06 関東軍第

100部隊遺跡

・一汽 熱器廠


加藤正宏

関東軍第100部隊遺跡・一汽 熱器廠

加藤正宏

 二〇〇一年一○月二六日午後、『吉林史誌』1985年5号と『長春史誌』86年5号に記載されていた鄒世魁「日本関東軍第一〇〇部隊罪行調査記」の場所を確認しようと、バスを乗り継ぎ(工農広場より20路バスで一汽南面陸橋に到り、149路に乗り換えて五一街へ、そこから146路バスで一汽熱器廠に到着)、一汽熱器廠内の「日軍100部隊旧址」の見学を果たす。

 門衛さんと交渉し、見学の許可をとり、煙突を一つ残した一角を記念跡とする場所に向かう。門から真っ正面に見えるセメント造りの煙突の辺りがそれで、八米四方を壁で囲った中心に煙突がある。入口は正門とちょうど逆の位置にあり、鉄柵の扉あり、錠がかかっていたが、第一〇〇部隊の遺跡だと刻まれた石碑が見えた。我々の後を追うようにやって来られた工場の女性事務員の方が、錠を開け中に入れてくれた。鉄柵の扉の真っ正面、煙突の後の壁には「王字形動物解剖室と火化場遺跡」(上空から見れば、王の字になった建物と焼却場)の簡略な絵が描かれていた。石碑の裏面には解説が刻まれていた。鉄柵の扉を入ったすぐ右横に小部屋があり、これも錠が下ろされていたが、開けてもらい、中を見学する。壁に写真が貼ってあるのと、説明を書いた模造紙が二枚貼ってあるだけだった。

 遺跡として残されている近くの平屋の煉瓦造りの建物は当時の建物であろうとのことであった。工場になっている建物は王字形の建物のようであった。また、現在、工員の住居となっている地下は当時のものだろうと事務員が説明してくれた。

 でも、建物そのものからは、特別な感情は湧き起こってこなかった。細菌研究の場所であったとの痕跡を見出すことも私には難しかった。これといった痕跡や当時の物件を提示できないためか、ここはずうっと開店休業の旧址になっていたようで、私と妻が訪れたのは何ヶ月ぶりのこと、いや何年ぶりのことのようであった。

 ほとんどの者が忘れ、この工場の者さえ、通常は意識していないこの旧址だが、あるとき古玩城の店主と話していたとき、長春市内の南にある孟家屯に、関東軍の一〇〇部隊があったと話し出した。そこはハルビンの七三一部隊と同じく、病原菌の研究をしていたのだと、光復(1945年の日本の敗戦)直後に、長春周囲の農安県、徳恵県、永吉県で霍乱(コレラ)が発生し、多数の人が亡くなったのは一〇〇部隊の仕業だと。彼の近所の家では一家八人全員が亡くなった家もあり、彼の家でも二人が亡くなったという。とにかく、長春にもハルビンの七三一部隊と同じような部隊があったのだ。

 ある時、路上市で日本製のガスマスクが売られていたので、歴史の遺物として購入して所持している。昭和化工株式会社・東京・王子の文字と陸軍科学研究所検印が着いている。


日本製ガスマスク







一汽熱器廠の入口門 



関東軍100部隊旧址






当時の建物

余談を一つ

  この後、一汽の本社に向かっているとき、囚人が道路の工事をしているのに出会って、こっそり写真を撮った。しかし、薄暮だったので、フラッシュが点灯しまった。警備に当たっていた警官に咎められ、フィルムをとりあげられてしまった。囚人は柿色の北郊監獄の字の入ったチョッキを身につけ、一四~五人に二名の警官がついて労働を行なっていた。労働を終えた坊主頭の囚人たちは、囚車と書かれたバスに乗せられていた。監視が少なく、よく逃亡しないなと不思議な感じをもった。私が警官とやりとりしているとき、囚人は勿論のこと、付近を通りがかっていた人たちが全てがこのやりとりを見守っていたとのこと。

(01年10月記)