02 中華人民共和国糧票 

その17

加藤正宏

50年代、60年代の中国の小中の地理教科書から引用多数

中華人民共和国糧票 その17

加藤正宏

 今回と次回は山西省の糧票を取り上げる。山西省は昔には晉と呼ばれていたところである。周の後半、つまり東周(紀元前8世紀前半に成立)の春秋時代に春秋の五覇の一つに数えられたのが晉である。この晉の重臣たちによって、晉が趙・魏・韓に分割され(紀元前5世紀末)、戦国の七雄の並び立つ戦国時代に入ったと言われる。とにかく、歴史を有する地域である。そして、更に伝説にまで遡って行ける地域である。

 中国の旅行業者たちの間には、次のような言葉があるそうだ。「十年の中国を見るなら深?、百年の中国を見るなら上海、千年の中国を見るなら北京、三千年の中国を見るなら西安、五千年の中国を見るなら山西。」というものだ。伝説の尭舜禹もこの山西に都を建てたと言われ、禹が建てたとされる夏王朝は今のところ、中国の最初の王朝である。

 山西省は前回紹介した山東省の西に隣接しているのではない。この二つの省の間には南北に繋がる河北省と河南省が存在する(参照:中国略図)。


 50年代、60年代の中国の地理教科書からその状況を見ておこう(拙訳)。

中国全図


山西省の地図

初級中学課本 中国地理 人民教育出版社 1959(53)年

(60頁~)私たちが河北省内の平原から西を望むと、高峻な一列の山脈を見ることができる。これが太行山である。太行山の西それは即ち山西高原である。山西高原は黄土高原の一部分である。高原は厚い黄土で蓋われ、その一部は突出し山嶺(呂梁山、五台山)となっている。山西高原の高度は大部分が海抜1千メートル前後である。しかし、河川の浸食で高原は分割され、高低があり、ほとんど高原の景観を見出すことはできない。

初級中学課本 中国地理 上冊 人民教育出版社 1964(63)

 (100頁~)山西省は河北省の西に面し、両省の間の大部分は太行山脈でもって境ができている。本省はつまり太行山脈以西から得た名である。西では陝西省と黄河をもって境としている。黄河は両省の間を六百キロ強の長さにわたって流れ、その大半が峡谷の中を貫通している。北は内蒙古と曲がりくねった外長城で境を接する。外長城の南には内長城があり、雁門関、平型関はどちらも内長城の要害かつ堅固な関である。全省の輪郭はほぼ平行四辺形になっていて、東北から西南に斜めになっている。・・・(省略)・・・。山西省は黄土高原の東にあり、慣習上この部分を山西高原と呼び、多くの地は海抜1000メートルを越えている。山西高原は地殻上昇運動によるが、局部では断裂し、下降した部分も少なくなく、地形は断層影響を深く受けていて、地面の黄土は流水の浸食を激しく受けている。このため、高原の嶺と谷の交錯する特徴が非常に顕著である。・・・(省略)・・・。本省はその面積多くが黄土で蓋われ、その厚さは一般に30メーターを超えている。ここの黄土は、黄土高原の他の黄土と同じで、長い期間を通じて少しずつ蒙古高原の砂漠から吹き飛ばされてきた土の粒で、年を経、月を重ね、積もってできあがったものだ。・・・・・・・・。

初級中学課本 中国地理 上冊 人民教育出版社 1957(53)年

(85頁~)高原の山脈は北の五台山をもって最高とし、海抜2,893メーターである。その他に恒山、呂梁山の主要山峰もまた二千メーター以上である。

初級中学課本 中国地理 上冊 人民教育出版社 1955(53)年

(08頁~)太行山の西それは即ち山西高原である。高原は厚い黄土で蓋われ、その一部は突出し山嶺となっている。景色は陝西省北部や甘粛省東部とほぼ似ており、つまり山西高原も黄土高原の一部である。河川の浸食により、高原は分割され、細切れになり、高低ができ、ほとんど高原の景観を見出すことはできない。

遼寧省小学試用課本 地理 下冊 遼寧人民教育出版 1975年

(50頁~)大寨は山西省昔陽県の大寨公社の一大隊で、太行山脈虎頭山下に位置する。解放前の大寨は黄土高原のその他の地区と同じで、自然災害が大変厳しかった。全村で700強畝(1畝は6.7アール)土地は4700の小さな土地に分かれ、八つの尾根と七つ谷にできた坂に散らばっていた。その上、どれも「土は固く、風が吹けば乾き、3日雨が無ければ苗は黄色くなってしまい、にわか雨が降れば土を押し流してしまう。」という「三?田」であった。最高の作柄でも、糧食は一畝ようやく100斤(1斤は500グラム)でしかなかった。解放後、毛主席革命路線指導下、大寨大隊党支部がたくさんの貧下中農を率い、党の基本路線を堅持し、天と闘い、地と闘い、階級の敵と闘い、修正主義路線と闘い、資本主義と闘い、旧意識形態と闘い、「天命に頼らず、革命を頼り、大寨を新天地に変えることを誓う」英雄的な気概を以って、重ねて新しく河や山に働きかけ、顕著な成就を獲得した。

彼らは水や土の流失がひどい坂の斜面を高き部分を切り取り、低き部分を埋め、水平な棚田に修築し、傾斜がきつくて修築できない坂の斜面は木や果樹を移植し、谷あいの石堤も整理し積みなおし、洪水が運んできた泥や土砂を堰き止め、平らな山間の平地を造成した。彼らは日照りや大雨を恐れる痩せた土地で、深く耕し、深く植え、深く掘る「三深法」を実行し、土の層を厚くし、「三?田」を「三保田」に造りなおした。二十数年の艱難奮闘を経て、終には七つの大きな谷はどれも堰きとめられて弓形の堤となった。八つの尾根と坂の斜面は何段もの棚田に造り直された。元は数千片の小さな土地が、合わされ1500片の日照りや大雨を吸収する『海綿田』が造られた。無産階級文化大革命以来、貧下中農は毛主席の「水利こそ農業の命脈」、「農業の根本的な活路は機械化にある」という教えを守って、「山の土を運び、谷を埋め、平原を造成する」広大な計画を提出し、彼らは前後して三十三の山土を運び、全部の耕地は幾畝或いは幾十畝の大きな土地、或いは「人造小平原」に改造し終えた。山を開削し用水路を開き、貯水池を築き、河の水を虎頭山に引き込み、半分以上の田畑を灌漑させることができるようになった。大規模な田畑の基本建設は大寨の農業機械化の為に、有利な条件を創り出した。過去の農業生産は完全に人力や畜力に頼っていたが、今は80%の土地がトラクター耕作が活用できる。農業の機械化の発展に伴なって、大寨大隊は小型機械工場を立ち上げた。現在、隊の中でいつも使っている根掘り機、脱穀機、精米機などの多くはどれも隊が創った工場で生産したものである。輝き渡る毛沢東思想の下で、大寨貧下中農は終始『政治が指揮を執り、思想がリードする原則;自力更生、艱難奮闘の精神;愛国家、愛集団の共産主義風格;』を堅持した。今日の大寨は、人が変化し、土地が変化し、産量が変化し、大寨の生産は一歩一歩高くなってきている。糧食の品種も、小麦、大豆、雑穀だけでなく、水稲や綿花の栽培の試みにも成功した。糧食の畝産額は1958年の『黄河』を乗り越え、1964年の『長江』を更に超え、現在既に数年連続して千斤を超えて、我が国の社会主義農業発展に巨大な貢献をしている。 大寨のこの巨大な変化はそれこそ社会主義制度の比べるべきものも無い優越性の明確な証拠で、また、そのことは毛主席革命路線勝利の讃歌である。

繁体字の糧食廰から簡体字のそれへ

 さて、本題の糧票にはいろう。


 55年の地方糧票と57年の飼料票使われている発行所の文字が異なっている。繁体字の糧食廰から簡体字のそれに変化している。これは簡体字への移行の証左と言えよう。

 58年、59年、59~60年の糧票であるが、裏面を見てみると、五の項目を見比べることで、16進法から10進法への転換がこの時期なされていることが窺がえる。59~60年の1市両の図柄は太原の東南の外れにある双塔寺の双塔のようだ。明代創建の8角形の13層からなる塔(約55メーター)で、塔内を登って頂まで行け。ここからは太原市内が一望できるとのことである。太原の目印ともいえる建物だ。


双塔寺の双塔


糧票の裏面の文言 五の項目 左から右:16進法から10進法への転換


 71年と74年の糧票は、図柄は同じようである。5市斤の図柄は棚田である。文化大革命時期に「農業は大寨に学べ」のスローガンにされた大寨の棚田ではなかろうか。10市斤の図柄は文化大革命のスローガンに「備戦、備荒、為人民」とあった、備戦を図で表現したものであろう。それぞれが武器を持ち、手に毛沢東選集を抱え持つ。71年という年代は文化大革命真っただ中の年であり、裏面の発行印が「山東省糧食庁」ではなく、「山東省軍事革命委員会」となっている。

5市斤の図柄は棚田


文化大革命の「備戦」の図



71年と74年の糧票

 76年の糧票は完全な一揃いである。その図柄を紹介しておこう。 1市両:農業の機械化 2市両:工業の発展 半市斤:太原駅(鉄道) 1市斤:穀物倉庫 2市斤:公共道路橋 5市斤:大寨 10市斤:太原鋼鉄工場

71年と76年の糧票中の5市斤に描かれた大寨について、少し教科書からご紹介(拙訳)しておこう。


 遼寧省中学試用課本 中国地理 人民教育出版社 1974(72)年(94頁~)大寨 我が国農業戦線上の一方の紅旗 ・・・・・・。山西省昔陽県の大寨大隊は山西省東部に位置し、我が国農業戦線上の一方の紅旗である。解放後、党の指導下に貧下中農民が自力更生を堅持し、艱難奮闘の革命精神下、一生懸命頑張ること10数年、終に大自然を征服し、旧い土地を新装させた。今日の大寨は山上が段々の棚田となり、山下には何本もの石堤が造られ、谷という谷は耕作され、坂道も田畑となり、これらの何年もの田畑の改良継続によって、基本的には、日照りが続いても、降雨が多すぎても、収穫が得られるようになった。貧下中農民が大自然を改造し、農業における大豊作を勝ち得て、我々のために輝かしい手本を創り出したのだ。


76年の糧票


1976年の5市斤

 76年の糧票5市斤には左右の建物には「大寨」の文字が見られ、更に「自力更生」「奮発図強」の文字も見られる。

 太原市の東140キロに大寨はあり、文革時期の模範のこの村は、21世紀の現在、新大寨として大変貌を成し遂げているようだ。村に造られた当時の棚田の3分の2は森林や草地に転換され、観光地化され、毎年10万から20万の観光客を迎えている一方で、幾つもの郷鎮企業を起こし、目覚ましい経済発展を遂げているという。

81年糧票2市斤に見られる図柄は山西省の特産を最も現した図柄と言える。教科書から引用(拙訳)し、その説明としたい。

高級小学課本 地理 上冊 人民教育出版社 1964年

(36頁~) 山西省の多くの地域は石炭の層が厚く、埋蔵量も大きく、わが国の重要な石炭基地である。主要な炭鉱は大同や陽泉等の地である。大同炭鉱は本省の東北部にあり、全国最大の炭鉱の一つである。

下段の上・石炭の採掘現場