09 春節に

長春の般若寺を参拝

加藤正宏


春節に長春の般若寺を参拝

加藤正宏

 中国の人々にとって、春節は特に大切な時期で、盛大に賑わって過ごす伝統的な祝祭日であり、その前後2週間ほどが休暇になることは前々から聞いていた。

 戊子の年(2008年)の春節を長春で過ごした。日本の正月にも帰国せずに、迎えた春節ではあったが、期待に反して、「無聊(退屈で、所在無く、暇を持て余し、つまらない)」なものであった。そんな中、般若寺の廟会だけは祝祭気分を少し味わせてくれた。

道路上の花火売り場

打ち上げた花火の滓

農業暦の春節と立春

 春節前、新聞紙上に「腊八節」、「小年」など、春節に関係のある言葉を見つけ、どんなことがあるのだろうと、期待し、注目して過ごした。

八(ラパー)とは農業暦(旧暦)の12月8日で、この日に?八粥を食べる習慣なのだそうだ。この時期が最も寒くて、それに対処するためだろうか、栄養を考えた各種の穀物や豆それに棗や蓮の実などを入れた?八粥を食べるのである。一説ではこの日を春節の開始と考える。

1月30日、花火を打ち上げる音が、あちらこちらで、ひっきりなしに続いた。近くで鞭炮(ビエンパオ)のバンバンバンとなり続ける音も絶え間がない。まだ、旧暦の大晦日(除夕)や新年(春節)ではないのにと思っていた。翌日の新聞、「新文化報」を見ると、その日は?月(ラユエ)23日(農業暦の12月23日)で、この日を「小年」というのだそうだ。中国最大の伝統的な節日が春節である。これを「大年」と言い、それに対して「小年」と言うのがあるのだそうだ。この「小年」を春節の開始とする説もある。春節の慶祝活動の伏線になる日で、花火の音で年明けの門を震わせて開けるのだそうだ。ほとんどの道路には花火と鞭炮を積んだ売り場がここかしこに出来上がっていた。この花火と鞭炮は元宵節(農業暦の1月15日)までずっと続いたが、特に激しかったのは除夕であった。テレビの特別番組も音は爆竹の音でかき消され何も聞こえない情況になっていた。

北方では伝統的な習慣で、「小年」に餃子を食べることになっており、どの餃子の店も一杯だったそうである。私も餃子を食べる日だと聞いていたので、理由も分らずにその日冷凍の餃子を解凍して食べた。

余談だが、ちょうどその頃、中国の冷凍餃子で中毒を起こしていることをヤフーのネット上で目にしていたが、既に半分食べて(何の問題もなかった)冷蔵庫に残っていた分なので、問題なしと思って食べた。ネットの記事によれば日本では大騒ぎ、でも、このことを神経質に考えたら、とても食事はできない。ほとんど毎日自炊していているのだから、冷凍食品を使わないとしても、どの野菜も農薬漬け、どの果物も農薬漬けだと考えると、食べるものが無くなってしまう。13億、14億の人間が同じ条件で生活しているのだ。あまりにも神経質になったら、中国では生きていけない。良く洗い(熱湯が出るから)、大量に取らず、口の中で違和感があればやめればいいと私は思ったものだ。

本題に戻す。

春節には伝統的民俗的な行事が街中で見られるのではなかろうかと思って、職場の日本語学校の職員に訊ねたり、街中で知り合いになった中国人に聞いたりしたが、街中では特に何もないという返事である。私としては、高下駄踊りや神戸の中華街で行われている龍踊り(蛇踊り)などが春節には見られるのではないかと期待していたのだが・・・。

古玩城(骨董デパート)で知り合った書法家にも訊ねてみた。筆談も加え、一時間強話した。「小年」「大年」「過年」「除夕」「春節」「立春」「農業暦」「干支の動物」「易」「陰陽」「八卦」から「輪廻」「六道」などの仏教の話題まで話は広がった。春節に関しては、私の期待しているような春節の民俗的なものは現在は見ることはできないとのことであった。この時期はみんなが親元に帰ってきて、一家団欒を楽しむのが第一であって、外部に楽しみを求めるようなことはほとんど無いとのことである。この古玩城のどの店も十日間ばかりはシャッターが下ろされ、営業されないでひっそりとした状態なるとのこと、大きな料理店やスーパー除いて、どこの店もやはり同じで、街全体のほとんどの店が閉ざされてしまうのだそうだ。

話の中で、私が新しく得た知識があった。

「立春」と「春節」は違うのだということ、今年は西暦の2月4日が「立春」、2月7日が「春節」になっている、年によっては「立春」が「春節」の後に来ることもあるそうだ。彼の話で面白かったことは「立春」以降が新しい干支になり、春節の7日から新しい干支になるのではないとのことで、今年は4日から鼠の年になるのだそうだ。新年の3日前から鼠年になるわけだ。また、逆もあって、新年になってもまだ新しい干支にならず、旧の干支の年という日も年によっては出てくるわけだ。

これは農業暦が太陰太陽暦によっているからのようだ。太陽暦と太陰暦を組み合わせることで、年によって「立春」と「春節」のズレが生じているわけだ。

私は知らなかったのだが、過去の日本人たちは既にこのことを知っていたようで、古今集の春の巻の冒頭にも「年(とし)の内(うち)に春(はる)は来(き)にけり 一年(ひととせ)を去年(こぞ)とや言(い)はむ 今年(ことし)とや言(い)はむ」(伝本によって一部の漢字が仮名書きになったり、仮名書きが漢字になったりしている)と在原元方が詠んだ句があるという。

とにかく春節を迎え、各戸の門口は新しい対聯が張り出された。年画を飾る家もあるという。

20年前の対聯と年画

現在の団地アパートの対聯

長春般若寺及びのその春節廟会

 最後に書法家がアドバイスしてくれたのが、春節の時、長春最大のお寺・般若寺では廟会が開かれているかもしれないというものであった。事実、廟会があった。この長い春節の休みの期間、唯一祝祭らしい雰囲気を与えてくれたのがこの廟会だけであった。後の日々はほとんどの店が開かれておらず、ほんとに外国人にとって「無聊」な春節の休暇期間であった。

 唯一祝祭らしい雰囲気だった般若寺の廟会と般若寺そのものを、春節を伝えるものの一つとして、御紹介しておこうと思う。

 般若寺は人民広場の近くにあり、長春大街に南面で接した、敷地一万四千平米強の長方形、建築面積二千七百平米になるお寺である。中央の門には「護国般若寺」、向って左脇門には「禅林」、右脇門には「清浄」の扁額が、壁一面には「南無阿弥陀仏」の六文字が、それぞれの語句は右から書かれている。

 中に入ると、左右に鼓楼(向って左)と鐘楼が建つ、これらの腰には地獄の絵巻物が巻きつけられていて、その前で跪き礼拝する人々、更にその前を絵巻物を見て廻る人が見られる。楼上には鐘を叩いている僧がいる。

 ここから奥に三つの大きな建物が一直軸線上に建てられている。

 先ず天王殿、笑い顔の弥勒菩薩(つまり、あの腹の大きい布袋)を中心に、東に琵琶を持った持国天王と宝剣を手にした増長天王、西には龍を手に巻きつけた広目天王と傘を右手に持ち左手に白栗鼠を乗せる多聞天王が安置され、それぞれの四天王は足下に今にも動きだしそうな八妖怪を踏みしだいている。後方には金剛の杵を持つ韋駄天菩薩が安置されている。

次いで、大雄宝殿、釈迦牟尼(お釈迦さん)を中心に、釈迦の傍には一番弟子の迦葉尊者、二番弟子の阿難尊者が、そして両側には十八羅漢が安置されており、後方には観世音菩薩が安置されている。

 最も奥の三つ目が西方三聖殿、阿弥陀仏を中心に左(向って右)に観世音菩薩、右に大勢至菩薩が安置されている。この建物の前面には「南無阿弥陀仏」と墨で書かれたような文字を記す、金色の一段大きな扁額が掛かっている。その下には黒地の扁額に金色で「垂慈接引」とあり、4本の朱の柱を金色の額が前面を覆う。その額にも墨で書かれたような文字が見られる。右から「阿弥陀仏大慈父」「慈悲喜捨悉普度」そして扁額があり、次いで「盡於未来無休息」「接引衆生生浄土」とある。阿弥陀仏が大慈悲で衆生を救済し、未来永劫休みなく、衆生が浄土に生まれ変われるように導いてくださるというところだろうか。この建物の東側は方丈室、西側は功徳室、二階は蔵経楼になっている。

 この般若寺には、鼓楼と鐘楼とこの一直軸線上の三つの大きな建物以外に、四つ建物が配置されている。

天王殿と大雄宝殿の間の東には伽藍菩薩殿があり、殿中には『春秋』の書を右手に持つた仏に化身した関羽が安置されている。軸線の西には達摩殿、別名祖師殿がある。

 大雄宝殿と西方三聖殿の間の東には観世音菩薩殿が、軸銭の西には地蔵王菩薩殿がある。

 これ以外に般若寺外部からも見える露天の観音像が安置されている。

 寺は冬の時期、いつもは門を閉ざしているが、春節のこの日には正門だけでなく横門、裏門全てが開かれていて、多くの人がやって来ても、お参りできるようになっていた。中国人はこんなにも信心が厚いのかと思われるくらい、大勢の人がやって来ていた。線香をあげたり、供物をあげて、跪き真剣にお祈りしている人も多かった。その多くの者がそれぞれの仏に喜捨するつもりで来ているようで、1元、5元、10元をたくさん用意していて、つぎつぎと賽銭箱に入れたり、線香を買ってお祈りをしている。

 こんなお祭り気分の雰囲気の中にも、現実が顔を覗かせていた。

 露天商以外に、門の附近には身体が悪い人たちが、その悪いところをこれ見よがしに見せつけて、「阿弥陀仏」と言いながら、喜捨を求めている。凝視できないような身体障害の部分を殊更さらしての物乞いである。腰のすぐ下からどちらの脚も無い者とか、皮膚が腐りかけているような脚を見せている者とか、口を開けてどこを見ているのか定まらぬ目をした子供を抱く女性とか、確かに哀れであり、気の毒でもある。写真に記録しておきたいとは思うが・・・・レンズを向けることができなかった。心の中にはやりきれない気持ちが広がっていった、何か彼らに力を貸してあげたいとの思いと同時に、障害者を人の目に晒して金儲けしている人物がそこには介在していて喜捨を全て吸いあげてしまうのだとの思い(自分自身では絶対に移動できない身体障害の人たちである)が錯綜して・・・・。また障害者に便乗しているような者も居て、胸糞悪い気分になった。杖をついて歩いているが、どこも悪く無そうな者まで物乞いしている。彼らは要領がいい、仏に喜捨する者が賽銭箱にお金を投じるや、杖をつく男は一歩近づき「阿弥陀仏」と声をかけ、手に持つ椀を差し出す、ほとんどの者が賽銭箱に入れるのと同じように椀にもお金を入れていく。

 参拝者は功徳を積み、天国に行きたいのだろう。物乞いする障害者を無視する者が少ない。鼓楼と鐘楼それぞれの腰は地獄絵の巻物で巻かれていた。正に地獄を描いた絵である。地獄は百三十六もあるそうだが、ここには数十の地獄が描かれていた。吸血地獄や餓鬼地獄などもそうである。絵の下に解説がしてあった。例えば、吸血地獄は生前に職権を利用して窃盗行為をしたり、財物を我が物のように占有したり、弱者からものを剥奪したりすると、この地獄に落ちる。大蝙蝠に血を吸われ、その苦痛のなかで全ての血を吸い尽くされて死ぬのだが、薄気味悪い一陣の風が吹くと、またまた生き返り、そしてまた大蝙蝠に襲われ、血を吸われ、苦しみながら、死ぬ。永遠にこのような生死を繰り返す地獄なのだそうだ。餓鬼地獄は生前に吝嗇、貪欲で、布施も行わない者が落ちる地獄だそうだ。地獄では喉が渇き、飢えて腹が空き、自らその身を燃やすなど、大きな苦悩の中で、涙如雨堕、啼哭悲泣、呻吟悲号、辛酸痛苦になる地獄なのだそうだ。解説の最後に、慈悲の観音が救ってくださるから、今すぐ大懺悔を行い、行動すれば、迅速に餓鬼道から離脱できると書かれている。

 仏像や障害者に喜捨しているのは餓鬼地獄に落ちないためなのか。功徳といえば、寺の周囲では小鳥が売られている、一羽3元だと、売主は言っていた。買って、小鳥を解放してやるのだ。境内の木は小鳥で鈴生りになっていた。買って放してやった者は良いことをしたことになるのだろうが、売り手によって売らんがために小鳥は囚われの身になったのだ。買い手に元凶あると言ってもおかしくない。これで功徳があるなんて考えるのは人間の御都合主義そのものでしかなかろう。敬虔な仏教の国タイでも同じことをしていたのだが・・・・。



般若寺の正門










般若寺の鐘楼














多くの人で賑わう境内























跪きお祈りする人と地獄絵巻

地獄は百三十六もある

観世音菩薩の救いを信じて

地獄には落ちたくなく真剣にお祈りする人々












売られる籠の中の小鳥と解放され鈴生りになる小

 この般若寺、正門には「護国般若寺」の額が掛かっている。しかし、現在の正式な名前には「護国」は付かない。1923年、ハルピンの高僧を長春に迎え、十四日間にわたって「般若心経」と「金剛般若経」を講じてもらったのを機会に、寺が建てられた。このため、名前は般若寺と名付けられた。西三馬路と西四馬路の中間の西端つまり人民大街の旧市政府(満洲国期の康徳会館)と長春市医院(旧東京海上火災保険会社ビル)の中間辺りが寺の建てられたところであった。ところが、1931年に都市建設企画による道路建設によって、移動せざるを得なくなり、現在の人民広場近くの長春街に面する敷地に移ってきた。この移動時期というのは満洲事変(九一八事変)から、満洲国が創られる時期にあたり、民衆の支持をも考えてか、再建の費用が満洲国から拠出され、1934年に完成している。国の建設資金拠出というようなこともあって、寺の名前に二字が加わり「護国般若寺」と改称され、その扁額が今も残る。1936年に満洲国仏教総会が成立し、この寺に本部が置かれ、その内部は日本系統と満洲系統に分れ、日本人も副会長の一人としてその任にあたっていたという。この般若寺は移転及び満洲国仏教総会本部のあったところとして、日本とも関わりのあった寺だと言える。

 扁額はそのままだが、満洲国の滅亡後に護国がはずされ、現在は般若寺の名前に復帰し、国家重点文物保護単位になっている。

元宵節(農業暦1月15日)までに帰国したこともあって、この般若寺の廟会以外、春節の長い休暇はほんとに無聊であった。しかし、三十年ほど前に成都で経験した例から考えると、元宵節には灯会などの賑やかな催しがあり、沢山ぶら提げられる提灯にはいろんな「謎語」が書かれ、その「謎語」楽しむ人々で大きな公園は賑わうのではなかろうか。「謎語」の「一加えて九百九十増え、一減らして九減るのは何か」などに頚をひねった過去を思い出す。(2008・3・10)

 

参考にした書籍

*「南関文史」(第一輯) 南関区宗教概況及重要廟宇教堂簡介 張淑栄

中国人民政治協商会議長春市南関区委員会文史資料編委 1991年12月

*「長春市史志資料選編」(第一輯) 長春市地方史志編纂委員会 1987年

*「百年長春」 百年長春編委会 吉林美術出版社 2000年

*「長春史志」聡第34期 長春市地方史志編纂委員会 1991年

*「長春市文物志」 吉林省文物編委員会 1987年

20年前の成都での灯会