11 新京(長春)大同学院  

     (下)  加藤正宏

新京(長春)大同学院 (下)

加藤正宏

一、校舎敷地

二、大同学院とは

① 満洲国の官吏養成訓練所

② 大同学院成立の経緯(自治指導部訓練所を継承、自治指導 部とは)

③ 講師、学生が抱いた満洲国建国の理想と満洲国の現実

以上「新京(長春)大同学院 (上)」の目次

 

以下「新京(長春)大同学院 (下)」の目次

三、満系学生の大同学院回顧

日本で

a 明治神宮にて

b 乃木神社と乃木希典宅及び箱根と日光

c 開拓団訓練所

d 神宮と日本の皇陵

e 吉田義塾と大小楠公の墓

② 日本から満洲国の学院へ

③ 第一期訓練

④ 農村実態調査

第二期訓練

a 学科訓練

b 高松宮来院

c 忠霊塔大祭の儀式

参観旅行

a 華北政務委員会委員長王克敏に面会

b 盧溝橋及び北京名所の参観

c 華北新民学院と新民会

d 川島芳子と出会う

e 張家口の参観

f 平型関戦場

g 大同に察南自治政府を訪ねる

h 天津での出来事

劉慶和の事件

花電車について

i 蒙古の科爾沁右旗で

  第三期訓練

a 文官令頒布される

b 満蒙史をめぐり、漢人と蒙古人の対立

c ある時の曾恪教官の講義

d 学監に呼び出される

e 日本人学生の応召と朝鮮族学生

中央官庁での実習

a 映画検閲室での実習

b 警察現場での実習

⑨ 論文提出、そして卒業

四、中日で異なる「岸要五郎」像



















大同学院の位置略図

三、満系学生の大同学院回顧

 第10期生の于也華の「偽満大同学院学習生活瑣記」はA4版の『長春文史資料 1983年第2期』注①に掲載された26頁にものぼる回顧録である。

 詳細で具体的な内容である。きっと、こまめに付けていた日記が土台になっているのではなかろうか。回顧録として、于也華がこのように掲載するに当っては、当時彼が生活していた1980年代初期の中国の社会的政治的状況による制約があったこと、そのために部分的には脚色せざるを得なかったのではなかろうかとの推察ができる。例えば、満洲国を偽満と記載せざるを得なかったことなど。しかし、その土台となっている部分から、満州国の様子を十分に汲み取ることができる。なお、見出し、小見出しは回顧録の大意をまとめた筆者が付けたものである。大意をまとめるに当って、偽満などは「偽」をはずしておいた。

 第17期の尚允川、楊季清と第18期の李大可の回顧録なども入手しているが、機会を改めて紹介することにしたい。

 

    日本で

 于也華は日本の早稲田大学に留学していた。卒業直後、1938年3月29日、その彼に満洲国日本大使館が発送した書留速達が届いた。その通知は、荷物を携帯して4月1日午前9時に赤坂区軍人会館に集合せよというものであった。

 当日、会館に集合後、恒吉学監に伴われて、まず陸軍医院で身体検査し、会館に戻ってから、恒吉学監から「おまえ達は現在から大同学院第1部10期の学生になった。」と宣言され、「全て指揮に従って行動すること、勝手に外出してはならない。」と言い渡された。

 この後、背広や学生服を脱がされ、協和服に着替えさせられ、10班に編成された。于也華は第3班に編入された。班長は京都帝大卒業の青柳篤吉、于也華と王祉厚、篤多博(元来は蒙古の王族、旗長の職)以外は皆日本人であった。

 入学してから、準備されていた一ヶ月強の政治色濃厚な参観活動が進行した。

a 明治神宮にて

 先ず明治神宮に行って、中国人にとっては亡国・民族滅亡の「洗礼」を受けた。

 二日目の朝食後、中井教官が、全体に告げた、明治神宮に参拝に行って三日間そこで過ごす、歯磨き用具以外は持たずに出かけるように、と。明治神宮に着くと、于也華らは日本式大広間に入り、中井教官の命令で服を全部脱ぎ捨て、身体を洗って後、一人ひとりに白い褌、チョッキ、神官が身に着ける白い袴や着物や下駄が与えられた。

 その後、大広間に戻ってほぼ一時間静座をし、中井の命令で今度は衣服を全て脱ぎ(但し褌はそのまま)、手拭いと鉢巻き(真ん中に日の丸が入った)を与えられ、恒吉、中井教官に連れられて建物の後ろに在る井戸の周りに行き、井戸水を桶で頭や肩にかけた。乾布摩擦をした後、日の丸が入った鉢巻きを頭に巻いた。教官が言うには、これは神の水で禊であると。この後、神官服を身に着け、恒吉に引き連れられ拝殿に入り、跪いて参拝する。 

 一人ひとりに祝詞が与えられ、恒吉教官に合わせて読み上げる。大体の内容は、上は皇祖皇宗に上申し、下は万世子孫に告げて誓うというもので、宣誓は以下の如きものである。(筆者注:当時の生の日本語には訳せないので、原文をそのまま、あげておく)

 「托『大御?威』(皇威)之恩徳、官民等共同努力、已将大日本帝国建設得無比的繁栄富強、已進入世界列強之行列。官民等現在去開発満蒙、建設王道楽土、完成大東亜共栄圏之神聖大業。誓尽忠誠于今上陛下、赴湯蹈火在所不辞。誠拝求明治大帝陛下、降恩徳賜福与臣民等・・・」 

 その頃になって、于也華には日本の魂胆がいちだんと明確に分かってきた。つまるところ、「田中上奏文」を完成するために満蒙開発に出向くのである。「祝詞」はあろうことか于也華たちをもまた日本臣民の中に組み込むものであった。祈祷が終わった後、大広間に戻って静座黙思を行う。或る時、神官が幾つか日本の明治天皇の功績を話したが、それは「忠君愛国」思想を注入するものに他ならなかった。

(筆者の注:「田中上奏文」とは、昭和初期、中国を中心に流布した怪文書、田中義一総理が昭和天皇に極秘に行った上奏文、内容は満蒙を手がかりに、中国、世界征服の手順を示したものである。) 

 食事は粗食で、3日間の活動はほぼ同じであった。于也華たち中国人が最も参ったのは3時間4時間にわたる静座で、最後には教官も諦めて彼らが跪かずともよいとの許可を出している。 

b 乃木神社と乃木希典宅及び箱根と日光

 明治神宮参拝活動の次には、乃木神社参拝と乃木希典宅の参観があり、于也華は乃木について1頁にわたって様々なことを詳しく書いている。そして、最後に現地解説員の次のような「這充分顕示出大和魂和武士道的真精神。我們要向他致敬!祈願他的在天英霊永垂不朽!」を引用し、乃木の話しを終えている。満人(中国人)として、「大和魂と武士道的真精神」に違和感を抱いたのではなかろうか。 

乃木神社参拝活動後、伴われて箱根、日光を遊覧し、開拓団訓練所を参観した。

遊覧した箱根の景勝地、日光東照宮について具体的に記し、中国に比べて建物や彫刻などが貧弱だとの感想を述べている。 

c 開拓団訓練所

 参観した開拓団訓練所については、列車で上野駅から青森まで行き、そこから3、40里を自動車で入った所の拓殖省開拓団幹部訓練所だったこと、ここで、第10期の学生たち100人強の者が所長から「満蒙開発のために、本所が開拓の中心になる人物の訓練を請け負っている。1年の訓練終了後には開拓団を率いて満洲に赴き、満洲人と一徳一心をもって、共同して王道楽土を建設する。計画は10年で移民100万である。」と聞き、于也華は驚いた。 

 こんなに多くの移民が大陸へ行ったら、きっと日本が言っている日、満、鮮一体化計画を実現してしまうであろう。その時が来れば、満洲国の名称さえ取り消されてしまうのではなかろうか。同時に、于也華は彼の故郷五常県山河屯七星泡の運命、彼の家族の広大な土地が、将来はどれも皆日本人の所有になってしまうとの思いをさえ抱いた。その通り、七星泡は既に開拓区に計画され、大量の移民が準備されていた。只、彼の叔祖父の満洲国治安部大臣于深澂が抗議し、日本人は開拓区を向陽山一帯に改めたのであったが・・・。 

d 神宮と日本の皇陵

 もう一つ重要な日程は神宮と日本の皇陵を参拝することであった。日本最大の神宮は三つ、一つは伊勢神宮、二つ目は岩清水八幡宮、三つ目は加茂神社である。三種の神器、即ち八咫の鏡、八尺瓊の勾玉、天叢雲の剣、が分けて奉納されている。

 先ず規模最大の伊勢神宮に参拝し、これらの神宮神社を次々と参拝した具体的な記述と、更に皇陵の神武天皇陵、大正天皇陵の参拝をも加えて、于也華は一頁あまりも記述している。 

e 吉田義塾と大小楠公の墓

 最後に吉田義塾と大小楠公の墓を参観した。

これも具体的な参観した内容を1頁弱にわたって記載している。 

 そして、これら日本での参観活動を全て終えて、次のような感想を于也華は記している。

 「私たちは一ヶ月を費やして日本全国各地を参観訪問した。重点は皇陵、神社の参拝であった。日本の統治者の目的は所謂『満蒙開発者』の日本人学生に、忠君愛国を注入し、天皇を護る武士道精神に命をかけることを誓わせ、ついでに私たち満州国学生に、輝き渡る日本の光輝な歴史、偉大な国力を見せつけ、私たちを彼らの忠実な下僕に変えようとするものだと、当時から感じていた。どこに行っても鄭重に接待を受けた。県長市長に迎えられ、それぞれの軍管区司令官でさえ、自ら出迎え接見に当った。」と

 

長春文史資料

1983年第2期










































明治神宮:大正時代の絵葉書と1943年の白黒絵葉書

右の絵葉書は大同学院の学生ではないが・・・・。




















































































湊川神社・神戸



楠正成の墓

② 日本から満洲国の学院へ 

 次いで、日本出国から新京(長春)までの状況が語られている。 

 4月中旬に日本の門司を出航し大連に向かう。大連から旅順へ、ここで、旅順口要塞、水師営会見所を見学、以後、新京までの沿線途中の鞍山製鉄所、撫順炭鉱等の重工業基地を参観し、4月29日に新京駅に到着し、井上院長に迎えられ学院に到る。学院の設備は非常に良く、一人一つの鉄スプリングのベッドと、ロシア式毛布1枚に軍用の黄色い毛布2枚が用意されていた。 

 先ず、満洲国の国歌と校歌を毎日学んだ。国歌の歌詞の出だしは「天地内有了新満洲、新満洲是新天地」で、国務院総理鄭孝胥によって作られたものだ。後に改められた「神光開宇宙」は日本人が作ったものである。 

 康徳五年(1938)、回鑾訓民詔書記念日、5月2日に開学典礼が挙行された。国務総理張景恵、総務長官星野直樹と一部大臣、及び日本関東軍参謀長などが皆出席した。全ての学生は協和礼服を着、協和礼帽を被り礼帯を身に着けた。国歌と校歌を歌った後、井上院長が開学典礼を宣言して始まった。先ず国務総理、総務長官の訓話があり、関東軍参謀長が祝辞を述べ、そして院長の訓話があって、最後に学生代表の平田正雄と遅敬誠がそれぞれ日本語と中国語で答辞を述べた。典礼が終わった後、大ホールでパーティが行われ、来賓は全員出席した。



旅順軍港が見える



旅順駅と白玉山表忠塔







現在の長春駅

絵葉書新京(長春)駅

 ③ 第一期訓練

 開学の第一課は建国精神だった。所謂建国精神は即ち日満一徳一心、大和民族を中心として、民族協和、共存共栄を実行し、王道楽土を建設するものである。満洲国国体を講義するとき、教官は特に強調して話した。満洲国は絶対清朝の復位ではない、すなわち日本の天皇の御心によって、康徳皇帝に満洲帝国主宰させたものである。帝位は康徳皇帝の男系子孫のみが継承するもので、継承者が無ければ、天皇の御心は撤回され、新たな詔勅を発することになると。

 教官が言うには、建国精神は二つの法律根拠があるという。

 一つは国務総理鄭孝胥と関東軍司令官兼駐満全権大使武藤信義が取り交わした「日満議定書」と溥儀が第一次訪日帰国後頒布した「回鑾訓民詔書」であり、「日満議定書」の文献中に日本を「友邦」と称し、「回鑾訓民詔書」ではもう一歩進んで、日本を「盟邦」と称している。

 二つ目は溥儀の第二次訪日で天照大神を迎えて「建国神廟」を建立し、「国本奠定詔書」頒布したことにある。その中に更に一歩進めて日本を「親邦」と称している。

 このことによって、法律形式で日本と満洲国は父子関係が固定化し、日本が宗主国となり、満洲国は植民地的地位になると教官は講義した。 

 第一期訓練の重点は軍事訓練で、その中には歩兵操典に従った規定を包括し、個人訓練から、分隊、小隊、中隊の指揮訓練までと、射撃及び各種の軽重武器の取り扱いの訓練、更に実弾演習、柔道、剣道、馬術など軍人必須の訓練などがなされた。軍事教官は中村現役少佐(配属将校)で、要求は特に厳格であった。中国人学生の多くは苦しみを知らない金持ちの子弟で、中にはその苦しみに我慢できなくて中途退学した者もいた。

(筆者注:中国人学生には、金持ちというだけでなく、本人や身内の者が権勢を持っている者も多かった。例えば、于也華の身内には満州国大臣兼省長が、篤多博は本人がモンゴル旗地の旗長であった。)



































現在の吉林大学学生

入学時の軍事訓練

    農村実態調査

  第一期訓練が終わった7月初め、学生は5人が1班となって、それぞれ分かれて全満洲の農村実態調査を行った。農村に到れば特別なことは許されず、必ず農民と食住を共にし、共に労働し、農民生活を体験するようにというのが、学院長によって規定されたものであった。そこで、毎日、各人は食事代五角をそこに住む農民に支払った。そして、国務院が各県の副県長を彼らの指導班長とした。于也華の班は5人中3名が日本人で、2名が中国人であった。班長の遅敬誠は全学院唯一の中国人班長であった。遅は吉林師道高等学校卒業の優等生であり、日本語の水準はすごく高かった。

 于也華らの班が派遣されたのは吉林省伊通県伊丹村管内の100戸強の富裕な農村であった。彼らは先ず、吉林省の省都吉林市で、省長を通じて省次長に接見し、全省の状況の説明を受けた。次いで、大同学院同窓会支部による歓迎の宴会があり、県に到れば又県で県長接待の宴会があった。

 中島副県長に連れられ現地に向かう。村に入る時には、村長に引率され整列した多くの村人と貼り付けられたカラーの標語に迎えられた。于也華らの班は王という名の大きな農家に居を与えられた。食後、中島副県長はすぐに車で県に戻って行った。

 二日目、于也華らの班はすぐに調査を開始した。調査では国務院統計所から渡された沢山の表に詳細に記入しなければならなかった。一農家ごとに、耕地面積、人口、労働力、飼養家畜、鶏、家鴨、鵞鳥、犬、羊などの数、それに一年の収支損益など、非常に詳細であった。于也華らは格好をつけて、農民と一緒に何度か土地を耕した。でも、苗も掘り起こしてしまうなど、笑い話のような失敗も多く起こしてしまった。

 食事は村長が料理人に作らせ、鶏、家鴨、魚、肉がテーブルに一杯になり、更に酒もあった。于也華が村長に「我ら5人分の1日の食事代2元5角では足らないのでは?」と尋ねたところ、村長は笑って「心配しなくていいですよ。足りなければ、我々村民が分担し持ちますから」と、実は村人を食い物にしているのだ。民衆は苦しい目にあっている。

 この期間、学院は更に教官を派遣し、検査し、学生の調査方法や方式を指示した。これには中島副県長が付き添ってやって来た。

 

    第二期訓練

 この時期の学科訓練の内容と、高松宮来院と、忠霊塔大祭の儀式(この時に見られた満洲国元首と関東軍司令官兼駐満全権大使の関係)を于也華は回顧している。長い文だが、それぞれ紹介しておこう。

a 学科訓練

 第二期の訓練はあまり困難なものはなく、重点が置かれたのは学科訓練で、日本と満洲国の歴史に関する講義などであった。

 日本歴史の講義は『神皇正統記』で、これは天照大神が天下り、「八紘一宇」精神で以って、様々な妖怪を除き、「三種の神器」(鏡、剣、玉)得て、天下統一を成し遂げたことを叙述したものだった。

 最も滑稽だったことは、天照大神が昇天する時に臨んで息子の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に教え諭して「臣民を愛護せよ、男とは眠ってはいけない」と話されたことと、日本の南北朝対立と中国の歴史がほぼ似ていると講義があったことだ。 

(筆者の考え:日本と同様に、天照大神・八紘一宇・現皇室の関係を日本歴史として学んだのであろうが、于也華も正確にはこの講義を捉えられていなかったのではないかと考える。なぜなら、皇孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を天照大神の息子などと誤って理解している部分があるからだ。) 

 満洲史は力を入れて女真、匈奴、満洲など少数民族史が講義された。于也華の感想では、この中で、日本人が早くから満洲に来て満洲人の建国を助けたなどと出鱈目もいい所だと感じ、また次のように徐福の件では不満を感じている。 

 日本民族の血統に講義が及んだ時、徐福が日本に渡り帰国しなかったことは避けて話さない。わずかに、南洋から日本にやってきた民族と日本に住む倭族が混血して大和民族できたことを認めるだけであったと。 

(筆者の注:秦の始皇帝の時に、徐福が不老不死の薬を求めて三千人の童男童女を引き連れ、東方に向かったという伝説があり、未だに中国では、庶民の多くがこの伝説を信じていて、徐福が連れて行った中国人が日本に居座って、日本人になったと話す。私自身もそのように話す人物の何人かと出会って、そんなことはないと否定したのだが・・・・・。日本でも紀伊熊野や佐賀などが、徐福の渡来地だと名乗っている。) 

 特に強調されたのは漢人の強力な同化力の問題についてであり、警戒を高め、同化されないようにと日本人学生には警告が発せられていた。漢人を称してツングース民族とし、その他の統べての少数民族を称して「漢化民族」と言っていた。 

学院は時には知名人士に課外講話をお願いした。総務長官星野直樹、次長岸信介、満拓総裁鮎川義介、関東軍参謀石原莞爾などの人物がやって来て講義していった。中国人では谷次亨、孫仁軒などもやって来て講義していった。清朝時代の奉天巡撫の曾子固が講義した時は既に80歳を過ぎていた。彼は中国古典からの引用が多く、于長運教官により通訳がなされた。 

(筆者の注:谷次亨は岸信介の前任次長、孫仁軒はトップクラスの満系官僚) 

b 高松宮来院

 1938年8月のある日、授業が停止され、清掃が行われ、高松宮が大同学院視察に来られるのを迎える準備が行われた。

 翌日、朝の8時半、学生は全体が協和服の礼装を身に着け、門前に整列し、待ち受けた。建物の入り口では右に張景恵と総務長官、各部大臣など、左に関東軍参謀長及び駐満大使館花輪参事など日本軍政要人が立って待つ。彼らは皆礼服を着て、勲章や記念章を身に着けていた。

 9時ちょうどに、周りを護衛する4台の紅いバイクと共に、高松宮が溥儀専用の紅い車に乗って校門前にやってきた。井上院長が車のドア前に立って、身体を90度折り曲げおじぎをする。海軍少佐の礼服を身に着けた高松宮が車を降り、院長の先導で、関東軍司令官兼駐満全権大使、憲兵司令、警察総監、礼賓所長などを引き連れ建物に入っていた。

 学生たちは脱帽し最敬礼した。高松宮が建物に入った後、学監より学生に宿舎に戻り視察を待つようにと命令され、視察完了後、また校門まで出向き、整列してお送りした。護衛者に囲まれた高松宮は建物を出られて、黄色い土の小道を校園内に既に植えておかれた柏樹の前まで行き、井上院長が両手で捧げる紫のリボンを巻きつけた鉄鍬を受け取り、三度この樹の根元に土をかけた。記念植樹の儀式はこれで完成した。樹の周囲には柵が設けられ、一つの木牌が建てられ、そこには「高松宮殿下御手植」の文字が見られる。

 この後、院長は全校生を講堂に招集して講話し、日本の皇室の恩徳を称揚した。彼が言うには、高松宮殿下は御名代(天皇の代表)の身分で満洲を正式訪問され、大変忙しい中この学院を視察され、皇恩はとても大きく、臣民を思いやられていることは明らかである。我々はこの種の光栄と感激を実際行動に移し、満洲の王道楽土建設に努力しなければならない、天皇陛下の大御心を無にすることがないようにと。井上は激して老いの目に涙をあふれさせた。日本の学生の中の何人かは声を上げて涙を流した。

c 忠霊塔大祭の儀式

 「九・一八」以来の犠牲者いわゆる「烈士」を記念するために、日本はわざわざ関東軍司令部の西に大きな忠霊塔を建てた。毎年、「九・一八」事変の翌日、即ち9月19日に忠霊塔大祭の儀式を盛大に挙行した。

その日、学生たちは隊列を整え、学院から会場へ出かけた。会場には既に満洲と日本の海陸空軍の各部隊の官兵、各機関の職員及び大専院校学生が来ていた。午後2時きっかり108の礼砲が轟いた後、追悼曲が奏でられ、拡声器から忠霊塔大祭開始の大声が響く。

 この後を、少し原文で見ておこう。

「関東軍司令官兼駐満全権大使閣下現在臨場、全体立正。這時楽隊奏楽迎接(但因他不是皇族没奏日本国歌)。過了十分鐘、又听広播器中喊、現在関東軍司令官兼駐満全権大使閣下退場、全体立正。楽隊奏楽送他。過有五分鐘。又听喊:現在満洲帝国皇帝陛下臨場、全体立正。楽隊奏偽満洲国歌。過了十分鐘又听広播器中喊、現在満洲帝国皇帝陛下退場。没喊全体立正、僅楽隊奏偽国歌。」 

 関東軍司令官兼駐満全権大使の臨場と退場では、「全体立正(全体気をつけ)」の号令が拡声器から流れたが、皇帝陛下の退場では流れず、これに皆は驚き、あきれていた。

 関東軍司令官兼駐満全権大使が満洲国の太上皇(皇帝の父、陰の支配者)であり、駐在国の元首と同じような礼遇(世界史上で先例を開いたものであった)を受けていたけれど、だがその表向きの形式さえ踏んでいないことを明らかにしてしまった。このことで、于也華たちはとても憤慨した感情と恥ずかしい思いを抱くに到った。帰校後、学生たちの間で議論が巻き起こった。各機関団体の反応もすごく大きかった。後で伝え聞いた所では、儀式の司会者が緊張してしまって、皇帝の退場時に「全体立正」をいうのを忘れてしまったのだそうで、既に引責辞職しているとのことであった。

 児である皇帝は取るに足らないけれど、だが傀儡劇をやる限りは、見かけだけでもそれなりにしなければならないと、日本人は考えるに到ったのであろう。

 だから、それ以後、大きな式典では先ず関東軍司令官登壇させ、正座より左の少し下座に座った。その後で、溥儀が登壇し、先ず関東軍司令官とお互いに軍礼をし、正座に着いた。式典の終了時にも先ず関東軍司令官が皇帝と軍礼を交わし、先に退場した。しかし、聞く所によると、関東軍司令官が官邸を退出するときは、いつも皇帝ご自身が勤民楼の外までお送りしたという。

 建国10年年慶祝大典及び閲兵式典の時、どちらも二つの台が設けられた。正面の台は溥儀の席、溥儀の席の左の少し小さい台は関東軍司令官の席であった。その並べ方は適切である。しかし、他の外国使節が参加する会では、揉め事が起きている。国際慣例によれば、着任が早い大使或いは公使が首席に座らせるべきなのだが、でも、関東軍司令官が日本大使として出席の時は、この首席の座を関東軍司令官が無理やり占拠した。他の国家の大使が抗議しても、どうにもならなかった。

⑥    参観旅行 

 1938年10月、第2期訓練終了。ある日、恒吉学監によって、各地への参観旅行名簿が発表された。地方行政班、司法班、民族班、思想班、技術班に分けられた。各班20数名。

地方行政班に入れられた中国人は遅敬誠、王祉厚、篤多博(蒙族)、劉慶和(回族)と于也華であった。その他は日本人である。地方行政班は華北晋察冀一帯の「戦地参観旅行」であった。他の班は全国各地へ向かった。

準備の1日があり、3日目に上田教官に伴われて車で南下、寄り道もせずに北平(北京)に到る。西単付近の日本人が開設した大和旅館に宿泊。北平での2日目の朝、教官から以下の規律を守るようにと指示があった。つまり、北平は治安が良くないから、絶対に単独行動をとらないこと、参観訪問は厳粛で細心であること、満洲国の栄誉を護持することと。同時に、軍からの通知が今しがたあり、午前9時に華北政務委員会委員長王克敏に会いに出かけることになったこと、彼に対して外国の元首に謁見する態度をとるようにと告げられた。

(筆者注:華北政務委員会は1940年からで、1938年時期は中華民国臨時政府の呼称であったはずである。) 

a 華北政務委員会委員長王克敏に面会

 8時半、軍から回された大きな車が于也華らを中南海に送り込んだ。人工湖の四周は緑の樹木で、風景は秀麗であったが、敵と臨戦態勢にあるかの如く、多くの憲兵警察が林立し見張りに立っているのは、その美しさを台無しにしていた。

 車はあまり大きくない宮廷式建物(たぶん紫光閣であろう)の門前で停まった。一名の官員が于也華たちを絨毯を敷き詰めた古色蒼然とした客間に案内した。于也華たちは整列し威儀を正して恭しく接見する。この官員は日本語で于也華たちに告げた、少し待ってください、もうすぐ委員長閣下が出て来られて、あなた方に接見されると。

5分程して、中央の出入り口から灰色の洋服を着た50歳ぐらいの顔色が蒼白で、サングラスを掛けた髑髏に似かよった人物が現れた。先ほどの官員がこの人物を紹介し、王委員長閣下がお出でになったと。于也華たちは班長の号令で、90度腰を曲げての礼を行う。王は簡略に頭を少し下げて応じ、笑顔で、于也華たちの前にやって来て、一人ひとりと握手した。于也華たちにとっては本当に慣れないことだった。というのも、日本の慣例では外国賓客を除いて、一般には握手の礼節はなかったからだ。

 王克敏は于也華たちの対面に立って、「君たちの中に中国人(彼は満洲人という言葉を使わず)は居るか」と最初に問い、何人かの中国人学生が「居ます。」と答えると、更に「中国語が話せるのか」と問うてきた。于也華たちにとっては、治療で針を刺されるような辛さを感じて身震いした。これこそ途轍もない風刺だと于也華は思い、そして憤りを感じた。王のような大漢奸(中国を裏切った者)が于也華たち小漢奸を風諭する資格がどうしてあるのか。于也華は耳を貸さずいようと思っていたその時、「この人が私の最高顧問だ。」と王克敏が紹介するのを疎かに聞いた。紹介された男は洋服を着た黒いちょび髭の態度風格の非凡な人物であった。一目見て、軍服を着ていない日本の将軍だと分かった。于也華たちが彼に一般の敬礼をすると、彼は軽く頭を下げ、「皆さんを歓迎します。」と言った。これに続けて、王克敏はいくつか日本に対するおべっかの話をし、その後すぐ、于也華たちの最敬礼の中、奥の部屋に戻って行った。

 旅館に戻ってから、遅敬誠と于也華は同じ思いで以って話した、「あの野郎は本当に恥知らずだ。五十歩以って百歩笑うだと、我らを風刺しやがって。ほんとに下劣だ。」と。

 その夜、王克敏の秘書が王に代わって北京飯店に宴を設けて、于也華たち学生を招待した。

b 盧溝橋及び北京名所の参観

 その後、于也華たち学生は盧溝橋を参観した。橋の上や橋の近くの家屋にはまだ多くの弾痕残されていた。橋からあまり遠くない小山に大きな木柱が立てられていて、「白川宮殿下御戦死之地」と書いてある。于也華たち学生は並んで黙祷し敬意を示した。軍の関係者が学生に説明したのでは、この山は改名されて「一文字山」と今はいうのだそうだ。でも、改名された意味がいまひとつ解からなかった。

 続いて、故宮、天壇、北海、景山、頤和園を参観した。日本人同級生は皆驚き、大いに賛嘆した。

c 華北新民学院と新民会

 華北新民学院と新民会は日本人が満洲国の大同学院と協和会を真似て創ったものだ。于也華たち学生が新民学院の門前に着いた時、学院の学生が門の外で整列し歓迎してくれた。人数はあまり多くなく、およそ200人ばかりであった。于也華たち学生が客間に通されてすぐ、洋服を着た坊主頭の50歳ばかりの日本人が供を連れて入ってきた。上田教官が于也華たち学生に「この方が中間院長閣下である。」と紹介した。班長が気をつけと号令し、于也華たちは彼に敬礼した。中間院長が言うには「新民学院は大同学院を完全に真似て建てたもので、教学の内容、目的も大同学院と同じであり、日中親善、共存共栄の為に、また新中国と新アジアの為に、人材を培養している。現在学んでいる今期学生はもともと全部在職の官員である。卒業後、各県の県長として任ぜられる。次期学生は大学卒業生から招く予定である。」と。話の後、何人かの日本人教官を紹介したが、全て大同学院の早期の卒業生であった。正に大同学院の教官がいつも言っているそのように、大同学院が養成した人材が新満州、新中国、新アジア建設の中心力であるということは当っていた。

 華北新民会がスローガンとして広く宣伝しているところは、概ね協和会と同じである。但し、民族協和、王道楽土の建設の文字はない。この時期の日本は華北に対して、まだ満洲のあのような赤裸々な植民地とはせず、即ち、蚕食していく方法で徐々に併呑していこうとしていた。

d 川島芳子と出会う

 于也華たちが新民会を訪問し、宴会に出席した時、川島芳子を見かけた。川島芳子は清朝王族の娘で貴族金壁東の妹であり、日本人顧問川島に育てられたことにより川島芳子と改名していた。当時、彼女は華北特務機関の中核になる人であった。贅沢で淫らな生活をし、ハンサムな男の姿になり、北平に黒い靄と毒気をばら撒いていた。

 于也華が日本に留学していた時、川島芳子が東京市牛込区弁天町満洲国留学生倶楽部を視察したことがある。彼女は満洲軍少将の制服を着、黒のサングラスを掛けていた。何人かの若いハンサムな武官が付き添っていた。その頃、于也華たち仲間で「想要作官、得当小三;想要発財、必得臉白」(役人になりたければ、川島芳子の下僕になるのがいい、金儲けしたければ、大胆で臆するところがないようでなければだめだ。)という言葉が流行した。

 後に、川島芳子は満洲には行き来しなくなり、華北に移り住むようになった。

e 張家口の参観

 数日後、于也華たちは北平から張家口へ出かけた。その頃、日本はこの地を分けて治めるために、成立した華北自治委員会を除いて、更に張家口に晋北自治政府を成立させ、大同に察南自治政府を成立させ、後にはこれらを二つを合併し、蒙疆自治政府を成立させ、徳王と李守信により指導させた。

 于也華たちが参観した時には、まだ合併ができておらず、張家口は日本に属さず、華北軍が管轄し、後に関東軍の管轄に帰属した。したがって、于也華たちの参観は、軍方の盛んな接待を受け、張家口の一流のホテルが用意された。接待役よれば、蒋介石もかつて張家口に視察に来ようとしていたという。これは彼が野戦部隊を準備するためのものであったのだそうだ。

 晋北自治政府主席が于也華たちに接見したが、彼は日本人が書いた原稿を読み上げるだけで、内容は中日親善や、共存共栄など一通りの実のない話であった。

満洲事変の糸口になった

柳条湖事件跡地に建つ

九一八歴史博物館、

横倒し碑は日本の立てた碑



忠霊塔

今は取り壊されて、

何もないという



忠霊塔跡地は

中共八一軍の敷地 

そこに建つ軍の建物




溥儀の住まい・緝熙楼



溥儀を描いた絵葉書 



関東軍軍司令官官邸















































故宮


頤和園

小学試用課本 常識 史地部分


f 平型関戦場

 車で平型関付近に到ると、車窓から平型関戦場遺跡を目にした。到る所に放り捨てられてあるのは、日本軍の破れた軍服と割れたヘルメットなどである。そして、到る所に白木の柱が立ち、誰それ戦死の地と書いてある。教官は学生たちを起立脱帽させて黙祷を命じた。日本の同期生たちはあまりのショックに両眼に涙を浮かべていた。

(筆者注:于也華が回顧録を記述した時期の中国の歴史教科書を見てみると、次のように平型関戦争が記載されている。

人民教育出版社「初級中学課本 中国歴史 第四冊」1982年。

「1937年9月,日本侵略軍从河北,綏遠分路向山西?進攻,国民党軍隊象湖水一様地潰退戦局十分混乱。一支敵軍企図突破山西東北部的平型関、進攻山西省会太原。9月下旬的一个黑夜,八路軍一一五師開到了平型関,在平型関東南公路両辺的山上埋伏下来,備阻撃来犯的敵人。天蒙蒙亮,進攻平型関的敵軍来了。

 八路軍从山上冲下来,投擲手榴弾,同敵人短兵肉搏。経過一天激。殲敵一千多人。十多里長的公路上,到処是敵人死傷的人馬,激○的車両,遺棄的武器。平型関殲滅戦是中国抗戦開始后的第一次大捷。這次勝利沈重打撃了敵人,振奮了全国人心。」

 八路軍115師団が平型関の戦いで敵日本人1千人強を殲滅した。道路の到るところは死傷した人馬、壊れた車両、放棄された武器である。この戦いが抗日戦開始後の最初の勝利で、日本に十分打撃を与える一方、全中国国民の心を奮い立たせることになったという。

 文革の時期の小学校の教科書では、八路軍115師団を指揮した林彪の挿絵も入れて、次のように記述している。

遼寧省中小学教材編写組出版「常識 史地部分」1970年

「平型関殲滅戦,是中国抗戦開始后的第一次大勝利,它威震中外,粉粹了“皇軍不可戦勝”的神話,極大地鼓舞了全国人民抗戦勝利的信心。」 )

g 大同に察南自治政府を訪ねる

 張家口には参観すべき所が何もなく、二日だけ宿泊しただけで、車で大同に向かった。

 大同で、于也華が感じ取ったのは極端な貧しさと保守的で封建的な町だということであった。ほとんどの者が襤褸を纏い、埃が散在し、市内のあちこちには牌坊(忠孝貞節の人物を顕彰する祠)が見かけられ、家屋は平屋ばかりで高い家屋はなかった。

昔につながる城門楼も原型を残しており、その多くは2層式だが、その屋根には厚い草が生えていた。

 宿泊地に着くと、すぐに察南自治政府に出かけ、張主席に謁見した。于也華たちの乗った車が旧式の衙門の門前に停まると、2名の官員が出迎え、客間に案内し、1名の官員が日本語で「みなさん、少し休憩してください、主席はすぐに接見に来られます」言った。でも、約20分後に、その官員が戻ってきて告げることに「大変失礼しました。主席は歳をとられており身体も良くなく、ここにやって来ることができません。どうぞ主席の執務室前まで来ていただいて会見させていただきます。」と。

 その官員の後を着いて奥に入り執務室前に整列した。ほどなく、およそ80歳を越えたであろう痩せた老人が二人の官員に抱えられて、現れた。老人はまるで死骸のようで、頭には高位を表す帽子を被っていた。幾条かの白い髭を生やしていた。顔は蒼白で、大きな肘掛け椅子に腰掛けていても、息をゼイゼイとさせていた。彼の後部にいた日本人が前に出てきて紹介して言うには、「この方が察南自治政府の張主席閣下で、病気であるにもかかわらず皆さんに接見されるため出てこられた。特別なことであり、我が政府が貴国を尊重していることがお分かりであろう。今、主席から皆さんに話していただく。」と。

 于也華たちはいつものように敬礼した。この死骸のような人物は礼をする気力さえ見られなかった。どうにか口を開いたものの、絶えず咳をし、蚊の鳴くような小さな声で、少し話した。でも、于也華たち学生は山西弁があまり分からなかったし、彼の声があまりにも小さすぎたので、何を言っているのか全く分からなかった。通訳が前もって準備していた原稿を大声で一通り読み上げた。案の定、外ならず、中日満一家、共存共栄などであった。終わると、いつも通りに于也華たち学生は礼をした。二人の官員が死骸のようなこの人物を先ほどと同じように抱えてゆっくりゆっくり退出していった。こうして茶番劇は終わった。

 于也華たちが雲崗石窟に到った時、そこに日本の小分隊が駐留しているのを発見した。日本軍の分隊長が解説をしてくれた。雲崗石窟は北魏時代から造り始められ、200年もの時間を費やして造られたものだと、そして最後に、石窟はネパールやインドからやって来た匠たちによって造られたのだと解説した。

この解説に、でたらめな解説だとして、于也華は憤慨している。中国人としての誇りを傷つけられたのであろう。

h 天津での出来事

 于也華たちの「戦地観察旅行」の最後の都市は天津であった。大同から張家口を経て北平に戻り一泊し、翌日、天津を訪れた。下車後、日本軍の車で日本租界まで送ってもらい、日本人の開いた協和旅館に宿をとる。

 外出時は必ず3人以上で、また日本租界を絶対に出てはならないと、教官が宣布した。不慮の出来事を避けるためである。華北一帯八路軍遊撃隊が特に活躍していて、もっぱら日本の高級官吏や漢奸(中国を裏切った者)を暗殺していると、于也華たちは早くから聞いていた。そのため、すごく恐怖を感じていた。

 天津の二日目、車に乗って各国の租界を遊覧して回った。車の上に日本の国旗が取り付けられていたが、租界のインド人巡捕がいろいろと嫌がらせをやったり、軽蔑の眼差しで于也華たち学生を見ていた。本来はフランス租界の公園を観光の予定であったが、不穏な形勢を感じて、教官は運転手に日本租界に戻るよう命じた。興に乗り出かけたが、興ざめして帰ってくることになった。

劉慶和の事件

 旅館に帰ってきて、整列点呼した時、回族の青年劉慶和が居ないことが分かった。教官の話では、彼は休暇をとって旧城内の清真寺(イスラム教寺院)に参拝に出かけたとのことであった。

 しかし、夜の12時になっても帰って来なかった。教官は于也華と遅敬誠に命じた。日本憲兵と共に警察車に乗って旧城内の清真寺に捜しに行くようにと。于也華たちが清真寺に着いた時には、既に大門は閉まっていた。長いこと門を叩き続けて、ようやく門が開かれた。

 門を開いた人物は日本の憲兵を見るや、驚いて全身をわなわなと震わせ、話さえできなかった。遅敬誠が彼を慰めて「怖がらなくても良い、私たちは人を捜しに着たんだ。」と言って、「昼間、劉慶和という回族の者がここに来なかったか。」と尋ねた。

門を開いた人物はしばらく考えて、「そのような人物が来て、午後3時をだいぶ過ぎる頃までいたが、帰って行った。」という。憲兵はなおも捜査を続行しようとしたが、于也華と遅敬誠は相談し、「見たところ、彼が嘘を言っているようでもないし、捜査の必要はなく、それよりも帰ってもう一度相談してみよう。」と憲兵に話し、旅館に帰ってきた。そして、門外で見張っていたのだが、気づかぬ間に一台の三輪車が門前に停まった。

 車からパンツだけ穿いた裸の男が降りてきた。彼は寒さで震えていた。一目見て劉慶和と分かり、急いで車まで迎えに行き、彼を助けて宿舎まで連れて戻り、衣服を探して着せた。彼は一言も発せず、まるで虚けそのもの様だった。教官がやって来て教官室に連れて行き、半時間強、話をした。戻ってきた彼は頭が朦朧としていて、すぐ眠りに就いた。

教官は于也華に彼の面倒を見るように命じ、彼は精神を錯乱しているから何も質問してはならないと言う。翌日、同期生は工場見学に出かけたが、于也華は劉慶和に付き添い、旅館に残った。彼の意識が徐々にはっきりしてきた。

 于也華は劉慶和に「一体全体、何があったのだ?」と尋ねた。劉慶和は「君に言ってもいいが、絶対に秘密にしてくれ、漏れたら、君も私もえらいことになってしまう。」と前置きし、次のようなことを話した。

劉慶和は関東軍第4課から特殊な使命を受けて、今回の旅行に参加したのだという。そして、機密連絡図を預かり、各地の清真寺に行って活動を進め、将来にイスラム自治政府を建設する準備をさせられていたのだ。昨日、清真寺に行ったのはそのためだった。

 清真寺でアホン(イスラム教の聖職者)に面会して話をした後、昼食をご馳走になり、寺を後にした。寺を出て後、後方から、ちょっと待ってと言う誰かの声が聞こえ、振り返ると、二人の屈強な男が劉慶和の前に急ぎ足でやってきて、一人が手で劉慶和の口を塞ぎ、もう一人が布で目を覆った。劉慶和は二人に担がれ、一つの部屋に運ばれ、衣服を剥ぎ取られ、パンツだけになった。それから、柱に結わえ付けられた。これで、奴らが企てていたことが完了したのだと劉慶和は思った。

 こやつをこのようにしてやって、スカッとした、満足だ、と奴らの一人が言っているのが劉慶和に聞こえた。もう一人が、イスラム教仲間の顔を立てて、この回し者の一命を奪わずに残してやるのか、と言った後で、更に厳しく次のように言った。お前のやっていることは早くから俺らは掌握していた、でも中国人は中国人を殺さない、今後お前は前非を十分悔い改めて、悪を改め正義に戻れ、決して再び日本の走狗となるな、さもなければ、お前が満洲に帰っても、天の果て地の果てまで逃げても、必ずお前を捜しだしてやると。言い終わると二人は去っていった。

 少しして、一人が戻って来て、少し不当な目にあわせたが、誰かが助けに来るからと、言い置いて去った。この後、劉慶和は必死に数時間もあがいた。幸いにも縛りはあまりきつくなく、ゆっくりと少しずつ脱け出せた。腕時計は持って行かれてしまっていたので、何時か分からず、部屋の中は暗く、そこは一つの空き部屋であった。部屋を出てから路地の出口まで歩いたが、誰一人会わなかった。そして、ほんとうに長い間待って、三輪車を見つけ、なんとかあの手この手で説得し、車夫に送ってもらって帰ってきたのだ。もう自分の命を奪うようなことは二度とできないといい終わるや、泣き止まなかった。于也華は聞いていて、身の毛もよだつようであった。これは劉慶和に対する懲罰ではあるけれど、于也華にとっても深刻な戒めであった。

 次の日、劉慶和は一名の日本人教官によって護送され、直接新京に帰り、療養することになった。しかし、于也華たちの参観旅行は続けられた。

花電車について

 夕方、于也華と遅敬誠と王祉厚の3人で租界を散歩した。少し土産を買って帰ろうと考えたからだ。後方から「見る、見る」という日本語で呼びかける者が居た。于也華たちが振り返ると、帽子を斜めに被り、袖先を捲り上げたヤクザぽい男が後ろに立っていた。于也華が笑いながら「何を見るんだい」と言うと、于也華たちが中国人であることが聞いて直ぐ分かったのであろう、ぎょっとしたものの、少し離れて、お愛想笑いを浮かべながら、「花電車だよ(日本語で、男女が実際にセックスする出し物を花電車と言う)。あなたたちは本来中国人でしょう。満洲国から来たのでしょう。見ていきなさいよ、15元だ。」

 遅敬誠が日本語で私に「我々ちょっと行ってみよう、いったいどんなものなのか見てみよう。」言うので、彼について路地に入り、粗末な一間の民家に行った。一度出て行った後、彼は一組の男女を連れて入ってきた。この一組の男女は于也華たちを見るや、顔一杯に羞恥を見せ、特に女性は頭を伏せ何も言わず、顔を真っ赤にし、目には涙が滲んでいた。一見して、生活に困窮していて、このような下種な行為をせざるを得ないのだろうことが、于也華たちには分かった。

日本人の蹄鉄下に侮られ痛ましい生活を過ごさざるを得なかった中国人同胞を、眼前にして、于也華たちは心の中に限りない同情と大きな遣り切れなさを感じた。遅敬誠が「我等は見るのはやめた。でもお金は払うよ」と最初に言って、各人も頷き、10元を机の上に置き、気持ちが沈んだ状態でそこを離れた。

i 蒙古の科爾沁右旗で

 夜の点呼の時に、上田教官から「明日早朝に帰国の途に着く」と告げられた。帰国の途中、錦州で汽車に乗り換え、熱河に行って離宮を参観した後、回り道をして科爾沁右旗にいった。于也華たちの蒙古族の同期生篤多博はこの旗(蒙古の地方行政単位)の「王爺(王爵を封じられた者)」で、入学前の職務は旗長であった。篤多博の招待により、于也華たちは回り道し、赤峰、囲場を経て、科爾沁右旗に到り、篤多博の王府を訪問した。

車が王府門前に停まった時、ラマ僧たちが楽器を奏で、多くの蒙古人が地面に跪き、王爺の帰りを迎えた。

 篤多博に「我が母の王妃が皆さんにお会いしたい。」と言われ、彼に付き従って、御殿まで行き、一つの門から入った。院内は煉瓦が敷かれ、晩秋であったが、菊の盆栽があり、芳しい匂いが漂っていた。大きなゲル(蒙古の家屋)から蒙古族の伝統の衣装を着けた老婦人が、満面の笑みを浮かべながら、流暢な北京語で于也華たちに以下のように話しをされた。「皆さんをお客さんとして歓迎します。大変光栄なことです。ご招待にあたって行き届かない所があったらお許しください。」と。これを息子の篤多博が日本語に翻訳した。于也華たちは彼女に敬礼をして、遅敬誠が代表して謝辞を述べた。夜、宮廷式客間で于也華たち学生のために、篤多博が盛大な蒙古式宴会を挙行してくれた。部屋には宮殿灯篭が高く吊り下げられ、ラマ僧たちが曲を演奏した。

 翌日、ちょうどめぐり合わせよく、ラマ教の廟会であり、善男信女で人また人とで一杯になった。于也華たち学生が廟前に着いた時、蒙古人たちは合掌し、王爺篤多博に敬意を表す。廟前の舞台では芝居が行われていたが、于也華たちがやって来たことで、芝居は中止され、直ぐに歓迎曲に替わった。廟内に入ると、一名のラマ教の高僧を前面にした多くのラマ僧が迎えに出てきた。そのラマ教の高僧はとても流暢な日本語で歓迎の言葉を述べた。篤多博が彼を紹介して、「この高僧は日本人で、千里をも遠くとせず、ここに来られ経を読まれ説法されている。」と。于也華はあまりのことに驚きを禁じえなかった。日本に仏教があることは知っているが、ラマ教はない、どうして?後でじっくり考えてみると、日本の腐心した悪だくみ、「満蒙生命線」を永遠に占拠しようとの悪だくみであることが直ぐに明らかになった。ほんとうに恐ろしい!

 日本人のラマ教の高僧は、于也華たち学生に特に「歓喜佛」を参観させた。日本人の学生に新奇なものを顕示したかったからである。その後、「活佛さまがあなた方に会ってくださる。特に注意して失礼の無いように。」と彼は于也華たち学生に話して、とても清潔な小院へ案内した。部屋に入った王爺篤多博はすぐ跪き、膝歩行をして活佛の前に進み出た。部屋は小さく、入り口に立った于也華たちが目にしたのは袈裟を身に纏い、払子を手にし、両目を堅く閉じた、とても肥えた70歳余りの床に座っているラマ僧であった。言うまでもなく、彼が活佛であった。その前で、篤多博が腹ばいになって、小声でお祈りをしているのが見えるだけだった。活佛が篤多博の頭を手で三度撫ぜた。篤多博はとても感激し、膝歩行して退出してきた。活佛は于也華たちにも払子で数回お払いをしてくれた。于也華たちは敬礼した後に退出した。篤多博が言うには、一般庶民は活佛にお会いできない、でも今日はあなたたちを払子で数回お払いになった、これはあなたたちにとって最高の幸せであると。


初級中学課本










現在の大同の雲崗石窟






















































天津西駅

天津の旧横浜正金銀行を

接取した現在の中国銀行

    第三期訓練

 11月に参観旅行は終わり、第三期訓練が始まった。主なものは各部(部は日本の省)の次長、司長などの講話であった。満洲国機構の職権、各領域の実況や方針、それに執務能力(即ち工作方法)の紹介であった。講義するのはほとんど日本人であった。中国人は総務庁次長の谷次亨と参事官庄開永にお願いしただけである。彼らの講義したのは『世界形勢の展望と我国が民族協和を図り王道楽土を建設する必要性』であった。とはいえ、どのみちご機嫌とりの言論でしかなかったが、彼らの日本語は流暢で、時には経典を引用し、日本人といえども彼らに足下にも及ばなかった。特に谷次亨については、同期の日本人学生は彼が日本人だと誤認するくらいであった。

a 文官令頒布される

 1938年11月、満洲国政府は文官令と武官令を頒布した。文官令の規定によって、大同学院一部に在学する学生は高等官試補に任ぜられた。もともと学校から毎月100元が給付されていたが、この任官によって、給料制に改められ、各人135元から150元の給料をもらうことになった。政府広報で各人の勤務場所が公布された。于也華は明水県に分配された。この県が辺鄙でそして遠方なので、于也華は教官を探して、行きたくないと意思表示した。教官は笑いながら、「心配するな、彼らが必要でも、我等はやらないから。今回のは各人の給与を決めるためのもので、臨時的なものだ。卒業前にもう一度新しく分配する。中央の方針は省や市クラスで、県には派遣しない。」といった。

(筆者注:日本と違って、県は省や市より小さな行政単位)

b 満蒙史をめぐり、漢人と蒙古人の対立

 日本人教官が「満蒙史」を講義する時、ジンギス汗の日本遠征と、西欧への遠征における勇敢な事跡を強調して話した。ジンギス汗は比べようのない英雄ではあるが、自ら大軍を率い日本に三度遠征したが、どれも神風(台風)が吹き、全軍がほとんどひっくり返り海に沈んだ。日本は神の国であり、どんな力で以ってしても征服は不可能である。」と嘘を吹き込む話をした。それと同時に「その後の蒙古族の衰退は満洲族の清朝が漢人の意見を信じ込み、懐柔政策を利用し、酋長を王爺に封じ、蒙古人にラマ教を奨励し、慢性の有害な策を使って民族を滅ぼしたのだ。」と講じた。

(筆者注:于也華が取り違えたか、講義した者が大雑把に蒙古の事跡をジンギス汗に代表させて説明したのか分からないが、元寇はフビライ汗の時である。)

 日本人教官のこのような話に挑発され、于也華ら漢族と蒙古族の学生の間に対立が起こった。ある時、宿舎で篤多博が同期の日本人学生に向かって、ジンギス汗がどれほど勇敢だったかを称賛していた。これを聞いていた于也華は篤多博が自分たち中国人に示威しているのだと思った。そこで、于也華は「そんなに勇敢であったのだったら、どうして神風に耐えられなかったのだ?」と言ってしまった。これを聞くや、篤多博は激怒し、直ぐに于也華に「口を閉じろ、お前ら漢人が最も狡猾だ。我らはもう少しのところでお前らに民族を滅ぼされるところだった。」反撃してきた。「そもそも、どの民族がどの民族を滅ぼすのか? 元朝の時、漢人十家に対して包丁を使い、更に鎖を使って、漢人をして耐えるに耐えられなくし、殺したのは韃靼人じゃなかったのか、そうだろう。お前はどうしてこのことを言わないのだ。」と于也華がやり返した。言い争っているとき、漢族の学生は于也華の方に、蒙古族の学生錫里居太は篤多博の方に立った。双方とも下品な言葉で罵り合うことはなかったが、言い争いで、顔を紅くして烈火のごとく怒った。日本の学生がこれを聞いていて大笑いしていた。

 この後、どちらも後悔し、ある時、学院内の庭を散歩していて、篤多博が于也華をつかまえて、「于さん、今後我らはお互いを引き裂きあうことを止そう、日本人を喜ばせるだけだから。」と言葉を掛けてきた。

c ある時の曾恪教官の講義

 1939年2月ある日、日本の学生が中国語の学習に行っている時、中国人学生30人が小さい講堂に集まり、曾恪教官(過去には汪精衛の秘書であった人物)に清朝政府の官府組織や機構などの概況について講義を受けた。講義を続けていた教官が突然話題を変えて「みんなは新聞を見ているか?上海、南京どちらも相継ぎ陥落した。僅か一日だけ、抗戦、抗戦と大声を張り上げたけれど、役には立たなかった!これで全部終わってしまったのか?将来どうすればいいのだ!」と言いながら声を上げて涙を流した。于也華たち学生の大多数も涙を流した。その時、于也華たちはとても心配だった。もし誰かが日本人に密告したら、取り返しがつかない。でも、結局何事もなく平安に済んだ。当時、蒙古族の学生も講義を聴いていたのだが、しかし、誰も報告に行った者はなかった。

d 学監に呼び出される

 曾恪教官のあの講義を受けた翌日の昼休み、宿舎にいた于也華は学監に呼び出されて驚いた。昨日起きたことが直ぐ頭に浮かんだ。緊張して学監執務室に出かけた。これまでの学監の態度は厳粛なものであったが、今回はいつも違って手のひらを返したような態度であった。于也華がまだきっちり立って敬礼をしていないうちに、学監が先に立ち上がり、笑顔でやって来て、手で于也華の肩をちょっと叩いて、「于くんよ!君は大いに素晴らしい青年だ。座って、座って。」と言う。学監が瓢箪にどんな薬を仕込んでいるか、于也華には分からなかったので、落ち着かずにびくびくしていた。学監は于也華の傍らに座った後、「于くん!君は第四軍管区司令官と三江省長を兼ねた于?澂将軍閣下のご令孫だったんだね。今回、佳木斯へ公用で出張した時、将軍閣下にお会いしたが、その時君のことを紹介され、宜しくと頼まれた。これまでは知らなかったので、じゅうぶん面倒もみてこなかった、申し訳ない。今後は何かあれば直接私を会いに来ても良いよ。」と言った。この時、ようやく、于也華の心の中にあった一塊の石がやっと崩れ落ちた。于也華は学監の話にいくつか応答し、挨拶をして、退出した。

e 日本人学生の応召と朝鮮族学生

 日本が中国侵略戦争を発動し、大量の兵員補充が必要になり、応召し入隊する者がますます多くなってきた。一度、3名の日本人学生が同時に召集令を受け取ったことがある。

 学院は井上院長が主催する彼らのための盛大な壮大な「壮行会」を挙行した。大食堂に一脚の長机が置かれ、その上に3枚の日章旗が置かれた。食堂の正面上方には横断幕が掛けられ、その横断幕には院長の直筆で「武運長久」の四文字が書かれていた。3枚の日章旗には、教官や同期の学生が名前を書いた。

 正式な開宴時に、井上院長は応召する学生が天皇陛下のために忠誠を尽くすよう激励し、式辞で「これは君たちにとって最大の光栄である。我らは君たちが凱旋してくるのを待って、一堂に喜び集い、共に勝利を祝おう。」と話した。

 在校生の青柳篤吉が送りだす詞を述べ、入隊する学生の代表がこれらに答えて挨拶した。この後、院長が起立し、杯を挙げ、彼らの武運長久を祈った。

 宴会の進行途中、院長が突然、同期学生の中で、入隊する学生に送る詞が有る者は随意に話しても良いと言い出した。

そこで、一名の朝鮮族同期学生が立ち上がり、応召する三名の入隊者に向かって、「祖国のために献身する機会が得られたあなた方に、私は羨ましさを感じる。このことは一生のうちでも最大の光栄と幸福だと私は思う。私も自分の親愛なる祖国の為に、自分の生命を献上したい。しかし、・・・・・」と話し始めた彼の態度は意気軒昴で声も大きくてよく響いていたが、ところが、「しかし」と言ったところで、忍び泣きになっていて、すでに声にはならなかった。少しおいて、途切れ途切れだが、続けて「とても残念なことに、私には祖国が無い!」と話した。

 この時、于也華は大きなショックを受けた。この話は平素ずっと避けてきた話であった。いつもおとなしい彼が、その日は亡国者の人知れぬ悩みをはっきりと言ってのけたのである。

 井上院長は場景が好ましくないと判断し、宴会はこれまでにしようと宣告して、院長が率先して万歳三唱し、宴会は気まずい状態で散会した。事後、于也華はずっとこの朝鮮族同期学生を気に掛けてきた。しかし、知っているのは、卒業時に、彼が間島省に分配され、そこに勤務したところまでである。あのことで、日本人は決して彼の採用について特別な行動をとらなかった。後、于也華と彼は連絡が途絶え、彼についての状況は知ることができなくなった。

    中央官庁での実習

a 映画検閲室での実習

 2月末に第三期訓練が終わった。総務庁人事処は個々の学生が学んだことと本人の希望に基づいて、実習先を決めた。于也華は祖父の于?澂の意見に従って希望し、4名の同期と共に治安部警務司に分配された。着任届けをした後、先ず渋谷警務司長、薄田次長、于?澂大臣に挨拶をする。教養科長村井矢之助が班長を務め、各科(毎科1週間)実習を于也華たちに指導した。一科ごとに、均しく主管科長が業務情況を紹介し、各係り事務官より執務能力(仕事のやり方)の説明を受けた。特務科実習になったときは表面だけの話で終わった。日本人の規定によって、特務科は公文書を完全に機密とし、中国人が見ることを許さず、内部状況も中国人が知ることを許さなかった。そこで、言葉巧みに何かにかこつけて、その場から于也華を立ち去らせた。

 科長が笑顔で于也華に「于くん、映画が好きかい?」と言った。于也華は科長の意図が分からず、ろくに考えもせずに「好きです。」と答えた。すると、科長は「それは良い。では、君は検閲係に行って実習しなさい。毎日映画を見るのだ。」と言い、その後、王事務官を呼んで、于也華に紹介して、王が「満洲系映画」検閲する責任者だから、彼について検閲技術を学習しなさいと言う。

 当時、検閲係は治安部の建物には無く、大経路の旧式の大きな建物の中にあった。第一検閲室は西洋映画と日本映画を検閲し、第二検閲室は中国映画、多くは上海と香港から来たものに、少し「満映」が撮ったものを検閲したが、満映のそれは品質が低く、見る者がいなく、作品も少なかった。

 検閲室はとても小さくて、机が4つと椅子が4つ並べてあるだけである。それぞれの机に電気スタンドがあり、上部を黒いもので覆い被せてある。このことによって、スタンドの光は机の上の脚本だけを照らすことができるようになっている。このように、検閲人は映画を見たり、脚本を見たりし、審査を進めることができた。

 王は于也華を彼の傍らの机の後方にあった椅子に座らせた。程なく、一人の日本人がやって来た。王が于也華に「彼は田中属官だ。」と紹介した。王が机の上のベルを押すと、映写室は直ぐに放映を開始した。「脚本と符合しない所を発見したら、或いは不適当な箇所があれば、ベルを押してよい、直ぐに映画を停めて、カットさせる。」と王は于也華に告げた。

于也華が検閲係りで実習したのは1週間で、10本強の映画を見た。題名を覚えているのは『紅杏出墻』、『木蘭従軍』、『冷月詩魂』、『楚覇王』などである。

 王は更に特別に内部の映画2本を于也華に見せた。1本は蒋介石が双十節に重慶で閲兵している記映画、もう1本はアメリカの猥褻な映画であった。

b 警察現場での実習

 総務庁での実習が終わり、各人に警官補佐級の制服が支給され、中央警察学校に行き、実習をした後、派出所に派遣され、交通指揮や警備巡邏などの下級警察業務の実習に参加した。そして、派出所所長から警察署長まで、下から上まで一通り実習した。この期間に、首都警察庁、最高検察庁、最高法院を参観し、警察忠魂廟を参拝した。

    論文提出、そして卒業

 4月上旬に中央官庁の実習が終わった。全ての学生が学校に戻って、経験を総括して、論文にまとめて提出した。

 于也華の論文の題目は「地方行政と警察行政は分割することはできない」であった。警察の素質を高めることや民心把握などについて論述した。

 この時期、于也華たち学生は何度も座談会を持って経験したことの相互交流を行ったり、乗馬して集団で浄月潭などに遊んだり、宮殿の承運門前に整列して遥拝したり、新京神社、忠霊塔、建国忠霊廟に参拝したり、学院の忠霊塔に出向き参拝して別れを告げたりした。

(参考:HP長春市に残る日本に関わりのあった宗教建造物」

 5月2日、荘厳な卒業式典が挙行された。国務総理大臣張景恵と各部大臣、一部の参議及び関東軍参謀長、日本大使館参事官、満鉄総裁、満拓総裁など日満の要人が出席した。式典の後、盛大な祝賀宴会が行われ、夜には娯楽の夜会が持たれた。

 その翌日、同期の学生は次々と学校を去っていった。于也華は吉林市満洲国警察局高等官試補として保安科交通係長に任ぜられた。

旧建国忠霊廟の現在

四、中日で異なる「岸要五郎」像

 大同学院で非常勤講師であった衛藤利夫について、「敗戦後高辻長吉氏、岸要五郎氏らの死をはじめ、かつての教え子たちの不幸や辛酸を聞くごとに、情、激して身の置き処に苦しむ有様であった。『有為の材を横死せしめたのは俺の責任じゃないか。』と嘆き、『碌碌として生を盗んでいるのは申し訳ない』と煩悶を重ねていた。」と「父のことども」注②で衛藤瀋吉は述べている。

 2005年8月25日付け朝日新聞夕刊に、「ニッポン 人・脈・記 『満洲』の遺産④ 『王道楽土』情熱との落差 志願官僚敗戦後に処刑」の記事が掲載されている。内容は以下のとおりである。

 「岸要五郎という人がいた。『満州国』で、『王道楽土』『五族協和』をめざした地方官僚だ。その人生は満州の理想と現実の落差を浮き彫りにする。

岸は新潟県出身。1932年、新京(現・長春)にできた官僚養成機関『大同学院』で学び、講師の衛藤利夫にかわいがられた。衛藤の本職は南満州鉄道(満鉄)の奉天(現・瀋陽)図書館長。五男は東大名誉教授の衛藤瀋吉である。岸は衛藤家をよく訪れ、瀋吉にも目をかけた。

 岸は自ら望んで地方勤務に就く。ハルビン東方の阿城県の副県長だった43年、同郷でのちに中国の研究家となる村山孚が大同学院を出て赴任した。

 『とにかく激しい人だった』と村山。岸は熱血漢で親分肌。日本人部下の汚職事件では中国人村長らを集めて土下座し、『自分の責任だ。殴ってくれ』と謝罪した。

地元の人々のために体を張った。妻セキは、軍が中国人用の豚肉を転用しようとしたとき、夫が電話で激しくやりあうのを聞いた。長女で早稲田大名誉教授の岸洋子は『何かのお礼に人が卵などを持ってきても受けとらず、家の畳にはツギがあたっていた』と振り返る。

 実権を握るのは中国人の県長ではなく、日本人の副県長。村山によると、岸は、綿布の配給や労働者の供出を、貧農がしわ寄せされないよう平等に行った。農具や農耕馬と労働力を貸し借りする互助組織も考案した。岸なりの『王道楽土』の実践だった。

 しかし、満州国の崩壊後、県外から来た中国人に逮捕される。地元の人たちの助命嘆願もかなわず、45年12月8日、ひそかに処刑された。城外に転がっていた遺体を村山が見つけた。後頭部から額に弾が抜けていた。享年44。」

 上記の朝日新聞の記事で、岸要五郎について回顧している村山孚は大同学院第15期生である。同じく岸要五郎を取り上げている回顧録がある。中国人の李大可、大同学院第18期生の著した「偽満時期的一所特殊学校」である。拙い訳で誤解を与えてもいけないので、原文をここにそのまま紹介する。

 「  第十八期学生是1944年10月入学的。那時日本在太平洋戦争中已経節節失利,敗象已露。日本国内形勢已経不妙,所以未去日本才集合而直接到新京報到,入学后先集中上課听講,入冬之后分小組到各県去接受所謂“観地練成”即属于現場実習的一類。転年3月。由各地出発到旅順集合并去大連参観,4月イ分回到学院,7月イ分畢業分配,不久“九・三”勝利,祖国光復了。

   当時筆者是分配到阿城県去的,同去的還有日朝各一名同学。我們到県公署報到后,分配給我們両間宿舍,由我們三人一起“起イ火”。初期我在県里听情况介紹,閲読有関資料以便熟悉一下当地情况,然后或参加会議,或随県署人員下郷工作等等。記得有一回随県署的李科長到料甸子村去了解“粮谷出荷”情况,遇到一戸農家,那時正是降冬時節,看到那家両个小孩,衣不蔽体在上○着火盆瑟瑟発抖,在屋里,連个布条看不到。足見日偽圧搾中国民衆已達到敲骨吸髓的地歩,実在令人惨不忍睹。

   当時阿城県的日本人副県長叫岸要五郎,他是大同学院第一期的畢業生。這家イ火暴已極,連日本人都怕他,是个遠近聞名的典型暴君。毎逢他坐汽車下郷走在途中,老百姓都得鞠躬敬礼。他在家里也作福。有時招呼他的老婆,也不叫名,只是一拍手,他的女人就得赶快足包来,跪在他的面前俯首听命。他在県公署当然也説一不二,“黑熊打立正,一手遮天”,面所?中国人的県長只有唯唯諾諾地当个傀儡而已。岸要五郎為了更多地圧搾老百姓血汗,又独出心裁地計画把農民編成什麼“互相○”,即,把几戸農民在一起,類似“互助合作”的型式,叫什麼“張家○”, “李家○”的。他的這一毒招,未及○成,偽満就○台了。家イ火?在阿城?県凶残已極,老百姓恨之入骨,听説,在“八・一五”時当地群衆活捉了他,把他○在電線杆上,召開群衆大会処决了他。人心大快。」注③

李大可も学院卒業後阿城県に分配されているが、満洲国が崩壊する直前の時期で、それも1、2ヶ月にしか任にあたっていなかった。そのことを考えると、彼の目で確かめられた事実もあるとは思うが、じゅうぶんではなかったのではなかろうか、現実が進行した後日に、耳にした事柄も彼の回顧録には含まれているのではと思う。これが朝日新聞の記事との違いになったのではないだろうか。

 穀物出荷情況を理解するために、李科長に付き従って行った時、李大可が見かけた農村の情況、子供がまともな衣類も纏えず、オンドル上で火鉢を囲んでぶるぶる震えていた情況は、当時にあっては珍しい光景ではなかったのではなかろうか。日中戦争に絡んで、日本が満洲国にしわ寄せを強いていた状況下では、中国人だけでなく、たぶん入植の日本人の多くもこのような状態であったろう。でも、権力を持つ側にない中国人にはより厳しいものであったことも事実であろう。

 上記の朝日新聞の記事(満州の遺産④)の中に、「学校の遠足の途中で見た光景が忘れられない。畑に捨てられた子供の遺体、うちひしがれて無表情な農民たち、供出用の大豆は山積みされていた。『日本は満州の民を貧しさから解放するどころか、むしろ搾取したんです。父らが情熱を傾ければ傾けるほど、日本の意図を覆い隠す結果になった』」と岸要五郎の娘陽子さんは述懐されている。

 李大可が述べる「日本と傀儡政権の満洲国が中国民衆を骨の髄までも搾取した証しだ。」とするのも肯ける。しかし、個人的な岸要五郎のせいだとするのには根拠は乏しい。

 彼が凶暴で、日本人でさえ彼を恐れていたとか、遠くまで知られた典型的な暴君だったという。しかし、列挙している例はさほど説得力が無い。地元役人の長が車でやって来た時、一般庶民が腰を折り頭を下げてお辞儀をし敬礼することはさして特異ことではなかろう。また、家庭でも尊大で横暴だったとして、名前も呼ばず、手を叩いて、妻を呼びつけて前に座らせ、命令していたなどということは、戦前の日本ではこれも特異なことではなかったであろう。

 役所などでは、彼が一度言い出したら聞かずに、権力を行使する面があったというのは、上記の朝日新聞中で村山孚が言っている『とにかく激しい人だった』と符号するが、当時の満洲国の組織で副なる者が実権を握り、長なる者が飾りであったのは事実であり、正に傀儡国家であったわけで、彼が特別であったわけではない。気性が荒かったために誤解を受けていた面があるのではないだろうか。

村山孚が紹介している互助組織について、岸要五郎の独創で生み出されたものだと李大可も紹介し、庶民を搾取するものだと否定的に見ている。そして、互助組織によるこの陰険なやり口もその成果を得る前に、満洲国が滅んでしまったと回顧している。

 一般的には、農民たちのための互助組織であったのか、効率よく搾取するための互助組織だったのかで、評価が分かれる所であるが、傀儡国家の組織の中で行われれば、岸要五郎の意図が農民たちのためのものであったとしても、大きな歯車の中では搾取に加担したものになっていたに違いない。

しかし、岸要五郎の阿城県での行動自体が残忍極まりなく、民衆の恨みが骨の髄まで染み込んでいたという李大可の記述は事実だったのであろうか。具体的にはどんなことだったのであろうか。李大可の記述でも、日本の敗戦時にこの地の群集が生きたまま岸要五郎を捕らえて電柱に縛り上げ、群集を召集して大会開き、処刑して、気分を晴らしたと聞いているとある。「聞いている(听?)」と言うことだから、李大可の岸要五郎の評価も、処刑の事実の後追いで生まれた可能性もある。

しかし、群集が処刑にまで突き進んだ背景にはそれなりの理由があったであろう。岸要五郎個人ではなくても、傀儡国家の中の阿城県の搾取そのものの象徴として処刑されてしまったのかも知れない。

 上記朝日新聞記事の締め括りの「異色の官僚として語り継がれる岸要五郎。その彼も、傀儡国家の中の日本人という枠をこえることは、ついにできなかった。」という記述に筆者も肯くところである。

 

注① 『長春文史資料』第2期、1983年5月

「偽満大同学院学習生活瑣記」于也華

注② 『渺茫として果てもなし―満州国大同学院創設五十年―』

昭和56年大同学院同窓会発行 (旧字は新字に改めた)

注③ 『長春文史資料』1990年第四輯の「偽満時期的一所特殊学校」





旧司法部

現在吉林大学医学部



旧綜合法院

最高法院・最高検察庁

現在、軍の病院 




旧首都警察庁

現在、長春市公安局




新京神社・絵葉書




忠霊塔・絵葉書



















































































『長春文史資料』

1990年第四輯