京都ユダヤ思想学会 第19回学術大会「古代におけるエジプトとユダヤ思想」
日時:2026 年 6 月 27 日(土)
会場:同志社大学今出川キャンパス良心館 107教室(RY107)およびオンライン(Zoom)
10:10 受付開始(対面会場開場および Zoom 開室)
【個人研究発表】10:40−12:00
10:40-11:20 研究発表1 「可能性に先行する現実性―エーディト・シュタインが描くトマス・アクィナスとフッサール」
発表者:長坂 真澄(早稲田大学国際学術院教授)
司会:村岡 晋一(中央大学名誉教授)
11:20-12:00 研究発表2 「サアディアの知性観―『信仰と意見の書』とダニエル書訳の比較で―」
発表者:加藤 伽弥(同志社大学神学研究科博士後期課程)
司会:志田 雅宏(静岡県立大学准教授)
【シンポジウム】13:00−17:00「古代におけるエジプトとユダヤ思想」
13:00-13:05 趣旨説明 津田 謙治(京都大学大学院教授)
13:05-13:45 発題1 宮川 創(筑波大学准教授)「古代エジプト・エレファンティネ島―アラム語文献が語るユダヤ人共同体と文化的多様性」
13:45-14:25 発題2 勝村 弘也(神戸松蔭大学名誉教授)「エジプトの知恵文学とその影響 ―箴言からソロモンの知恵まで」
(休憩 10 分)
14:35-15:15 発題3 津田 謙治(京都大学大学院教授)「アレクサンドリアにおけるユダヤ教と夢概念―悲劇作家エゼキエルを中心に」
15:15-15:55 発題4 武藤 慎一(大東文化大学教授)「古代末期の 2 つの聖書理解 ―エジプトとシリア」
(休憩 15 分)
16:10-17:00 質疑応答
【総会】 17:30−18:00
【情報交換会】(懇親会) 18:30−20:30
【参加方法】
参加を希望される方はフォームから登録をお願いします(登録締切は 6 月 23 日(火))。
ご参加に必要な情報(オンライン参加の URL など)は、6 月 25 日(木)以降、ご登録いただいたメールアドレスにお知らせいたします。6 月 26 日(金)17:00 までにメールが届いていない場合は、お手数ですが、事務局(hebraicaveritas@gmail.com)までご連絡ください。なお、総会を除き、非会員の方も参加可能です。
【注意事項】
・大会へのご参加には、対面参加・オンライン参加/会員・非会員を問わず、事前登録が必要です。
・新型コロナウィルスの感染状況などにより、止むを得ず、対面参加の実施を取り止める場合がございます。その場合、ご登録いただいたメールアドレスからご連絡いたします。
・対面参加で登録された方も、オンラインからご参加いただけます(逆の場合も同様)。その場合、参加方法の変更に関する再登録などは不要です。
・オンライン参加用のシステムは Zoom を使用します。
・後日メールでお知らせする Zoom の URL 等の情報を SNS 等で公開するなど、第三者に通知する行為は厳にお控えください。円滑な大会運営のため、皆さまのご理解とご協力をお願いいたします。
【大会参加費】
非会員によるシンポジウムへのご参加以外、会員・非会員を問わず、参加費 500 円が必要です。参加される場合、ご参加の前に下記の口座まで 500 円をお振り込みください。お支払いは当日会場でも受け付けますが、時間がかかる場合がございます。
【情報交換会(懇親会)参加費】
18:30 より、会場近くのカプリ食堂 今出川御所店で情報交換会(懇親会)を開催します(非会員の方もご参加可能)。参加費は「一般」が 3,500 円、「学生」が 2,500 円です。参加される場合、ご参加の前に、下記の口座に参加費をお振り込みください。お支払いは当日会場でも受け付けますが、時間がかかる場合がございます。
振込先
・京都銀行 三条(サンジョウ)支店 普通預金 4156447 名義 キョウトユダヤシソウガッカイ
・ゆうちょ銀行 振替口座 00990-3-304201 名義 京都ユダヤ思想学会
*学会費は大会後に送付する振込用紙をご利用の上、お支払いください(大会当日は受け付けません)。
【対面参加に関するご案内】
・会場に関して:同志社大学今出川キャンパスへのアクセスは、こちらはをご参照ください。
・会場となる良心館はキャンパスマップ 23 番の建物になります(会場は 1 階 102 教室)。
・昼食に関して:当日は大学構内で食堂やコンビニが営業しています(会場と同じ良心館 B1F、10:30-15:00)。また、キャンパス近隣には飲食店やコンビニなどもございますので、どうぞご利用下さい。
■要旨集録
【個人研究発表】
研究発表① 「可能性に先行する現実性―エーディト・シュタインが描くトマス・アクィナスとフッサール」
長坂 真澄(早稲田大学国際学術院教授)
エトムント・フッサールのもとで現象学の研究に従事したエーディト・シュタインは、その後トマス・アクィナスの思想に強く惹かれ、フッサールとトマスの哲学を架橋する研究を行った。本発表では、シュタインの『有限存在と永遠存在』第2章「存在様態としての現実態と可能態」において展開される、〈可能性に先行する現実性〉をめぐる議論に着目することで、シュタインがいかにフッサールの語る現実性を、トマスの語る現実性によって基づけられるものとして提示したかを明らかにする。
この目的のため、本発表は以下の行程を辿る。第一に、シュタインが着目する、トマスの神の存在証明をめぐる第三の道(『神学大全』第1部第2問題第3項)、すなわち可能的存在と必然的存在の区別に依拠する論証を、アリストテレス(『形而上学』Λ巻)及びマイモニデス(『迷える者たちのための手引き』第二部)における、〈可能性に先行する現実性〉をめぐる論証を継承するものとして提示する。第二に、シュタインがいかに、フッサールの語る自我のうちに、〈可能性に先行する現実性〉を見出すかを論じる。第三に、シュタインが、トマスとフッサールの語る〈可能性に先行する現実性〉を、いかに架橋するかを明らかにする。シュタインは、ハイデガーを批判しつつ、無は現実性に先行しないと主張し、単なる可能的存在(存在可能であるが、現実には存在しないことも可能である存在)は、有限存在の現実性を説明することができないとする。この脆弱な現実性は、必然的存在の永遠的な現実性に先行されているのでなければならない。この論拠に基づいて、シュタインは、フッサールとトマスのうちに、〈可能性に先行する現実性〉をめぐる共通の論証を見出すのみならず、フッサールが記述する、自我の現実存在は、トマスが論じる、永遠存在の現実性によって、先行されていなければならないと主張するのである。
研究発表② 「サアディアの知性観―『信仰と意見の書』とダニエル書訳の比較で―」
加藤 伽弥(同志社大学神学研究科博士後期課程)
サアディア・ガオン(882-942)は『信仰と意見の書』序論において、知識の源泉を感覚知覚、知性の直観、合理的推論、そして真なる伝承(聖書)の四つであるとしている。とりわけ知性の直観については、「真実を語り、虚偽を避けるよう「神への謙虚な服従」「神を他の何とも結びつけないこと」「正義、真実を実践し、声を上げる者を殺さず、姦淫、盗み、欺瞞、曖昧な表現の禁止」の三種類が提示されている。
従来、サアディアの思想は主にイスラーム神学やギリシア哲学との関連から論じられてきた。しかし、サアディアがラビ・ユダヤ教の権威である以上、その思想におけるラビ・ユダヤ教の伝統の影響を再検討する必要がある。そこで本発表では、『信仰と意見の書』において重要な概念である知性に注目し、彼の聖書解釈、とりわけサアディアのダニエル書訳におけるʿqlの派生語の訳語とそれの解釈の関係を分析することで、同書の知性観をラビ・ユダヤ教的文脈に位置づけることを目的とする。
ダニエル書訳において、サアディアがʿqlの語根によって訳出したものはskhl、ydʿの各派生語および lebの三種である。skhlの派生語はダニエルら四人の若者に関する記述に関連し、ydʿの派生語および lebについては、ネブカドネザル王が獣から人へ戻る際に理性を回復する場面(ダニエル書4:31–33において用いられていることが分かった。さらに、『信仰と意見の書』において引用されている聖句およびダニエル書訳や同書注解における聖句に関するラビ文献を参照すると、ʿqlの派生語によって訳出されている箇所と悔悛との関連性が示唆される。
【シンポジウム】「古代におけるエジプトとユダヤ思想」
(趣旨説明)津田謙治(2026年度シンポジウム企画担当)
古代、ナイル川流域で独自の宗教文化を開花させたエジプトは、イスラエルの歴史的展開と思想的発展に様々なかたちで関わってきた。父祖物語や出エジプト記など民族神話的な聖書の記述は、イスラエルの民が古くから頻繁にエジプトへ往来していたことを窺わせる一方、新王国時代からプトレマイオス朝期までのエジプトの積極的なシリア・南レヴァント(パレスティナ)地方への進出は、政治・社会・宗教の様々な側面においてイスラエルの民に影響を与えてきた。近代以降、碑文や遺跡などの考古学的資料の発見や文献学の進展によって、古代におけるイスラエルとエジプトの関係は多角的に捉え直されつつある。
そのような状況をふまえ、本シンポジウムでは、古代エジプト及びその周辺において発展したユダヤ教の多様な形態を分析することを通じ、イスラエルの宗教的伝統が如何なる歴史的環境の中で形成・変容していったのかを考察する。4名の研究者による提題は、以下の通りである。①前5世紀頃にエジプト南部・ヌビア地方の都市アスワンにあるエレファンティネ島で独自の宗教文化を発展させたユダヤ人共同体、②ヘレニズム時代のエジプトで発展した一部の知恵文学、③いわゆるヘレニズム的ユダヤ人による著作、そして④エジプトと対比されるシリアの聖書解釈。これらの伝統を取り上げ、古代オリエント世界における宗教文化の交流を明確にすることを通じて、ユダヤ思想理解の新たな地平を提示したい。
発題①「古代エジプト・エレファンティネ島— アラム語文献が語るユダヤ人共同体と文化的多様性」
宮川創(筑波大学准教授)
紀元前5世紀、ペルシア帝国アケメネス朝の支配下にあったエジプト南端・ヌビア地方の都市アスワンに位置するエレファンティネ島には、アラム・ユダヤ系の軍事植民地が存在した。彼らが残したアラム語パピルスおよびオストラコン群は、ペルシア時代におけるユダヤ教(ヤハウィズム)の多様な実態を伝える第一級の一次史料である。本発題では、これらの文献に基づき、当該共同体の宗教的・文化的特質を三つの観点から論じる。
第一に、独自のヤホー(YHW)神殿祭祀である。エレファンティネにはヤホーを祀る神殿が存在し、動物犠牲を含む供犠が行われていた。これは中央聖所(エルサレム)以外での供犠を禁ずる申命記的律法とは相容れず、後に規範化される「聖書的ユダヤ教」とは異なる「非聖書的(non-biblical)」あるいは「聖書以前的(pre-biblical)」なユダヤ教の姿を示している。
第二に、シンクレティズムと多元的ヤハウィズムである。ヤホー神殿への寄進リストや誓約文には、アナト・ヤホー、エシェム・ベテル、ヘレム・ベテルといったアラム・カナン系神格が登場し、さらに地元のエジプト神(クヌム、サテト等)とも長期にわたり共存していた。彼らの宗教は純粋な一神教ではなく、エジプト・アラム両文化と交錯した「ヤハウィズムの諸次元」を体現していた。
第三に、ディアスポラ・ネットワークとアイデンティティ形成である。前410年のヤホー神殿破壊事件に際し、共同体指導者イェダニヤらはエルサレムおよびサマリアの権威に嘆願書を送り、また「過越の書簡」に見られる帝国レベルでの文書交渉も行われた。これらは、エジプト・ヌビアという文化的交差点において「イェフダイ(アラム語:YHWDY)」という自己定義が、いかに広域的ネットワークの中で形成・交渉されたかを物語る。
以上を通じ、本発題は、ペルシア時代のユダヤ教がエルサレム中心の単一規範に一元化されず、地域ごとに多様な次元を有する動的・多元的宗教であったことを明らかにし、古代エジプトとユダヤ思想の交錯を考察するための具体的事例を提示する。
発題②「エジプトの知恵文学とその影響 — 箴言からソロモンの知恵まで」
勝村弘也(神戸松蔭大学名誉教授)
この問題はきわめて広範囲に及ぶ議論を要するのでここでは「古代エジプトと聖書」『キリスト教論藻』39号(2008年)で述べた内容との重複をなるべく避ける。
エジプトの知恵文学と聖書(旧約)の関係が決定的な仕方で問題になったのは、1924年にエジプト学者エルマン(A.Erman)が「アメンエムオペトの教訓」の中に箴言22章17節以下とほとんど逐語的な対応関係があることを発見した時に遡る(同時にH.Gressmannもこれを確認)。この時以来、エジプトの知恵文学と箴言の関係は様々な仕方で論じられてきた。比較的近年ではJ・アスマンによる古代エジプトに一神教があったとする主張が、聖書研究にも影響を及ぼしている。
以上のようなエジプトの知恵と聖書文学の関係を考察する前に、従来の聖書研究がなぜエジプト文明との関係を軽視してきたのかについて述べておく。周知のようにM・ヴェーバーの『古代ユダヤ教』ではイスラエルのエジプトからの脱出が重視されている。このような反エジプト的な見方は、<救済史>を重視するG・フォン・ラートの旧約神学に見られるだけではなく、解放の神学に至るまで強い影響を与えてきた。「エジプトに頼るな」との教訓は預言者の思想にもみられる。しかしながらヨセフ物語にみられるような親エジプト的な知恵文学があるのも否定できない。そこでは応報思想を克服しようとする摂理の思想が問題になる。
従来の反エジプト的な見方に大幅な修正を加えようとしたのが、他ならぬフォン・ラートの『イスラエルの知恵』(拙訳、1988年)である。しかしながら彼はヤハウェ信仰の独自性を主張しようとするあまり、重要な点を見逃してきたことも否定できない。その典型的な例を、箴言16章1節以下の解釈にみることができる。ここはその後の研究でエジプトの教訓文学との思想的関連が問題になった(拙論「箴言における釈義上の問題(2)」『キリスト教論藻』33号、2002年参照)。
フォン・ラートは『知恵』の「創造〔された〕世界の自己啓示」の章で「世界に内在する知恵」について優れた考察を行ったが、そこでは箴言8・30にマアト(エジプト語で「真理と正義」を表す)との関連を認めた。この同じ章で「ソロモンの知恵」にも言及しているが、これにはやや否定的な評価を与えている。この点は再考の余地がある。
「コヘレトの言葉」の著作地はパレスチナとする見方が強いが、冒頭の水の循環(さらに円環的時間)について語っている序詞(1・3-7)はアレクサンドリアのような著作地を想像させる。
「ソロモンの知恵」(新共同訳では「知恵の書」)については、新約との関係が指摘されているが我が国での研究が少ない。フォン・ラートはこの書をシラ書24章と比較してヘブライ思想からの逸脱と見たが、有賀鐵太郎は7・25以下などの思想にハヤトロギアとの関連を見ている。今後の研究課題とするべきであろう。
発題③「アレクサンドリアにおけるユダヤ教と夢概念 — 悲劇作家エゼキエルを中心に」
津田謙治(京都大学大学院教授)
前2世紀頃、アレクサンドリア周辺で活動したとされる悲劇作家エゼキエルは、モーセの出エジプトを題材にした作品『エクサゴゲー』を著した。この作品は散失したものの、その断片が教会史家エウセビオス(260頃-340頃)の著作の中で引用されている。悲劇の上演が異教の神々を祀る祝祭と深く関連付けられていた事実を鑑みれば、この時代に聖書を題材にした劇作は特異であり、ヘレニズム的ユダヤ教においてさえも他に殆ど類例を見ない。
モーセを主人公とした『エクサゴゲー』には、その誕生から民を率いて紅海を渡った先の出来事までの記述が断片的に残されているが、とりわけ彼がミディアンの地で見た夢の出来事は特徴的である。出エジプト記に並行箇所はないが、モーセは、ミディアンでの結婚後から召命までの間に、シナイ山頂上にある巨大な玉座に関する夢を見る。玉座に座るように命じられた彼が眠りから目を覚ました後、その夢の内容は義父によって解き明かされるのである。この夢は、モーセの未来を指し示すと同時に、作品全体の議論を方向付ける重要な出来事の一つと見なされうる。
聖書における夢は、神的な啓示と関わるだけでなく、そのような啓示の劣った伝達手段と見なされる場合もあり、モーセ五書に限定しても多様な位置付けが見出される。このことについては、前1世紀頃、アレクサンドリアのフィロンが『夢』という著作の中で、おそらく哲学などの議論を取り込みつつ、聖書における複雑な夢概念を多角的に分析していた。他方、特にモーセ理解などを巡って、悲劇作家エゼキエルのフィロンへの影響は、これまで多くの研究によって指摘されてきた。本報告では、それらの議論を踏まえたうえで、エゼキエルの『エクサゴゲー』とフィロン『夢』における夢概念を比較考察し、報告者がこれまでおこなってきた初期キリスト教における夢概念の分析も交えつつ、この悲劇作家における夢の位置付けを考察する。また、それらを通じて、ヘレニズム的ユダヤ教における夢概念の一端を明らかにすることを試みたい。
発題④「古代末期の2つの聖書理解 — エジプトとシリア」
武藤慎一(大東文化大学教授)
ユダヤ思想にとっての聖書理解の重要性は、論をまたない。また、研究史上の問題としては、「ギリシア化」が長らく注目を集めてきたが、「非(脱)ギリシア化」や「再アラム化」の方も、同様に大きな問題として扱われてしかるべきだろう。一方で、ヘレニズム期エジプトのユダヤ教は、その高度に発展した寓意的解釈によって注目を集めてきたが、古代末期以降それはユダヤ教の中心地や「非ギリシア化」という状況の変化にともなって、ユダヤ教徒にはほとんど継承されなかったが、歴史の中にただ埋もれてしまうこともなかった。他方で、同時代のもう一つのユダヤ的伝統の中心地は、シリア(メソポタミア)だった。こちらは、後にラビ・ユダヤ教の中心地としてその聖書解釈も隆盛を見ることになるが、同時代のそれを特定することは困難だった。しかしながら、エジプトの聖書理解の代表の1世紀のアレクサンドリアのフィロンにおいて、ギリシア語世界を生きたユダヤ的伝統の集大成を、またシリアの聖書理解の代表の4世紀のニシビスのエフライムにおいては、5・6世紀に集大成されたアラム語圏のラビ・ユダヤ教の早期段階の姿を見ることができる。
具体的には、フィロンは無意識に哲学を始めとするギリシア的価値観を上位に置いて、その観点から下位の過去のトーラーの文言を再解釈した。エフライムはその「反ユダヤ主義」的言説にもかかわらず、無意識にアラム・ユダヤ的聖書理解を継承した。前者は2世紀以降、ギリシア語圏のキリスト教には大いに受容されたものの、ユダヤ教内での継承はされなかったため、ギリシア・ユダヤ的解釈がギリシア語圏のキリスト教によって、そっくりそのまま「冷凍保存」され、後者においては4世紀以降、同時代のユダヤ教と断絶されたため、かえって3世紀以前のユダヤ的解釈がキリスト教文書内に「冷凍保存」されたのである。ここでは、つまりギリシア語圏とアラム語圏という言語文化圏上の相違の方が、ユダヤ教とキリスト教という宗教のそれよりも大きい。ユダヤ教のフィロンは同じギリシア語圏のキリスト教と、キリスト教のエフライムはむしろ同じアラム語圏のユダヤ教の方と親和性が高いからである。特に、両者とも創世記と出エジプト記について注釈を残しため、本発表ではその貴重な同じ聖書箇所の解釈の比較を突破口として、エジプトとシリアの古代末期の2つの聖書理解の特徴を明らかにしたい。