第14回(2021)誰が「ユダヤ人」とされてきたか:自意識と他者のまなざしから

日時: 2021619日(土)

会場: オンライン(Zoom)

■大会プログラム

【個人研究発表】

研究発表① 「過去とその痕跡―ベルクソンにおける「過去の保存」論の現代的射程―」

             発表者:吉野 斉志(京都芸術大学非常勤講師

司会:長坂 真澄(早稲田大学国際教養学部准教授)

研究発表② 「コーヘン 『理性の宗教』 における「創造」と「相関関係」について」

             発表者:秀島 真琴(上智大学大学院博士後期課程)

               司会:馬場 智一(長野県立大学グローバルマネジメント学部准教授) 

研究発表③ 「レオ・ベックにおける他宗教批判―プロテスタンティズムへの批判を中心にして―」

            発表者:勝村 弘也(神戸松蔭女子学院大学名誉教授)

             司会:石川 立(同志社大学大学院神学研究科教授)

研究発表④ 「ユダ=イスラエル内外の指標としての「レファイム」」

              発表者:新井 雅貴(同志社大学神学研究科博士後期課程)

司会:竹内 裕(熊本大学大学院人文社会科学研究科教授)

【シンポジウム】「誰が「ユダヤ人」とされてきたか ―自意識と他者のまなざしから―」

趣旨説明と議論の導入 大澤 耕史(中京大学教養教育研究院助教)

         「ヘブライ語聖書~第二神殿時代における「ユダヤ人」」

発題① 津田 謙治(京都大学大学院文学研究科准教授)

          「二、三世紀の教父文献に見られる「ユダヤ人」像:同一の神と相違する信仰」

発題② 櫻井 丈(帝京科学大学教育人間科学部講師)

  「「新生児」としての改宗者:

バビロニア・タルムードにみる民族的出自擬制としてのラビ・ユダヤ教改宗法規再考」

発題③ 山城 貢司(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員)

       「諸種属・異邦人・セクト主義者:古代ユダヤ教におけるminim概念の再考に向けて」


■要旨集録

【個人研究発表】

「過去とその痕跡 ―ベルクソンにおける「過去の保存」論の現代的射程―」

   吉野 斉志(京都大学非常勤研究員)

アンリ・ベルクソンは、「過去は存在することをやめたわけではなく」、「自動的に保存される」と主張した。しかも、彼は第二の主著『物質と記憶』でこのテーゼを提示するにあたって、記憶に関する同時代の病理学的研究を数多く参照した上で、記憶とは脳内に局在化される物質的痕跡ではなく、過去そのものであると結論している。他方で彼の議論はそうした実証研究とその帰結のみに留まらないものを含んでおり、ベルクソンにとって科学の成果がどれほど重要だったのかを含めて、この論については多くの研究がなされてきた。

本発表ではベルクソンの言葉の忠実な再現と解釈からは少し離れて、ベルクソンに対する厳しい批判者の一人でもあったバートランド・ラッセルの「世界五分前創造仮説」を参照しつつ、現代的見地からベルクソンの過去保存説の射程を考えてみることにしたい。というのも、ラッセルもやはり記憶の分析をしながら、ベルクソンとは対照的に、「世界五分前創造仮説」によって「現在思い出される記憶」と「過去そのもの」の分離を徹底した、と見なすことができるからである。

しかし「世界五分前創造仮説」は、本当に過去そのものの排除に成功したのだろうか。この思考実験は必ずしも成功しておらず、その失敗こそが、過去の問題を認めざるを得ないこと、現在にある過去の痕跡と過去そのものとの密接な結びつきを証しているのではないか。

実証科学の立場からすれば、現在存在する物質的な「痕跡」を扱い、そこから過去を推測するしかない。しかし、そのような過去の「痕跡」へのアプローチは、その痕跡と密接に結びついたものとして、つねに過去そのものの存在を前提している。そしてまた、過去が現在の内に刻まれて残存するという考え方は、「時間の空間化」を批判したベルクソンの考えに沿って、空間的な線とは別の形で時間を考える仕方についても、大きな示唆を与えるであろう。


「コーヘン 『理性の宗教』 における「創造」と「相関関係」について」

              秀島 真琴(上智大学大学院博士後期課程)

ヘルマン・コーヘン(1842-1918)は、ドイツのユダヤ人哲学者であり、新カント学派の代表的な人物である。彼はカント哲学の体系の発展を自身の課題とし 、その生涯の研究生活に渡ってカントの哲学を継承したうえで自らの哲学体系をつくり出した後、晩年には自身が信仰していたユダヤ教に立ち返ってこれを研究するに至った。この彼の最晩年の著作が『ユダヤ教の源泉からの理性の宗教(RELIGION DER VERNUNFT AUS DEN QUELLEN DES JUDENTUMS)』(1919)(以下、『理性の宗教』)である。

筆者は『理性の宗教』における「相関関係」概念を明らかにすべく研究に取り組んでいるが、この「相関関係」概念は、新カント学派としてのコーヘンが彼の初期カント研究、そしてそれを踏まえた上で打ち立てた自身の理論に基づくものであると考えられる。なぜならば、コーヘンが『理性の宗教』において強調した概念の数々、分離・統一・保存・生産等、そして筆者がコーヘン哲学において最も重要な概念であると考えている「相関関係」は、コーヘンの初期の著作より、すでに重きを置かれていた概念であるからだ。

『理性の宗教』を読むうえで特に注目すべき点は、「相関関係」という言葉が示される箇所である。『理性の宗教』では、創世記になぞらえたかたちで「唯一の神」と、「神と世界」「神と人」「人と人」の関係性について順に記されている。しかし、このそれぞれの関係性のうち、「相関関係」として第一に示されているのは「神と人」との関係の箇所である。つまり「相関関係」は、「神」と「人」において特に際立った関係性なのだ。

そこで今回はまず、(Ⅰ)『理性の宗教』における「創造」と「啓示」の章について考察し、「相関関係」概念の本質を明らかにしたい。次に、(Ⅱ)「神と人」との相関関係を、新カント学派としてのコーヘン、つまりコーヘンの前期カント研究に照らし合わせることによって、コーヘン前期から晩年にかけての「相関関係」概念の一貫性の可能性を提示することを目指す。


「レオ・ベックにおける他宗教批判 ―プロテスタンティズムへの批判を中心にして―」

            勝村 弘也(神戸松蔭女子学院大学名誉教授)

 ベックは1922年に『ユダヤ教の本質』第二版を出版したが、同じ年に「ロマン的宗教」と題する論文も発表している(この論文は後にAus Drei Jahrtausendenに収録)。いずれも、ハルナックに代表される当時のドイツ・プロテスタンティズムを真正面から批判している点に変わりがないが、前者では、仏教などの他宗教や中世のカトリシズムなども視野に入れているのに対して、後者ではもっぱらルター派のパウロ主義に焦点が当てられている。ベックは、諸宗教を「古典的宗教」と「ロマン的宗教」に大別し、ユダヤ教を前者の代表とするのに対してキリスト教、特にプロテスタンティズムを「ロマン的宗教」として批判する。その際にロマン的をF・シュレーゲルに従って「感傷的な素材を幻想的な形態で扱うようなこと」の意味に解する。ドイツ・ロマン主義においては、思惟は感情の夢想に過ぎず、そこではポエジーと生の境界が消滅している。ロマン的宗教においても同じ事が当てはまる。ルター派においては、神の恩寵と奇跡(サクラメント)、「絶対依存の感情」が強調されるので、人間は神に働きかけられる単なる客体となる。これに対して倫理的一神教であるユダヤ教においては、人間が被造物であると同時に、この世界において創造的行為を行う主体である。ベックは、「ロマン的宗教」において「信仰のみ」を説くルターの立場をパウロ主義として把握し、信仰体験、文化と歴史、サクラメント、制度的教会、倫理など様々な角度から批判している。倫理に関しては、カルヴィニズムとバプティストを「旧約的」として評価する。プロテスタント教会の信条主義が、万人祭司の立場とは裏腹に神学者の宗教になっていることは『ユダヤ教の本質』でも批判される。なお1922年は、K・バルトが自由主義神学と決別し「ローマ書講解」を出版した年でもあって、そこに一定の平行関係が見られることは興味深い。

「ユダ=イスラエル内外の指標としての「レファイム」」

             新井 雅貴(同志社大学神学研究科博士後期課程)

 ヘブライ語聖書はヤハウェ神のみを崇拝することを主旨としており、死者儀礼に対して批判的な態度を示している。だが、ヘブライ語聖書は死後の存在自体を否定しているわけではなく、本研究で扱う「レファイム(רפאים)」は、冥界(שאול)に存在すると考えられる死者を指す語である。本研究は、死者が生者を保護する力をもつと考えられていた古代中近東世界に対して、ヘブライ語聖書語がどのような態度をとったのか、という観点から、死者「レファイム」の位置付けを明らかにするとともに、この語と同音異義であると考えられている、集団の名称としての「レファイム」との関連について考察することを目的とする。

 死者を指すレファイムの描写には、1)ヤハウェと対立関係にあること、2)ユダ=イスラエルの敵であること、3)崇拝対象として死者儀礼と関連すること、4)ヤハウェによって無力とされること、の4つの特徴がみとめられる。

 ユダ=イスラエルにとっての敵の死者というレファイムの定義(2)は、レファイムに対する儀礼が無意味であることを裏付けるものであるが、儀礼対象となりうる存在である点(3)と、ヤハウェによって無力にされるという点(4)は、どちらも、本来はレファイムが力をもつという前提に立つものであり、またそれをヘブライ語聖書が認めていたことを意味するものである。しかしながら、それは、ユダ=イスラエルの敵がヤハウェによって倒される(1=2)という思想と結び付くことで、力をもつレファイムを無力にするほどのヤハウェの絶対的な力を主張する根拠として用いられているといえる。

 集団名としてのレファイムは領地の獲得に関する記述の中で言及されるが、これらは死者を指す用法と同様、イスラエルに敵対する集団に対して冠せられている。

 この分析の結果、レファイムの用法のうちには、ユダ=イスラエルに属するかどうかという判断基準のもとで用いられたと考えられる。

【シンポジウム】 「誰が「ユダヤ人」とされてきたか ―自意識と他者のまなざしから―」

大澤 耕史《シンポジウム企画担当/司会》

本学会は名称に「ユダヤ」を掲げ、思想のみならず様々な「ユダヤ的」なものを対象とした研究を推進してきました。しかしこれまでに、学会として正面から「ユダヤ」とは何かという問いを発したことはなかったように思います。もちろん、このある意味で大きすぎる問いに対しては、古来より様々な立場や角度から無数の答えが出されてきました。それらを簡単にさらうだけでも大変な作業であり、半日のシンポジウムで終わるほどの量でもありません。そこで本シンポジウムでは、それ以降の時代の議論の立脚点になるような、古代世界に焦点を絞り分析を進めていこうと思います。その中でも「ユダヤ人」自身の定義や意識のみならず、他者から見た自分たちと「ユダヤ人」との境界およびその周縁部にも着目し、導入的な発表に続いて津田謙治氏、櫻井丈氏、山城貢司氏にそれぞれのご専門の見地からご発表をいただきます。

趣旨説明と議論の導入 「ヘブライ語聖書~第二神殿時代における「ユダヤ人」」

大澤 耕史(中京大学教養教育研究院助教)

 本シンポジウムの導入として、ヘブライ語聖書から第二神殿時代までの「ユダヤ人」描写を抽出して分析を行う。現在のような、居住地に因らない集団を指す「ユダヤ人(יהודי)」という名称が比較的新しいもので、ヘブライ語聖書の時代から広く用いられていたわけではないという点はそれなりに知られていると思われる。そこで本報告ではまず、ヘブライ語聖書から「ユダヤ人」のみならず「ヘブライ人(עברי)」や「イスラエル(ישראל)」といった名称を抽出し、それらの意味の違いやそれぞれの使用法などを考察する。続いて、聖書の外典偽典や第二神殿時代のユダヤ人著作家たちの作品内で「ユダヤ人」がどう定義・表記されているかを概観し、ヘブライ語聖書における用法との違いや変遷を分析する。それらの作業によって、現代のユダヤ人について考える際にも参考となるような、「ユダヤ人」理解のための土台を築きたい。

発題① 「二、三世紀の教父文献に見られる「ユダヤ人」像:同一の神と相違する信仰」

津田 謙治(京都大学大学院文学研究科准教授)

この発表では、ユスティノス『ユダヤ人トリュフォンとの対話』やテルトゥリアヌス『ユダヤ人反駁』などを含む、二世紀半ばから三世紀前半にかけて著された複数の教父文献における、聖書、律法、そして救済者などに関わる議論を手掛かりとして、教父たちの描き出す「ユダヤ人」像を分析する。正典化された文書を未だもたないキリスト教徒が、独自の信仰と教理を確立しようと模索するにあたって、近接領域において共同体をもつ「ユダヤ人」とどのように対峙し、彼らとの相違点をどのように明確化しようと試みたかに焦点を当てたい。

発題② 「新生児」としての改宗者:バビロニア・タルムードにみる民族的出自擬制としてのラビ・ユダヤ教改宗法規再考」

櫻井 丈(帝京科学大学教育人間科学部講師)

本発表では、第一に、バビロニア・タルムードにおいて体系化された「改宗者は新生児として見なされる」(גר שנתגייר כקטן שנולד דמי)という法概念についての考察に焦点を当て、ラビ・ユダヤ教における改宗法規(גיור)とは「異邦人」の民族的出自を「ユダヤ人」のそれへと擬制する法的装置であることを実証する。第二に、同タルムードにおける改宗に関わる法的議論から、ラビ・ユダヤ教が想起するユダヤ民族のアイデンティティの構造とその特徴を露わにすることによって、同民族共同体の民族性を規定する境界線は歴史的、社会的情勢の変化の要請によって常に変化し、又再構築されることを明らかにする。こうした一連の考察から古代後期におけるラビ・ユダヤ教の規定するユダヤ民族性とは流動的且つ可変的な文化的構築物であることを提起したい。

発題③ 「諸種属・異邦人・セクト主義者:古代ユダヤ教におけるminim概念の再考に向けて」

山城 貢司(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員)

セクト主義者を意味する一連のヘブライ語語彙の中でも、minimは一種独特の響きを帯びている。ヘブライ語聖書中の使用例からも明らかなように、minの原義は「種・属」であり、したがって同語の複数形であるminimをあえて直訳すると「諸種属」となるだろう。では、セクト主義者を指示する隠語としてのminimの用法は一体いつどのようにして始まったのか?その淵源は何か?そしてそれはいかなる歴史的=神学的背景を前提としているのか?本発表は、minimの意味論的分析を通じて、これらの問いに答えようとする試みである。