンは神の敵どころか神の使いとしか考えられず、民数記や列王記で言及されるサタンは人間も対象となる「邪魔をする者」という一般名詞である。悪魔的な役割はむしろ、バアルやアシュトレトといった異教・土着の神、および登場頻度の極めて少ない「外来種」の悪魔らにゆだねられているように見える。その一方で、新約聖書のサタンは、人にとりついて病気にしたり、人の中に入って悪さをしたり、人を試したりと、いわゆる悪魔的存在と考えて差し支えないと言える。本発表では、こうしたユダヤ教とキリスト教におけるサタン像の違いを分析し、その背景にある「悪」やその擬人化ともいえる「悪魔」の役割について考察する。その際には、両聖書を足掛かりに、ミシュナ、タルムードなどのいわゆるラビ文献、初期キリスト教教父の著作、さらには両聖書の間隙を埋める外典偽典およびフィロンやヨセフスといったヘレニズム期の著作家の作品なども視野に入れ、ユダヤ教とキリスト教がそれぞれ「悪や「悪魔」にどういった役割を求め、サタンに何を実践させようとしたのかの一端を明らかにしていきたい。特に、新約聖書に見られる悪魔然としたサタンを踏まえていると考えられる、タルムードに見られるサタン像に着目し、キリスト教との相互関係を指摘できればと考えている。
研究発表③「存在のカテゴリーとしての「ユダヤ的実存」―レヴィナスのローゼンツヴァイク読解に寄せて」
佐藤 香織(富山大学学術研究部教養教育院講師)
2024年に公刊されたレヴィナス著作集の第4巻には、レヴィナスによるローゼンツヴァイクについての未編集のノートが収められている。このノートは、『救済の星』の部分訳、各資料へのコメント、カスパー、グットマン、フロイント、グラッツァーといった当時最新の二次文献の読書ノートを含む。このノートはレヴィナスの哲学に対するローゼンツヴァイクの寄与を検討する際の補助線として役立つだろう。
レヴィナスのローゼンツヴァイク読解のうち、今回扱いたいのはレヴィナスのローゼンツヴァイク論「二つの世界の間で」(1959)における「ユダヤ的実存は存在のひとつのカテゴリーである」ということの意味である。この意味を明らかにするために、自由ユダヤ学舎第二年度第二学期におけるローゼンツヴァイクの講義「ユダヤ的思考への手引き」(1921)における「「ユダヤ的」思考などあるだろうか。思考は人間に普遍的なものではないのか」という問いに着目する。例えばカントにおいては、カテゴリーとは直観における多様なものを統覚の統一の下にもたらす論理的機能である。こうしたカテゴリーやカテゴリーが条件づける思考に関しては、通常ユダヤ的であるとかギリシア的であるといった区分はなされない。カテゴリーや思考が「ユダヤ的である」というからには、このカテゴリーや思考の方法自体の普遍性が問われなければならない。
本稿では、ローゼンツヴァイク「新しい思考」(1925)における、「静的な客観概念」と「動的な概念」という対比を軸に、「存在のひとつのカテゴリー」としての「ユダヤ的実存」、および「ユダヤ的思考」の意味を問う。その過程で、フランスにおけるローゼンツヴァイク受容および研究の第一人者であるステファヌ・モーゼスによる「ユダヤ的思考」の解釈を批判的に検討する。
【シンポジウム】「記憶・夢・預言 ―20世紀初頭の心理学とユダヤ思想の交差―」
(趣旨)
本企画は、今回のシンポジウムで基調講演を行う森岡正芳氏(立命館大学)の問題意識を出発点とする。日本を代表する臨床心理学者の一人でおられる森岡氏は、狭義の科学的実証主義を重視する心理学が心の探究に相応しいのかとの問題意識を早期から持たれ、自らの立脚点となり得るような「心理学」を探究されてきた(森岡正芳「現実を想像する力」『京都ユダヤ思想』第10号巻頭言、京都ユダヤ思想学会、2019年、1頁、以下の森岡氏に関する紹介は同巻頭言に基づく)。
その過程で、特に「心の成り立ちは人と人との応答関係が元になるという発想から、狭い科学主義の心理学を具体的生の心理学へと組み替えた」L. S. ヴィゴツキー、また、「出来事を筋立てることを通して、人の生の現実を記述する」物語(ナラティブ)による心理学を提唱したJ. S. ブルーナーに着目され、さらにまた、ヴィゴツキー、ブルーナー、そしてS. フロイトを含む西洋の優れた心理学者にユダヤ系が多いことに以前から注目してこられた。森岡氏は、19世紀後半のドイツにおいて、同化ユダヤ人が活躍した歴史的状況を考慮する必要性を指摘されながらも、モーセ五書を中心とする聖書物語の影響や、個人は一人では完結せず、人と人との応答関係や一人一人に呼びかける神との応答関係において人が成り立っているとするユダヤ思想が、科学的合理主義とは異なる対話的応答関係や物語を基盤とする心理学の発想の源泉を生み出しているのではないかと提起されている。今回のシンポジウムはこのような森岡氏の問題意識を具体的に展開させたものと言える。
シンポジウムではまず、森岡氏から以上の課題に関わる基調講演が行われる。次に堀村志をり氏(元東京大学大学院教育学研究科博士課程)の発題では、ヴィゴツキーの発達論の形成において、イツハク・ルリアに淵源を有する「凝縮」概念が重要な働きをなしたことが明らかにされ、ヴィゴツキーが「真に科学的」な理論の構築を目指していたことが論じられる。そして、長田陽一氏(京都光華女子大学)から、ともに東欧出身のユダヤ人であるフロイトと詩人P. ツェランの言葉と思想に対して、神から人間に示された「塵に帰る」(『創世記』3:19)という言葉に注目することにより、「消滅」と「希望」の観点から「ユダヤ的なるもの」とは何かが論じられる。続いて、佐藤貴史氏(北海学園大学)より、19世紀の学問状況、特に、M. ラーツァルスとH. シュタインタールによる「民族心理学」の成立における当時のユダヤ人の思想や経験との関わりについて、そして「民族心理学」が当時の反ユダヤ主義論争とも関連をもっていたことが指摘される。最後に、手島勲矢氏(本学会会長)より、「心理学」とユダヤ思想が交差する視点の可能性として、「魂」(ネフェシュ)と「心」(レブ)と区別するヘブライ語聖書の世界観が紹介され、ヘブライ語文法の特徴、特に預言者の一人称の使い方について、そして、心理学の対象となる「魂」「心」の実体的な根拠の可能性について論じられる。
これらの講演と発題およびそれに続くフロアとの質疑応答から、19世紀末から20世紀初頭の思想史のなかで心理学を位置づけ、人間学としてのユダヤ思想の可能性を考えていく糸口を見出したい。
北村 徹(シンポジウム企画運営担当/同志社大学嘱託講師)
基調講演「言語・記憶・他者 ―ユダヤのエートスからもう一つの心理学へ」
森岡 正芳(立命館大学大学院人間科学研究科客員教授)
なぜユダヤ思想と心理学なのか。心理学は19世紀後半、科学的実証主義を基盤とする形で、哲学から独立しようとした。一方、1920年代から30年代には、ドイツ同化ユダヤ人が中心となって、そこから独立したはずの同時代の哲学や美学、さらには民俗学などとの交流を通じて心理学の新たな理論形成を行なった。ゲシュタルト心理学(Wertheimer, M., Koffka, K., Lewin, K. 他)、象徴形成を基盤とする発達理論(Werner, H)、そしてFreud, S.の精神分析である。また、革命後のロシアでは、Vygotsky, L.S. が、言語と思考に関わる心理学を展開し、100年後の現在にも大きな影響を与えている。科学的実証主義の観点からは切り捨てられるところに光を当て、生活世界における具体的人間の心理学を構想した。小論では、20世紀初頭の心理学の展開においてユダヤ思想の果たした側面に光を当て、仮説的にではあるが、以下の観点から論じてみたい。
ヘブライ的思考様式の特徴とくに、言語論、時間意識と記憶、他者の応答という観点を取り上げる。言葉(davhar)は行為であり、言葉は発せられたら実体化する。複数の解釈を並置、隣接させ、個別性や多義性へと向かう思考様式が優位である。また時間意識は歴史より、記憶に力点が置かれ、過去は、現在今ここに在るものとして経験される。過去の出来事と今、現在に生きる私たちの同時性、行為や出来事とこれを語る人の同時性が顕著である。
Buber, M.は「説話と歴史」(『モーセ』1945-52)にて、説話は歴史的出来事の証明ではなく、体験者たちの心情を動かしたことへの想起が保存されているととらえる。そこには生命的で、造形的な記憶が働いている。ユダヤ思想の根底にある、個人が単一では完結しないという考え、すなわち人と人の応答関係と、一人一人に呼びかける神との応答関係において、人が成り立っているという根本的な発想は、「他者を今ここに現出させる」(making the other present)という生成力、心的現実を可能な限り実体化できる力を惹起する。科学的合理主義に基づく世界観、人間観とは異なる、個人の生に接近する心理学を生み出す素地が、ユダヤのエートスにあったのではないか。
発題①「「凝縮」概念から読み解くヴィゴツキー理論 ―内言論および遊び論を中心に」
堀村 志をり(元東京大学大学院教育学研究科博士課程)
L.S.ヴィゴツキー〔Л.С.Выготский:1896-1934〕は旧ロシア・ソヴィエトの心理学者で、ロシア革命以後1920〜30年代に発表されたその心理学理論、すなわち個人の発達は社会・文化・歴史を内包するという文化‐歴史理論、ことばは内化され思考の道具となるという内言論、発達とは過去のものが失われるのではなく保持され、新たなものとともに再編されるという心理システム論などによって「心理学のモーツァルト」とも呼ばれている。近年、ロシア革命以前のヴィゴツキーの論考やメモなどが新たに見出され、ヴィゴツキーが心理学者としての地歩を固める以前は、ユダヤ教の文化圏域において思考していたことが知られつつある。本発表もその延長上にあるが、ヴィゴツキー思想のユダヤ性は革命前だけではなく、革命後もその心理学上の主要理論の根底にあったことを論じていく。具体的には、ヴィゴツキーの『思考と言語』および、論文「子どもの心理発達における遊びの役割」を中心に、ヴィゴツキーが発達論構築にあたり、ユダヤ教カバラーのイツハク・ルリアに淵源を有すると思われる「凝縮」の概念を自身の理論に組み込みながら、自らの「真に科学的」な理論の構築を目指していたことを明らかにする。
ヴィゴツキーは内言論において、内言は話しことばとは異なり主語やその他の述語が大きく省略されるという特徴があり、その簡略化された語義に語の意味が凝縮されるのだと述べている。また、最近接発達領域論を含む幼児期の遊び論においても、「遊びは、凝縮された形で虫眼鏡の焦点のように発達のあらゆる傾向を含んでいる」と論じており、「凝縮」の重要性に疑いはない。
これらの「凝縮」概念の示す意味を考察しながら、革命後のヴィゴツキーの思想にもユダヤ思想の思考形式が投影されていることを示していく。
発題②「消滅をめぐる言葉 ―フロイトとツェラン―」
長田 陽一(京都光華女子大学健康科学部心理学科教授)
精神分析の創始者フロイト(S. Freud, 1856–1939)と詩人ツェラン(P. Celan, 1920–1970)は、ともに東欧出身のユダヤ人である。両者は活動領域も生きた時代も異なる。またフロイトはユダヤ的出自から意識的に距離をとったのに対し、ツェランはホロコーストの記憶とともにユダヤ性を終生背負い続けた。しかし、こうした相違を超えて、両者の思想と活動は「ユダヤ的なるもの」とは何かという問いを新たに浮かび上がらせる。
旧約聖書『創世記』(3:19)の「あなたは塵でできており、塵に帰る」という一節は、フロイトの1920年以降の「死の欲動(Todestrieb)」の着想に何らかの影響を及ぼしたと考えられる。確かにフロイトは臨床におけるトラウマ、悪夢、反復強迫、転移といった現象を通して、「死の欲動」を自己破壊的な無意識の衝動として構想したのだが、ここには臨床の場に収まり切れない魔術的なものが含まれている。
一方、ツェランの詩には、生と死が奇妙に同居し、循環するイメージが繰り返し現れる。彼にとって詩作とは、ユダヤ人への歴史的暴力によって刻まれた破壊の痕跡を言葉によって反復・記録する営為であり、同時に絶望と対峙する試みでもあった。ツェランの言語はしばしば解体と消滅の方向へと向かい、その詩的運動はある種の自己破壊的衝動を内包しているといえる。
「塵に還る」という命題は、人間存在の有限性と謙遜を説くだけでなく、いずれ土に還った身体が神によって新たにされるという救済の希望をも含意している。しかし、フロイトの「死の欲動」は単に「生の欲動」と対立するだけでなく、むしろより根源的であり、いずれすべての生命は私や他者についてのすべての記憶(記録)を消し去っていく。そこに再創造の余地はない。
このような「希望の喪失」に対して、フロイトとツェランはそれぞれの方法で生涯にわたって向き合い、内的な格闘のなかでユダヤ性を乗り越えようと試みたのではないか。本発表では、両者の言語表現と思想を比較検討し、「消滅」と「記憶」の交差点における〈ユダヤ的なるもの〉の在り方を考察する。
発題③「ユダヤ思想と「民族心理学」の成立」
佐藤 貴史(北海学園大学人文学部英米文化学科教授)
19世紀は、ときに怪しい雰囲気を漂わせながらも、いくつかの新しい学問が産声を上げた世紀として記憶されているだろう。社会学、人類学、心理学――そのなかでもモーリッツ・ラーツァルス(Moritz Lazarus)とハイマン・シュタインタール(Heymann Steinthal)による「民族心理学(Völkerpsychologie)」の成立と『民族心理学及び言語学雑誌』の創刊は、当時のドイツ国家と強く同一化した解放ユダヤ人としての経験を、その背景にもっていたと言われている。
本発表では、第一に民族心理学が新しい学問として成立するうえで、当時のユダヤ人の思想や経験がいかなる意味で関わり、影響を与えていたかを明らかにする。「民族」と「民族精神」の循環的定義のなかで成立する民族心理学は、ユダヤ人の「精神」とも両義的な関係を築くことになったのではないだろうか。第二に、ラーツァルスとシュタインタールの民族心理学は初期のヘルマン・コーエン(Hermann Cohen)の思想に影響を与えており、それは学問的次元のみならず、当時の反ユダヤ主義論争とも関連をもっていたことを指摘する。言い換えれば、個人の魂を扱う「心理学」は、ユダヤ思想のなかでは民族精神を扱う学へと変容する道を形成していたとも言えるはずである。この二つの点との関連で最後に、時間に余裕があれば、フランツ・ローゼンツヴァイク(Franz Rosenzweig)の『救済の星』も上記の思想史的流れのなかにおいてみたい。すなわち、彼にとって自己の閉じた魂は神の啓示によって他との関係を求めはじめるのであり、それはやがてユダヤ民族(とキリスト教徒)という集合的問題に行き着くのであった。ここでもまた個人の魂と民族の精神の関係が、民族心理学とは異なる仕方で変奏されているとみることができるのではないだろうか。
発題④「預言者の1人称と自意識 ―ユダヤの文法伝統から考える「霊魂」と「心」」
手島 勲矢(京都ユダヤ思想学会会長)
西周は、心理学という訳語を欧米のサイコロジーという学問に当てたが、サイコロジーは、ギリシア語のプシュケー(息/魂)に由来する言葉であり、プシュケーは実体的な生命のイメージであるのに対して、「心」は実体的には存在しないというのが唯識の教えのイメージである。心理学/サイコロジーの科学的あり方の方法を論じる以前に、それらの名称にはギリシア哲学や万葉集や仏教の経典などの文化・文明的な語彙の伝統の影響が濃厚にある。
心理学/サイコロジーが、目で見ることのできない「心」や「霊魂(プシュケー)」を対象にした学問であるとしたら、果たしてそれらの名詞は存在するものを指示している名前であるのか?もし存在しているものを指しているのなら、その異なる二つの名前は同じもの(同一の存在)を意味しているのか等々クリアするべき問題は少なくない。
その点で、ユダヤ思想が心理学と交差する新しい視点の可能性で注目したいのは、「魂(ネフェッシュ/נפש)」と「心(レブ/לב)」を実質的に区別する聖書ヘブライ語の理解である。それによれば、「魂・生命(ネフェッシュ)」は実体的に人や家畜など生命のある個体の数を数える単位として用いられる名前でもある(創世記46:15,民数記31:28など)。それに対して、聖書の「心(レブ)」は、臓器を意味する名前ではなく、実体的よりも、感情や思考や意識などの抽象的な場所(胸)をさす名前として用いられる。
この二つの普通名詞に所有の1人称接尾辞が加わるとき、その指示は固有名詞に紐づけられた特定の存在に向けられる。というのは、ユダヤ教のヘブライ語文法(ディクドゥーク)の人称概念は、ギリシア・ラテンの文法学者の考える三つに分離された《ペルソナ(persona)》の人称概念と違い、話者の自意識(一人称)を根底にして、その話者の目の前にいる者に向かって語る言葉「あなた」二人称の言葉と、その話者の目からは隠されている者(存在)について語る言葉「彼・彼女・それ」三人称の言葉を区別するので、話者と他者の存在を関係づける言葉のエピステモロジーなのでもある。
当該発表は、預言者の1人称の使い方について、トーラーの歴史物語ではナレーターの効果で1人称の話者(?)の主体の認識には混乱は生じないが、ナレーター抜きの預言者の詩文テキストでは、しばしば「わたし」という一人称の自意識の主体が神であるのか預言者自身であるのか主体の判断がつかない現象(列王記上22章およびエレミヤ15:10以下他, 詩編2:7, 4:3他を参照)が起きるが、預言者の自意識と神の自意識が交流して同じ一人称になって発話する「わが魂」「わが心」について、個と人格(パーソナリティ)の概念区別で捉えることができるのか?問題提起をしてみたい(cf.『ブーバー/ロジャーズ対話』215-221)。
ちなみにラテン語では「物(res)」と「言葉(verbum)」を二つの名詞で区別するが、ヘブライ語の「ダバル(דבר)」は「物/出来事」と同時に「言葉」も意味する。心理学の対象となる「魂」「心」の実体的な根拠の可能性を、この様なヘブライ語聖書の特殊な世界観とその文法的な実体の感覚から問い直すことは、無意味な思考実験ではないと思いたい。
■大会参加のご案内
【参加方法】
参加を希望される方は下記登録フォームから登録をお願いします(登録締切は6月24日(火))。
https://docs.google.com/forms/d/1q92SRKRRYgrOaqPL4G2P_XQMxt2gSzFi_GI96iYQJiU/edit
ご参加に必要な情報(オンライン参加のURLなど)は、6月26日(木)以降、ご登録いただいたメールアドレスにお知らせいたします。6月27日(金)17:00までにメールが届いていない場合は、お手数ですが、事務局(hebraicaveritas@gmail.com)までご連絡ください。なお、総会を除き、非会員の方も参加可能です。
【注意事項】
・大会へのご参加には、対面参加・オンライン参加/会員・非会員を問わず、事前登録が必要です。
・新型コロナウィルスの感染状況などにより、止むを得ず、対面参加の実施を取り止める場合がございます。その場合、ご登録いただいたメールアドレスからご連絡いたします。
・対面参加で登録された方も、オンラインからご参加いただけます(逆の場合も同様)。その場合、参加方法の変更に関する再登録などは不要です。
・オンライン参加用のシステムはZoomを使用します。
・後日メールでお知らせするZoomのURL等の情報をSNS等で公開するなど、第三者に通知する行為は厳にお控えください。円滑な大会運営のため、皆さまのご理解とご協力をお願いいたします。
【大会参加費】
参加される場合、下記の口座に500円をお振り込みください。会員の方は大会後に送付する振込用紙をご利用の上、学会費と併せてのお振り込みでも結構です。お支払いは当日会場でも受け付けますが、時間がかかる場合がございます。
【懇親会費】
18:30より、会場近くの「アジアンレストラン芙蓉園(https://kyoto-fuyouen.jp)」で懇親会を開催します(非会員の方もご参加可能)。参加費は「一般」が4,000円、「学生」が3,500円です。参加される場合、下記の口座に参加費をお振り込みください。会員の方は、大会後に送付する振込用紙をご利用の上、学会費と併せてのお振り込みでも結構です。お支払いは当日会場でも受け付けますが、時間がかかる場合がございます。
振込先:・京都銀行 三条(サンジョウ)支店 普通預金4156447
名義 キョウトユダヤシソウガッカイ
・ゆうちょ銀行 振替口座00990-3-304201
名義 京都ユダヤ思想学会
*学会費は大会後に送付する振込用紙をご利用の上、お支払いください(大会当日は受け付けません)。
【対面参加に関するご案内】
・会場に関して:同志社大学今出川キャンパスへのアクセスは、こちらをご参照ください。https://www.doshisha.ac.jp/information/campus/access/imadegawa.html
会場となる良心館は、下記キャンパスマップ23番の建物になります(会場は1階107教室)。https://www.doshisha.ac.jp/information/campus/imadegawa/imadegawa.html
・昼食に関して:
当日は大学構内で食堂やコンビニが営業しています(会場と同じ良心館B1F、10:30-15:00)。また、キャンパス近隣には飲食店やコンビニなどもございますので、どうぞご利用下さい。