12 畫家聾仙と

ヤマトホテル

加藤正宏

旧長春ヤマトホテルの門と石版

畫家聾仙とヤマトホテル

加藤正宏

 

一、出会いは長春のヤマトホテル、落ち合い先は大連のヤマトホテル

 面白い話を目にした。仁林俊郎著『水墨画家「仁林聾仙の足跡(葦陣墨舞)」』の中の一つのエピソードである。かの満洲時代の話だ。軍務を忌避し離脱した軍医と当時の有名女優の逃避行である。女優は峰吟子(日活女優)、軍医と女優の最初の出会いの場は新京(現在の長春)駅前のヤマトホテル、そして、軍医の軍務離脱に到った理由は細菌を扱う特殊部隊への転属命令であった。

旧長春ヤマトホテル(春誼賓館)とそのロビー

 このシリーズ長春1の「日本に関わりのあった長春に住んでみて」で新京(長春)ヤマトホテルを紹介した。そのHPで、現在は春誼賓館となっているこの建物の来歴を語る石版に「日偽軍政要人和社会名流」が多く利用したことが刻まれていることを述べたが、峰吟子もこの軍医もそのような一人であったのであろう。またシリーズ長春6の「関東軍第100部隊遺跡 一汽 熱器廠」で長春にもハルビンの731部隊と同じく、病原菌の研究をしていた部隊があったことをご紹介した。光復(1945年の日本の敗戦)直後に、長春周囲の農安県、徳恵県、永吉県で霍乱(コレラ)が発生し、多数の人が亡くなったのは100部隊の仕業だと考えている人物にも出会ったことも話した。彼の近所の家では一家八人全員が亡くなった家もあり、彼の家でも二人が亡くなったと言っていた。とにかく、長春にもハルビンの731部隊と同じような部隊があったという現実を、この軍医の忌避理由が補強しているように思える。

 新京から大連、大連から朝鮮経由で日本へとの逃避行、逃避行あたって、「決行の日がきた。二人はハルビンのイブェルスキー寺院で結婚式を挙げ、松花江の畔にあるレストランに入った。」とある。仁林俊郎氏に直にお話を聞く機会があった。そのお話では、頁への割付などを考慮されて少し端折って要約されたとのこと、それを補足すると、その逃避行は先ずは北へ向い、ハルビンに到り、そこでエピソードのような展開になったのだそうだ。岡田嘉子と杉本良吉の樺太越境の逃避行が頭の中にあったのかもしれない。

イブェルスキー寺院はハルビン駅のすぐ近くで、鉄路を越えた松花江側にある。寺院はロシア式の葱坊主を抱えたような尖塔のある教会であった。優雅な六つの葱坊主尖塔のあるバロック式のロシア正教会の建物で、1908年に建てられている。絵葉書の写真は当時の様子を示している(撮影の向きで、五つの尖塔しか見えないが・・・)。しかし、現在は見るも無残な感じになっている。文化大革命の時期(1960年代後半から70年代前半)に破壊が進み、尖塔はすべて取り払われてしまった。それだけでなく、本来の建物に倉庫まで加えて改造されてしまっている。また、この地域の再開発が近いうちに行われるようで、完全にその姿を消すのもそう遠くはないようだ。逃避行中の彼らにとって感情の盛り上りが最高になったであろう場所がなくなってしまうようだ。

ハルビンほどではないが、逃避行した二人が出会った長春にもロシア人の居住区があった。もともと長春はロシアが造った都市であったし、日露戦争(1904-05年)後も1935年の北満鉄路が満洲国に売却されるまでは長春とハルビンの間の鉄道はロシアが支配しており、このために長春市の一角にロシア人の居住区があった。このロシア人の居住区についてはシリーズ長春8の「長春の旧ロシア人街」でご紹介している。ご覧いただければ幸甚である。

前置きはこれくらいにして、「日活女優と軍医の逃避行」のエピソードを仁林俊郎著『水墨画家「仁林聾仙の足跡(葦陣墨舞)」』からそのまま引用させてもらおう。

日活女優と軍医の逃避行

 前述の山田賢二氏による「(美濃国)北方生まれの日活女優峰吟子物語」に面白いエピソードがある。

 アメリカパラマウント映画の日本総支配人である日系米人ローイ田中の夫人峰吟子は思いもかけないことから「この太陽」という映画の主演女優となった。容姿端麗、すらりと背の高い均整のとれたスタイルは日本人離れしていて、ハリウッド女優のクララ・ボウに比肩されイット女優、バァンプ女優などと呼ばれたちまちにして大女優となった。付き人は当時十八歳ぐらいの山田五十鈴である。

 ある時、夫のローイ田中が満州にパラマウント社を作ることになり、峰吟子は女優をやめ突然大連に移住することになった。優雅な生活を営んでいたが、昭和八年所用のため日本に帰っていた夫が列車から転落死する悲報が届いた。莫大な借財が残されたが、満州では峰吟子は人気があり、満州映画協会設立の動きもあって、映画会や社交界で引っ張りだこであった。急ピッチで近代化の進む新首都新京(現長春)ではスターであった。甘粕正彦・石原莞爾など政財界の大物、森繁久弥・川島芳子・李香蘭の話しなどが続く。吉野町のサロン「春」で帰り仕度をしていたある時、峰吟子は眩暈がして倒れ、新京のヤマトホテルに運ばれた。偶然居合わせた軍医が翌日まで寝ずに手当てをしてくれた。その後、介抱してくれた軍医磯部鷹三少佐がサロンに顔をだすと峰吟子は喜び特別待遇であった。

 そしてある日、磯部軍医は深刻な顔をして峰吟子のところへやってきた。転属命令を受けたがそこへ行きたくないので軍務離脱することを告げ、別れを言いにきたのである。それは細菌を扱う新設の特殊部隊である。この時、峰吟子から「逃げるのなら私も連れて行って」といわれ、磯部はびっくりした。少し前に岡田嘉子と杉本良吉の樺太越境の逃避行があったばかりである。

イブェルスキー寺院

 決行の日がきた。二人はハルビンのイブェルスキー寺院で結婚式を挙げ、松花江の畔にあるレストランに入った。ここで日本人らしき人が絵を描いていた。声をかけると筆談となったが仁林聾仙である。磯部は軍務放棄の駆け落ちの身分のため、汽車の切符を手に入れることさえ危ないことを説明した。連れの夫人が峰吟子であることも解かり事情を察した聾仙は一緒にどうぞと言って迎えの車に乗せた。大連までの切符を満鉄社員ということで買った。磯部は聾仙の付き人とし黒眼鏡をかけさせて傍に置き、聾仙の付き人を峰吟子と夫婦のようにして隣の車両に乗せた。途中、顔見知りの車掌が聾仙に隣の車両で峰吟子を見かけたと告げた。横に座っていた磯部はびっくりである。聾仙は隣の車両に行き、私と磯部は次の五家駅で降りる。あなた達はこのまま大連に向かいなさい。そしてヤマトホテルで待ち合わせることにした。五家駅に降りると「日本人此処慮に居る」の碑が立っていた(内容は省略する)。聾仙は車掌が峰吟子をみたことが伝わって、これまでうわさがでていたことから公安委員が磯部を捕まえに来ると考えたのである。事実、次の駅から取り調べの鉄道公安員が乗り込んだが、峰吟子の相手が違っていたので事なきを得た。聾仙の直感力には驚かされる。その後、大連のヤマトホテルで今後の身の振り方について相談をした。当分大連に隠れ、大連からは直行の船で日本に渡るより朝鮮を経由して渡るほうが無難との結論がでた。ひとまず静ケ浦の海に近い聾仙の家に行き、すき焼きパーティーと称して珍客二人を向かえ賑やかな歓談が始まった。大河内伝次郎との共演、芸能界野球大会のことなど夜が更けても話は尽きなかった。聾仙は色紙に絵を描いて渡した。二人は大連で新婚旅行まがいの休日を楽しみ、聾仙の斡旋で満鉄系の大連汽船の五千噸クラスの貨物船に乗せてもらい、朝鮮の仁川経由で日本へ脱出した。ひとまず磯部の故郷である豊橋に帰り、身を潜め所在を明かさず医院を開業、戦後は豊川保健所長を勤めている。峰吟子は平成五年に亡くなった。

 以上の引用で分かるように、この逃避行で重要な役割を担っている人物が仁林聾仙である。もし聾仙との出会いが無かったら、また逃避行中の聾仙の機転が無ければ、大連のヤマトホテルで二人は落ち合うこともできなかったであろう。そして、この逃避行は悲劇的なものになったであろうことは明白である。さて、仁林聾仙とは如何なる人物であったのであろうか。 

二、仁林聾仙と大連ヤマトホテル

長箭漁面図 ニ曲一双屏風

 大正14年(大垣郷土資料館蔵)

 仁林俊郎氏によると、明治維新直前の1865年(慶応元年)に聾仙は大垣で生まれている。幼少期に池に落ちて耳に水が入り、これがために聾者になったという。雅号聾仙のいわれはこのことによるのであろう。ところで、聾者になったからといって、一般人よりも負の面が大きくなることも無かった。仁林俊郎氏の文をそのまま引用すると「六歳頃までに『いろは』四十八文字を習い知っていた。このため話すこと、学ぶことには事欠かず、平仮名、片仮名、漢字、楷書、草書を学び、また多くの漢詩などもよく勉強してこれをよく詠んでいた。従って、筆談は勿論問題ないが、指先で掌に字を書いても、あるいは空に書いても読むことができ、常人の真似のできない才能を示した。」ということである。そして、画才に優れたものを見せ、独学で狩野派を、次いで京都に出て四條派の師よりその画風を学んだとのこと。その才能は開花し、1903年大阪で開かれた第五回国内勧業展覧会で、聾仙の出品した水墨画「初冬山水」は見事に二等銀杯を受賞し、明治大帝の御用品となったという。1915年の朝鮮始政五年共進会美術部においても受賞している。この間、来日し大垣に来られたドイツの世界的に有名な細菌学者ロベルト・コッホ博士に、大垣医師会が贈った墨絵「養老瀑布」は聾仙の手になるものであった。このように、画家としての基盤を着実に築きあげている。

 その聾仙がどうして、中国に渡ることになり、最初に紹介した女優峰吟子と軍医の逃避行に関わるようになったのであろうか。

 西澤泰彦著『「満洲」都市物語』河出書房新社の57頁に満鉄二十周年記念祝賀会(1927年4月6日)の写真が掲載され、その写真説明に「大連ヤマトホテルの宴会場:内装はルネサンス様式だが、壁の絵は中国画。」とある。事実、写真には宴会場の奥の壁に大きな山水画が見られる。この中国画、実は日本人の描いたものであった。そう、話題にしてきた聾仙の描いたものなのである。

 聾仙が中国に渡った事情を、仁林俊郎著『水墨画家「仁林聾仙の足跡(葦陣墨舞)』からそのまま引用してみよう。

(満州へ渡りヤマトホテルの壁画を制作)

 一九ニ○年(大正九年)、聾仙は南満州鉄道株式会社(以後満鉄とよぶ)総裁「野村龍太郎」の招きを受けて、単身満州に渡った。当時は満州建設の時代であり、大連は諸外国の人々の出入りが頻繁であった。ところがこれらの人が利用する立派なホテルがなかった。これに目を付けた満鉄は東洋一の立派な「ヤマトホテル」を建設することになり、ホテルの大食堂を飾る壁画の揮毫が企画された。

 支那にも大家がいたが、同じことなら日本人にということになり、社長と同郷であり、懇意にしていて、画才の認められていた聾仙に白羽の矢が立てられた。そうして満鉄幹部の安藤又三郎氏(後の大垣市長)からの伝言により揮毫することになった。

 聾仙は描くべき画材を求め、満州各地、蒙古の奥地そして朝鮮へと不自由な体でスケッチ旅行に出掛けた。抗日組織のいる秘境のような地域に分け入るのである。このため、スケッチ道具の他に、身の保全を図るための必需品としていつも肩から大きな袋を提げていた。あの英国製無鶏頭の元折水平二連発の鉄砲である。このような苦労を重ねて、多くの画材を持って帰り下絵を描く、作成中に不満を感じてまたスケッチに出かけるというように四季を通じて歩き廻っていた。

 そして、やっと構想が纏まったがこれを描くための広大な画室と大きな絹布がなかった。そこで、大連で天井の高い洋間の家を借り、畳を入れた。絵絹は、京都の織元に特別大きな織機を造らせて織らせる。画筆、絵具なども京都に大量に注文しては描き続け、およそ五年の歳月をかけ完成させた。

 大正十二~十三年頃であった。

 壁画は全部で六枚あって、一枚の大きさは、畳三畳分を越えるような大きなものであった。

 題目は次の通りである。

一、 吹雪の北陵

一、 驟雨の千山

一、 遼河の夕照

一、 蒙古草原の駱駝隊

一、 安奉線の釣魚台

一、 金剛山萬物相の暁霧

 

 生活基盤もようやく確立し、この大らかな地満州がおおいに気に入った聾仙は、一九ニ四年(大正十三年)内地より家族を呼び寄せ大連に永住することになった。住まいは、静ケ浦という海に近い大連市聖徳町三丁目九十七である

 そして、ヤマトホテルの大食堂に家族一同を案内した聾仙は、大役を果たした満足感と、自信のある大作を子孫に残すことができた喜びを顔満面に表わしていた。

(ヤマトホテルの壁画が消える)

 太平洋戦争終戦の一九四五年(昭和二十年)八月二十三日、ソ連軍が怒涛のごとく進軍、ヤマトホテルはソ連軍司令部として接収され、ヤマノフ少佐が司令官として乗り込んできた。ソ連軍はスターリングラードでドイツ軍と戦った悪名高き囚人部隊である。略奪、暴行は野放しの状態で、ホテルの豪華な調度品、美術品一切を掻っ攫って逃亡、一夜明けるともぬけの空になっていた。

 絵が消えたのはその時だったのであろうか。知るのは地下に眠る聾仙のみである。

 このため壁画がどのようなものであったかは、窺い知ることはできないが、ただ一枚の壁画「金剛山萬物相の暁霧」を前にした記念写真が残っている。これから絵の様子と、およその大きさを知ることができる。写真左が聾仙、右が長男暎氏。手前の盆栽は暎氏が高峰老鉄山に登った時、山頂近くの断崖に生えていたニシキ木を持ち帰り、聾仙が丹精に仕上げたものである。

 この壁画が完成してから満鉄、朝鮮鉄道、その他個人から揮毫の依頼が増え多忙を極めた。

(甥がヤマトホテルの壁画を見る)

 聾仙の兄虎次郎の五男仁林交一(筆者の父)がヤマトホテルの壁画を見た時の様子をこう話していた。

中国服姿の聾仙

聾仙とご子息

 交一は太平洋戦争に召集され一九三八年十月十二日に南支那「バイアス湾」に敵前上陸した。部隊はこの上陸前に大連に集結した。この時、交一は生前の名残に、叔父聾仙の絵を一目見んものと、部隊の大休止があったのを幸いに、寸暇を得て「ヤマトホテル」に足を運んだ。案内されて入った時、まず大きな食堂に面食らった。そして聾仙の壁画を見て、あまりの大きさにまた面食らった。右壁に三枚、左壁に三枚。その大きさは裕に畳三枚分あり、美しい絵だと思った。自然の美を徹底的に追求、再現してこんなに立派な美しい絵が描けるものかと、呆然とし時の移るのを忘れて眺めていたとのことである。(交一は後年水墨画を描き、全日本水墨画展第一回から亡くなる第七回まで連続入選)

なお、現在大連のヤマトホテル食堂には山水の壁画が飾られているが、これは別の画家のものである。

 以上、今回は仁林俊郎氏の著作を基に、満洲国時期の隠れたロマンとそのロマンを手助けされた日本画家の紹介をさせてもらった。私自身、まだこのエピソードを知らなかった今世紀の最初の年に旧大連ヤマトホテル(大連賓館)に宿泊している。部屋の天井がやけに高かったことが印象的である。もちろん宴会場の天井の高さはそれどころではなかったろう。その高い天井に到る壁に畳三枚分もの絵が六枚も描かれていたのだから、壮観なことであったろう。聾仙の大連ヤマトホテルの壁画、写真であっても良いから、全て見てみたいものだ。ここで結婚式をあげられたり、宴会をもたれて、写真を撮られた方も居ることであろう。写真の背景には、きっとこの聾仙の絵が写っている筈、これらの情報をお持ちであれば、このHPに記載したメール(masa75h2000@yahoo.co.jp)に是非ご連絡ください。

 

 著者の仁林俊郎氏は聾仙の縁戚にあたられる。俊郎氏のおじいさんの弟さんが聾仙である。俊郎氏のご尊父である交一氏(聾仙の甥)も後年は水墨画を描かれ、毎年のように全日本水墨画展に入選されていた。

 残念なことは、聾仙のご家族が敗戦後帰国されるにあたって、中国での作品のほとんど、そして、清朝の恭親王とは聾仙は親密な交流をされていたが、その親交の証しになる品々を持ち帰れなかったとのことである。現在、聾仙の絵を公的に所蔵されている所は大垣郷土資料館である。聾仙の大連ヤマトホテルの壁画を見ることができないまでも、上記逃避行のロマンに思いを馳せながら聾仙によって描かれた絵画を鑑賞しに行ってみたいものである。

(2010年8月末記)

旧大連ヤマトホテル


ホテルのパンフレット

中国語・日本語


部屋の天井は高い

人物160センチ