06 満鉄附属地 和平広場周辺と民主路 補足

栗原節也さんのメール及びメールに示唆されて

(和平広場周辺と民主路 補足)

加藤正宏

満鉄附属地 2

壁に満鉄のマークが今も残る建物

満鉄のマークが入った建物


レンガ造りの2階建てのアパート

 6月12日(日)、「第1回瀋陽探訪フィールドワーク」を実施し、「満鉄附属地のその1」に紹介した箇所を見て歩いた。参加者は21名、その中に以下のようなメールを持参して参加された方が居られた。

 

前田様

   教師会のHPアドレス、あなたの最近の情報有難うございました。

教師会のHPは、興味深いものが多く参考になります。加藤正宏さんの「瀋陽簡介」5.満鉄付属地・・・の中に出てくる「和平広場」は、1948年頃は広場の中央部に「ユスラウメ」などの木が植わっていた程度でした。

 和平南大街、北大街は、偽満時代「国際道路」といっていました。道の中央部に並木道のある洒落た道路でした。今はその面影が薄れているようです。

 2002年9月に行った時、「広場」の東側に残っている旧満鉄の「甲」社宅見て、「此処にはまだ残っていたのか」と感銘しました(その昔課長クラス以上が入る家ですが、住宅不足?で全てが入れる訳ではなかったようです。もっと上のクラスになると「特甲」社宅です。「丁」から「特甲」まで有ったと思います。)。

 「党省委」の直ぐ東側に「省委」関係が使っていると思われる建物が有りますが、敗戦までは大富豪の朝鮮の方の住んでいた跡のように思います。周辺の環境変化(道路拡幅、住居整理など)ですっかり変っていますが、白亜の3階建てで、玄関までには池や橋がかかっており、1985年に見た時はまだ昔のままでした。

 新華広場近くの「60年老字号産院」は敗戦までは「濱田産婦人科病院」です。

 この産院の広場寄り3階建て建物も、随分旧いのですよ。広場に面した「鉄道物業集団」の場所は昔、2階建てアパートで1階にロシア人の店が有りました。

「旧日本人住宅」の写真は私が住んでいた場所の住宅のようです。写真は、多分「南八馬路」と「海口街」の交差地点から北に入って直ぐの「胡同」一つ隔てた家と思えます。赤色の歩道が「海口街」側で、コンクリ舗装が「胡同」側。「海口街」側2軒を右に入る(アパートとの間の胡同)と同形の家が4軒あり、一番東側が私が住んでいた所です(食料品などを売る小さな店が「胡同」側にある)。和平南大街側からはアパートで遮られていて見えにくいはずです。因みに敗戦までの住所名は「雪見町53番地」、「海口街」側は「紅葉町20番地」。2002年に訪ねた時、暮には撤去するとのことだったので、もう無くなっていると思っていましたが、05年4月末の写真があるということは、まだ残っていると言えそうです。

 加藤さんの記事はとても楽しみです。色々な情報教えて下さい。 栗原 6/3

 

前田様

 加藤さんの歴史探訪、本当によく調べられているし、現場での住人からの聞き取りが織り込まれているので、一層深みがあります。12日の「探訪会」で加藤さんから色々お聞きした情報をまた教えて下さい。

和平南大街の中央並木道には、戦時中は防空壕が掘られたり、ソ連軍侵攻後は両側の車道に「対戦車壕」が掘られたりしました。戦後、戦車壕の穴埋め作業の使役に出たことがあります。ソ連軍駐留時は兵士の隊列が、見事なコーラスで「カチューシャ」を歌い行進していたり、国共内戦が激しくなって、瀋陽が解放される半年くらい前になると、この大街を北に向かって出陣した米式装備の国民党軍が、まもなく敗残の姿で戻ってくるのを目にする事もありました。大街と南八馬路の交差点では、夕方になると当時の国民政府交通部の青年や国府軍青年軍の人たちと、バレーボールのトスなどしていました。大街の街路樹道の地下には、直径3メートルくらいの下水道管が南十馬路辺まで埋設してあり、そこから先は露出したどぶ川(溝)が渾河まで延びていました。大街の南方向は十馬路を越えたあたりから渾河まで野っ原でした。大街から西方向の南十一、十二馬路から南下すると、中国人・朝鮮人の集落がありました。

 南三馬路から以南で和平南大街の東側は、偽満時代は「朝日街」といっており、広場は朝日広場、雪見広場と両方言っていましたが、どちらかというと朝日広場の方を多用していたようです。

02年訪瀋時は「市伝染病院」の塀の中に入らなかったので、建物がどうなっていたか確認できませんでしたが、私が4歳の頃「疫痢」で入院したことがあり、二階建ての大きくてしょうしゃな建物だった記憶があります。昔は南九条(馬路)に面して正門がありました。今は九条そのものが、あの場所には存在していないようで、建物はどうなっている事でしょう。

 「省党委」の北側の3階建て(旧・興亜会館、02年の時は屋上に「遼寧国投」の表示)は、偽満時代は多分官公庁関係か?戦後暴動のあと直ぐに中に入ってみたら、書類が散乱していました。この建物の西側角(旧・雪見町17・中山公園の南、その位置から西を見ると“給水塔”が見える)には、日露戦争で有名な「大山元帥」の「記念館」がありました。ここも戦後の暴動の後、館内は資料が散乱し、見る影も無かったです。この記念館の南側に1942年頃、市のスポーツ練成場が出来、毎年「大相撲奉天場所」が一週間くらい(?)来ていました。それまでは、「大相撲」や「矢野サーカス、木下サーカス」などは、南京南街の「中山公園」入り口北側の空地・広場(旧・萩町2番地)で興行していました。

 「光栄街」にある「遼寧?放送局」は昔の「奉天放送局」、「202医院」は昔の「陸軍衛戍病院跡」ではないかと思います。

和平大街側中山公園の北にある「省気象局」は昔の「気象観測所」だと思います。

 南八馬路を和平南大街側から眺めると、馬路の南側は完全に高層アパート化していますが、北側は02年当時、殆ど昔のままの2~3階建てアパートが残っていました。大街側角の一部3階建てアパートの1階には市バスの発着待合所がありました。

 6/3付け私のメールに記しましたように、加藤さんのルポに出てくる写真は、どうも私が住んでいた家の並び(かぎ型に6軒)のような気がします。当人がその場に立って見た場合、冷静を装っていても矢張り気持ちが高ぶっていて、見落としが多く、後悔する事が多いです。02年9月、住人曰く「11月に撤去し、3月に建て変る」とのことでしたので、もう無くなっているものと思っていたのですが・・・。一応確かめてみて下さい。 建家の前に小屋がけの店があり、99年、02年の時に見た「康師傅」の看板がまだかかっているかも知れません。

 加藤さんのルポが今後も続く事と思いますし、それに関連してその時々で思い出すことも出てくると思います。その時にはまた書き連ねますので、よろしくお願いします。

 長くなりましたので、このへんで! あさって頃から梅雨入りのようです。

栗原 6/9

 

 以上栗原さんが前田さんに送られたメールです。

 前田さんは東北育才学校に勤務されていて、友人の栗原さんに瀋陽の情報源として、教師会のHPアドレスを紹介されていたのです。奇遇なことで、メールにもあるように、栗原さんが瀋陽で生活されていたお宅の写真を、「満鉄附属地その1」で紹介していたのです。このようなことから、前田さんを通じて栗原さんと知人になり、メールを交換し、満州国滅亡当時前後の情報を頂いたり、満鉄附属地探訪の示唆を頂くことになりました。

 

 栗原さんは次のように自己紹介されています。

 《 私は、1932年10月瀋陽で生れ、1948年6月に帰国し、北九州市に定住しました。出生地は旧・奉天市大和区稲葉町23番地、1938年に雪見町53番地に転居し、帰国までの10年間をあの家で過ごしました。 父は大正年間に満洲に渡り、満鉄務めでした。私は、小学校は1939年「奉天平安小学校(現在の瀋陽実験中学)」に入学、1945年「奉天葵小学校(現在の124中学)」(写真)卒業、「奉天第二中学校(現在の瀋陽軍区後勤部司令部・・・兵站司令部?)」入学。敗戦後の1946年6月引揚げ開始後、生徒数激減により、最終的には1947年10月、中国各機関(交通部、中長鉄路、大学、金融、外交、インフラ関係等々)留用子弟の男女中等学校が合併し「瀋陽中学校(旧・弥生町51,53番地・旧満鉄の施設、現在の宇光中学の斜め向い)」となり、その後の内戦激化により、1948年6月留用解除となり、学校も閉校。 2500余名が6月に帰国。残りは解放前の最後の便で8月に帰国。》 《偽満洲国建国から崩壊、そして国府時代の終焉時期までを瀋陽で送ったわけですから、加藤さんがおっしゃるように、歴史を背負って(むしろ、背負わされて)戦前・戦中・戦後を過ごしたといえるのかもしれません。》と。

 

 栗原さんの情報や示唆を参考に「満鉄附属地その1」の補足を試みたいと思います。以下は常体で書かせてもらいます。

 メールに書かれてあった未紹介の主なところを訪ねてみた。大山巌元帥の「記念館」であった建物は既に取り壊されて、そこには高層ビルが建っており、奉天放送局跡は放送局ではなく、放送関連の資料館(遼寧音像資料館)やセンター(遼寧電視片広告制作中心)になっていた。

 しかし、「旧・興亜会館」を初めとして、「気象観測所」、「202医院」などは書かれてあるとおりだと思われる。「202医院」の看板には、瀋陽軍区肝病治療中心、瀋陽軍区婦産科中心などと、全てに瀋陽軍区の文字が被されていて、建物は違っているものの、軍の病院として受け継がれているようだ。

 メールにある「大富豪の朝鮮の方の住んでいた跡」(写真)について、栗原さんは更に《 大富豪の息子さんと中学が同級でしたが、敗戦の一週間?くらい前から登校しておらず、戦後の新政権で父親が重要ポストに着くために、いち早く奉天を去ったとかいう噂を聞いたことがあります。》と情報を寄せられている。 現在、庭はほとんど無く、建物も白亜ではないが、当時の形が保たれているようだ。

 栗原さんの旧住宅及び当時の間取りなどについて、更に次のようなメールを頂いている。

 《今残っている松の木は、多分隣家側と思います。どの家も同じような形式で、表側に松が2本、ライラック、楡の木(いづれも高さ2メートルほど)、裏に名称不明の高い木が3本くらいづつ植わっていました。85年の時は楡だけがあり、屋根の高さくらいになっていました。その後、全て切り払ったようです。》

 《さて、事の序に紅葉町20番地、雪見町53番地の住居間取りなどを一つの記録として記しておきます。あの2戸建2階家の方は、8畳2間、6畳、4.5畳、3畳大の板の間、8畳大のベランダ、浴室・洗面所、水洗トイレ、台所、屋内倉庫、屋外石炭庫、上下水道、ガス、集中暖房で、家の裏側は現在平屋建長屋がある部分までが裏庭になっていました。胡同を挟んだ向い側の住居の間取りは、8畳、6畳2間、4.5畳、6畳大のサンルームで、あとのつくりは2戸建とほぼ同じでした。「丙」社宅は3間が基本形で、風呂は戸別か共同、トイレは水洗か落としの違いがあったようです。「甲」社宅は、1例として、8畳2間、6畳2間、10畳大の応接間、ベランダ、浴室、トイレは水洗、暖房は戸別か集中のいづれかだったように思います。「特甲」クラスになると局長とか理事用だと思います。家の中を見たことがないので間取りは不明です。その他に「丁」社宅もあったと思います。3階建の独身寮も多数あり、3畳(?)一間かコンクリート床で、洗面台付き。これ以外には「青年隊舎」というのがありました(平屋建て長屋つくりで一室10名くらい。伝染病院の南側とか、国際道路を挟んだ向い側とか)。「丙」「丁」の暖房設備は集中暖房か各戸ごとのペチカ方式、「独身寮」は集中暖房、「青年隊舎」は不明。

 満鉄以外の企業、官公庁の住宅が、どのような形式だったのかは分りませんが、満鉄の場

 鉄路実験中学の後ろ側や前側(南京南街)の旧日本人住宅の多くは改築されていて、当時の姿を見ることは難しいが、「軍区后勤部」(旧奉天第二中学)の北側や、124中学(旧葵小学校)の近くには大きな旧日本人住宅(写真)が今も残っているし、同澤南街、天津南街、太原南街の南10馬路から南3馬路の間にかけて、今も当時の住宅が多く残っている。特に、南5馬路から南4馬路の間には旧日本住宅の2階建てや1階建ての1戸建てが多く見られる。

 

 満州国滅亡(1945年)後、国共内戦で国民党が敗れる(1948年)までの歴史変動期に、ソ連や国民党の支配下の瀋陽で、栗原さんは多感な青年期の中学時代を過ごされている。この間、中学やその校舎がどのような状態であったかを記憶されていて、メールを送ってくださった。

 《「瀋陽中学校」について: 1947年10月に留用者子弟の中等学校生(男子、女子)が合併し、弥生町51、53を校舎にしました。敗戦によって、日本人の生活環境や生活様式が大きく変ったように、学校生活も一変し、今まで使っていた校舎は、短期間使えたこともありましたが、直ぐに立ち退き、そして次の場所を探す、といった流浪の情況でした。1945年10月学校再開(この時期に再開できたこと自体、珍しい事と思います)後、二中生は一中校舎(東北中山中学)を午後から使いましたが、2週間くらいで使えなくなり、二中は葵校舎に入っていたソ連軍が立ち退いたから、其処を使おうということで、一日かけて綺麗に掃除(教室内、校庭ともすごい状態でした)して、翌朝登校したら新たなソ連軍が入っているというような情況なので、その後はどの学校も、以前のような校舎は使えないことを悟り、満鉄施設や寺院・教会などを使うようになったようです。そこで、二中は一年生は南十二馬路にあった「天理教教会」を午後から、二年生以上は弥生町51,53番地が校舎になりました。1946年6月瀋陽で引揚げが始まると学生も激減し、男子は商業・工業が合併。次いで1946年10月頃に男子中等学校が合併し、校舎は弥生町51,53番地、校名が「瀋陽中学校」になりました。女学校も統廃合を経て、その後瀋陽第一・瀋陽第二が合併して「瀋陽高女」となり、最終的に男女校合併して出来たのが「瀋陽中学校」です。

 「軍区后勤部」(旧・二中)所在地: 124中学(葵小)の西、南11馬路の南(稲葉町の西、青葉町の東、正門は藤浪町)です。02年の時も周辺を10名くらいでパトロールしており、厳しいなと思いました。》と。

 大きな変動期に、苦労されて学んだ学び舎だけに、栗原さんの瀋陽中学ついての思いは深く、2002年にもこの場所を訪ねられておられる。日々変化を遂げている瀋陽で、現在どのようになっているか、今も気にされていて、以下のようなメールを頂いた。

 《ご帰国前に若し時間が取れましたら、かつての「瀋陽中学校」あたりをご確認願えればと思っています。場所:旧・弥生町51、53番地、3階建てアパートの1階部分。53番地の方は、99年にはアパートに建て変わっていましたが、51番地の方は部分的に改修しているようだったので、残っているかもしれません。「宇光中学」:この学校の建っている位置は、弥生町50番地と霞町49番地です。この場所は、もともと弥生町側に2階建てアパート、霞町側に1戸建てが数軒あり、その間に児童公園があって、そこが瀋陽中学校の運動場などになっていました。霞町49番地に住んでいた級友がいますので、霞町側からも写真撮っていただければありがたいです。なお、現在の“街名”も教えていただければ幸甚です。》

「宇光中学」も旧「瀋陽中学校」も民族南街にあり、南8馬路との交差するところを少し北に入ったところである。旧「瀋陽中学校」の跡地は、瀋陽軍区政治部によって30階建ての高層ビルが現在建てられていて、学校として使われていた建物は完全に姿を消してしまっている。「宇光中学」のところも、勿論旧住宅や公園は見られない。只、その場所は運動場や自転車置き場になっているあたりだと確認できるだけである。

 民族南街を更に南に行って、突き当たるところが101中学(旧高千穂小学校)の敷地であったが、現在は134中学となり、現在近代的なモダンな校舎が建っている。突き当たりの前の道路が南9馬路である。この学校の敷地は東西を昆明南街と西安街に挟まれ、南10馬路まであるから、広大な敷地の学校である。南10馬路と南11馬路の間、東西を南京南街と同澤南街に挟まれているのが124中学(旧葵小学校)である。この校舎は、一部に改築はあるものの、旧葵小学校の校舎が今も使われている。前述のようにこの学校の近辺には旧日本住宅が今も見られる。南11馬路の南、東西を同澤南街と砂山街に挟まれたところに瀋陽軍区聯勤部がある。ここが旧奉天2中の敷地である。軍区は写真を撮ったり、やたらに近づくと警告を受けるところなので、写真も遠くから撮っただけで、門の前を一度素通りしただけであるが、瀋陽軍区聯勤部の北側、つまり、南11馬路の北側には一戸建ての旧日本人住宅がかなり残っているのが確認できた。

 これらの学校を確認した後、鉄路に沿った勝利南街(旧若松町)の一つ東側、民族南街(旧弥生町)の一つ西側の道、昆明南街(旧紅町)に沿って瀋陽駅まで戻って行った。南5馬路から南1馬路にかけて、レンガ造りの2階建てのアパート(写真)が多く見られる。住人に尋ねると、これらは日本人の家屋であったとのことである。駅に近い南2、1馬路には満鉄関係のビルや倉庫なども残っていた。その中には壁に満鉄のマークが今も残る建物(写真)も見かけられた。このマークはマンホールの蓋にも用いられており、中国医科大学(満鉄が創った旧満州医科大学)の病院敷地内にも存在しているのを確認している。路上ではこのマークのものはまだ見かけていないのだが、従来の鉄製マンホールの蓋が今月中に多くの路上で、取り替えられてしまうそうだから(新聞報道)、これからは満鉄附属地の証となる、このマークを探すのも難しくなりそうだ。

 

 以上、栗原さんメールそのものと、それを参考に歩いてみた箇所を、今回は補足として紹介させてもらった。栗原さんの記憶によって、当時の具体的な社会状況を記録できたことは、得がたい収穫で、貴重な収穫であった。栗原さんに感謝の意を表したい。多謝、多謝。(2005・7・12)

旧葵小学校付近の住宅

大富豪の朝鮮の方の住宅

南寧南街から見た旧葵小学校

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