01 関東軍第九〇兵器工廠の大劇場
関東軍第九〇兵器工廠の大劇場
加藤正宏
212路バスは瀋陽薬科大学のすぐ南が始発で、724正門が終点である。瀋陽市街から見ると終点は北東のはずれにあたる。バスは五愛市場、大西門、天后宮、瀋陽大学、九一八博物館、望花新村などを経て終点の724正門に到る。私がこの路線に乗ってみたいと考えたのは、瀋陽から長春までの長距離バスで走るとき、九一八博物館を越えて高速道路に入る前に、何回か鳥居のような物を見かけていて、それが気になっていたので、確かめたいと考えたからだ。しかし、終点まで乗ったが、それらしい物を見ることはできなかった。もう少し先だったのかも知れない。
終点で降りると、道路の右に新東基賓館が目に付く。その他は4~5階のアパートが道路沿いに立ち並ぶ。このアパート群の後方に回ってみると、小さな繁華街があってインターネット・バーなども見られる。この繁華街の傍には281路バスの溜まり場になっている広場があった。この広場の三方を囲むようにして、文体中心と文化宮の二つの比較的大きな建物が広場を挟んで向かい合い、もう一方の面には道路を挟み、大きな体育館のような広さも高さもある建物が鎮座している。何か場違いな場所に存在している、そのような感じを抱かせるこの大きくて古い建物は、年代を感じさせた。
近くにいた老人に尋ねてみたところ、「大劇院」だという。いつごろ建てられた物かと更に問うと、偽満州国の頃に日本人によって建てられた物だという。当時でも奉天市内のどの劇場にも負けない大きさだったそうだ。改めて、いろんな角度から念入りに写真を撮っていると、3、40代の男性が私たちをなぜか見詰めている。そこで老人にした同じ質問をしてみた。驚いたことに、片言の日本語を一部に交えながら答えてくれた。連れと話している言葉が日本語だったことで、その男性は私たちを日本人と見たようだ。彼の話によると、今は使われていないこの大劇院は724廠大劇院と呼ばれた職工劇場であったという。ここは工場の町なのだ。終点の停留場の名も724正門である。職工の慰安のために活用されていた劇場、この工場の町の唯一最高の娯楽場だったのだろう。
現在、この地区は瀋陽市大東区文官屯と呼ばれているところで、東基集団に属する724廠の町である。しかし、過去に遡れば、関東軍第九0兵器工廠であったところだと彼は教えてくれた。かの大劇場も関東軍所属の兵器工場街に設けられていた娯楽施設であったのだろう。更に彼が言うのには、広場を囲んでいる建物の一つである文化宮も日本人の建物だったという。少し大きな商店(小型のデパートのような)だったようだ。もう一つの文化中心の建物もそうなのかと尋ねると、これは違っていて、文革直後の1978年に建てられたものだそうだ。しかし、その後方にある平屋の長屋風家屋は、1930年代40年代のものだそうだから、この文化中心の建物が建つ前には関東軍第九0兵器工廠従業員関連の建物がここにあったにちがいない。
答えてくれた彼は、東基集団から日本に派遣されて、六年前に茨城の日立で一年研修したことがあるのだそうだ。この大東区文官屯には、彼と同程度の日本語を話す者は少なくはないとのことである。皆、工場から技術研修で日本に派遣された者だとのこと、文官屯は関東軍第九0兵器工廠以来、日本と関わりの切れない町である。
文化宮 付記参照
大劇院 当時は講堂と呼ぶ
付記
奉天で少年時代を過ごされた佐伯邦昭さんから情報をいただきました。ご紹介いたします。
加藤さんが訪ねられた工基集団724廠の街というのは、1945年までは奉天省文官屯と呼ばれた地域です。 開発したのは関東軍で、1938年から1941年までに兵器工場と付属の官舎や教育施設などを建設しました。 その名称は、中国人が言ったという関東軍90兵器工廠ではなく、「関東軍第918部隊 南満造兵廠」です。 戦車や銃器を製造していました。
写真の大劇場というのは、当時は「講堂」と呼び、客席は2階もある本格的ホールでした。918部隊の軍人軍属と家族が使い、満州慰問の著名な芸能人によるコンサートや当時の封切映画も上映されていました。講堂正面の前、写真で見ると花壇になっているようですが、ここは400メートルトラックの運動場があり、その一部には櫓つきの相撲場があって日本大相撲の巡業もありました。
また後日、文官屯の民家だと思われる写真を送付したところ、次のような情報も頂きました。
写真をありがとうございました。いずれ当方の機関紙に使わせてください。
職工劇場というのは、先便にも書きましたように当時は講堂という名前で、軍と造兵廠の公式行事ほかさまざまなイベントが行われました。
関東軍期の民家というのは、当時の文官屯には民家は無く、すべて将校官舎、軍属官舎、工員官舎、独身男子寮、同女子寮であり、写真は軍属官舎か工員官舎の一部と思われます、それにしても前庭か後庭かにごちゃごちゃと増築されて、もの凄い景色になっているようです。
関東軍支配期の商店? 現在の文化宮は、当時の一般呼称では酒保「売店、食堂、写真店、理髪店、宴会場など」です。通称は喜久屋と言っていたと思います。
文官屯は、関東軍が建設した巨大な工場と職住接近の住宅街であり、満人の居住区は、その区域外に設けられました。従って、ほぼ日本人だけの街であり、1946年引揚げ開始後も、工場設備(ソ連が持ち去ってガランドウ同然とはいうものの)の維持管理のため残留させられた日本人がいたくらいですから、国府軍も中共軍も一般の中国人には開放していなかったと推定されます。
今でこそ、民間人が旧官舎に住み、中層のマンションが大量に建設されているようですが、その人たちがあまり深く知らないのは当然と思います。
なお、ホームページの貴文の中に鳥居とありますが、これは文官屯国民学校の北側にあった文官屯神社の鳥居がそのまま残されているものです。拝殿はもちろんありませんが、鳥居をなぜ壊さないのか不思議です。
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