第16回(2023)人称と沈黙:ブーバーとロジャーズから

2023年度第16回学術大会「人称と沈黙:ブーバーとロジャーズから」

*日程:2023年6月24日(土)

*会場:同志社大学今出川キャンパス良心館地下1教室(RY地1)およびオンライン(Zoom)


*スケジュール

9:30 受付開始(対面会場開場およびZoom入室)

【個人研究発表】(10:00−12:00)

10:00-10:40 研究発表①「機能主義は唯物論か?パトナムと心身論」

発表者:吉野 斉志(関西大学 非常勤講師)

   司会:長坂 真澄(早稲田大学 国際学術院 国際教養学部 教授)

10:40-11:20 研究発表②「ヒューマニズムによる人間形成(Bildung)の課題―M. ブーバーのユダヤ民族教育論を手がかりに」

発表者:三木 春紀(慶應義塾大学大学院 社会学研究科 後期博士課程)

   司会:田中 直美(福山市立大学 教育学部児童教育学科 講師)

11:20-12:00 研究発表③「ヨセフ・B・ソロヴェイチクの哲学 ―『ハラハー的人間』から『孤独な信仰者』へ―」

発表者:志田 雅宏(東京大学大学院 人文社会系研究科 講師)

   司会:合田 正人(明治大学 文学部 教授)

  (休憩)

【シンポジウム】(13:00−17:00)「人称と沈黙: ブーバーとロジャーズから」

第1部 13:00-14:40  司会:平岡 光太郎(同志社大学 嘱託講師)

13:00-13:05 挨拶・趣旨説明など 手島 勲矢(シンポジウム企画者)

13:05-13:45 提題① 森岡 正芳 (立命館大学 総合心理学部 教授/カウンセリング心理学)

「人称と沈黙:ブーバーとロジャーズ「対話」再考」

13:45-14:15 提題② 堀川 敏寛(東洋英和女子学院大学 専任講師/倫理学)

「『我と汝』テキストを読み直す」

14:15-14:40 提題③ 手島 勲矢(京都大学 非常勤講師/ヘブライ語文法)

「ヘブライ語文法の対話:ディクドゥークから考える三人称の存在と沈黙」

   (休憩)

第1部 15:00-17:00  司会:平岡 光太郎・手島 勲矢

15:00-15:30 提題④ 平尾 昌宏(立命館大学 非常勤講師/哲学)「ブーバーと〈日本語からの哲学〉」

15:30-16:00 提題⑤ 武藤 慎一(大東文化大学 教授/歴史文化学)「シリア・キリスト教から見た『我と汝』」

(休憩)

16:00-17:00 パネリストとフロアの座談会(質疑応答)

【総会】(17:15−18:00)

【懇親会】(18:30−20:30)


*要旨集録

【個人研究発表】

研究発表① 吉野 斉志(関西大学 非常勤講師)「機能主義は唯物論か?パトナムと心身論」

 現代分析哲学における心身関係についての考え方の一つとして、「機能主義(functionalism)」と呼ばれる立場がある。これは心を身体の機能と見なすだけでなく、「心や意識に関して問題なのは脳(身体)が何で出来ているかではなく、どんな機能を果たすかである」と主張する立場である。この立場はひいては、異なるものが同じ機能を果たしうるという主張をも含んでいる。このため、無機物でできたコンピュータが心と同じ機能を果たしうるという、AI(人工知能)の可能性と合わせて論じられることも多い。

 機能主義はしばしば、唯物論と親和的と見なされる。『心の哲学』のジョン・サールも、機能主義を唯物論の中にカテゴライズし、唯物論の代表的な形として批判を加えてもいる。しかし、物質は重要ではないと考える立場が機能主義ならば、それは本当に唯物論なのだろうか。

 本発表では、代表的な論者としてヒラリー・パトナムの一連の論攷を参照し、考えをよく変える彼の主張の変遷にも注意しながら、機能主義とはどのような主張だったのかを検討することにしたい。パトナムの記述は時に極端であるが、彼は機能主義を実証的なテーゼと考えていた節もあるので、実際にその証拠が見つかっているのか、それは妥当なのかということも、併せて検討していくことになる。

 さらに、機能主義的唯物論を批判したサールの議論を見ていくことで、機能主義を唯物論と親和的、あるいは唯物論の一形態と見なす主張にはいかなる前提があるかを批判的に検討することにする。このような場合の「唯物論」は、たんに物質一元論のことではなく、むしろ物質は内在的な性質を持たない、あるいは少なくともそのような性質は重要ではないという、物質についての強い想定を含んでいるように思われる。このことは、心をコンピュータと同等と見なす「強いAI」論の限界を考えるに当たっても、重要なポイントとなるであろう。


研究発表② 三木 春紀(慶應義塾大学大学院 社会学研究科 後期博士課程)

「ヒューマニズムによる人間形成(Bildung)の課題-M. ブーバーのユダヤ民族教育論を手がかりに」

 本発表の目的は、マルティン・ブーバー(Martin Buber, 1878-1965)が生涯にわたって尽力したユダヤ民族教育論で唱えた理念を手がかりとし、彼の教育論の背後にある人間形成観を明らかにすることである。

 教育学においてブーバーは、ボルノウ(Otto Friedrich Bollnow, 1903-1991)などとならび、人間存在の基盤である「対話」を教育思想の中心に位置づけた人物とみなされている。また、ブーバーの新版著作集の第8巻「青少年・教育・人間形成論文集」の「序論」を記したヤコービ(Juliane Jacobi)は、ブーバーの教育をめぐる思索において一貫して定式化されている根本概念は「教育的関係」であると述べている。現在、教えや学びの経験はますます実証可能な要素に分解され、機能主義的に一元化されていく傾向からこぼれ落ちる教育や人間形成のあり方をどのように語るのかという課題に対して、ブーバーの対話論や教育関係論は一定の役割を果たしてきた。だが、その多くはブーバーの学説の部分的な適用にとどまり、彼の教育観の背後にある統一的な人間形成論が見出されているとは言い難い。

 ここで着目するのが、ブーバーがユダヤ民族教育において表明していたユダヤ的な人間形成観である。「人間形成(Bildung)」は、主にドイツにおいて今日までの教育学研究を駆動させてきた概念であるが、ブーバーがドイツ思想とユダヤ思想を複雑に織り込みながら思索してきた事情に鑑みれば、この語を一義的に規定することの難しさがつきまとう。しかし、ブーバー自身、皆が目指すべき像を失った現代に求められる新たな人間形成を構想し、時代や社会に規定される人間形成像がもつ規準の不確実性を克服し得る原理を求めていたのである。

 したがって本発表では、ブーバーがユダヤ民族教育に期待した理念を手がかりとすることで、ユダヤ民族が抱える特殊性から普遍性を指向する、彼独自のヒューマニズムに基づく人間形成がいかに捉えられていたのか、またそこに含まれる論理の可能性を吟味したい。


研究発表③ 志田 雅宏(東京大学大学院 人文社会系研究科 講師)

「ヨセフ・B・ソロヴェイチクの哲学― 『ハラハー的人間』から『孤独な信仰者』へ―」

 本発表では、ヨセフ・B・ソロヴェイチク(1903–1993)の思想的な展開を主題として、彼の『ハラハー的人間』(Halakhic Man, 1944)および『孤独な信仰者』(The Lonely Man of Faith, 1965)における人間論およびハラハー論について考察する。アメリカ合衆国における正統派ユダヤ教の最も重要な指導者のひとりであるソロヴェイチクは、マイモニデスの思想、近代東欧のタルムード学習の文化、そしてヘルマン・コーエンの哲学をその基盤とし、ハラハーや悔い改めについての革新的な見解を提示した。しかし、ハラハーを思考し、実践する人間のモデルを彼のルーツである東欧のユダヤ教文化の偉人(特に祖父のハイーム・ソロヴェイチク)に見出していた『ハラハー的人間』と、現代の科学的な世界観とユダヤ教における啓示のあり方との関係性を意識するようになった『孤独な信仰者』とのあいだには、大きな変化がみてとれる。それは、ふたつの著作における主題の相違という以上に、それぞれの著作を執筆していた時期のソロヴェイチク自身を取り巻く状況の違いや、それに起因する彼自身の問題意識の変化によるところが大きいと思われる。本発表ではその変化を明らかにすべく、同時代のアメリカのユダヤ教の状況や宗教学における世俗化をめぐる議論にも目を向け、ソロヴェイチクの思想研究のための足掛かりをつくりたい。また、ソロヴェイチクの誕生120周年、没後30年を記念して、正統派ユダヤ教の学術誌Traditionでおこなわれている評価や議論についても紹介したい。 


【シンポジウム】「人称と沈黙: ブーバーとロジャーズから」

手島 勲矢 《シンポジウム企画担当》

 2023年はブーバーの記念碑的著作『我と汝(Ich und Du)』(1923年)の発刊から100年目になる。『我と汝』は、当時の色々な具体的な社会や政治の対立が、著者の意識の中で、複合的に重なり合って生まれたテキストと想像されるが、第二次大戦後(1957年)、カウンセリング心理学の提唱者カール・ロジャーズは、その『我と汝』の考え方に深く共鳴して、ブーバーに公開の対話を呼びかける(ロブ・アンダーソン著『ブーバー・ロジャーズ対話』2007)。ブーバーは、その呼びかけに最初は乗り気でなかった。それは、大衆化した「対話」概念に、ある種の反発を抱いていたためでもあり、加えて「黙するに時あり、語るに時あり」(コヘレト3:7)と考えるヘブライズムの影響もあるだろう。ユダヤにとって語りと沈黙は、表裏一体でもある。その点をアンドレ・ネエル(『言葉の捕囚』The exile of the Word, from the silence of the Bible to the silence of Auschwitz 1981)は、アウシュビッツを語ることが足りないと批判する若いユダヤ世代に対して、聖書の「沈黙」の思考で応答した。

 ブーバーの「我-汝」「我-それ」の根元語は、2者の対話の言語である前に、個人の中にある言語の、文法的な人称を踏まえた、二重構造としても捉えることができる。それはアラブの人々の沈黙の上で成り立つ欧米オリエンタリズムの「対話」の偽善性を批判するエドワード・サイードの人称の感受性(我々と彼らの区別)にも通じる「我」の意識を前提とした構造でもある。対話は、向き合う当事者たちの一人称と二人称の「声」ばかりで成立していない。奪われ抹殺された過去の人々や、圧政下の声を出せない人々の「沈黙」の三人称の声もそこに含まれる。そして「沈黙」は互いの声に耳を傾け合う対話のその時にもある。目前に見つめる「あなた」がいて、その存在の沈黙に向かって応じる言葉が見つからず「黙」してしまう「私」がいる。今、100年を経て、ブーバーとロジャーズの対話に再び向きあって、ユダヤの文脈を超えた「我と汝」の、その哲学的な「語り」の普遍的な意義を、皆で再検討してみたいと思う。


提題① 森岡 正芳 (立命館大学 総合心理学部 教授/カウンセリング心理学)

「人称と沈黙:ブーバーとロジャーズ「対話」再考」

 心理学や精神医学ではMartin Buber (1878-1965)の存在はつとに知られ、1923年の「我と汝」の出版後、その対話哲学は、心の臨床分野に大きな影響を与えている。ブーバーはその晩年、二度目の米国訪問を行い、1957年4月18日ミシガン大学アナーバー校のレッカム講堂にて、カウンセリング心理学のCarl Rogers (1902-1987)と対談を行った。心理学世界では歴史的な対話として、精密な録音の掘り起こしが行われ40年を経て、出版されている(Anderson & Cissna (ed.): The Martin Buber-Carl Rogers Dialogue.1997)。対話がなぜ人を癒すのか、我-汝関係のもたらす治癒的な働きをめぐって、対談は展開された。カウンセリング面接の中で「真の出会い」といえる瞬間がクライエントの間に生まれる。ロジャーズは、この体験をもとにそれが「我と汝」の関係に接近するとする。ブーバーはそれに対して、治療的関係は対等ではないとし、そこに存在する種々の制約を一つ一つとりあげ、状況と現実を直視すべきであると譲らない。この対談において浮上した「他者と出会い」にまつわるいくつかの課題について報告を行いたい。対話を成り立たせる我と汝の関係には、人称性と非人称性の揺れが伴う。人と人との間において実現する現前化(Vergegenwärtigung)すなわち、他者の「他者性」をありのままに私の心の中に描き出す「現実想像」(Realphantasie)の働きや、自己の生成における他者の承認の役割などの課題は、心理社会的な実践に深い問いを突き付ける。この問いをもとに、ユダヤ思想的な背景の探究につないでいきたい。


発題② 堀川 敏寛(東洋英和女子学院大学 専任講師/倫理学)

「『我と汝』テキストを読み直す」

・引きこもり状態から外に出て、他者と出会うことが果たして我−汝なのか

・ブーバー思想形成にあたってのディルタイの影響

・『我と汝』成立にあたってのローゼンツヴァイクの影響

・なぜ『我と汝』のなかに「対話」という用語が見られないのか

・フロイトの『自我とエス』で議論される「我とそれ」

・H・R・ニーバーの「それ」論は、ブーバー「我−汝」の批判として妥当か

・人格的な対話による相互性を目指したロジャーズと、ブーバーとの噛み合わなさ

・『我と汝』で論じたかったブーバー思想の真意:潜在的な関係と顕在的な出会い

・他者論ではないブーバー思想:存在論から関係論へ

・『神の蝕』は、『我と汝』の何を補完したのか。また両作品で神の沈黙は解決されうるか

・『我と汝』を支えるヘブライズム(ユダヤ思想):汝の臨在と語りかけの先行性


発題③ 手島 勲矢(京都大学 非常勤講師/ヘブライ語文法)

「ヘブライ語文法の対話:ディクドゥークから考える三人称の存在と沈黙」

 ブーバーの原著『Ich und Du』のドイツ語タイトルは、ヘブライ語訳では『アニー・ヴェ・アター אני ואתה』となるが、そのタイトルのヘブライ語の語感について、古典的なユダヤ文法学者の人称概念から考えてみたい。特にブーバーは、『我と汝』の冒頭(1−5)で「我-それ」「我-汝」の根源語の二重性を語るけれども、そこには古典的なヘブライ語文法学者の考える「文法」の人称概念や名詞と動詞の区別の響きも読み取れるのではないかという話をしてみたい。

 ブーバーの我と汝の議論は、人間の言語に潜む二つの異なる(また相矛盾する)意識を露わにし、その二重性の気づきは、近代西欧の持つ認識の一般化・客観化に対する根源的な問題提起となって、人間の世界認識の要「われ」の土台を揺さぶり、自分自身に覚醒させると同時に、目の前にある「それ」に覆われて気付いていなかった、目の前にいる「汝」の存在が突きつけられる体験を、私は『我と汝』を読んでする。その人間の深層意識に潜む、切り裂かれたポラリティの気づきは、確かに民族や言語の多様性や違いをのり超えた、人間の共通の精神土台を考える契機にもなると考えられるが、これは、同時に、言語の土台を考える違いというものが欧米アプローチとユダヤ・アプローチの間にあるのだというふうに考えられないか?ブーバーとロジャーズの対話にはその片鱗がのぞいているようにも思える。

 つまり「我と汝」という人称に着目して世界を語るブーバーの視点は、内在的に、潜在意識的に、ユダヤのヘブライ語文法の感性が影響しているのではないか?と私は考え、この点について、古典的なユダヤ教のヘブライ語文法の着眼点と、私たちが大学で聖書ヘブライ語として教えられる一般的な文法の着眼点にある差異を指摘してみたい。事実、文法の歴史の過去を遡ると、ヘブライ語文法は、16世紀以降に現れるクリスチャン・ヘブライストがラテン語で文法(グラマティカ)を書き始めることで、10世紀サアディア・ガオンに始まる中世ユダヤ人たちの聖なる言語の文法(ディクドゥーク)との、認識の乖離が色々な面で起きてくる。その乖離の無言の思想的なインパクトはステルスなので感知しにくい。

  例えば、人称の話は、古典的なユダヤの文法学者(メダクデキーム)たちが、三人称をニスタル(נסתר)つまり隠されたものの語り、二人称をノハフ(נוכח)またはニムツア(נמצא)つまり目の前に存在するものの語り、そして一人称をメダベル(מדבר בעדו)つまり自分のために語る語り、という用語で人称概念を語る。他方、クリスチャン・ヘブライストの文法学者はpersona/人格という用語に、第1、第2、第3の番号をつけて人称概念を示す。この分類が現在の文法において主流の考え方となる。

 この二つの人称パラダイムの中で「沈黙」の占める位置を考えたい。ユダヤの文法学(ディクドゥーク)は、三つの語りの仕方として人称概念を意識するので、かえって、その声の語りの真逆に位置する「沈黙」が声ならぬ声として浮き上がり、それが三人称ニスタル「隠されたもの」という用語の意味と重なり、シンボリズムとして、沈黙こそは、三人称「それ」の声なのかもしれないし、その沈黙への気づきはブーバーの「我と汝」の読解にも、またロジャーズの対話の読解にも有益ではないか、こんな話を考えている。


発題④ 平尾 昌宏(立命館大学 非常勤講師/哲学)「ブーバーと〈日本語からの哲学〉」

 昨年私は、『日本語からの哲学——なぜ論文を〈です・ます〉で書いてはならないのか』(晶文社)を上梓した。これは、メインタイトルに示した通り、「日本語からの哲学」の可能性を追求したもので、その際に取り上げた素材が、サブタイトルに示した問題である。

 その結果、〈です・ます体〉と〈である体〉の相違は、単なる文体の相違に留まるものではなく、最終的には、いわば世界観の相違にまで至ることが明らかになった。この二つの文体は、それぞれに異なった世界、〈です・ます世界〉と〈である世界〉とでも言うべきものを表出していることが見出されたのである。

 私の考えでは、〈です・ます体〉とは一人称が二人称に対して語りかけるものであり、そこに見いだされるのは、一人称−二人称関係である。一方、〈である体〉は三人称に即しての記述とも言える文体であり、そこで示されているのは一人称−三人称関係である。

 こうして、人称的構造という点で言えば、この二つの世界の相違は、ブーバーが「我−なんじ」、「我−それ」として取り出した二つの世界の相違に重なると考えることができる。つまり、私の言う〈です・ます体〉、〈です・ます世界〉がブーバーの「我−なんじ」に、同じく〈である体〉、〈である世界〉が「我−それ」に対応する。

しかし、私とブーバーとでは、考察の起点も、そこに見いだされる人称的構造の捉え方も、異なっている点が幾つも見いだされる。

 こうした観点から、シンポジウム提題者の議論にコメントし、できれば考察を展開したいと考えている。


発題⑤ 武藤 慎一(大東文化大学 教授/歴史文化学)「シリア・キリスト教から見た『我と汝』」

 『我と汝』におけるブーバーの思想はどれほど「ユダヤ的」だろうか。日本を含む非ユダヤ・キリスト教文化への普遍化の試みは、ブーバー思想自体に即してどれほど妥当なものなのだろうか。そこで、いったいどの点が「ユダヤ的」で、どの点が「普遍的」かを判別する鍵を握るのが、西洋キリスト教とヘブライ・ユダヤ教との間に立つ、古代シリア・キリスト教のアラム語(シリア語)による思惟である。つまり、大まかに言えば、両者の共通点がユダヤ・キリスト教思想の核心であるセム(ヘブライ・アラム)性、ユダヤ性で、相違点がそれぞれブーバーの独自性、シリア・キリスト教の独自性ということになる。対話を始め、基本的な部分は両者の間で共通しているものと思われるが、相違点については特にシンポジウムの主題の「人称と沈黙」に着目しつつ、より詳細に比較していく必要がある。人称のみならず、数や性などの文法用語も活用したい。シリア語文法に限らず、特徴的な表現スタイル、シリア教父における聴覚性と視覚性、自然、発見法、段階論、多様性、相互教示性といった研究・教育方法まで、そして最後に現代の日本社会における両者の実践的応用まで論じることができれば、最善だろう。