日時: 2024年6月22日(土)
会場: 同志社大学今出川キャンパス良心館107教室(RY107)およびオンライン(Zoom)
■スケジュール
9:00 受付開始(対面会場開場およびZoom開室)
【個人研究発表】(9:10−12:30)
9:10- 9:50 研究発表① 「デリダのレヴィナス論「暴力と形而上学」の再考
:ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性を背景に」
発表者:長坂 真澄(早稲田大学国際学術院国際教養学部教授)
司会:馬場 智一(長野県立大学グローバルマネジメント学部教授)
9:50-10:30 研究発表② 「聖書~第二神殿時代までの呼称から考える「ユダヤ人」」
発表者:大澤 耕史(中京大学教養教育研究院講師)
司会:津田 謙治(京都大学大学院文学研究科教授)
10:30-11:10 研究発表③ 「初期フロムにおけるユダヤ教についての思索―『ユダヤ教の律法』を中心に」
発表者:五反田 純(京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程)
司会:佐藤 貴史(北海学園大学人文学部英米文化学科教授)
11:10-11:50 研究発表④ 「ブーバーとベングリオンによる「理想的な地」の理解―聖書注解を中心に―」
発表者:平岡 光太郎(同志社大学神学部嘱託講師)
司会:小野 文生(同志社大学グローバル地域文化学部教授)
11:50−12:30 研究発表⑤ 「エリヤ・レヴィータからゼバスティアン・ミュンスターへの書簡(1531年)」
の和訳及びその背景と考察
発表者:御堂 大嗣(無所属)
司会:手島 勲矢(無所属)
【シンポジウム】(13:30−17:15)
「シャガールとイディッシュ文化」
13:30-13:50 導入 吉野 斉志(関西大学非常勤講師)
「聖書とユダヤを描いた画家シャガール」
13:50-14:30 発題① 圀府寺 司(大阪大学名誉教授)
「ユダヤ人」近代画家としてのシャガールの特異性
14:40-15:20 発題② 樋上 千寿(NPO法人イディッシュ文化振興協会)
「アンスキーの『ディブック』と、シャガールの「ユダヤ劇場壁画」」
15:20-16:00 発題③ 細見 和之(京都大学大学院人間・環境学研究科教授)
「シュテットルにおけるハシディズム
―マルティン・ブーバー『ラビ・ナフマンの物語』から―」
16:15-17:15 質疑応答
【総会】(17:30−18:00)
【懇親会】(18:30−20:30)
■要旨集録
【個人研究発表】
研究発表① 「デリダのレヴィナス論「暴力と形而上学」の再考
:ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性を背景に」
長坂 真澄(早稲田大学国際学術院国際教養学部教授)
デリダは「暴力と形而上学」において、レヴィナスによるハイデガー存在論の批判に対し、むしろ、ハイデガーの「存在についての思惟」とレヴィナスの「無限性についての思惟」との「近接性」を語る。そのために彼が参照に挙げるのが、ジルソンのスコトゥス研究である。本発表は、デリダがごく凝縮した形で足早に素描しているこの議論を、ジルソンおよびブルノワのスコトゥス論を経由することにより解きほぐし、明確化することを試みる。
ジルソンによれば、アリストテレス、トマス・アクィナスにおける存在の類比とドゥンス・スコトゥスにおける存在の一義性は、両者において「存在」が意味するところが異なることが考慮されるならば、両立可能である。ジルソンのこの議論を提示することでデリダが示唆していると考えられるのは、レヴィナスとハイデガーの思想の両立可能性である。レヴィナスが、存在者の存在了解に対して存在者との出会いが先行すると主張するとき、そこでは存在はあくまで他者である存在者との関係が考えられている。よってここでは、存在者としては何ものでもない〈無〉として存在を捉えるハイデガーと、存在という語の適用の仕方が異なるにすぎないと考えられるのである。
さらにデリダによれば、ハイデガーの「存在についての思惟」とレヴィナスの「無限性についての思惟」は、ともに存在論的差異を思考することを可能にする。存在も無限性も規定不可能性として、存在者的規定に先行するものと考えられうるのである。一方で、存在はいかなる存在者的規定からも独立のものであるという意味において、規定不可能なものである。他方で無限性は、存在者が持つ存在者的規定とも見なされうるが、規定可能な存在者の閉域に包含されないものとも見なされうる。現代のスコトゥス研究を牽引するブルノワによれば、存在と神という二つの異なる無規定性の区別は、ガンのアンリとスコトゥスが展開する議論の中で明確化され、存在の一義性の確立に寄与している。
本発表はこれらの研究を手がかりに、レヴィナスのハイデガー批判に対するデリダの応答の一側面を明確化することを試みる。
研究発表② 「聖書~第二神殿時代までの呼称から考える「ユダヤ人」」
大澤 耕史(中京大学教養教育研究院講師)
古来より様々な観点で問われ続けてきた「ユダヤ人」とは誰かという問いに対しては、国家としてのイスラエル建国後に制定された帰還法がその答えの一つと言えるだろう。しかしその帰還法の定義、「ユダヤ人の母に生まれたかユダヤ教に改宗した者で、他の宗教に所属していない者」(1970年改訂)を、2000年以上の長い歴史とほぼ全世界と言っても過言ではないほどの地域的広がりを持つユダヤ人のすべてに当てはめることができないのは明らかであり、結局のところすべての時代・地域において適用できる「ユダヤ人」の定義は存在しない。
そこで本報告では、どのような人々が「ユダヤ人」と見なされてきたのかという点に着目し、彼らの呼称からこの問題を考えてみたい。どのような人々が「ユダヤ人」であるかという本質(そのようなものが存在するならば)に迫るのではなく、非「ユダヤ人」との関係性の中で両者の線引きをどのように行ってきたのかという視点である。その議論の立脚点として手始めに、ヘブライ語聖書と聖書の外典偽典を対象に、「ユダヤ人」およびそれに近い集団を指す呼称(例えば、「ユダ:יהודי/yehudi/」、「ヘブライ:עברי/‘ibri/」、「イスラエル:ישראל/yisra’el/」、「民:עם/‘am/」など)を抽出し、それらのより正確な意味や相互の差異、さらにはそれらの意味や用法の変遷を明らかにしていきたい。自称/他称や尊称/蔑称の違いなどというように、先行研究が示している点も多いが、改めて原文にあたって分析を進めることでそれらの研究を批判的に検討する機会ともしたい。ヘブライ語聖書とその外典偽典のみで第二神殿時代の伝承を網羅できるとは到底言えないが、必要に応じて新約聖書やヨセフス、フィロンの著作等に記されている「ユダヤ人」の描写も援用しつつ、「ユダヤ人」の持つ多層性の一端でも明らかにできれば幸いである。
研究発表③「初期フロムにおけるユダヤ教についての思索 ― 『ユダヤ教の律法』を中心に」
五反田 純(京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程)
本発表は、エーリッヒ・フロム(Erich Fromm, 1900-1980)の学位論文『ユダヤ教の律法(Das Jüdische Gesetz)』(1922)を中心に、後年のフロムの思索とどのように連関するかという観点から、初期フロムの思索を読み解くものである。
フロムは元々敬虔なユダヤ教徒であったが、1926年、仏教との出会いによりユダヤ教を棄教する。だがフロムは仏教徒にはならず、またユダヤ教への関心を捨てることもなく、徐々に「人類(と)の一体性」を目的とした、神秘主義的特徴を帯びたヒューマニスティックな宗教観を構築していく。フロムの思想全体を貫く神的存在との一体性あるいは一体化への思索の萌芽は、すでに『ユダヤ教の律法』という最初の著作から窺える。
『ユダヤ教の律法』は、神についての観想的態度が、カライ派、改革派、ハシド派にどの程度浸透していたかを、律法に対する宗派ごとの関わり方から分析するものである。
ラビ・ユダヤ教における律法の基本性格は、神を知るための「道(Weg, Halacha)」であり、律法には神と民族、民族と個人の相互関係を仲介する役割がある。律法を介し、自らを神や民族と結ぶ人間の観想的態度を、フロムは「能動的な世界聖化(tätige Weltheiligung)」と呼ぶ。これは、一切の物質的な創造活動の禁止・中断を規定する、安息日や祈りの律法に基づいている。
ラビ・ユダヤ教が律法を思弁的に解するのに対し、ハシディズムは民族に対する律法の拘束力を肯定しつつ、喜びという宗教感情を重視し、その内に神を見出す。フロムは、そうした観想は単に個人の経験ではなく、共同体の経験であったことを強調した上で、ハシディズムを「共同体の神秘主義(Mystik der Gemeinschaft)」として規定し、根源的なユダヤ文化として重要視する。
創造活動の中断に基づく能動的な世界聖化は、神的存在との一体化の条件や、プロテスタンティズム批判の前提として、棄教後のフロムの思索にも暗黙の裡に息づいている。共同体の神秘主義もまた、後年のヒューマニスティックな精神分析の議論に影響を残したと見ることができる。
研究発表④「ブーバーとベングリオンによる「理想的な地」の理解 ―聖書注解を中心に―」
平岡 光太郎(同志社大学神学部嘱託講師)
本発表では、20世紀にユダヤ人を牽引した二人の人物を扱う。一人は、マルティン・ブーバー(Martin Buber,1878–1965)であり、彼はユダヤ文化の振興、ユダヤ・ルネサンスを表明した代表的人物の1人であった。もう1人の人物はダヴィド・ベングリオン(David Ben-Gurion,1886–1973)である。彼は社会主義シオニストの代表的な人物であり、イスラエル建国以前からユダヤ人の政治活動に深くかかわり、建国後に初代首相となった。2人はそれぞれシオニストを自負していたが、政治的な問題においてたびたび衝突した。この衝突は、両者のあいだにユダヤ・ナショナリズム理解における根本的な違いがあるために起こった。
二人のナショナリズム理解が衝突した実例もあった。イスラエル建国から9年が過ぎた1957年に、ブーバーとベングリオンはダヴァル紙上にて、それぞれの聖書注解に基づいて、メシアニズムについて論争した。この論争における、二人の理解の違いは、メシアニズムの思想における国家の位置づけである。ベングリオンにおいては、メシアニズムの枠組みの中で国家が重要な役割を果たすのに対し、ブーバーのメシアニズム理解において国家は重要性をもたない。聖書理解における、二人の衝突は非常に厳しいものではあるものの、聖書自体の重要視とメシアニズムの保持という共通の意識をもっていたということができる。
上記の論争に先立って、ブーバーとベングリオンはそれぞれの聖書注解の中で、「理想的な地」とその地でのイスラエルの民の在り様をめぐって、それぞれが議論している。本発表では、両者が聖書を用いて、どのように「理想的な地」に関して言及しているかを確認し、その内容を比較検討する。
研究発表⑤「エリヤ・レヴィータからゼバスティアン・ミュンスターへの書簡(1531年)」の
和訳及びその背景と考察
御堂 大嗣(無所属)
エリヤ・レヴィータ(אליהו בן אשר הלוי אשכנזי、Elia Levita; 1469-1549)は16世紀のドイツ系ユダヤ人文法家である。ダヴィド・キムヒのヘブライ語文法書の解説に始まり、自身のヘブライ語文法書、アラム語辞書、コンコルダンス、マソラー本文の解説、アクセント記号の解説、ユダヤ文学のためのヘブライ語語彙集などを執筆した。これらの著作はユダヤ教界キリスト教界の双方から評価され、ヨーロッパ各国で再版を重ねた。
レヴィータがキリスト教界に知られたのは弟子の一人であるゼバスティアン・ミュンスター(Sebastain Münster; 1488-1552)による所が大きい。地図学者としても知られるミュンスターはバーゼル大学のヘブライ語教授になる以前にレヴィータの著作に出会っており、感銘を受け主要な著作のほとんどをラテン語に翻訳した。ミュンスター自身もアラム語文法などを執筆しており、クリスチャンとして初めてヘブライ語聖書全編を出版した。
ミュンスターはレヴィータから受け取ったヘブライ語の書簡の一つをヘブライ語学習者への便宜を図って、キムヒのアモス書注解と共に"Epistola Eliae Levitae ad Sebastianum Munsterum, eruditione non vacans"のタイトルで出版している(1531年)。この書簡ではレヴィータがミュンスターからのヘブライ語に関する疑問に答えており、またミュンスターの翻訳の出版に関して相談をしている。二人の関係性や当時の状況を垣間見ることのできる貴重な史料である。
レヴィータの著作は全て未邦訳であり、その業績に対して本邦での注目度が低いと言わざるを得ない。掲題の書簡もドイツ語とフランス語に翻訳がなされているものの、邦訳は管見の及ぶ限り存在しない。本発表ではこの短い書簡の和訳を提示し、書簡の背景を明らかにしつつ浮かび上がる問題について論じたい。
【シンポジウム】 「シャガールとイディッシュ文化」
導入 吉野 斉志(シンポジウム企画担当/関西大学非常勤講師)
マルク・シャガール(1887-1985)は20世紀でもっとも有名なユダヤ人画家の一人であり、大衆的にも高い人気がある。聖書に由来する主題や東欧ユダヤ人の伝統文化を描いたその作品は、しばしば聖書やユダヤに関する書籍の挿画にも使われてきた。
しかし、シャガール作品のユダヤ文化的背景は、よく知られているとは言えない。実際、ロシアのヴィテブスク(現ベラルーシ)でイディッシュ語を母語とするユダヤ人の家庭に生まれてロシア語で公教育を受け、ユダヤの伝統に反して画家となり、フランスで活躍した彼のアイデンティティ自体が、一筋縄ではいかないものである。ましてや、これらの言語と東欧ユダヤ文化までも踏まえて作品を解釈できる研究者が少なかったのも、無理からぬことと言えるだろう。
とはいえそんな中でも、シャガールの作品がイディッシュ語の諺やミドラッシュを踏まえていることを指摘したAmichai-Maisels の研究は、一般向けの美術書などでも断片的ながら引用されており、2003年には Benjamin Harshav によるシャガールの著述・書簡(多くは原文イディッシュ語)の英訳および解説が刊行されている。日本でも2011年に圀府寺司編『ああ、誰がシャガールを理解したでしょうか?』が出版されたのは、大きな一歩であった。
本シンポジウムでは3名の研究者を招いて、シャガールの作品理解を進める予定である。まずは近年の研究によって明らかになってきたシャガール作品の背景と欧米の美術界におけるシャガール像の形成について圀府寺司氏(大阪大学名誉教授)が、ついでクレズマー音楽とシャガール作品の関係について、樋上千寿氏(NPO法人イディッシュ文化振興協会)が論じる。最後にシャガール作品そのものからは離れて、マルティン・ブーバーの『ラビ・ナフマンの物語』に見られるシュテットルとハシディズムの描写を細見和之氏(京都大学)が論じる。
発題①「「ユダヤ人」近代画家としてのシャガールの特異性」
圀府寺 司(大阪大学名誉教授)
モーセの第二戒に従う限り、ユダヤ教徒にとって画家になるという職業選択は基本的になかった。しかし、スペイン美術史を代表するベラスケスが改宗ユダヤ人の家系に繋がることがわかってきたように、改宗ユダヤ人にはその選択の可能性があり、特に啓蒙主義時代以降、伝統的ユダヤ教社会に距離を置くことのできた人々の中からは画家、彫刻家になる人々が現れてきた。その出自も、芸術家としての生き方もきわめて多様だが、彼らの多くは、ほぼ完全に居住国に同化するか、ユダヤ人社会と繋がりながら生計を立てるか、あるいは、国際人(世界市民)としての表現スタイルをもった芸術家を目指すか、いずれかの選択肢を取ることになる。
その中にあってマルク・シャガールは稀有な芸術家である。居住国に完全に同化できるほどの言語能力は持ち合わせず、それでもキリスト教・資本主義社会で人気画家として名声を獲得しながら、社会主義国ソ連のユダヤ人社会(故郷と残してきた家族)への想いも断ち切れず、西欧のモダン・アーティストのようなスタイルで描きながら、ユダヤ的、イディッシュ文化的な図像も描く、いわば二枚舌、三枚舌を使いながら複合的な「二つの世界」の狭間を生き延びた画家であった。近年、ユダヤ文化、イディッシュ文化に精通した研究者による研究と資料出版により、シャガールの二枚舌的表現や「処世術」、欧米の美術界における「ユダヤ性」への検閲、一般的「シャガール像」形成の実態などが明らかになってきた。
イディッシュ語の諺やユダヤ思想との関連が指摘されている作品群、ナチ占領下における作品の改変、ソ連にいる家族への配慮による自制、アメリカ美術界における「シャガール像」形成などについて研究成果を紹介するとともに、未解明の図像や今後の研究の課題についても述べる。
発題②「アンスキーの『ディブック』と、シャガールの「ユダヤ劇場壁画」」
樋上 千寿(NPO法人イディッシュ文化振興協会)
S.アンスキーはウクライナのシュテットル調査で得た豊かな民間伝承を近代ユダヤ人の精神的なアイデンティティたる近代ユダヤ芸術創作の源と考え、古来ユダヤ民族の創造の源とされてきた「トーラー」になぞらえて、それを「第二のトーラー」と呼んだ。アンスキーの戯曲『ディブック』は、その「第二のトーラー」を創作の源とした近代ユダヤ芸術の先駆的成果の一つとなった。
1915年『ディブック』を完成させたアンスキーは、その上演を真っ先にシャガールに持ち掛ける。シャガールはヴィテブスクのシュテットルに生まれ育ちながら隣接するロシア正教会の文化にも馴染み、さらにパリ留学を通じて非ユダヤ世界の住人ともなっていた。シュテットル文化の揺りかごで育ったアンスキーとシャガールは、前者は一時的な棄教と思想的遍歴を経てシュテットルへと回帰し、後者はハスカラの影響下で近代芸術の世界へと跳躍しながらもイディッシュ文化を主な芸術的源泉としたという違いはあるものの、ともにユダヤ/非ユダヤの 「二つの世界」を生き、独自の創作で近代ユダヤ芸術の創出に貢献しようとした。
1920年末、グラノフスキーが立ち上げたモスクワの国立ユダヤ室内劇場の壁画制作を要請されたシャガールは、グラノフスキー、エフロスらと近代ユダヤ演劇の創出を目指す。イディッシュ演劇の革新と芸術への昇華を謳うマニフェストとしての《ユダヤ劇場への誘い》に向き合うように設置された、四つの芸術を表現した《文学》《演劇》《舞踏》《音楽》と《婚礼の宴》は、シュテットル文化を象徴する伝統的な結婚式の場面を描くと同時にシャガール自身は上演出来なかった『ディブック』の主題を反映させてもいる。壁画に描かれた、結婚式の各場面で演奏されたと同定されるクレズマー音楽の楽曲を手掛かりに、シャガールが創作の源としたシュテットルの伝統文化と創作の関係性を解析する。
発題③ 「シュテットルにおけるハシディズム
―マルティン・ブーバー『ラビ・ナフマンの物語』から―」
細見 和之(京都大学大学院人間・環境学研究科教授)
画家シャガールの仕事において、東ヨーロッパにおいてユダヤ人が多数暮していた町、シュテットルの光景を映し出したものが大事な位置を占めていることは言うまでもない。とはいえ、現実のシュテットルは消え失せてしまった。彼がシュテトルのひとつヴィテブスク(現在、ベラルーシ領ヴィーツェブスク)で過ごしていたのがもう百数十年まえということもあるが、なによりもホロコーストをつうじて東ヨーロッパのユダヤ人コミュニティがことごとく解体されてしまったことが大きい。
マルティン・ブーバーはホロコーストのただなかの時期に長篇小説『ゴグとマゴグ』を執筆した。それによって彼は、ナポレオン戦争前後の時代のシュテットルにおける、ハシディズムに浸透された東ヨーロッパのユダヤ人の精神世界を復元することを試みた。そのとき彼にとってその世界は、ハシディズムそれ自体の衰退と、ホロコーストをつうじて、二重の意味で失われつつあるものだった。『ラビ・ナフマンの物語』(1906)はそのブーバーが世に問うた最初の著作である。
ブーバーはシオニストとしての活動ののち、ハシディズムの伝統の掘り起こしに向かい、『ラビ・ナフマンの物語』を著わした。ハシディズムのなかで絶大な人気を誇ったラビ・ナフマンがイディッシュ語で語っていた物語のうち弟子が書き留めていた13の物語がヘブライ語訳とともに残されていた。『ラビ・ナフマンの物語』はそのうち6篇を、ブーバーがドイツ語で「語り直しNacherzählen」をした物語を中心に編んだものである。「ユダヤ神秘主義」という解説、「ブラツラフのラビ・ナフマン」というナフマンの生涯の簡単な説明などもブーバーによって添えられている。
今回は、この著作からいくつかの物語を紹介することで、シャガールの画業の背景にあったシュテットルの風景、それを満たしていたハシディズムの精神の一端にふれてみたい。