04 満州国で日本語教育を受けて

加藤正宏


満州国で日本語教育を受けて

加藤正宏

 土曜日と日曜日には、同志街郵便局の横手の道路に沿って、800メーターに及ぶ古本市が立つ、私は欠かさずこの市に出かける。日本語の雑誌や書物、それに日本語学習の辞書や参考書なども、安く売られている。これら日本語の物を熱心に見たり、値段を交渉している人物を目のあたりにすると、ついつい「日本語が出来るのですか」と中国語で声を掛けてしまう。ほとんどが若者か老人である。若者の場合は日本語を学び始めたばかりの学生が多い。老人の場合は満州国時代に、日本語を身につけた人がほとんどだ。老人の反応は二通りである。私が日本語で話を始めると、それに応じ、久しぶりに日本語を話せることに喜びを感じているかのように話す人と、話していることに後めたさを感じているかのように、言葉少なく応じる人とに分かれる。 

 この古本市で出会った前者の老人達を、我の住まいに招いて、食事を共にしながら過ごしたことが何回かある。話を聞いていると、彼らが日本語と接していた時代は、彼ら自身にとっては、人生における青春そのものの時期であり、その社会や時代が歴史的にどのように評価されようが、懐かしく、彼らにとっては宝物のような時期だったことが窺えた。ある老人は、勤め先の日本人同僚皆から祝福されて結婚式を挙げた思い出を、嬉しそうに日本語で語った。またある老人は国民高等学校の日本人の先生の姓名を次々と挙げ、それぞれの先生の思い出を語った。話の途中、突如「一、国民ハ建国ノ淵源、惟神ノ道ニ発スルヲ念ヒ崇敬ヲ天照大神二致シ忠誠ヲ皇帝陛下二尽クスベシ・・」と国民訓(*参考:国民訓の記載された国民手帳)を朗々と最後まで勢いよく諳んじた老人もいる。教育の力というものに驚かされると同時に、恐ろしさを感じさせられた。

 

 重慶路の古玩城(骨董店の集まるデパート)に古銭の店を出す店主と知り合いになった。彼は71歳(200l年現在)、二、三の挨拶言葉を除いて全く日本語は話せないが、片仮名のアイウエオが書ける。彼の話では、彼の住む永吉県大崗子村で、国民学校や国民優級学校に通っていた時、国民学校の一年生から日本語を毎日学んだという。しかし、学んだのは片仮名と日常の挨拶に少し加えたような会話でしかなかったという。乏しい日本語の内容だったのは都会の学校でなかったせいかもしれないが、田舎の学校でも兎に角にも日本語の時間が設定され、教えられていたのだ。彼が一〇歳の時、溥儀の皇宮の門衛をしていた兄を尋ねて、新京(長春)に来たことがあった。児玉公園で児玉源太郎の騎馬像を見たことや、また、皇宮の東門は近衛兵が西門は満州国国兵が立っていて、服装の色が違っていたことが今でもすごく印象に残っているとのことである。日本の将軍騎馬像を見に行くというのはどんなことだったのか、児玉公園(現在の勝利公園)では日本語を話す機会がもてたのだろうか、聞いておきたかったところである。 

 私が住んでいた東中華路の吉林大学宿舎(旧シャム大使館)、そこの夜勤の門衛さんは、七二歳(2001年現在)で、国民学校で、片仮名を習ったと言って、アイウエヲを書いて見せるが、その時期のことは語ろうとはしない。毎晩、中国語会話の練習に、妻と私が詰め所にお邪魔し、話をしていて(筆談も交え)、その話し方や考え方の節々から、彼が本来の共産党員の精神を今も堅持しておられる方だと分かる。どこか一本筋通った感じだ。彼は若い時期からの共産党員で、困難なことでも、人民のためなら、率先して奉仕しようとする精神を、今も持っておられる。それだけに、過去の話をする時、建国前後の共産党員は今の共産党員とは違っていたと洩らすこともあった。そんな彼が、長春市内の漢人(当時は満人と呼称)、朝鮮人、日本人の当時の住み分けを、この道路から東を、西を、と淡々と説明される口調には、歴史の事実と現在とをはっきり区別して、日本人の私に話されていることが伝わってきたものだ。 

 院生の学生の中に、次のような作文を書いてきた者がいる。

 「二年か三年しか学校に行かなかった父だが、日本語ができる。今はただ『こんにちは』『さようなら』ぐらいしか話せないが、それだけでも、中学校に入ってから外国語を習い始めた私にとっては驚きだった。なぜ日本語ができるかを訊ねると、昔に思いを馳せながら、『その時、東北は日本に侵略されていた。学校では必ず日本語を習わせ、日本語を語らせていた。日本語で話さないと叱られた。』と言う。それを聞いて、またテレビドラマで日本人のふるまいを見て、日本人は恐ろしいと、中学生当時の私は心の底から感じていた。」と。

 テレビでは抗日戦争のドラマが上映され、中国人の多くの者がこれを見ていて、そこで敵役日本人がとる非道さが、中国人の多くの人の頭に焼き付いていったようだ。「バカヤロウ」「ミシミシ」「スラスラディー」などの言葉は、ほとんどの中国人が知っている。「バカヤロウ」以外は中国のテレビが作った造語だと、これらを口にする中国人には説明するのだが、彼らの頭には焼き付いてしまっているようだ。教育の力もさることながら、マスコミの力にも恐ろしさを感じる。因みに、「ミシミシ」は食事や食料を要求する言葉として、「スラスラディー」は軍刀を抜いて人を殺す時の様子を表す。

 



















同志街の路上古本市







国民手帳表紙



国民訓(日、満文)




手帳注意事項(日、満文)


手帳所持者






























児玉公園の児玉大将像

溥儀の住い(偽皇宮)の門

 上記とダブル人もあるが、二、三、具体的に、日本語を話す人たちを紹介してみよう。 

蘇維振 (77歳) と 

  孟憲宝 (82歳)、2001年現在

 古書市で蘇維振さんに出会ったのは2001年2月25日であった。

 その翌日掛けた私の電話に応じて、28日朝、蘇維振(実際は、日本語のよくできる孟憲宝さんが蘇維振さんに代わって)から電話が掛かり、その日、二人で来ることになった。妻が手料理を準備し、食べながら話を聞かせてもらうことになる。

 彼らは11時に来たが、始めは遠慮して、時間を切って昼食前には帰るようなことを盛んに言っていた。日本料理らしいものを作るから、食べていってくださいと引き止め、食事をしてもらって、2時ぐらいに彼らは帰った。約三時間を共に過ごしたことになる。

 彼ら二人は旧満州国の林野総局鳥獣保護技師であった。林野総局鳥獣保護課は彼ら以外は全部日本人だったので、職場では日本語で通していたのだそうだ。蘇維振さんは国民学校を四年、国民優級学校を二年、新京特別市第一国民高等学校(土木科)を二年(本来四年)で卒業した学歴の持ち主で、国民高等学校でも一年間だが、日本語(週三時間)を勉強し、その後は自学自習で日本語を学んだという。自学自習は十八歳で雇員として就職した林野総局鳥獣保護課がほとんど日本人であったことによる。国家が消滅する二十一歳まで勤務した彼の給与は五十八円、孟憲宝さんは、委任官十七級俸で七十八円であったそうだ。

 孟憲宝さんは吉林省立第二師範付属初中卒業後、十六歳で日本の九州久留米に四年、青森の大畑にある幹部養成所に二年間留学していたとのことで、現地で日本語を身につけたという。この林野総局は後に興農部(建物のあったところは現在東北師範大学付属中学)に吸収され、そこで満州国の終焉をみる。満州国消滅後、蘇維振さんは製油工場に、孟憲宝さんは吉林省林業庁に勤めたとのこと。新中国成立初期には、孟憲宝さんは日本語のできる者として、満州に隠れて残る日本人を探す仕事をさせられたそうだ。日本と関係のあった者には思想改造のために獄に入れられた者と、利用された者とがいたのだそうで、彼は後者の方になる。彼の妹婿は建国大学卒業者だったのだが、六年ばかり入獄させられていたというから、妹婿は前者の例になる。

 孟憲宝さんは盛んに「山猿が‥・」と、日常の中国で生活している服装できたことを気にして、何度も使っていた。その彼、孟憲宝さんは孟子の七二代目だとのこと。しかし、文化大革命の時に、系図や孟子関係の書物を全部始末してしまったそうである。

 蘇維振さんはやたらに丁寧な言葉を使っていた。たとえば、「召し上がる」 「ようこそ、いらっしてください。」 「ようこそおいで下さいました。」 「ご苦労様です。」など、何度も使っていた。「ようこそ、いらっしてください。」は「どうぞ、いらしてください。」、「ようこそ、おいで下さいました。」は「どうも、お招きいただきまして」の意味合いで使っているようであった。言葉の使い方が曖昧になってしまっているところがあったが、当時身につけた丁寧な言葉が口を吐いて出てきているようだった。言葉だけでなく、当時身につけた所作からか、靴を脱いで部屋に入ろうとしたりもした。

 十九才で蘇維振さんが結婚したときには、同じ課の日本人みんなが祝ってくれたことを嬉しそうに話して聞かせてくれた。彼は国民高等学校の学生帽を今も手放さずに被っている。文化大革命の時期、国民高等学校時代の物は全て失ってしまったと語る彼が、帽章や白線を捨て去ってまでも残した唯一の物がこの帽子だ。文化大革命の時期のことは、語らない彼だが、ずいぶん辛い時代であったろうと推察できる。

 最後に孟さんが、満州人の農村に一度案内しましようと、言ってくれた。しかし、これは実現しなかった。

 二度目に蘇維振が一人でやってきたときには、丁寧な言葉づかいは変わらなかったが、前回に比べてよく喋った。日本語だけでなく中国語も使っての会話であつた。こちらがほぼ中国語が理解できることが分かったことで、次々と言葉が口をついてでたのであろう。早口の中国語になることもあり、「慢慢説(ゆっくり話してください)」と言ったり、分からないときは、「請写漢字(字を書いてください)」と書いてもらったりして、交流を深めた。

 聞かせてもらった学生時代の話。

 掃除がきちつとできたかどうかは、上級生が判断していたようで、教師は不管(関わらない)とのことであった。以前、満州国時代に学校に行っていた者から聞いた「今日の掃除当番終わりました。先生見てください。」と生徒が言っていたというのとは異なっているが、小学校と中等学校との違いであろうか。

 先生が教室に来られたときには、「起立、礼、座れ、番号。」と級長が言い、「1、2、‥・」と皆が応えていったという。早晨朝会では「気を付け、廻り向け(廻れ右?)、左向け、前へ進め、立て、おりしげ(?)」などの命令を受けて行動し、東方遥拝をし、国民訓を諳んじさせられたという。

 「ヒトツ、コクミンハ、ケンコクノインケン、ユウシンノミチニハッスルオモイ、ソンケイヲアマテラスオオカミダシ、チュウセイヲコウテイヘイカニツクスベシ。ヒトツ、・・・」と五つまで諳んじてみせた。記憶が薄れて少し正確でない部分もあるが、六〇年近い昔に覚えさせられたものがほぼ完璧に、彼の口から出てくるのには驚かされた。

 原文は次のようなものである。

「一 国民ハ建国ノ淵源、惟神ノ道ニ発スル念ヒ崇敬ヲ天照大神ニ致シ忠誠ヲ皇帝陛下ニ尽スベシ」

調練では赤い包丁(赤い鞘の刀?)をぶらさげた教官が指導したとのこと。

 

参考:国民優級学校卒業証書

和文と満文のがあるが、これはどうしたことだろうか。

治外法権撤廃後も日本人学校は存続したようだが、

日本人以外も受け入れるようになったのであろうか?































孟憲宝さんと蘇維振さん

李永衆 84歳 漢族(2001年10月現在)

 同志街の郵便局裏手の路上古書市で、彼が日本語の本を探していているのを見かけて、声をかけて知り合った。

 満鉄公学校(日本人の学ぶ室町小学校の隣にあった)に学び、大同元年(1932年)に卒業し、満鉄の長春旅客部庶務課に配属された。職場では語学検定を順次受けて、語学検定特等に合格し、給与30元に、語学手当20元をもらっていた。この検定は二年間有効で、彼は三度続けて特等の検定に合格して、六年間手当てを支給されたとのこと。

 * 室町小学校は現在の天津小学校 * 満鉄公学校は治外法権撤廃後、大和通国民学校と大和通国民優級学校と改称、現在は教師進修学校になっている。

 満鉄公学校では三年生から六年生まで、日本人の先生から、毎日一時間日本語を学ぶ。他の科目は中国人の先生であったとのこと。

 賑やかなところは吉野町(現・長江路)とダイヤ街(現・貴陽街)だったそうだ。

 電車は現在のバス62路と54路のところを走っていたという。

 大きな百貨店は金泰洋行と熊本洋行など。

 神社に参拝させられたり、勤労奉仕は無かったという(大同元年には小学校を卒業し、満鉄に就職していたためか?)。但し、神社の前では拝礼しなければならなかったので、そのために回り道をして、前を通らないようにしていたという。

 日本食としては、すき焼き、てんぷら、寿司などを思い出すとのこと、また生菓子が大変甘かったことも思い出すとのこと。

 一九五九年までは鉄路に勤めていたが、この年に少しでも日本と関わった疑いのある者は、職場を追われ、建設現場で働く身となった。

 文革時代には、スパイ扱いされ、これらスパイ扱いされた者が一ヵ所に集められ、建築現場などで働かされて、一年ばかり家に帰ることが許されなかった(思想改造という口実か?)

 満州国崩壊後、日本語は全く話すことはなかったという。それ以来初めて日本語を使ったというのだが、滑らかな日本語を話すので、尋ねてみると、「若い時に懸命に習ったことだから、忘れないのだろう。」との返事が返ってきた。

(以上2001年記)

 

10月記)










参考:語学検定日本語と鉄道局の講習会

















新京神社(現、幼児園)

付記 2005年10月記

 10月8日(土)、久しぶりに吉林省の図書館脇の路上古書市(2002年に、同志街郵便局の横手の路上市が禁止され、ここに移る)に向かう。バスで新民広場まで行き、偽満合同法衛、偽満交通部を写真に収め、路上古書市に到り、古書を漁る。漁っているうちに葉書で約束していた蘇維振さんとも出会い、孟憲宝さんが長春に戻っていること、彼から手紙を託されていて、孟さんが会いたがっていることを聞く。私も彼に会いたかったので、家に案内してもらうことにした。昼食時を避けたいことと、八大部を写真に収めたかったので、新民大街(旧順天大街)を一緒に歩いてもらい、時間を調節。偽満司法部、偽満経済部、偽満軍事部、偽満国務院をカメラに収め、新民大街から新宮殿になる予定だった文化広場の吉林大学(旧地質学院)を写真に収める。新民大街は両側の歩道が各2車線くらい、中央の緑地帯が4車線程度の幅があり、左、中、右に松の三列の並木を形作っている。道路は左右各3車線で南北に走っている。

 偽満国務院にまで行ってから、更に同志街、更に人民大街まで足を伸ばし、そこからバスで孟さんの家まで行った。歩いている時、蘇さんは自分が偽満時代に勤めていた興農部林政局鳥獣捕獲科の思い出をとびとびに語ってくれた。

勤務先では孟さん蘇さん以外は全て日本人であったこと。

 国民学校4年、国民優級学校2年、新京特別市第一高等学校を3年で卒業(本来4年で、軍事訓練、勤労奉仕が4学年にあったが、興農部勤務にあたり、在学証明を提出、4学年を免除される)、この校舎は元吉林工業大学の中の幼稚園の校舎として2002年には使われていたところ、現在は取り壊され吉林大学の学生宿舎になっている新京特別市第一高等学校ではクラス人数は60人ばかりで、日本人数人、鮮系数人でほとんどが満系であった。ただし、満系というのは満州人という意味ではなく、満州国人ということで、蘇さんも満系と呼ばれた部類だったが、漢人である。

 歩きながら、蘇さんが口ずさむのは「・・満州娘・・・春や三月・・・王さん待っててちょうだいね。」と言うのと、君が代の歌詞が口に出てくる。国民訓も日本語でスラスラと全部諳んじる。「満州娘」の歌は蘇さんの結婚式に、鳥獣捕獲科の日本人の同僚が歌ってくれ、それ以降も何度も歌われ、印象が深いようだ。蘇さん現在81歳(2005年現在)。

 孟さん、1918年生まれの87歳、吉林省第二師範附属初中を出た後、昭和10年(1935年)福岡県の三井農学校(昭和62年現在福岡県立久留米農芸学校・久留米市山川町1493番地、昭和62年の同窓会誌を所持されていた)に留学、昭和13年(1938年)に29回生として卒業、1941年から43年青森県、青森営林局で林業の研修。29回生は5分の4が兵隊となり戦場に行き、その3分の1程度が戦死しているとのことであった。同窓会誌を見ながら、彼も彼もと指をさしていく。

 それより何より、孟さんのご子息が東北師範大学の教授で、私も面識のある吉林大学の于長敏教授と一緒に日本に関する本を書いた人だったことである。于長敏教授に既に頂いていた本ではあったが、孟さんにサインをしてもらって新たに一冊頂いた。日本語は息子さんにも受け継がれていたことになる。

 自分のことを孟さんは「猿猿愚か猿 池にある月を掬う 愚か猿(サルサルオロカザル イケニアルツキヲスクウ オロカザル)」と実業家になる夢ばかり追っかけ失敗してきた自分を揶揄していた。駝鳥経営の共同経営者にならないかと私を誘ったり、日本人の共同経営者を探してくれと依頼されたこともある。今は、小石の日本輸出を今も真剣に考えているようだった。ご高齢だが、今なお前向きな行動をとられている。

(2005年

新民大街(旧順天大街)

左の写真正面は新宮殿予定地に建つ吉林大学

右の写真の建物は旧軍事部

左の写真左側の樹木は中央の緑地帯

右の写真の左右に見える樹木は

中央の緑地帯の樹木












孟憲宝さんと久留米農芸高等学校同窓会名簿