京都ユダヤ思想学会 第14回学術大会 誰が「ユダヤ人」とされてきたか ―自意識と他者のまなざしから―

日時: 2021619日(土) 会場: オンライン(Zoom

大会プログラム

 

9:10 Zoom受付開始


【個人研究発表】 (9:2012:00

9:20-10:00   研究発表「過去とその痕跡―ベルクソンにおける「過去の保存」論の現代的射程―」

           発表者:吉野 斉志(京都芸術大学非常勤講師

           司会:長坂 真澄(早稲田大学国際教養学部准教授


 10:00-10:40   研究発表コーヘン 『理性の宗教』 における「創造」と「相関関係」について

           発表者:秀島 真琴(上智大学大学院博士後期課程)

           司会:馬場 智一(長野県立大学グローバルマネジメント学部准教授) 


 10:40-11:20   研究発表③ 「レオ・ベックにおける他宗教批判

                    ―プロテスタンティズムへの批判を中心にして―」

           発表者:勝村 弘也(神戸松蔭女子学院大学名誉教授

           司会:石川 立(同志社大学大学院神学研究科教授)


 11:20-12:00   研究発表④ 「ユダ=イスラエル内外の指標としての「レファイム」」

           発表者:新井 雅貴(同志社大学神学研究科博士後期課程)

           司会:竹内 裕(熊本大学大学院人文社会科学研究科教授)


 12:00-13:00    休憩


【シンポジウム】 13001700

誰が「ユダヤ人」とされてきたか ―自意識と他者のまなざしから―」

 

 13:00-13:30  趣旨説明と議論の導入 大澤 耕史(中京大学教養教育研究院助教)

          「ヘブライ語聖書~第二神殿時代における「ユダヤ人」」

                    

 13:30-14:10  発題① 津田 謙治(京都大学大学院文学研究科准教授)

          「二、三世紀の教父文献に見られる「ユダヤ人」像:同一の神と相違する信仰」


 14:10-14:50  発題② 櫻井 丈(帝京科学大学教育人間科学部講師)

          「「新生児」としての改宗者:バビロニア・タルムードにみる

          民族的出自擬制としてのラビ・ユダヤ教改宗法規再考」


 14:50-15:30  発題③ 山城 貢司(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員)

          「諸種属・異邦人・セクト主義者:古代ユダヤ教におけるminim概念の再考に向けて」


 15:30-15:40  休憩


 15:40-17:00
  全体の質疑応答

 

【総会】 17:30-18:30


■要旨集録

【個人研究発表】

「過去とその痕跡 ―ベルクソンにおける「過去の保存」論の現代的射程―」

   吉野 斉志(京都芸術大学非常勤研究員)

アンリ・ベルクソンは、「過去は存在することをやめたわけではなく」、「自動的に保存される」と主張した。しかも、彼は第二の主著『物質と記憶』でこのテーゼを提示するにあたって、記憶に関する同時代の病理学的研究を数多く参照した上で、記憶とは脳内に局在化される物質的痕跡ではなく、過去そのものであると結論している。他方で彼の議論はそうした実証研究とその帰結のみに留まらないものを含んでおり、ベルクソンにとって科学の成果がどれほど重要だったのかを含めて、この論については多くの研究がなされてきた。

本発表ではベルクソンの言葉の忠実な再現と解釈からは少し離れて、ベルクソンに対する厳しい批判者の一人でもあったバートランド・ラッセルの「世界五分前創造仮説」を参照しつつ、現代的見地からベルクソンの過去保存説の射程を考えてみることにしたい。というのも、ラッセルもやはり記憶の分析をしながら、ベルクソンとは対照的に、「世界五分前創造仮説」によって「現在思い出される記憶」と「過去そのもの」の分離を徹底した、と見なすことができるからである。

しかし「世界五分前創造仮説」は、本当に過去そのものの排除に成功したのだろうか。この思考実験は必ずしも成功しておらず、その失敗こそが、過去の問題を認めざるを得ないこと、現在にある過去の痕跡と過去そのものとの密接な結びつきを証しているのではないか。

実証科学の立場からすれば、現在存在する物質的な「痕跡」を扱い、そこから過去を推測するしかない。しかし、そのような過去の「痕跡」へのアプローチは、その痕跡と密接に結びついたものとして、つねに過去そのものの存在を前提している。そしてまた、過去が現在の内に刻まれて残存するという考え方は、「時間の空間化」を批判したベルクソンの考えに沿って、空間的な線とは別の形で時間を考える仕方についても、大きな示唆を与えるであろう。

 

コーヘン 『理性の宗教』 における「創造」と「相関関係」について

             秀島 真琴(上智大学大学院博士後期課程)

ヘルマン・コーヘン(1842-1918)は、ドイツのユダヤ人哲学者であり、新カント学派の代表的な人物である。彼はカント哲学の体系の発展を自身の課題とし 、その生涯の研究生活に渡ってカントの哲学を継承したうえで自らの哲学体系をつくり出した後、晩年には自身が信仰していたユダヤ教に立ち返ってこれを研究するに至った。この彼の最晩年の著作が『ユダヤ教の源泉からの理性の宗教(RELIGION DER VERNUNFT AUS DEN QUELLEN DES JUDENTUMS)』(1919)(以下、『理性の宗教』)である。

筆者は『理性の宗教』における「相関関係」概念を明らかにすべく研究に取り組んでいるが、この「相関関係」概念は、新カント学派としてのコーヘンが彼の初期カント研究、そしてそれを踏まえた上で打ち立てた自身の理論に基づくものであると考えられる。なぜならば、コーヘンが『理性の宗教』において強調した概念の数々、分離・統一・保存・生産等、そして筆者がコーヘン哲学において最も重要な概念であると考えている「相関関係」は、コーヘンの初期の著作より、すでに重きを置かれていた概念であるからだ。

『理性の宗教』を読むうえで特に注目すべき点は、「相関関係」という言葉が示される箇所である。『理性の宗教』では、創世記になぞらえたかたちで「唯一の神」と、「神と世界」「神と人」「人と人」の関係性について順に記されている。しかし、このそれぞれの関係性のうち、「相関関係」として第一に示されているのは「神と人」との関係の箇所である。つまり「相関関係」は、「神」と「人」において特に際立った関係性なのだ。

そこで今回はまず、(Ⅰ)『理性の宗教』における「創造」と「啓示」の章について考察し、「相関関係」概念の本質を明らかにしたい。次に、(Ⅱ)「神と人」との相関関係を、新カント学派としてのコーヘン、つまりコーヘンの前期カント研究に照らし合わせることによって、コーヘン前期から晩年にかけての「相関関係」概念の一貫性の可能性を提示することを目指す。

 

「レオ・ベックにおける他宗教批判 ―プロテスタンティズムへの批判を中心にして―」

    勝村 弘也(神戸松蔭女子学院大学名誉教授

 ベックは1922年に『ユダヤ教の本質』第二版を出版したが、同じ年に「ロマン的宗教」と題する論文も発表している(この論文は後にAus Drei Jahrtausendenに収録)。いずれも、ハルナックに代表される当時のドイツ・プロテスタンティズムを真正面から批判している点に変わりがないが、前者では、仏教などの他宗教や中世のカトリシズムなども視野に入れているのに対して、後者ではもっぱらルター派のパウロ主義に焦点が当てられている。ベックは、諸宗教を「古典的宗教」と「ロマン的宗教」に大別し、ユダヤ教を前者の代表とするのに対してキリスト教、特にプロテスタンティズムを「ロマン的宗教」として批判する。その際にロマン的をF・シュレーゲルに従って「感傷的な素材を幻想的な形態で扱うようなこと」の意味に解する。ドイツ・ロマン主義においては、思惟は感情の夢想に過ぎず、そこではポエジーと生の境界が消滅している。ロマン的宗教においても同じ事が当てはまる。ルター派においては、神の恩寵と奇跡(サクラメント)、「絶対依存の感情」が強調されるので、人間は神に働きかけられる単なる客体となる。これに対して倫理的一神教であるユダヤ教においては、人間が被造物であると同時に、この世界において創造的行為を行う主体である。ベックは、「ロマン的宗教」において「信仰のみ」を説くルターの立場をパウロ主義として把握し、信仰体験、文化と歴史、サクラメント、制度的教会、倫理など様々な角度から批判している。倫理に関しては、カルヴィニズムとバプティストを「旧約的」として評価する。プロテスタント教会の信条主義が、万人祭司の立場とは裏腹に神学者の宗教になっていることは『ユダヤ教の本質』でも批判される。なお1922年は、K・バルトが自由主義神学と決別し「ローマ書講解」を出版した年でもあって、そこに一定の平行関係が見られることは興味深い。

 

ユダ=イスラエル内外の指標としての「レファイム」」

  新井 雅貴(同志社大学神学研究科博士後期課程)

ヘブライ語聖書はヤハウェ神のみを崇拝することを主旨としており、死者儀礼に対して批判的な態度を示している。だが、ヘブライ語聖書は死後の存在自体を否定しているわけではなく、本研究で扱う「レファイム(רפאים)」は、冥界(שאול)に存在すると考えられる死者を指す語である。本研究は、死者が生者を保護する力をもつと考えられていた古代中近東世界に対して、ヘブライ語聖書語がどのような態度をとったのか、という観点から、死者「レファイム」の位置付けを明らかにするとともに、この語と同音異義であると考えられている、集団の名称としての「レファイム」との関連について考察することを目的とする。

 死者を指すレファイムの描写には、1)ヤハウェと対立関係にあること、2)ユダ=イスラエルの敵であること、3)崇拝対象として死者儀礼と関連すること、4)ヤハウェによって無力とされること、の4つの特徴がみとめられる。

 ユダ=イスラエルにとっての敵の死者というレファイムの定義(2)は、レファイムに対する儀礼が無意味であることを裏付けるものであるが、儀礼対象となりうる存在である点(3)と、ヤハウェによって無力にされるという点(4)は、どちらも、本来はレファイムが力をもつという前提に立つものであり、またそれをヘブライ語聖書が認めていたことを意味するものである。しかしながら、それは、ユダ=イスラエルの敵がヤハウェによって倒される(1=2)という思想と結び付くことで、力をもつレファイムを無力にするほどのヤハウェの絶対的な力を主張する根拠として用いられているといえる。

 集団名としてのレファイムは領地の獲得に関する記述の中で言及されるが、これらは死者を指す用法と同様、イスラエルに敵対する集団に対して冠せられている。

 この分析の結果、レファイムの用法のうちには、ユダ=イスラエルに属するかどうかという判断基準のもとで用いられたと考えられる。

 

【シンポジウム】 「誰が「ユダヤ人」とされてきたか ―自意識と他者のまなざしから―」

大澤 耕史《シンポジウム企画担当/司会》

本学会は名称に「ユダヤ」を掲げ、思想のみならず様々な「ユダヤ的」なものを対象とした研究を推進してきました。しかしこれまでに、学会として正面から「ユダヤ」とは何かという問いを発したことはなかったように思います。もちろん、このある意味で大きすぎる問いに対しては、古来より様々な立場や角度から無数の答えが出されてきました。それらを簡単にさらうだけでも大変な作業であり、半日のシンポジウムで終わるほどの量でもありません。そこで本シンポジウムでは、それ以降の時代の議論の立脚点になるような、古代世界に焦点を絞り分析を進めていこうと思います。その中でも「ユダヤ人」自身の定義や意識のみならず、他者から見た自分たちと「ユダヤ人」との境界およびその周縁部にも着目し、導入的な発表に続いて津田謙治氏、櫻井丈氏、山城貢司氏にそれぞれのご専門の見地からご発表をいただきます。

  

 趣旨説明と議論の導入 「ヘブライ語聖書~第二神殿時代における「ユダヤ人」」

大澤 耕史(中京大学教養教育研究院助教)

 本シンポジウムの導入として、ヘブライ語聖書から第二神殿時代までの「ユダヤ人」描写を抽出して分析を行う。現在のような、居住地に因らない集団を指す「ユダヤ人(יהודי)」という名称が比較的新しいもので、ヘブライ語聖書の時代から広く用いられていたわけではないという点はそれなりに知られていると思われる。そこで本報告ではまず、ヘブライ語聖書から「ユダヤ人」のみならず「ヘブライ人(עברי)」や「イスラエル(ישראל)」といった名称を抽出し、それらの意味の違いやそれぞれの使用法などを考察する。続いて、聖書の外典偽典や第二神殿時代のユダヤ人著作家たちの作品内で「ユダヤ人」がどう定義・表記されているかを概観し、ヘブライ語聖書における用法との違いや変遷を分析する。それらの作業によって、現代のユダヤ人について考える際にも参考となるような、「ユダヤ人」理解のための土台を築きたい。

 

 発題① 「二、三世紀の教父文献に見られる「ユダヤ人」像:同一の神と相違する信仰」

津田 謙治(京都大学大学院文学研究科准教授)

この発表では、ユスティノス『ユダヤ人トリュフォンとの対話』やテルトゥリアヌス『ユダヤ人反駁』などを含む、二世紀半ばから三世紀前半にかけて著された複数の教父文献における、聖書、律法、そして救済者などに関わる議論を手掛かりとして、教父たちの描き出す「ユダヤ人」像を分析する。正典化された文書を未だもたないキリスト教徒が、独自の信仰と教理を確立しようと模索するにあたって、近接領域において共同体をもつ「ユダヤ人」とどのように対峙し、彼らとの相違点をどのように明確化しようと試みたかに焦点を当てたい。


 発題② 「新生児」としての改宗者:

      バビロニア・タルムードにみる民族的出自擬制としてのラビ・ユダヤ教改宗法規再考」

櫻井 丈(帝京科学大学教育人間科学部講師)

本発表では、第一に、バビロニア・タルムードにおいて体系化された「改宗者は新生児として見なされる」(גר שנתגייר כקטן שנולד דמי)という法概念についての考察に焦点を当て、ラビ・ユダヤ教における改宗法規(גיור)とは「異邦人」の民族的出自を「ユダヤ人」のそれへと擬制する法的装置であることを実証する。第二に、同タルムードにおける改宗に関わる法的議論から、ラビ・ユダヤ教が想起するユダヤ民族のアイデンティティの構造とその特徴を露わにすることによって、同民族共同体の民族性を規定する境界線は歴史的、社会的情勢の変化の要請によって常に変化し、又再構築されることを明らかにする。こうした一連の考察から古代後期におけるラビ・ユダヤ教の規定するユダヤ民族性とは流動的且つ可変的な文化的構築物であることを提起したい。


発題③ 「諸種属・異邦人・セクト主義者:古代ユダヤ教におけるminim概念の再考に向けて」

山城 貢司(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員)

セクト主義者を意味する一連のヘブライ語語彙の中でも、minimは一種独特の響きを帯びている。ヘブライ語聖書中の使用例からも明らかなように、minの原義は「種・属」であり、したがって同語の複数形であるminimをあえて直訳すると「諸種属」となるだろう。では、セクト主義者を指示する隠語としてのminimの用法は一体いつどのようにして始まったのか?その淵源は何か?そしてそれはいかなる歴史的=神学的背景を前提としているのか?本発表は、minimの意味論的分析を通じて、これらの問いに答えようとする試みである


■大会参加にあたって

 今年の大会はオンライン(Zoom)で開催されるため、参加方法等は例年と異なります。

参加方法

2021年度学術大会(オンライン開催)への参加を希望される方は、2021年度学術大会・参加登録フォームから登録をお願いいたします。登録フォームの受付締め切りは617日(木)の1200です。会員・非会員共通


 ご参加いただくために必要なオンライン会議のURL等の情報は、ご登録いただいたメールアドレスにお知らせいたします。618日(金)1700までにメールが届いていない場合は、事務局までご連絡ください。


【注意点】
学術大会にご参加いただくには、会員・非会員を問わず、事前登録が必要です。

*当日はオンライン会議システムZoomを使用いたします。Zoomのアカウントをお持ちでない方もご参加いただけます。

後日メールでお知らせするオンライン会議のURL等の情報を、SNS等で公開するなど、第三者に広く通知する行為は厳にお控えください。大会運営を円滑におこなうために、ご理解とご協力をお願いいたします。


大会参加費

 今大会はオンラインで開催されるため、大会参加費は不要です。お志がございましたら、学会への寄付として、任意の金額を以下の学会口座にお振り込みください。

 振込先:・京都銀行      三条(サンジョウ)支店 普通預金4156447

            名義 キョウトユダヤシソウガッカイ

     ・ゆうちょ銀行 振替口座00990-3-304201

            名義 京都ユダヤ思想学会

2020年度春季研究会

2021/01/20 0:04 に ユダヤ京都 が投稿   [ 2021/05/31 18:10 に更新しました ]

 *日程2021328日(日曜日)

 *会場:オンライン(Zoom

 *構成:講演会/ヘブライ語聖書講読会

    13:00  開始

   13:00  講演会        講師 合田正人(本学会会長・明治大学教授)

      演題 「現代倫理学の諸潮流とユダヤ性

                     -ピーター・シンガー、マイケル・ウォルツァーを中心に」

                  (講演60分、質疑応答30分)

14:45  聖書講読  講師 勝村弘也(神戸松蔭女子学院大学名誉教授)

                     聖書箇所 申命記27

16:15  終了

菅総理大臣による日本学術会議会員任命拒否に関する京都ユダヤ思想学会による声明

2020/11/21 1:15 に ユダヤ京都 が投稿   [ 2020/11/22 6:12 に更新しました ]

【声明発表にいたる経緯】

日本学術会議が推薦した第25期会員候補者105名のうち、6名が菅総理大臣によって任命を拒否されたとの報道は、日本国内および国外の学問を愛するすべての人々によって驚きと深い失望をもって受け取られました。殊に任命を拒否された6名のうちに、本学会の中心メンバーの一人である芦名定道氏(京都大学教授、キリスト教学専攻)が、含まれていたことには、驚きと怒りを禁じることができません。芦名氏は、現代を代表するキリスト教神学者の一人であるP・ティリッヒの研究者として著名であるばかりではなく、アイザック・ニュートンなどの近現代の科学思想に関する研究や東アジアのキリスト教に関する研究が示すように、広範囲におよぶ研究領域をもつ優れた宗教研究者であります。本学会においても長く学会誌編集委員長として後進の学徒に対する指導的な立場にあった会員であります。今回、芦名氏が日本学術会議会員への道を閉ざされたことはまったく不可解であり、菅政権による法を逸脱する行為であることはもちろん、学問の自由をも脅かす行為であると考えざるを得ません。このような事態は、本学会として看過できない事態であると考え、以下の声明を発表することにいたします。

 

【菅総理大臣に対する要望】

 以下の事項を強く要望いたします。

一 日本学術会議が推薦した105名のうち、芦名定道教授を含む6名の任命を拒否された根拠を明らかにしてください。マスコミの報道によれば、総理はこの件に関する説明を数回にわたって抽象的なことばで語り、しかもその発言内容には論理的矛盾が含まれております。また、この間の国会審議における発言によっても、6名の任命を拒否された根拠が明らかにされたとは到底言えません。誰にも理解可能な明確なことばでその根拠を明らかにしてくださるよう要求します。

一 貴殿が任命を拒否された6名をただちに任命されるよう要求いたします。

一 今回の総理の行為は、日本国憲法において保証されている、学問の自由を脅かすものであると考えます。今後、どのような形であれ学問の自由を脅かすことのないように要求いたします。

【今回の事態に対する見解】

自然科学、人文・社会科学を問わず、およそ学問は自由闊達な議論によって発展してきました。同時代の人々には、著しく常識から逸脱しているとみなされたような学説も、数世紀の後には正しい認識であるとされた例は枚挙にいとまがありません。このような意味で、人類の歴史を回顧しますと、時の政治権力や宗教的権威が学問的な議論に干渉した時には、学問は誤った方向に捻じ曲げられました。これは17世紀のガリレオ裁判や19世紀の進化論論争が示している通りであります。

ユダヤ思想の歩みを俯瞰しますと、古代以来現在に至るまで、時代を代表するような思想家たちは、時の政治的権力や宗教的権威から一定の距離を置き、独自の思想的な営みを行うことによって、人類の平和と倫理的向上に寄与してきたことが分かります。ユダヤ思想の巨匠たちは、時の権力者の保護のもとに、自由な思想的営みを享受することもありましたが、多くの場合、迫害に耐えながら歩んできた歴史をもっています。

古代においては、ラビ・アキバは、ローマ皇帝ハドリアヌスの禁令に反してトーラー(律法)の研究と遵守を続けたために、投獄され殉死しました。17世紀に高邁な倫理に関する「エチカ」を著したスピノザは、ほかならぬユダヤ教徒の同胞によって破門されました。20世紀においても「我と汝」の哲学で有名なマルティン・ブーバーは、ナチス政権下にあってゲシュタポによる迫害を逃れるために、ドイツから退去せざるをえませんでした。この頃、ドイツのユダヤ教の指導者であった思想家レオ・ベックは、ナチスによってその膨大な著作を没収破棄され、オーストリアの強制収容所に幽閉されましたが、餓死を免れ、戦後は宗教間対話のために尽力しました。このようにユダヤ思想は、絶えまない権力との軋轢の中で生み出されてきたがゆえに、学問の自由を何よりも大切にしてきたと言えるでしょう。

今、ユダヤ思想を研究しているわたしたちもまた、政治的権力や宗教的権威による干渉に対しては、研ぎ澄まされた感性をもって対処していかなければならないと考えます。「京都ユダヤ思想学会」は、小規模な学会ではありますが、発足当初から、学問を愛するすべての人々に開かれた学会として、権威主義を排し、自由闊達な議論を何よりも大切にしてきました。このような意味で、今回の菅政権による日本学術会議の人事への介入は、著しく法を逸脱する恣意的な行為であるばかりではなく、学問の自由に対する政治権力による暴挙と断定せざるをえません。ここに声明文を発表し、本学会としての意志を示すことにいたしました。

令和2年11月16日

京都ユダヤ思想学会運営委員会一同

会長 合田正人(明治大学教授)

京都ユダヤ思想学会 第13回学術大会

2013/01/11 19:42 に ユダヤ京都 が投稿   [ 2020/08/07 7:48 に更新しました ]

京都ユダヤ思想学会 第13回学術大会

「中世ユダヤ教聖書解釈の諸相 キリスト教世界とその周辺

日時: 2020913日(日)

会場: オンライン(Zoom

参加方法:  会員:2020年87日に送付した参加案内メールをご確認ください。

            非会員:事務局までご連絡ください。


大会プログラム 

9:15 Zoom受付開始

【個人研究発表】 (9301130

9:3010:10   研究発表① 「上海無国籍避難民指定居住区の運営実態―實吉敏郎海軍大佐の未発表文書をもとに―」

          発表者:菅野 賢治(東京理科大学教授)       司会:平岡 光太郎(同志社大学嘱託講師)

10:1010:50  研究発表② 「パトナムとベルクソンの時間論 ―相対性理論をめぐって―」

          発表者:吉野 斉志(京都大学非常勤研究員)     司会:渡名喜 庸哲(立教大学准教授.) 

10:5011:30  研究発表③ 「ラヴ・アブラハム・イツハク・ハ=コーヘン・クック研究における『八文集』(שמונה קבצים)の意義について」

     発表者:福山 弘泰(京都ユダヤ思想学会会員)     司会:後藤 正英(佐賀大学准教授)

11301300   休憩

【シンポジウム】 「中世ユダヤ教聖書解釈の諸相:キリスト教世界とその周辺」 (13001700 司会:大澤耕史(中京大学助教)

13001530  提題   

 志田雅宏(東京大学講師)「聖書解釈の広がりと深み ——中世キリスト教文化との対話のなかで——           

              勝又直也(京都大学准教授)「ピユートにおける聖書解釈」

              加藤哲平(日本学術振興会特別研究員)「迷える者たちの翻訳者 ——中世ユダヤ教聖書解釈におけるヒエロニュムス——

              手島勲矢(関西大学非常勤講師)「マソラー再評価をめぐる1617世紀の聖書理解の新展開」

              李美奈(東京大学大学院博士課程) 「宗教改革とヴェネツィアのユダヤ人 ——レオネ・モデナの聖書解釈——

15:40-17:00   質疑応答

【総会】 17:10-17:50

 

■要旨集録

【個人研究発表】

「上海無国籍避難民指定居住区の運営実態 ―實吉敏郎海軍大佐の未発表文書をもとに―」

菅野 賢治(東京理科大学教授)

19424月から19436月まで、上海・海軍武官府特別調査部長の座にあって、現地のユダヤ居留民対策の陣頭指揮をとった實吉敏郎・海軍大佐の日誌と書簡が、3年前、子孫のもとで発見された。過去2度の学術大会では、この未発表文書にもとづき、あるフィクショナルな記述から発して一部の書き手たちのあいだで史実として受容されてきた「日本軍主導のユダヤ絶滅計画」というエピソードの信憑性を疑義に付し、19432月、事実上ユダヤ難民専用の管理機構として構想された「上海無国籍避難民指定居住区」(いわゆる「上海ゲットー」)の実際の設置過程を解明することに努めた。これに続き、本発表では、19432月以降、實吉大佐と、「無国籍避難民処理事務所」所員(のちに所長)久保田勤による同居住区の運営実態を、国内外の先行研究(国外では、なかんずくDavid Kranzler、国内では関根真保のそれ)との摺り合わせのなかで検証する。この作業をつうじ、当初、現地のユダヤ居留民たちからナチスの差し金による絶滅計画への予備段階ではないか、とも疑われ、恐れられた指定居住区の機構が、実のところ、ドイツからの教唆、指示、介入などとはまったく無縁のところで発せられたものであることが、再々度、確認されるだろう。むしろ中心的議論は、194211日、ヒトラーにより国籍の無効を宣言されたドイツならびにドイツ占領地区(オーストリア、チェコ、ポーランドなど)出身のユダヤ難民たちの処遇をめぐり、海軍武官府特別調査部、大東亜省、領事館、陸軍ならびに憲兵隊といった複数の部署間にくすぶり続けた意見の対立を、實吉大佐とその二人の部下、久保田勤、関屋正彦の実際の対応のなかからあぶり出す作業に絞られてくるであろう。


パトナムとベルクソンの時間論 ―相対性理論をめぐって―

吉野 斉志(京都大学非常勤研究員)

アメリカの哲学者ヒラリー・パトナムは論文「時間と物理幾何学」で、特殊相対性理論から決定論が導かれると論じた。同様の論から、物理学は「永遠主義」と呼ばれる時間観を支持すると見なされることも多い。この主張に反論する論者の場合も含めて、この議論は現代の分析哲学での時間論に大きな影響を与え続けているように思われる。

しかしパトナムの議論を検討すると、そこには「現在瞬間説」とも言うべき前提が存在するのが見いだせる。彼は時空間の中の数学的点のような瞬間と、「市井の人」の考える「現在」を当然のように同一視している。そして現代の議論も、この前提を疑問視していないものは珍しくない。

パトナムに半世紀近く先立って、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンも著書『持続と同時性』で相対性理論を論じていた。ただし、初期著作からベルクソンが主張してきた時間論は、「時間と物理幾何学」のパトナムとは大きく前提を異にするものである。ベルクソンにとって、数学的点のような「瞬間」という考えはすでに、時間本来の性格を大きく損なう「時間の空間化」に基づいて成立している。そうした瞬間として「現在」を考えるなら、そのような「現在」は「これほど存在しないものはない」のである。この立場からすれば、空間的な線として表現される時間軸の上に「現在」を位置付けようとする企てはそもそも見当違いなものとなろう。

本発表では物理学者による論を含めた最近の論争も参照して、このような時間に関する根本的な捉え方の差異を考慮した時にその論争に何がもたらされるかを示したいと思う。ベルクソン的観点を参照する時、この問題に関して分析哲学で展開されてきた論争の少なからずはそもそも不要であるか、少なくとも異なる形を取りうると思われるのである。


「ラヴ・アブラハム・イツハク・ハ=コーヘン・クック研究における『八文集』(שמונה קבצים)の意義について」

       福山 弘泰(京都ユダヤ思想学会会員

  本発表は、日本の近現代ユダヤ思想研究で手薄なラヴ・クックについて研究するにあたり、研究の前提となる彼の著作物の底本をめぐる問題点を確認することを目的とする。

海外ではラヴ・クックの思想研究の蓄積があり、一部には彼の著作は多面的な人格を反映しており、彼の人格を狭く捉え特定のレッテル貼りをすることに警鐘を鳴らしているものがあるが、大半は「ラヴ・クック=宗教ナショナリスト」として描かれている。

ある先行研究では、現在流通しているラヴ・クックの文献は、息子ツヴィや弟子が編集し、文章の加除、意味転換、時制の変化、他の語による置換など、個々の文章の構造にまで手を加えたものであることが判明している。また、ラヴ・クックの死後、彼の「著作」が出現し始めたことにも注意すべしとする研究もある。つまり、彼の著述が既存の出版物で改変されているとする。とりわけ息子ツヴィは熱狂的な宗教シオニストであり、ツヴィが父の著作の編集にあたりナショナリスティックな側面を高めたと指摘する研究もある。加えてラヴ・クックの著作は、彼の弟子が創設したMossad ha-Rav Kookが出版したものが一般に流通している点も重要である。他方、1999年にツヴィらの手が加わっていない著作集『八文集』が、故ラヴ・エリヤフ・シュロモ・ラアナンの家族により出版され、海外では近年『八文集』を底本とした研究や、底本をめぐる文献学的研究が盛んになりつつある。

以上のように、ラヴ・クックの著作を研究する際、そもそも何を底本とするかという問いを避けては通れない。発表者は、安易にMossad ha-Rav Kook版に拠らず、『八文集』と比較・対照する意識が必要であると考える。さもなければ、「ラヴ・クック=宗教シオニスト」という言説の再生産に終始し、彼の多面的な人物像に迫ることができない。

こうした問題意識に立ち、ラヴ・クックの人物像と底本の観点から先行研究を整理する。そしてツヴィらによる編集の事例を紹介し、日本では手つかずである『八文集』の重要性を指摘したい。


【シンポジウム】 「中世ユダヤ教聖書解釈の諸相:キリスト教世界とその周辺

 今年のシンポジウムでは、キリスト教世界の文化と対峙する中世ユダヤ教におけるさまざまな聖書解釈の営みに注目し、五名の登壇者による提題をおこない、みなさまとともに議論を進めていきたいと考えております。聖書学習や宗教論争、典礼詩やユダヤ教思想など、その聖書解釈の機会は多岐にわたり、そのつど聖書の言葉はユダヤ教世界に新たな息吹をもたらしてきました。シンポジウムでは大澤耕史会員による司会のもと、手島勲矢会員、加藤哲平会員、志田に加えて、勝又直也氏(京都大学)と李美奈氏(東京大学大学院)をお招きし、それぞれの専門分野から五つの提題をおこないます。その後、参加者のみなさまとの全体討議によって論点を明らかにし、彩り豊かなユダヤ教聖書解釈の諸相をともに描いていきたいと思っております。ご参加をお待ちしております。                                   

(シンポジウム企画担当:志田雅宏)

 

「聖書解釈の広がりと深み:中世キリスト教文化との対話のなかで」

志田雅宏(東京大学講師)

 本報告では、中世キリスト教世界におけるユダヤ人のさまざまな聖書解釈の営みを取り上げる。ユダヤ人とキリスト教徒は、ときに聖書の正しい意味をめぐってキリスト教徒たちと論争をおこない、ときに聖書の「ヘブライ的真理」(Hebraica Veritas)を求める知的探究のなかでともに聖書テクストを学んだ。また、聖書に描かれた族長たちの物語や預言は、ユダヤ人にとって、ときにキリスト教世界の起源や運命についてほのめかすものであり、ときに彼ら自身が体験した迫害や暴力を乗り越えていくための慰めを与えるものでもあった。また、キリスト教世界のユダヤ知識人や思想家たちは、聖書テクストの深みへと潜っていき、カバラーや哲学の思索を存分に展開した。そうした思想は、聖書の言葉に新たな光を当てるだけでなく、ユダヤ教の日常的な宗教実践のひとつひとつに生き生きとした風を吹き込むものでもあった。

 本報告の目的は、キリスト教世界のユダヤ教聖書解釈というテーマの導入として、全体の枠組みとなるものを提供することである。キリスト教徒たちの社会において、ユダヤ人は「共生と対抗」という生のあり方を自分たちに課した。ラビ・ユダヤ教の教典タルムードにはしばしば強烈な反キリスト教的言説がみられるが、中世のユダヤ人法学者たちはそれを同時代の現実に合わせて解釈しなおし、共生の道を切り拓いた。その一方で、民衆による暴動や宗教論争に巻き込まれたときには、ユダヤ人はキリスト教文化への対抗によって、自分たちのアイデンティティと生命を守らなければならなかった。この「共生と対抗」という生のなかで、聖書を読むという営みもまた、きわめて大きな意義を持ったのである。

 報告では、中世キリスト教世界のさまざまなユダヤ人学者・思想家たち——ラシやヤコブ・ベン・ルーベン、ナフマニデス、ハスダイ・クレスカスらとなるであろう——のテクストを手がかりに、彼らの聖書解釈の営みにみられるキリスト教文化との対話の作法を明らかにしていきたい。

 

「ピユートにおける聖書解釈」

勝又直也(京都大学准教授)

ピユートとは、安息日や祭日におけるシナゴーグでの礼拝の際に詠まれるヘブライ語の典礼詩であり、古代末期から中世にかけて、中東やヨーロッパのユダヤ共同体において、パイタンと呼ばれる典礼詩人らによって盛んに創作されてきた文学ジャンルである。イェシヴァーでのタルムードの学びを中心とするラビ・ユダヤ教の伝統では、シナゴーグにやってくる大衆に向けて詠われたピユートは、必ずしも権威のある文学ジャンルとはみなされていなかった(ピユート、パイタンという言葉自体が、ポイエテースというギリシャ語からの借用語であることから、ラビの側からの蔑称である可能性もある)。しかし、19世紀末のカイロ・ゲニザ文書の発見からもわかるように、当時のユダヤ共同体においては、いわゆるラビ文献の範疇にとどまらない、柔軟で活発な創作活動が数多く行われており、ピユートはその重要な構成要素であったのだ。

 ピユートは、アミダーやクリヤット・シェマといった、ユダヤ教における義務の祈りの枠組みの中で謡われることから、扱わなければならない内容があらかじめ決められている。例えば、クリヤット・シェマの祈りの中で謡われたヨツェルというジャンルの詩の第二ピユートでは、天使について言及しなければならない。それと同時に、パイタンは、そのピユートが詠われる日の特殊性も詩の中に入れようとした。それは他でもない、毎週の安息日や祭日において朗読されるトーラー(モーセ五書)やハフタラー(預言書など)の箇所である。古代末期のパレスチナでは、トーラーをセデルと呼ばれる部分に細かく分け、3年半ほどで読み終えたが、後にはバビロニアの伝統が支配的になり、トーラーをパラシャーと呼ばれるより大きな部分に分け、一年間で読み終えた。例えば、アミダーの祈りの中で謡われたクドゥシュタというジャンルの詩においては、第一ピユートと第二ピユートでその週のパラシャーが、第三ピユートでその週のハフタラーが引用されている。

 このように、ピユートとは、1)祈りの枠組みで要求される内容と、2)トーラーやハフタラー朗読の内容とを大胆に融合させる試みであり、一般のユダヤ人に向けて毎週提供された、新鮮で大衆的な(時に娯楽としての)聖書解釈という側面がある。さらに、時代や場所に応じて、3)ビザンツ、イスラーム、キリスト教といったマジョリティ文化の影響も垣間見ることもできる。本報告では、ゲニザ写本の解読に基づいたテキストを具体例として用いながら、1)~3)のダイナミックな関係性について紹介したい。

 

「迷える者たちの翻訳者 ——中世ユダヤ教聖書解釈におけるヒエロニュムス——」

加藤哲平(日本学術振興会特別研究員(京都大学))

中世のユダヤ教聖書解釈者たちがキリスト教徒と宗教論争をするに際し、切り崩すべき牙城は「ウルガータ聖書」に他ならなかった。ウルガータ聖書とは、古代末期のラテン教父ヒエロニュムスによる翻訳を基礎として成立したキリスト教会のラテン語訳聖書のことである。アドリア海近くで生まれ、長じてはローマに遊んだヒエロニュムスは、回心体験を経て東方諸国を遍歴したあと、遂にはベツレヘムで聖書研究に挺身し、膨大な聖書注解書をものす傍ら、古ラテン語訳福音書の改訂とヘブライ語原典に基づく旧約聖書の翻訳を完成させた。ヒエロニュムスの死後、「普及版(ウルガータ・エディツィオ)」と呼ばれるようになったこの翻訳聖書は、中世を通じてキリスト教会の聖典として大きな権威を持つようになった。こうした権威に基づき、中世のキリスト教徒たちは聖書に関してユダヤ教徒と論争する場合、このラテン語訳聖書の記述をしばしば引き合いに出した。これに対しユダヤ側は、その翻訳を吟味して誤りを指摘することで、論争相手に対するこの上なく強力な反論材料を見出そうとしたのだった。本発表では、ウルガータ聖書やヒエロニュムスに言及している中世のユダヤ教聖書解釈者たちを取り上げ、彼の翻訳や解釈をどのように論争に利用したかを検証する。具体的には、ラシュバム、アブラハム・イブン・エズラ、ダヴィッド・キムヒ、ナフマニデス、著者未詳の『セフェル・ニツァホン・ヤシャン』、ヨセフ・アルボ、イツハク・アバルバネル、エリアス・レヴィタ、アザリヤ・デイ・ロッシ、トロキのイツハク・ベン・アブラハムらの著作を扱う。彼らは、一方では、ヒエロニュムスをキリスト教の代表者、すなわち「迷える者たちの翻訳者」と呼んで蔑み、その翻訳や解釈の誤りを取り上げて激しく攻撃した。しかし他方では、彼のユダヤ教聖書解釈への造詣の深さを称えつつ、彼をあたかもユダヤ教の代表者であるかのように見なすことで、むしろその主張に耳を貸そうとしない他のキリスト者たちを批判することもあった。発表の中では、フィロンやアウグスティヌスなど、ヒエロニュムス以外のギリシア・ラテン世界の聖書研究に関する釈義家たちの言及についても紹介したい。

 

「マソラー再評価をめぐる1617世紀の聖書理解の新展開」

手島勲矢(関西大学非常勤講師)

16世紀にはフマニスムスと宗教改革の二つの精神の顔がある。その二つの知的な潮流が17世紀に向けて一つの大きな流れ、とりわけ聖書解釈の意識変化となって、ルターの「聖書のみ」のスローガンを生み、それまでの社会や文化の価値観を根底から覆すことになるのだが、その世界観の変化は、キリスト教会内だけに限定されるものではなく、ユダヤ教社会にも影響が及んでいて、事実、『メオール・エイナイム』(1573年)の著者アザリア・デ・ロッシは教会の聖書(七十人訳)についてヘブライ語で同胞たちにも紹介するーその事実にユダヤ教徒とキリスト教徒の距離の近さは確認される。

このような16世紀の聖書解釈の意識変化を後押ししたものの一つが、ダニエル・ボンベルグによるユダヤ・ヘブライ書籍の出版事業である。そのヴェネチアでなされた出版事業は、まさにフマニスムスと宗教改革の精神を両方合わせたような事業であり、とりわけヤコブ・ベン・ハイムのラビ聖書(1525年)は、マソラーの伝統の厚みを広くヨーロッパのキリスト教徒に知らしめる一方で、ユダヤ人読者も数字の章立てなど教会の聖書伝統をはじめて意識させられることになる。またエリヤ・レヴィータのヘブライ語文法及びマソラー入門書『マソレット・ハマソレット』(1538年)は、キリスト教徒が関心を持つユダヤ教の母音記号とアクセント記号のモーセ起源に対する考察も行っていて、それは、ある意味、ヘブライ語で書かれた初めてのマソラー批判の萌芽といえる。その後、アザリア・デ・ロッシは、そのレヴィータの見解に対して、ラビの聖書解釈とは一致しないマソラーのアクセント伝統の側面に注目して、歴史的な思考の反論を試みている。

なぜこのようなマソラー批判がこの時期にユダヤ教側に生まれたのかの説明として、エリヤ・レヴィータ、アザリア・デ・ロッシ、またヤコブ・ベン・ハイム、いずれもユダヤ教徒とキリスト教徒の両方に共有されるべき、歴史知見を土台にした新しい聖書理解を模索していた点は注目に値する。三人が始めた歴史としてのマソラーの理解は、ある意味で、それまでのユダヤの解釈伝統への挑戦でもあって、したがって、それぞれの文脈の中で同胞からの厳しい批判にもさらされる。このような16世紀のユダヤ学者の聖書理解は、それ以前の理解と比べて何か違うのか?新しい印刷時代の聖書解釈のニューノーマルの輪郭を考えてみたい。


「宗教改革とヴェネツィアのユダヤ人——レオネ・モデナの聖書解釈——」

李美奈(東京大学大学院博士課程)

 近世イタリアでは、宗教改革の波が押し寄せるなかで、伝統的なキリスト教の権威が激しく揺さぶられた。それと同時に、キリスト教徒の学者たちのあいだでユダヤ教への関心が高まり、ヘブライ語やヘブライ語聖書テクスト、ユダヤ教思想を学ぶヘブライストたちが現れた。彼らはユダヤ教のなかに、同時代のキリスト教から失われてしまった本来の教えが守られていると考えたのである。そして、こうしたキリスト教世界の変化は、同時代のイタリアにおけるユダヤ教の聖書解釈にも影響をおよぼした。本報告では、その重要な事例として、17世紀のヴェネツィアのラビ、レオネ・モデナによるキリスト教反駁書『盾と剣』(Magen ve-Herev)を取り上げてみたい。本作品において、モデナはキリスト教の諸教義の誤りを指摘すべく聖書解釈を展開するが、その方法は、ユダヤ教の伝統を引き継ぎつつも、同時代のキリスト教世界の知的関心を反映したものであった。

 モデナは主に、聖書を理性的に読むことを主張する。この場合の理性は科学的な思考というよりももっと素朴なもので、一般人にも想像が可能なことである。比喩的な解釈や難解な哲学的思考を通さずに理解できなければ信仰に誤りが生じるとする彼の主張は、聖職者を通した聖書理解ではなく直接一般信者が聖書を読み理解することを目指した宗教改革者たちの信念に通じるものがある。他方で、カバラーを通してキリスト教の真理を発見しようとするクリスチャン・ヘブライストらに反して、モデナ自身は神秘的な解釈も否定し、あくまで字義的な読み方にこだわる。カバラー支持者はゲマトリアなどを利用して聖書の本文からは隠れた「本来的な」解釈を引き出そうと試みたが、モデナの目には、その方法はラビ・ユダヤ教の伝統を脅かす危険性を孕むものと映ったからである。

 さらにモデナは、原罪や三位一体に反論する際に、パオロ・サルピやピエトロ・ガラティノらキリスト教神学者による論争を根拠として引用する。モデナは、ユダヤ教から本来の教えを引き出そうとするヘブライストらの動きに同調し、自ら積極的に関わっているように思われる。ただし、クリスチャン・ヘブライストが、ユダヤ教をキリスト教の原型として位置づけ、キリスト教の「本来の」姿をそこに見出そうとするのに対して、モデナはその「ユダヤ教的な」原型とその後のキリスト教のあいだの乖離を強調する。モデナはイエスの奇跡や言行を否定せず、むしろ福音書を熱心なユダヤ教指導者の記録と捉え、その記述がキリスト教教義と離れていることを示す。

 モデナがキリスト教への反論として聖書を読むとき、彼の念頭に置かれていたのは、同時代のキリスト教世界の改革者たちのユダヤ教観であった。改革者たちは、教会批判と結びつくかたちで、ユダヤ教をキリスト教の源泉として再評価し、二つの宗教を接近させることを試みた。モデナは彼らの知的関心に影響を受けつつも、むしろそこからキリスト教への批判を展開し、聖書解釈を通じて、ユダヤ教とキリスト教の間に新たな境界線を引く作業を行なったと言えよう。 

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