10 新京(長春)大同学院(上)加藤正宏

新京(長春)大同学院 (上)

加藤正宏

一、校舎敷地

 2000年から02年にかけて、長春の吉林大学で日本語を教える機会があった。私が2000年9月に吉林大学に赴任する数カ月前に、長春市内の吉林工業大学・ベーチュン医科大学・長春科技大学・長春郵電学院の四つが吉林大学に統合されて、中国でも五指にのぼる規模の大きい大学となっていた。統合を果たした新たな吉林大学の建物や敷地は市内各所にあって、吉林大学の中に長春の町並みがある感じさえ与えている(吉林大学校区分布図参照)。図中の駅の南方、人民大街沿いに赤で示した所が旧大同学院の位置である。

寛城区の旧学院跡付近

吉林大学校区分布図

元の吉林工大付近

 1年目は東朝陽街付近の旧タイ(シャム)大使館の建物に宿舎を与えられていたが、2年目は南嶺の元の吉林工業大学の敷地内に宿舎を与えられた。吉林工業大学の校部楼は満洲時代の大同学院の建物であった。この建物は5大学の統合前に改築が決まり、私が赴任する直前に取り壊され、整地されて新たな建物の基礎が作られ始めていた。敷地内に宿舎を与えられた頃には、新たな建物が次第に姿を見せ始めていた。その完成予想の絵図からも想像できたが、壮大なもので、数年後に再度訪れたときには、完成した建物がそこには出来上がっていた。

 満洲国当時の大同学院の建物は姿を消してしまったが、この新しい建物の前の大学内通路には今も当時を偲ばせてくれるものがある。それはマンホールの蓋である。蓋には満洲国の首都名「新京」の文字が左から右に刻まれている。学生たちは何も知らずに自転車で或いは直に自分の足で踏みしめながら今も行き来している。 大同学院は満州国の官吏に関わりのあった人達にとっては、切っても切れない縁の学院であった。写真や絵葉書でも分かるように、洒落た塔をもつユニークな建物である。写真は合資会社清水組の工事年鑑(皇紀2595年=西暦1935年)に掲載されたものである。建物は1934年に竣工しているようだ。

新京の文字を刻むマンホールと

マンホールがある旧大同学院前の学内道路

吉林工大校部楼

旧大同学院校舎


大同学院跡の更地に

基礎が打たれる


新校舎建築中


新校舎の建築予想図



旧大同学院の跡地に建つ新校舎

清水組の年鑑より

吉林工業大学の絵葉書

 吉林工業大学を紹介した絵葉書である。俯瞰した写真の絵葉書二葉とも、Aとなっている所が旧大同学院校舎である。工大当時には校部楼として活用されていた。

 なお、吉林工業大学校区平面図でBとなっている所は新京特別市第一国民高等学校(寛城区二道溝から移転)のあった所、Cは中央警察学校のあった所である。

 大同学院を紹介したものに、『渺茫として果てもなし―満洲国大同学院創設五十年―』大同学院同窓会発行がある。各期の卒業生が文と写真を提供している。提供された写真は様々な角度からの学院の景色を見せてくれていて、貴重なものとなっている。

 学院の建物の中でで、強烈な印象を与えているのが洒落た塔である。この塔は学生たちからは「忠霊塔」と呼ばれていた。

 第17期学生の疋田悦郎はこの塔を次のように紹介している。

 「待ちに待った日曜、祝祭日の朝からの外出が許可される日など・・・・(筆者による省略)・・・・・巷へとくり出す時の解放された楽しさは今でも脳裡に刻みこまれ、・・・・・(筆者による省略)・・・・・、偶偶遅れてあの冷たい忠霊塔に登らされた記憶は昨日のことのように懐かしく思い出される。」注A

 第17、18期学生の楊季清と李大可も同じようなこと言っているが、更に違反者本人だけでなく、同一区隊の同学も処罰され、「忠霊塔」で跪き反省させられ、宿舎に戻った後にも関連の同学に殴打されていたこと、更に大幅に違反したときは教官の指揮の下に暴力がふるわれていたことなども、以下のように紹介している。

 「按照学院規定、毎週日曜日早晨允許学生外出上街一次、但厳格要求午后6時前必須帰校。而且到了6点、全体同学部要礼堂集合、不管是誰、?怕遅到一分鐘、不但本人要受処罰而且同一区隊的其他同学也要被処罰、到楼上的忠霊塔(放置早期畢業的日籍同学的遺骨処)跪坐反省。尤其被罰后、回到宿舎、那些被連累的同学、還要憤怒地責難甚至再殴打這个遅到的同学。十七期的一位中国同学、趁星期日外出到外県親戚家串門、因故当日未能帰校、翌日回来后、在教官指揮下、竟被日人同学暴打了一頓。」注③

 第17期学生の尚允川は、上記にも書かれている「忠霊塔」(早期に卒業した日本籍の遺骨を安置する所)について、更に、卒業生の熱河省承徳県の警察署副署長の例をあげて具体的に紹介している。以下のとおりである。

 「偽大同学院建築物中、有一座遠遠就可以望見的一座尖塔、塔内正門掛着一塊用漢字写的半通不通的扁額、名称『遺烈宝』。這里所陳列的就是当年那些被中国人民打死的日寇遺物、所謂『記念品』和它們的霊牌。例如在偽熱河省承徳県(今河北省承徳地区)的一个偽警察署夜間被八路軍襲撃。大同学院出身的偽副署長及漢奸偽署長都一起被撃斃的就是一例。当時日報紙上大肆吹嘘説這些家?『殺身成仁』是大同学院精神教育的結果。 這所尖塔式建築物俗名『忠霊塔』、它還?外一種用処。毎当学員違反『学院』規則時、軽者就罰到塔前去黙祷反省、意思是向鬼魂懺悔。」注④




中央警察学校


中央警察学校廊下


中央警察学校階段踊場


旧満洲国 中央警察学校


中央の塔が「忠霊塔」

吉林工大 校区平面図

 ところで、上掲の『渺茫として果てもなし―満州国大同学院創設五十年―』の1期生の写真や2期生、3期生の写真に残る学舎は、南嶺の洒落た塔のあるそれではない。1期生のそれは南嶺の兵舎(張学良輩下の王徳林の兵舎であった建物)、2期生、3期生のそれは長春駅(旧新京駅)北方にあるロシア風の校舎(寛城区二道溝の三輔街東頭路北にあった東省特別区第七中学)の一部であった。そこは、吉林大学校区分布図上に、駅北方の北人民大街沿いの赤で示した地点である。この校舎は後に新京特別第一国民高等学校となり、その後も変遷を遂げ、光復後(戦後)には三輔街小学校、更に機車廠中学、更に現在は寛城区実験小学校と名前を変えてきており、校舎も近現代的なものに変わってしまっている。寛城区はロシアと縁のある地区で以下のHPで既にご紹介している。

参照(下記に代えて):寛城区のロシア遺跡(長春の旧ロシア人街)

参照(http://www.geocities.jp/mmkato751/rosiahp.html(これは使用不能)

東省特別区第七中学跡地に建つ寛城区実験小学校

  なお、学院の前身である自治訓練所は瀋陽(旧奉天)の城内大西門近くの旧同澤女学校(元来、張学良が創設した学校であった)に置かれていた。これも以下のHPで既にご紹介している。

参照http://www.geocities.jp/mmkato75/shoyougai.html(これは使用不能)


自治訓練所があった、奉天城内大西門近くの旧同澤女学校

二、大同学院とは

大同学院がどんな所であったのか、少しご紹介しておこう。

① 満洲国の官吏養成訓練所

1933年4月18日、総務庁長官であり、大同学院院長を兼任していた駒井徳三は第2期生入学の式辞の中で次のような話をしている。

「大同学院ハ職ヲ満洲国ニ奉セントスル官吏ヲ養成訓練スル所ナリ満洲国カ建国草創財政窮乏ノ際特ニ学院ヲ設ケタルハ青年有為ノ士ヲ簡抜シテ国是ノ遂行ニ直接参与スル者ノ識見ヲ高メ人格ヲ鍛錬シ天業翼賛ニ資セシメントスルニ外ナラサルナリ故ニ諸子ハ常ニ建国ノ意義及精神ヲ検討シ我カ王道ノ体様ヲ極メテ之ヲ民治ノ上ニ実現セシムヘク明確ナル信念ノ把持ニ努メラレルヘシ本院一期卒業生ノ多数ハ已ニ身ヲ挺シテ勇躍険難ノ地ニ赴任シ治安ノ維持竝ニ善政ノ普及ニ努力シ着々其効果ヲ挙ケツツアリ」注①

また、元満州国総務庁次長であった古海忠之は次のように述べている。

「大同学院は所謂学校ではない。満洲国官吏の補充養成特に現職中堅官吏の補足教育機関であった。その教育の主眼は、満洲国建国の精神の体得、満洲国現状に対する実態的把握、並に特異なる事情の下にある満洲国官吏としての、人格識見及び実務能力の涵養、規律節制の修得等を重点としていた。学生は日満系の外、後には鮮系蒙古系白系ロシア人も加わり、六ヶ月乃至一ヶ年間同一寮内で寝食を共にしつつ研究に励んだ。」

「大同学院は、その後(一九三八年)官制の改正により国務総理大臣直属となり、参与制を布いてその機構を強化すると共に、中堅文官の養成訓育の外協和会公共団体特殊会社その他特殊団体の中堅職員を直接訓練することを目的とし、広く満洲国官吏各界の中堅指導者を養成する期間となった。」注②

上記のような日系関係者の回顧に対して、満系の第18期の李大可は「偽満時期的一所特殊学校」で次のように記している。

「 新京大同学院曽是偽満時期的一所特殊性質的学校、学校当時設在偽首都新京的南嶺、其旧址現在的南嶺吉林工業大学校園 這所学校、雖説名義上称之為学院。但実際上和一般的学府不同、乃是一所偽満洲国専門培訓官吏的機構。它的前身是在偽満建国之初、即大同元年(1932年)、由日本関東軍一手策劃創?的偽資政局訓練所。当時従日本国内招収一批日本人学員、前来満洲、実行短期訓練、畢業后派往各地担任市県政府指導官、参事官或副市長等職務、掌管各地方政権」注③

また、第15期の羅英、第17期の尚允川は「偽満大同学院雑記」で次のように記す。

「偽満傀儡政権初期年号『大同』(后又改元『康徳』)、一九三二年七月十一日偽満政府就将『資本政局訓練所』改以年号為称的『大同学院』。其目的是設置一所永久性的培養殖民地統治者機構。這所『学院』実際上是受関東軍直接控制的。他們派了一名退役陸軍中将井上忠也担任院長。『学院』成立初規模不大、但随着日本軍国主義不断拡張而逐歩加以改組和拡充、后来成為偽満培養訓練殖民地高級官吏的最高『学府』。」注④

この学院は実際には関東軍がコントロールするもので、後には満洲国が植民地の高級官吏を培養し訓練する最高学府となった。

「『大同学院』是一所特殊的教育機構、它既不同于任何学校、也不隷属偽政権文教系統之内、它是直属于偽国務院的。偽国務院在総務長官之下設有七个処和一个官房、用以控制偽政府各部、委、局。七処之一的人事処設有練成科、它就是『学院』的主管科室。但実際主管是関東軍。井上忠也従守備隊長退役后、就到院主持工作、一直到一九四五年日本戦敗前夕他離開。練成科所做的不外是高等官考試権衡、学院結業后、分配工作一類事務性的工作。到了偽満后期、『大同学院』的『学友』已編及偽満各級機関、儼然自成系統。」注④

大同学院は特殊な教育機構で、どんな学校とも違っていて、文教系統下に無く、国務院に直属していた。国務院総務長官の下の一つの人事処に設けられた練成科が学院の主管科室であった。でも、実際は関東軍の主管にあった。

「到了四十年代偽満后期、『学友』已編布東北各地。偽中央機関、中層偽職日籍官吏大部分是這些人。如偽国務院人事処長、偽民生部人事課長、偽経済部人事課長、以及各省、市、県偽職人員的骨幹等等。尤其県旗的副県長、偽参事官和指導員都是這些人充当。這些人大都是五期前后的学員。一至四期的則都晋昇到省或中央的各機要部門。他們身居要職、大権在握、是奴役和圧迫中国人的殖民統治者、是日本帝国主義統治我国東北三省的依靠力量。」注④

「学友」とは大同学院の卒業生仲間を指す。彼らが満州国の中央・地方の官吏として、要職に就き、大権を握り、中国人を奴隷のようにこき使い、中国人を圧迫した植民地統治者であり、日本の帝国主義が中国東北三省を統治するに頼りにした力であった。



満洲国当時の絵葉書

大同学院

②大同学院成立の経緯(自治指導部訓練所を継承、自治指導部とは)

 「昭和六年九月満洲事変勃発後の治安維持、民生の安定を図るために地方における自治、自衛組織としての治安維持会が各県に生まれ、これらを結合する中枢機関として、同年十一月自治指導部が発足し、それに伴い県における自治指導にあたるべき人材の教育訓練所が設けられた。 自治指導部が目指したものは、県における地方自治と県民自治による善政の実現であり、十一月十日に発せられた自治指導部?告第一号に『自治指導部の真精神は、天下の下に過去一切の苛政、誤解、瞑想、紛糾等を掃討し竭して極楽浄土の建立を志するに在る』ことを明らかにしている。翌七年三月満洲国建国と共に、自治指導部の機能は国務院資政局に引き継がれ、自治訓練所は資政局訓練所に引き継がれたが、更に同年七月資政局が廃止されるとともに大同学院が成立された。」注⑤と元満洲国警務総局長星子敏雄は紹介している。

 自治指導部については元関東軍参謀片倉衷が次のようなことを書いている。

 「一九三一年十月二十四日関東軍三宅参謀長は遼寧省治安維持会顧問金井章次に対し、予ねて青年連盟、大雄峯会、支那側有志とともに研究された『地方自治に関する要望』を行い、『地方自治に関しては地方維持委員会は地方自治指導部の区処を受く』ることを明らかにし『地方自治指導部設置要領』を概示した。 かくして新しい地方自治制の上に、民衆の幸福、国民生活の基礎ができて、前途に光明を与えた。十一月三日、于冲漢は奉天に出で、本庄将軍と会し、日支強調の上に其抱懐する所信を吐露し、・・・・・(筆者による省略)・・・・・。 十一月十日、自治指導部長に就任、日本人顧問を迎え組織を強化、県自治指導員は少壮有為の青年を充て、革新的で、覇気に富み、学識もあり胆力もあることを条件に選衡せられ、自治の促進から逐次建国運動へと展開された。」注⑥

 「『自治指導部?告第一号』は笠木良明が于の意を受けて草した。菩薩道の実践による王道政治とアジア解放が叫ばれている。 大同学院の前身である自治訓練所設置の最初の発案者は中野琥逸であった。・・・・・(筆者による省略)・・・・・。・・・・彼の有名な自治指導部?告第一号を発し、後自治訓練所に選定された城内大西門裡旧同沢女学校に移転した。・・・・・(筆者による省略)・・・・・。在任中最大の実践は、二月に入って建国促進運動に地方十三班を編成して、建国工作に参加したことである。各人百元の支度金を貰って中国服を着用し、毎班数千元の工作費と拳銃を懐にして、全満に挺身した。・・・・・(筆者による省略)・・・・・、概ね二月末日には帰奉して三月一日の自治指導部大講堂於ける満堂歓呼の建国式典に参列して、初めて大満洲国旗現出の感動を共にした。この体験の中から、あの不滅の自治指導部の歌というか訓練所の寮歌というか『大いなる哉満州は』が訓練所学生鯉沼?作詞、満鉄嘱託村岡楽童作曲によって生まれた。・・・・・(筆者による後略)」と自治指導部期卒業生の石井貫一・鯉沼?・森山誠之らが回顧している。注⑦

大同学院第1期生の田中鈞一も以下のように記述している。

 「関東軍の要請によって藤井重朗学監に選抜された六名(江口渉、岡部善修、蜂谷貞雄、橋本綱雄、山代千代蔵、田中鈞一)の者が関東軍の臨時軍属として、治安不良の東辺道一帯の宣撫工作に約一ヶ月間派遣される・・・・・(筆者による後略)」注⑧

 以上の日系関係者の回顧に対して、満系(当時の東北中国人の呼称)の回顧に次のようなものがある。大同学院学生であった第15期の羅英、第17期の尚允川の「偽満大同学院雑記」から、地方自治指導部についての記述を紹介しておこう。

 「 『九・一八』事変之后、日本関東軍為了使他們占領我国東北領土的合法化、詭称『地方自治』。関東軍司令部由旅順遷入瀋陽(日偽称奉天)之后、一手?一个所謂『地方自治指揮部』、大漢奸于冲漢被任命為『部長』、于是勾結日寇売国土而臭名昭著的。鞍山鋼鉄公司(当時称昭和製鉄所、以下一律称鞍鋼)的許多砿源都是経過他親手非法地『商租』、或以其它手段提供給日本財閥的。当年鞍鋼懸掛于手書扁額一塊、題的是:『宝蔵興焉』、這是他売国的自供状。『地方自治指揮部』吸収的成員、全是日本人、如満鉄的青年社員、満洲青年聯盟的成員等等。這些人経過短期的訓練、派到日寇占領的各県去做『宣撫』工作。其目的就是使許多地方基層脱利中国、実行所謂『地方自治』。后来偽満各基層行政単位-―市、県(旗)的副県長及参事官、偽指導官等、大抵都是這一批人物充当。」注⑨

 自治指導部というのは、日本が満洲国を建国するに当たって、その過程で生み出してきたものであろう。そのことは、上記のそれぞれの証言を付き合わせてみれば明らかであるように思う。

 自治、自衛組織が「生まれ」というのはまやかしで、創り出したというべきである。自発的に生まれた自治組織であれば、自治指導すべき人材を送り込む訓練所など作る必要はなく、訓練生が中国服を着て、工作費や拳銃を懐にして全満に挺身する必要はない。于冲漢を部長にしたのも「自治」という言葉の飾りでしかなかったろう。日本の財閥とかかわりのあった于が部長に祭り上げられたのも、尚允川の記述で納得できる。このとき使われた「自治」の概念は満洲国建国のために都合よく使われた概念であって、現在我々が考える「自治」の概念ではない。まやかしの語句だ。


講師、学生が抱いた満洲国建国の理想と満洲国の現実

しかし、建前上、自治指導部?告第一号にあるように「自治指導部ノ真精神ハ、天下ノ下ニ過去一切ノ苛政、誤解、瞑想、紛糾等ヲ掃討シ竭シテ極楽土ノ建立ヲ志スニ在リ」「此処大乗相応ノ地ニ史上未タ見サル理想境ヲ創建スヘク全努力ヲ傾クルハ、即チ興亜ノ大涛トナリテ人種的偏見ヲ是正シ、中外ニ悖ラサル世界正義ノ確立ヲ目指ス」注⑩など、理想を掲げる必要があったと考えられる。

ここには、「人種的偏見ヲ是正シ」などと、人類の普遍的な考えを掲げているようだが、これも土着の中国人の民族主義を排し、入植人(特に日本人)に土着人に劣らぬ権利を保障するための伏線を用意したものだと考えられる。于冲漢の意を受けたという形をとり笠木良明が用意したものだろう。

?告第一号の「人種的偏見ヲ是正シ、中外ニ悖ラサル世界正義ノ確立ヲ目指ス」は満洲国建国宣言にも「○(ヒソカという漢字1字)ニ惟フニ政ハ本ツキ、道ハ天ニ本ツク。新国家建設ノ旨ハ1に以テ順天安民ヲ主ト為ス。施政ハ必ス真正ノ民意ニ侚ヒ、私見ノ或存ヲ容サス。凡ソ新国家領土内ニ在リテ居住スル者ハ皆種族ノ岐視尊卑ノ分別ヲナシ。原有ノ漢族、満族、蒙族及日本、朝鮮ノ各族除ク外、即チ其他ノ国人ニシテ長久ニ居留ヲ願フ者モ亦平等ノ待遇ヲ享クルコトヲ得。」注⑪と受け継がれており、この額面に記載された理想に共感し賛同して、満洲国建国に夢を繋ぎ、大同学院に関与された講師や学生もいたことは否定できない事実である。

第3期生(昭和9年、康徳元年、1935年)の回顧文の最初のまとめには、次のように書いてある。

「執政溥儀が皇帝に即位し、年号は康徳に改められた。開拓移民政策の推進は土地の不当買収問題を契機に農民の不満を呼び、依蘭の謝文東らの叛乱事件を生じ、各地の治安も悪化した。学院出身者らは辞任を覚悟で軍との闘争に立ち上がった。一方、学院生は給与法によって公然化した民族差別に政府の責任者を呼びその撤廃を求めた。」注⑫

更に本文中には依蘭事件勃発を聞いた学生たちの思いが以下のように記述されている。

(文意理解のために、筆者が(若者たちの)を追加、<られ>を削除した。)

「理想と現実の相克、理想国をめざして集まってきた(若者たちの)青春へのかげりが(若者たちの)多感な正義感をかき立て<られ>たことであろう。連夜の如く第一線の県参事官の先輩達が学院を訪れ軍との板ばさみの中で、民衆庇護の立場から訴える生ま生ましい現地レポをきき眠れぬ夜を送ったものである。」注⑫

依蘭事件は1934年に三江省依蘭県土龍山で起きた反日武装蜂起である。このため土龍山事件とも言う。中国残留日本人孤児訴訟 判決文神戸地方裁判所第6民事部 裁判長裁判官橋詰均 裁判官山本正道 裁判官宮端謙一 平成18年12月1日判決言渡)中にも以下のように取り上げられている。

「移民用地の買収は,当初,関東軍により,強引に,買収価格も著しく低額で行われたため,現地住民の激しい反感を買った。昭和9年3月には,永豊鎮東方の土竜山に住む謝文東らが反乱を起こし,移民を襲撃して関東軍の連隊長以下17人を射殺する事件が起きた(土竜山事件)。」

この事件は数ヶ月に渡り、その後も影響を残した。

また、第3期生石垣貞一の回顧には、民族差別を公然なものにする日系優位の新給与法案が政府案として固まりかけた時に、法案粉砕の寮生大会などが開かれたことが記述されている。

これらの第3期生の記述から、理想を求めてやってきた学生たちの姿が見て取れる。第11期の桜井保之助の記述に、「日系学生には、日本国内で志を得ず、理想に燃え広い天地へと集まった者が多く」注⑬とあり、また建国大学第1期生で大同学院第16期生の顔廷超の回顧には「初期的日本学生中、有許多人不満日本的現状、評論天下国家大事」注⑭ とあることなどからも、多くの日系学生が満洲国建国に理想を寄せ、大同学院で学習していたことも事実だ。

衛藤利夫(衛藤瀋吉氏の父)講師は第1期生の卒業式の祝辞で、イギリスの詩人バイロンがギリシャの独立戦争に義勇軍として参加し、オスマントルコ支配に立ち向かった例を挙げ、「今日南嶺の健児が所定の業を終わり此より満洲国の大業に与かりその熱となり力となり命とならむとするに当り、我等は茲に九十七人のバイロンを見る。豈壮んならずとせんや。」注⑮と語りかけている。

「昭和七年以来、多くの紅顔眉秀でたる健児が、天よりも大なる壮途を抱き剛健の志をもって大陸に為すところあらんと、玄海の波を越えた。南嶺の野に鍛えられて、・・・・・(筆者による省略)・・・・・。志すところは五族協和の平和郷の建設にあったのである。」注⑯と衛藤瀋吉は大同学院学生について述べている。そして、大同学院の講師であった父利夫を語り「父は満洲の荒野に文化の花を咲かせることに、まことに生き甲斐を感じていた。・・・・・(筆者による省略)・・・・・。張学良の悪政を身をもって体験していただけに王道楽土の夢をひたすら追い求めた。その夢が現実の酷しさの前に崩れ去っていくのを、父は複雑な感情で見守っていたようである。・・・・・満州国に絶望した(筆者による前後省略)・・・・・。」注⑰と記述している。

このように、満洲建国の理想に夢を繋いだ衛藤利夫も満州国建国に絶望していったと、息子の瀋吉氏が述べられているように、現実は違っていたのである。大同学院第9期生の山口正は以下のように回顧している。「満洲国の政治は本来の建国運動の道から離れ、支那事変の日本軍支援となり、更に大東亜戦争への強行支援が待っていた。その結果、張学良軍閥政権時代以上の弾圧政治となり、崩壊への道を驀進し、」注⑱と。

このような満州国の現実から、以下のような中国人の見解が生まれてくる。

「根据偽満時期『大満洲帝国年鑑』記載:『以養成資質優秀之興業人才』、并根据所謂建国精神和日満協和思想、培養、訓練和?助偽満進行統治的文職官員、骨幹分子。可見、学院?学、表面目的雖然説是為了培養官吏、提高官吏素質、骨子里却是想以這些畢業生為核心、予備作為侵華的骨幹力量」注⑲

このように、偽満皇宮博物院の陳宏は学院の建前と現実の食い違いを指摘している。つまり、学院の学習は表面的には官吏を培養し、官吏の素質を高めるためのものであるけれど、その骨子はこれらの卒業生を中核とした中国侵略の中心となる力を準備しようとするものだったことがはっきり分かると。

同様なことを、第10期生の于也華も「偽満大同学院学習生活瑣記」で回顧していて、実質は中国侵略の中心となる力を準備するものだったと、そして1937年の盧溝橋事変(七・七事変)に大同学院と同じような新民学院が作られ、その教官となったり、華北地方行政機関の中心になったのが大同学院の卒業生であったことがその証明になると指摘している。

「学院?学、其表面目的雖然説是提高官吏的素質、骨子里是想以這些畢業生為核心、予備作為侵華的骨幹力量。后来事実也証明了這一点:『七・七』事変後、偽華北自治委員会也成立了与大同学院相似的新民学院;其部分教官及華北地方行政機関大部分骨幹都是大同学院畢業生。」注⑳

理想を求めてやってきた日本の若者たちも、大きな歴史の歯車の中で、その意図や理想と異なった動きに巻き込まれていったに違いない。そして、現実にはその志とは逆の役割を果たしてしまったことになる。

 












満洲大同学院のメダル、

「王道自治」の他に

「満州国大同学院」の文字

注A 下の注①と同じ著書の96頁

注① 『渺茫として果てもなし―満州国大同学院創設五十年―』の163頁

昭和56年大同学院同窓会発行 (旧字は新字に改めた)

注② 上掲の注①に同じ著書の10,11頁

注③ 『長春文史資料』1990年第四輯の「偽満時期的一所特殊学校」

注④ 『遼寧文史資料』第八輯「偽満大同学院雑記」 1984年

『難忘的十四年 紀念抗日戦争勝利四十周年』「偽満大同学院雑記」転載

『見証 日本侵華殖民教育』遼海出版社「0770」2005年6月

注⑤ 上掲の注①と同じ著書の3頁

注⑥        上掲の注①と同じ著書の14頁

注⑦        上掲の注①と同じ著書の20,21頁

注⑧        上掲の注①と同じ著書の25頁

注⑨        上掲の注④に同じ

注⑩        上掲の注①と同じ著書の』161頁

注⑪        上掲の注①と同じ著書の』162頁

注⑫        上掲の注①と同じ著書の』34,35頁

注⑬        上掲の注①と同じ著書の』70頁

注⑭        『見証 日本侵華殖民教育』遼海出版社「0036」2005年6月

注⑮        上掲の注①と同じ著書の163頁

注⑯        上掲の注①と同じ著書の128頁

注⑰        上掲の注①と同じ著書の8,9頁

注⑱        上掲の注①と同じ著書の61頁

注⑲ 『日本侵華与中国抗戦研究』吉林文史出版社 2006年5月

        「偽満洲国専門培訓官公吏的機構―新京大同学院」陳宏

注⑳ 『長春文史資料』第2期、1983年5月

偽満大同学院学習生活瑣記」于也華