08 長春の旧ロシア人街

(寛城区)

加藤正宏

長春の旧ロシア人街(寛城区)

加藤正宏

 長春、その名から満洲国を想起する人が多いのではなかろうか。観光では偽皇宮と呼ばれている溥儀の宮殿や八大部といわれた旧省庁の建物がコースに組み込まれることが多い。長春は、満洲国がここに国都を定め、新京と呼び、新しい都市計画の下に街づくりが行われた都市である。日本の傀儡国家だったといわれる満洲国、それだけに満鉄の附属地を中心に道路、広場、公園、建物と日本人によって建てられたり、造られたりしたものが、今も多く残り、活用されている都市である。日本と関わりの大きかった都市である。

しかし、最初に鉄道を敷き、ここに駅を設け、近代的な町造りを始めたのは、日本でなくロシアであった。中国の東北を勢力圏にしようと狙っていたロシアは、日清戦争後の下関(馬関)講和条約で遼東半島が日本に割譲されようとすると、1895年に三国干渉を行ってそれを返還させ、翌年には露清密約で中国東北部に鉄道(東清鉄道本線)を敷設する権利を得ている。そして、更に98年には旅順と大連を租借する条約を清国と結び、ハルピンから長春や瀋陽を経て大連に到る鉄道の敷設権を得て、東清鉄道支線(全長1129キロ、38駅もつ支線)の建設を始めた。1901年に出来上がり、03年には全線開通している(但し、長春以南の鉄道の権利については日露戦争後に1905年のポーツマス条約で日本に譲り渡され、翌年には南満洲鉄道(満鉄)が引き継がれてしまっている。)

 この支線建設と同時に長春の寛城子駅の建設も始まり、99年には駅は完成をみている。駅周辺には、附属貨物処、鉄路守備隊軍営、給水塔、鉄路職員住宅、鉄路倶楽部、郵便局、商店などが建てられ、これらの建物の多くはロシア風の煉瓦造りの建物であった。これらロシア風の建物が約4平方キロの地域にわたり、小さなロシアの町が出来上がっていた。その中心が現在の寛城区二道溝である。満鉄の建てた長春駅の西北に位置する。

前日と同様に大変寒かったが、天気もよかったので、講義を終えてから、旧ロシア附属地二道溝に再挑戦した(前日、アナウンスのないバスに乗って、降りそびれて終点まで往復)。駅前を出発した113路のバスは西広場で方向転換し、北上し、鉄道線路の下をくぐり、凱旋路を北上する。凱旋門を見かけてから降りて引き返してきても良かったのだが・・・・。前日の二の舞をして降りそびれるようなことがないように、朝鮮中学見かけて早めに降りた。降りたところは四中停留所で、更に凱旋路を北上し台北大街まで行き、ここから東に行ってみた。新しく開発された幅の大きい道路である。東の先には火力発電所(熱電一廠)が見える。道路表示の大きな看板を見ると、この先で亜泰大街と交差し、亜泰大街を南下し鉄道線路の下をくぐり線路の南に戻ると、東広場のあったところに出る。広場を更に東南に行くと光復街、その近くには偽皇宮がある。

 目的の長盛街小学校の見当がつかず、リャカーを引く人に尋ねてみると、凱旋路をもっと北上しなければならないとのこと、凱旋路まで彼と話しながら戻り、教えられたとおり、凱旋路を北上する。長盛街と一匡街との間に目的であった小学校を見つける。

この小学校はロシアの兵舎を校舎として改造し、早い時期に造られた学校だ。最初は鉄道員のロシア人と中国人の子弟が通う学校であったが、1925年に白系ロシア人のための学校が二道溝三輔街の西側に造られてロシア人の子弟が移った後は、中国人子弟だけの学校になった。その後、東省特別区が管轄する学校となり、第十二小学校と改称されて、現在は長盛街小学校と更に名前を改めている。

 今も兵舎改造の校舎が一部残っており、その北側の壁に一枚の地図が描かれている。中国の不平等条約を扱った図で、この3メートル強のほぼ正方形の図の上の方には「還我河山(河山を我に還せ)」とある。地図の左下に「東省特別区第十二小学 民国十八年製」とある。内容は、帝国主義列強と清朝が結んだ不平等条約だと中国人が考える11の条約とその割譲されて土地を明らかにしている。香港(英占)、澳門(葡占)は勿論のこと、1885年の愛琿条約や1881年の伊犂条約などでロシアが領有した北方、西北方についても描かれている。日本に関して言えば、台湾、琉球、澎湖列島の地などが描かれているだけでなく、北京のところには一九一九年五四運動と記載がある。学生を中心にして起った大きな反日運動の記載だ。「還我河山」は中国史上では誰にでも知られている有名な言葉だそうだ。北の金への抗戦を主張した南宋の武将であった岳飛の言葉である。中国人にとって、愛国情熱の溢れた言葉なのである。

 これが描かれた1929年は満洲事変(九一八事変)の起きる数年前で、事変の起きたときにはこの壁の図の上に、「不承認二十一条」「不買日貨」「打倒日本帝国主義」などの標語が貼り出されたという。しかし、満洲事変(九一八事変)後、侵略してきた日本軍によって上から図は塗りつぶされた上、長い間に風雨に晒されて、図は模糊とした状態であったようだ。1985年の最初の教師節の前に修復され、更に現存のそれは、地図の左枠外に記載されている「二〇〇六年 五一国際労働節 再次修復」とあるように、数年前のメーデーに合わせて修復されたものだ。

 この小学校のグランドの東北には6軒のロシア将校の住宅が原型を残して今も残っている。どっしりとした建物で、壁の煉瓦による装飾、木造の屋根の装飾などにロシア建築の風貌を見せている。今は民家として使われているようなのだが・・・。









火力発電所

(熱電一廠)





中国の町には

似つかわしくない

凱旋路にある凱旋門


















兵舎改造の校舎の一部



「還我河山」の地図



グランドから見る

ロシア将校の住宅








ロシア将校の住宅

・壁の煉瓦による装飾、

木造の屋根の装飾に注目

寛城子駅の痕跡を求めて

 ロシアは三国干渉の後、清との間に密約や条約を結び、更に北清事変(義和団事変)の時に中国に派遣した軍隊を北方に留まらせ、中国の北方に利権を拡大してきていた。鉄路守備隊の兵営として、長春では二道溝附近に南大営、北大営、そして将校営の三組が造られていたそうだ。上記に紹介した長盛街小学校の校舎及び将校の住宅が将校営である。

 南大営は二道溝附近の現在の凱旋路と一匡街の交差する辺りに三棟ありロシア風の煉瓦造りの建物で、長さは第一棟が90メートル、第二棟は80メートル、第三棟は50メートルで、幅は15メートル前後であった。全て取壊され、高層のビルが建てられて、機車廠職工宿舎になっている。その地の呼び名に「三大棟」を残しているだけだという。

 北大営は二道溝三輔街の北側に二棟あった。長さは第一棟が60メートル、第二棟は40メートルで、幅は15メートル前後であった。これも早い時期に取壊され、この兵営地に建てられたのが長新小学校だそうだが、現在はこの小学校も既にない。

 寛城子駅を中心に出来上がったロシア人の小さな町も、町を代表する駅も給水塔も既に無くなってしまっている。建築面積300平方メートル強であった駅もプラットホームの一部を残しているだけ、給水塔も高さ1.5メートルの基壇を残しているだけだそうだ。それも、長春機車廠の敷地内にあり、誰でも入って見に行けるところではない。このようなことを考えると、盛街小学校の校舎及び将校の住宅が並ぶ将校営がロシアの附属地であった雰囲気を伝えてくれる代表的な場所と言えそうだ。

 それでも、寛城子駅のかすかな匂いを痕跡を求めて、凱旋路の西側の路地に入り込んで、レールが残されている部分の写真を何枚か撮ってきた。1935年に満州国政府に売却されるまでロシアの管轄下にあったレールではなかろうかと考えて・・・・。

 以上、2008年の長春便り第一弾である。2000年から02年の時ほど長期ではないが、07年12月末から08年2月末まで長春で日本語を教えて過ごした。寒い時期ではあったが、あちらこちらと見て歩いたので逐次御報告しようと思う。

参考図書

「長春市文物志」 吉林省文物志編委会 1987年

「文史資料」 1982年第5期 政治協商長春市寛城区委員会文史弁公室

「文史資料」 1989年第5期 長春市寛城区地方志編纂委員会弁公室

「1800,2000、百年長春」景涛亜力 責任編輯 吉林美術出版社 2000年