西郷隆盛ほど日本人のこころをありのままに体現した人物は、他にいないと思われます。
だから私たちが西郷の生きざまとその言葉に遭遇するとき、それらは私たちに愛と生きる力を与えてくれます。
西郷の言葉を綴った南洲翁遺訓を観ると、その思想の普遍性とともに、同じく普遍的と思われる聖書との共通性も見い出され、人類の普遍性は全世界的に一つなのだと気づかされます。
そしてその普遍性は私たち一人一人の潜在意識にも潜みます。この普遍性がまっすぐに現象化したものこそ、縄文日本人のこころに見いだされる、愛と和の精神ではないでしょうか。
本編はそこに迫りたいと考えますが、さて、この試みは成功するか、失敗するか、いや、じつはそんなことはどうでもよくて、西郷どんに言わせれば、
「これは天の道なのであるから、そこには上手も下手もなく、我が身のことも二の次である。天の道である以上、できないということはない。ただひたすら道を行うのみ」(南洲翁遺訓の二十九)ということになります。
奄美大島の西郷が暮らした家
西郷は私たちに愛と生きる力を与えてくれる大きな存在であるにもかかわらず、
西南戦争の勝者である大久保や伊藤らの明治政府によって「西郷は征韓論を主導した侵略主義者で、新時代の青写真を持たない時代遅れの軍人だ」というレッテルを貼られました。
このレッテルは、70年後の太平洋戦争の敗戦後、日本人のこころを形骸化しようとするアメリカ・GHQによって再度西郷に貼り付けられます。
その結果、さらに70年後の現在に至るも、日本人は、西郷に貼られたレッテルと、おのずと懐かしく感じる日本人西郷どんの実像とのあいだで、西郷に対する思いが揺れ動いているのです。
そこで、本項では、まずこの嘘っぱちのレッテルを剥がしておきたいと思います。
朝に主君の恩恵を受けたと思えば、夕方には、生き埋めにされる。
人生の浮き沈みというものは、天地の昼と夜の有り様に似ている。
しかし、ひまわりは、日が射さずとも、変わることなくいつも太陽の方角を向いている。
もし、自分の運が開けなくても、ひまわりのように忠義の心を持ち続けたい。
京都の勤王の同志たちはみな、国難に殉じている。
それなのに、私だけが南の小島で囚われの身となり、生き恥を晒している。
人間の生死は天から賦与されたものであり、人智の及ぶ範囲ではないといえども、
願わくば、死しても、魂だけはこの世に留まり、忠義を貫いていきたい。
朝蒙恩遇夕焚坑
人生浮沈似晦明
縦不回光葵向日
若無開運意推誠
洛陽知己皆為鬼
南嶼俘囚独窃生
生死何疑天付与
願留魂魄護皇城
西郷は二度目の流罪になり、沖永良部島に流された。西郷は雨風を凌ぐこともできない過酷な牢で衰弱し、死にかける。
ときに西郷を尊敬する島役人の土持政照は、代官に掛け合って西郷を座敷牢に移す許可を取り、座敷牢ができるまで自宅に引き取って妻、娘とともに心から介抱に尽くした。
西郷は健康を取り戻すと、政照と義兄弟の契りを結ぶ。
本書状は西郷が政照に送った社倉の趣旨書。ふだんから社倉に蓄えておけば、飢饉が起きたときに窮民を救える。
この西郷の趣旨書の社倉は1870年(明治3年)、政照によって実現された。
西郷の言葉(南洲翁遺訓二十一)
人が行うべき道は、天から与えられた道理であって、上に天があり下に地があるように当たり前の道理である。
学問の道は「天を敬い、人を愛する」ということを目的として、身を修め、常に己に克つことに努めなければならぬ。
イエスの言葉(マタイ伝22章37‐40 )
心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして神を敬愛せよ。これが大切な第一の戒めである。
隣人を自分自身を愛するように愛せよ。これが大切な第二の戒めである。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっている。
上:1869年(明治2年)春、西郷と愛加那の息子、菊次郎に宛てた西郷の手紙(一部)
その前年(明治1年)、西郷は江戸城を無血開城し、庄内藩・仙台藩・会津藩が降伏すると、11月に薩摩に帰着した。正月をゆっくり湯治して過ごした西郷は、隠居して奄美大島に行くことを希望したが、国の情勢が許さなかった。西郷は手紙で、自身が衰弱し、永くないから存命中に菊次郎に会っておきたいと書いている。また9歳であった菊次郎の字と文章が上達したことを喜び、文房具を送っている。
下:1973年(明治6年)、愛加那に宛てた手紙(一部)
西郷は愛加那に、アメリカに留学中の菊次郎が元気であることを伝え、また愛加那のもとにいる西郷と愛加那の娘、菊子の将来の結婚について書いている。1876年(明治9年)、菊子は大山誠之助(西郷の従弟で後の元帥大山巌の弟)と婚約した。
西郷が息子の午次郎に描き与えた鎮西八郎為朝の武者絵。午次郎は1871年(明治4年)生まれ。