第12回 タルグムの世界:聖書翻訳とユダヤの伝統

日時: 2019年6月29日(土)

会場: 同志社大学(烏丸キャンパス)志高館SK118教室

■大会プログラム

【個人研究発表】

研究発表① 「人工知能と人間的思考―ゴーレムの現代的継承者はどこまで人間に近付けるか―」

   発表者:吉野 斉志(京都大学非常勤研究員)

    司会:小原 克博(同志社大学神学部)

研究発表② 「詩篇88編における多様な死者表現とその意義」

   発表者:新井 雅貴(同志社大学神学研究科博士後期課程)

     司会:岩嵜 大悟(古代オリエント博物館共同研究員) 

研究発表③ 「上海無国籍避難民指定居住区(「上海ゲットー」)の設置過程

                    ―實吉敏郎海軍大佐の未発表文書をもとに―」

            発表者:菅野 賢治(東京理科大学)

             司会:向井 直己(京都大学特定研究員)

研究発表④ 「マイモニデスにおける自由意志の概念」

              発表者:神田 愛子(同志社大学神学研究科博士後期課程)

               司会:志田 雅宏(早稲田大学招聘研究員)


【シンポジウム】 「タルグムの世界 ―聖書翻訳とユダヤの伝統―」

司会挨拶:加藤 哲平(日本学術振興会特別研究員PD)

基調講演:勝又 悦子(同志社大学) 

コメント   阿部 望(獨協大学)、飯郷 友康(東京大学)、大澤 耕史(中京大学)

■要旨集録

【個人研究発表】

「人工知能と人間的思考 −ゴーレムの現代的継承者はどこまで人間に近付けるか−」

吉野 斉志(京都大学非常勤研究員)

『サイバネティックス』の著者ノーバート・ウィーナーは、しばしばユダヤの伝承にある人造人間ゴーレムを引き合いに出し、ゴーレムの現代的ヴァージョンたる機械について論じた。彼はそれによって、機械が創造者たる人間に比肩する能力を持ちうる時代にどんな問題が起こるかを考察したのである。この主題は、第八回フランス語ユダヤ知識人シンポジウム(1966年)におけるアブラハム・モールの発表「ユダヤ教と物」とそれを巡る討論でも取り上げられている。

しかし、機械はどこまで人間と同等になりうるのか。上記の論者たちは機械と人間の境界線が揺れ動く時代について論じながらも、他方ではつねに両者の質的差異を認めているように思われる。そのような差異があるとしたら、それは精確に言ってどのようなものであろうか。コンピュータの発達した現代ではこう問うこともできるであろう―計算機械たるコンピュータと思考する人間とのあいだにはいかなる差異があるのか、それは外的に観察されるような何らかの能力の差であるのか、と。

この発表ではとりわけ、「ユダヤ教と物」のモールが「ゲーデルの高名な定理」に言及していることに着目したい。ロジャー・ペンローズのような数学者も同じ定理を引き合いに出して、数学的理解という観点からこの問題を論じているからである。また、論理に還元されない直観的理解が根源的であることを主張する彼の立場には、アンリ・ポアンカレのような人にも通じる系譜がある。それを検討することで、数学というこの上なく論理的に思われる分野でも、人間の思考の中には計算可能な過程には還元されないものが働いており、それが不可欠でさえあることが明らかになるはずである。そしてこれは、現代の人工知能研究とも整合することである。

「詩篇88編における多様な死者表現とその意義」

                              新井 雅貴(同志社大学神学研究科博士後期課程)

 詩篇88編は、回復の見込みのない病床の人物が、自らの潔白さを主張することによって神に救いを求める嘆きの歌である。この詩では、死者一般を意味するמתיםのほかに、同じく死者を意味するבור יורדיאיל-אין גברחלליםרפאיםという表現を多用することによって、死の危機に直面している歌い手の緊迫した状況が描写されている。これらの語彙はこの詩において同義語として扱われている。同様に、בורמחשכיםמצלותאבדוןחשךנשיה ארץという表現もまた、死者の世界を意味するשאולの言い換えとして用いられている。しかしながら、これらの死者を意味する表現は、通常、寿命による死の場面において用いられるものではなく、殺害された場合や戦争の文脈で死者に言及する際に見られる用語である。本研究では、同義語を用いて繰り返し死者に言及することが、詩篇88編においてどのような重要性をもつのかという点を明らかにすることにある。そのために、ヘブライ語聖書における死者表現を分析し、それぞれの死者がもつ性質を考察する。その結果、בור יורדיおよびחלליםは戦死者に対して、איל-אין גברは力を失った戦士、רפאיםはイスラエルの神に敵対していた死者という側面が強調されている文脈において用いられる用語であることが分かる。ヘブライ語聖書において、戦争に敗北するということは、神に見放された結果であると理解される。すなわち、מתיםを除く死者には、神に見放されて戦死したという、否定的な特徴があることが確認できる。加えて、この詩で挙げられている冥界の比喩表現もまた、これらの神に見放された死者の世界として想定されていることが明らかになる。そして、この詩の主題が、罪のない者が神に罰せられるという矛盾を主張することにある点をふまえると、この詩における死者表現の列挙には、自然死以外の死因が神に見放された結果であることを主張し、同時に、そのような死者が存在する冥界שאולは神に見放された場所であることを暗示する意図があるといえる。

「上海無国籍避難民指定居住区(「上海ゲットー」)の設置過程 ―實吉敏郎海軍大佐の未発表文書をもとに―」

菅野 賢治(東京理科大学)

1942年4月から1943年6月まで、上海・海軍武官府特別調査部長の座にあって、現地のユダヤ居留民対策の陣頭指揮をとった實吉敏郎・海軍大佐の日誌と書簡が、一昨年、子孫のもとで発見された。先の学術大会では、この未発表文書にもとづき、あるフィクショナルな記述から発して一部の書き手たちのあいだで史実として受容されてきた「日本軍主導のユダヤ絶滅計画」というエピソードの信憑性を疑義に付し、ほぼ否定し去るところまで歩を進めた。これに続き、本発表では、1943年2月、事実上ユダヤ難民専用の管理機構として構想された「上海無国籍避難民指定居住区」(いわゆる「上海ゲットー」)の設置過程を、国内外の先行研究(国外では、なかんずくDavid Kranzler、国内では関根真保のそれ)との摺り合わせのなかで検証する。この作業をつうじ、当初、現地のユダヤ居留民たちからナチスの差し金による絶滅計画への予備段階ではないか、とも疑われ、恐れられた指定居住区への移動命令が、実のところ、ドイツからの教唆、指示、介入などとはまったく無縁のところで発せられたものであることが、再度、確認されるだろう。むしろ中心的議論は、太平洋戦争開戦後、アメリカ、イギリス、オランダなどに籍をもつ「敵性外国人」たちの処遇(順次、上海郊外の収容キャンプに拘禁)と、ソ連、フランスなど非交戦国の出身者たちの処遇(フランス疎開外では居住認可制)とのあいだで、1942年1月1日、ヒトラーにより国籍の無効を宣言されたドイツならびにドイツ占領地区(ポーランド、チェコ)出身のユダヤ難民たちの処遇をいかに釣り合わせるべきか、腐心し続けた實吉大佐とその二人の部下、久保田勤、関屋正彦が最終的にたどり着いた結論を、今日、いかに評価するか、という点に絞られてくるであろう。

「マイモニデスにおける自由意志の概念」

       神田 愛子(同志社大学神学研究科博士後期課程OD)

本発表は、マイモニデス(Moses Maimonides, 1135-1204)が人間の自由意志と神の摂理の関係をどう捉えていたのかにつき、『迷える者の手引き』(アラビア語:Dalālat al-hāirīn、ヘブライ語:Moreh Nebukhim、以下『手引き』とする)第二部48章を中心に考察する。

マイモニデスは『ミシュネー・トーラー』(Mishneh Torah)第一巻「知識」(Madda)5章で「わたしは命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい」という申命記30章19節の言葉を引用し、自らの意志で命と祝福を選べという神の命令を強調する。また『八つの章』(Shemonah Perakim)第8章に「強いられた行為は法を無化する」とあることから、法と自由意志の関係の重視性が伺える。さらに『手引き』第三部20章に、神は「可能的な事の可能の本性を逸脱しない」、すなわち神は自然法則に抗うことはせず、人の行動は全てその人の決断にかかっていると論じていることから、彼が人間の自由意志を重視していたことがわかる。

一方で、彼は『手引き』第二部48章で「すべて時間的に生成されたものには直接的な原因があり、それは最終的には第一原因、すなわち神の意思と自由選択に行き着く」と述べ、人間に特定の行動を選択させることも自然現象を起こすことも、すべて神の命令であると論じている。以上のことから、「自然的可能を超えた神の意志」と「人間の自由意志」がいかに関係づけられるのかという疑問が生じるのである。

本発表においては、第一に、マイモニデスが人間の自由意志について述べた箇所を、彼の著作全体から取り上げる。第二に、中心テキストである『手引き』第二部48章と、第三部17章の神の摂理に関する六者(無神論者、アリストテレス、アシュアリー派、ムウタズィラ派、ユダヤ教徒、マイモニデス自身)の見解の議論を対比することで、議論の枠組みを提示する。第三に、人間の自由意志に言及した箇所を本テキストから抽出し、占星術を嫌ったマイモニデスが、神の摂理と人間の自由意志の関係をどう捉えていたのかにつき、『手引き』の関連する他の章に言及しつつ、彼の法理解と合わせて探っていきたい。


【シンポジウム】 「タルグムの世界:聖書翻訳とユダヤの伝統」

<シンポジウム趣旨> 加藤 哲平(日本学術振興会PD/シンポジウム企画担当)

2017年には「新改訳2017」(新日本聖書刊行会)が、2018年には「聖書協会共同訳」(日本聖書協会)が刊行され、にわかに「聖書翻訳」への関心が高まっている。聖書というあまりにも人口に膾炙した宗教文学を、いかにして新しく翻訳することができるのか。これは困難かつチャレンジングな問いである。この問いに答えるために、たとえば「聖書協会共同訳」は、「スコポス理論」という新しい翻訳理論に基づいて翻訳するという方針を取った。つまり、意訳・逐語訳といった従来の二項対立にとらわれずに、読者対象と目的(=スコポス)に合わせた翻訳を作成することで、教会での礼拝にふさわしい聖書を目指したわけである。

このように最新の翻訳理論を駆使するという方針は、もちろん有効である。しかしながら、聖書は古来よりさまざまな言語に翻訳されることで多くの読者を獲得してきた歴史がある。そうした伝統に目を向けることは、聖書翻訳に新たな視点を与えてくれるのではないだろうか。前3世紀にエルサレムから招聘された72人の長老たちがアレクサンドリアでわずか72日間でギリシア語に訳したとされる「七十人訳」、その七十人訳に飽き足らなくなったユダヤ人たちがよりヘブライ語テクストに近づけようとして作成したギリシア語訳の「アクィラ訳」「シュンマコス訳」「テオドティオン訳」、そしてベツレヘムの聖書学者ヒエロニュムスがギリシア教父やユダヤ賢者の解釈を学びながら16年かけてラテン語に訳した「ウルガータ」など、ヘブライ語聖書の古代語訳だけでもいくつもの伝統がある。

これら古代語訳の中で、とりわけ重要であるにもかかわらず、わが国ではほとんど知られていないのがアラム語訳の「タルグム」である。ヘブライ語原典に寄り添い、ときに逸脱しながら聖書の意味を解き明かしてきたタルグムには、ラビ伝承によれば、書記エズラの律法朗読(ネヘミヤ記8章)以来の長い伝統があるとされている。しかもひとくちにタルグムといっても、公認版として比較的原文に忠実な「オンケロス」や「ヨナタン」から、ミドラッシュのように自由闊達にスピンオフを繰り返す「偽ヨナタン」まで多様性に富んでいる。また1956年にスペインの文献学者アレハンドロ・ディエズ・マチョがヴァチカン図書館で発見した「ネオフィティ」の衝撃は、まさに聖書学史上の一大事件だった。

京都ユダヤ思想学会は、聖書翻訳への関心が高まっているまさに今このときに、タルグムというユダヤの豊穣な世界を多くの人に知っていただきたいと考える。このような問題意識に基づき、基調講演者としてタルグムとラビ文学をご専門とする勝又悦子氏(同志社大学)を、またコメンテーターとして阿部望氏(獨協大学)、飯郷友康氏(東京大学)、大澤耕史氏(中京大学)をお迎えする。聖書を翻訳するとはどのような行為なのか。聖書学やユダヤ学のみならず、宗教学、哲学、古典学、翻訳学といった広いフィールドに開かれたこの問いを、今こそ考えてみたい。

<基調講演>  勝又 悦子(同志社大学)

文化の伝搬において、翻訳は必要不可欠の営為である。しかしながら、その重要性は、十分に評価されているだろうか。翻訳は、ごく初歩的作業であり、大切なのはその先だ、という認識はないだろうか。ユダヤ学においても同様の状況があり、アラム語翻訳であるタルグム文学に十分な関心が注がれてきたとは言い難い。

タルグムとは、本来、何語にかかわらず「翻訳する」TRGMからの派生語であるが、特に、アラム語訳聖書を指す。モーセ五書全体を通訳したものとしては、オンケロス、偽ヨナタン、ネオフィティ、フラグメントのタルグムがあり、預言書を通訳したタルグム・ヨナタンがある。紀元後1世紀の成立と考えられているタルグム・オンケロス、預言者へのヨナタン・タルグムは、比較的直訳調であるが、いわゆるエルサレム・タルグムと一括されてきた他のタルグム群は、様々な加筆が施されており、特に、偽ヨナタン・タルグムは、もはや改訂聖書ともいうべき様相を呈している。これらのエルサレム・タルグムの成立年代、Sitz im Leben については意見の一致はみていない。そもそもなぜ、アラム語訳聖書はこのように多種類の翻訳が残っているのだろうか。いつ、どこで、だれが、何のためにタルグム文学を作り出したのか・・・・・こうした問いに、従来のユダヤ学は応えていなかった。というのも、タルグムは、翻訳文学に過ぎず、すでに存在していたであろう膨大なラビ・ユダヤ教文献から様々な箇所を引き写した、いわばラビ・ユダヤ教文献の副産物であるとみなされてきたからである。したがって、タルグム文学のオリジナリティも議論されることは少なかった。

しかしながら、上述のように、エルサレム・タルグムでは、加筆も膨大であり、またその典拠や平行箇所がラビ文献にないことも多いし、また、ラビ文献での記述と相反する言説もある。さらに、ラビ文献内の記述は、タルグムを担ったのではないかと考えられるソフェル(書記・教師)への侮蔑的見解も散見され、ラビ文献の母胎となった賢者と、タルグムに近い書記・教師の対立も垣間見られる。このような点を考えると、タルグム文学は必ずしもラビ文学の一環として片づけることはできず、その特色、独創性に改めて注目する必要がある。

本講演では、最初にユダヤ学におけるタルグム研究の関心度を概観したのちに、ラビ文献におけるタルグム文学、タルグム制度に関する記述、また動詞TRGM に対するネガティブな語感を分析する。これより、ラビ文献における賢者と教師の乖離を指摘する。また創世記1.2、十戒部分についてのタルグムなど、ラビ文献には平行箇所のない箇所を取り上げ、タルグム文学のオリジナリティを考えたい。さらに、タルグム文学の創造の背景には、書記・教師を輩出した祭司層が想定されること、タルグム文学と祭司系の文学の近さを指摘の上、祭司層が第二神殿崩壊後もユダヤ社会においてベイト・クネセット(シナゴーグ)において指導権を握っていた可能性を考える。つまり、タルグム文学を通して、ラビ中心のラビ文献研究では見え難い多様なユダヤ教社会の再構成が可能である。また、ラビ文献が育まれたベイト・ミドラシュ(学塾)に対して、ベイト・クネセット(シナゴーグ)というもう一つの文学創造の場を想定することで、第二神殿崩壊以降のユダヤ教文学の営為がより明らかになるのではないか。

近い将来、翻訳や通訳は、AIにとって代わられることも危惧されている。自動翻訳ではない人間の営みによる翻訳文学であったからこそ、後代に、十分な創造力と想像力を有してきたことをタルグム文学から示したい。


<コメント>

コメント1 「タルグムと死海文書の接点について」  阿部 望(獨協大学)

 ヘブライ語聖書のアラム語訳であるタルグムは、ユダヤ思想の宝庫である。ここには、聖書テクストの意味をアラム語に置き換えたという聖書解釈が含まれている。そこで逐語的に訳された部分を比較することにより、一語一語その解釈を確認することができる。さらにアラム語訳の対象はユダヤ人であったため(一部クリスチャン向けのアラム語訳も存在するが、ここではそれには言及しない)、ユダヤ人の聖書テクストに対する接し方などを含め、ユダヤ教習慣や宗教教育の要素が多く含まれている。さらにアラム語訳はシナゴーグにおける聖書翻訳という役割から発展して、つまりシナゴーグ文学のジャンルから離れて、アラム語による聖書再話文学というジャンルを形成するにまでに至っている。

 本発表ではこの聖書再話文学である「偽ヨナタン訳」を軸に、この中に含まれている複数のハラハー事案と死海文書の『ハラハー書簡』、『神殿の巻物』などのハラハー部分との対比を行うことにより、以下の三つにして一つのポイントを解説することを目的としている。

(1)ユダヤ教文書には成立が後代であっても、紀元前から議論され続けてきたハラハー事案が含まれている。文書の成立年代と議論背景は必ずしも一致しない。

(2)ハラハー解釈についての各派の対立と論争は紀元前から存在した(紀元前の古代ハラハー時代には解釈の相違がなく、紀元後の賢者の時代になってハラハー解釈の相違が生じたという従来の見解が歴史的事実にそぐわない)。

(3)ファリサイ派を中心としたユダヤ賢者に対して同調しない流れが紀元前後を通じて存在し、それが死海文書やアラム語文学に残されている。

コメント2  飯郷 友康(東京大学)

DENDÔ デンダウ 傳道(michi wo tsutaeru)n. Preaching the gospel ; –– sha, an evangelist ; preacher of the gospel ; missionary ; –– kwaisha, a missionary society.

(J・C・ヘボン『和英語林集成』第三版)

 旧約諸書のうち、いま『コ[ー]ヘレ[ッ]ト[– 書、– の言葉]』と称する作品を、かつて『傳道[– 之、 – 者の]書』と称した。便宜上、ここでは「伝道者(コヘレト)」と仮称する。日本語訳の一例として、以下に「明治元訳」を引用する。

ダビデの子ヱルサレムの王 傳道者の言 空の空 空の空なる哉 都て空なり(1:1-2)

われ傳道者はヱルサレムにありてイスラエルの王たりき(1:12)

以上。原作ヘブライ語文の大体は単純であるので、これを同系統のアラム語などに翻訳しても、文の語順と語数に大きな変動は生じないと予想される。試しに、アラム語訳の一部分を、ここで日本語文に再変換する。

(1:1-2)ダビデの子、エルサレムに在りし伝道者すなわちソロモン預言したる預言の。イスラエルの王ソロモンは、太子レハベアムの国とナバテの子ヤラベアムの相反、またエルサレムと聖堂の滅亡、およびイスラエル家の民の流竄を、聖霊によりて予見せり。そのときの言に曰く「この世は空の空、我と父ダビデの労苦は全て空の空なるかな全て空なり」と。

(1:12)イスラエル王ソロモンは、エルサレムにて王の位に座したるとき、甚だ心驕りて主の詔を犯し、数多の馬と車と兵を集め、金銀を堆く積み、異邦の民を娶れり。たちまちに主は怒り給い、魔王アシュメダイを遣わして王位を奪い印璽を掠め、世を流離わせて懲らしめ給えり。ゆえにイスラエル全土の城市界隈を廻りて、かく言へり「われ伝道者は、先の名をソロモンと称し、エルサレムにありてイスラエルの王たりき」。

 事実は予想に反した。

 こうした旧約文書のアラム語訳を、タルグムと通称する。タルグムは、もと「通達」転じて「通詞」を意味し、一般に「翻訳」と定義される。その翻訳態度は、いわゆる「直訳」「逐語訳」に対して、「意訳」「敷衍訳」であるとも説明される。この説明に大過はないが、直訳と意訳、逐語訳と敷衍訳の境界は曖昧であるので、なお詳細な観測を求められる。

 タルグムは、翻訳文学であると同時に「引用文学」である。引用の作法は「直接引用」と「間接引用」に大別される。この場合、通詞は当然まず旧約諸書の伝道者(コヘレト)原作を直接引用した。そのうえで、預言者および律法の文言を間接引用した。また、いわゆる旧約「正典」文書のみならず、「外典」「偽典」「ラビ文献」等に散在する関連説話をも引用したらしい。その関連説話を、検索しよう。

コメント3  大澤耕史(中京大学)

本コメントでは、実際に聖書の章句を取り上げ、それが各タルグム(オンケロス、偽ヨナタン、ネオフィティ、フラグメント)においてどのように翻訳されているか、そしてタルグム間では翻訳に違いがあるかという点に着目する。取り上げる箇所は主に創世記37章の、イサクの息子ヨセフがエジプトに売られる場面である。

ヨセフは父親のイサクに特に可愛がられていたために兄たちの反感を買い、その結果奴隷としてエジプトに売られてしまったというのは、聖書の読者にはある程度知られたストーリーであろう。しかし、実際に聖書を細かく読んでいくと、実はヨセフが誰によって誰に売られたのかが判然としない。文脈から考えると兄たちが商人に売ったというのが一番シンプルな理解であるが、必ずしもそうとは断言できない理由もある。では商人たちがヨセフを売ったのかと考えると、この場面に出てくる複数の登場人物をどのように同定するのかという問題が生じる。名詞が錯綜していてこちらも一義的には決めることができないのである。

このような背景ゆえに、この箇所についてはユダヤ教・キリスト教の中で様々な解釈が生み出されてきた。本コメントではそのうちのいくつかを紹介し、どのような解釈が可能なのかを検討した後、タルグムにおける翻訳、すなわち、聖書テキスト成立後の人間が聖書の不明瞭な箇所をどのように読んだかを分析する。もちろん、翻訳によってすべての不明瞭な箇所が一義的に理解可能になるというわけではなく、タルグムにおいても聖書を逐語訳したのみでその内容にはほとんど手を加えていない箇所は多い。しかし、少なくとも単語が異なる語に翻訳されることで、翻訳者たちが聖書に出てくる単語をどのような意味でとらえていたのかは明らかになる。

また、聖書とタルグムの違いのみならず、七十人訳(ギリシア語)やペシッタ(シリア語)、サマリア五書とも比較しつつ複数のタルグム間の違いにも着目することで、それぞれのタルグムの訳語選択に見られる特徴や成立年代の違いにも目を向けていきたい。本コメントは言うなれば、聖書のある箇所の翻訳(解釈)を通じて、タルグムを立体的に理解することを試みるものである。