03 中街
加藤正宏
略図と古地図(上部の小北関と大北関の文字欠落)
(写真記載の年代は正確ではなく、右の写真が1920年代、左のそれは1930年代だと思われる)
現存している建物のドームがいくつか写真には写っている
中街
加藤正宏
中街と太原街は瀋陽で一番賑やかな繁華街として知られる。前者は故宮の近く、後者は瀋陽駅の近くにあり、どちらも瀋陽に住む者 にとって馴染みの場所だと言える。
今回はこのうちの中街を紹介してみたい。
環路バスに乗ると、朝陽街を南から来たバスが故宮を経て中街のバス停へとやって来る。バスは中街との交差点を越えると、中街の北側を回りこむようにして走り、正陽街で左折南下し、東西に走る中央路(この一部が中街)と交叉するところで更に右折し、西へ向かって走り、中山西路に入る。西から来た環路バスは中山西路の延長にある中央路に入り、道路正面の古典的な風貌に似せた中街の門(私には日本の鳥居を思い起こさせる)を避けるように、右折して正陽街に入りここで停まる。ここも中街のバス停だ。朝陽街は北行き、正陽街は南行きの一方通行になっていて、どちらにも故宮と中街のバス停がある。故宮も中街も朝陽街と正陽街の間に東西に形成されている宮殿であり、繁華街である。
東西に走る中央路(この一部が中街)と故宮に南接する瀋陽路は南北に走る朝陽街と正陽街と直角に交差し、井字型を形成している。これは清朝(最初は後金と称した)と名乗って後の、最初の皇帝となったホンタイジが明代古城の十字街を改め、井字街にしたことによる(17世紀前半、末尾の図参照)。これらの井字型のそれぞれの先には城門があり、これら八つの門が城市の出入り口であった。骨董市などで見かける20世紀初頭の絵葉書の写真などで、城壁や城門の姿を確認することもあるが、これらは全て取り壊されてしまった。現在目にすることができる瀋陽路の撫近門(通称、大東門)と懐遠門(通称、大西門)も20世紀の2、30年代に取り壊され、20世紀の末に復元されたものだそうだ。
本題に入ろう。
井字型の北側の東西に走る街並みが中街である。この街の両側の十字路には鐘楼(東の十字路)と鼓楼(西の十字路)が建てられていた。厳密には、この内側を中街と呼ぶ。瀋陽城市の中央地帯に位置するので、中街と呼ばれているが、正式には四平街と命名されていた。名の由来は四季平安を願ったものだといわれる。街が生まれてから、既に350年以上の歴史を刻んでいる街である。もちろん、当初は私たちが現在見るような道路幅(両側各8m、休息帯6m、計22m)でも、タイル舗装でもなく、歩行者天国でもなかった。石灰・砂・粘土を混ぜて突き固めた道路の両側に、平屋が軒を並べ庇を連ねる街並みであった。この道路が石を敷き詰めた道路になったのは清朝期の1906年であったという。時の東三省総督が奏上し、修築にあたっては日本の飯塚土木が請け負ったと当時のことを記録する『瀋陽県志』に書かれているそうな。日露戦争直後、既に日本企業がこの地まで入り込んで来ていたということになる。中街と日本人との関わりの最初である。
1909年には街路に電燈が灯り、民国期(1912~)に入ると、現在もその名やその建物自体を残す商店が進出してきたり、店舗の改修が進み、人々の目を見張らせ、以前にも増して多くの人々をこの街に引き寄せるようになった。
1926年に吉順絲房(絲房は百貨店を意味する)が二階建ての建物から斬新な西洋式の五階建ての建物に改築したのが始まりで、これにならって次々と改築や新しく建築する商店が増えた。特に、市政当局が1928年に道幅を広げた(この時、東の十字路の鐘楼と西の十字路の鼓楼も撤去)こともあって、北方軍閥の官僚たち(清朝を倒した孫文たちの革命、その成果を奪った袁世凱とその彼の後継者)が利を求めて、新建造物を次々と建て、商人たちに貸し出した。いつの時代も、権力者は利に聡く、またその金が無ければ、その権力の維持も難しいのかもしれない。
現存している建物でいうと、街路の南側では三階建ての亨得利鐘表眼鏡店、その東隣の利民商場(1928年銘のある瀋陽春天)、北側では五階建ての吉順隆絲房(鵬達体育)、吉順絲房に匹敵する西洋式の五階建ての老天合絲房(何氏眼科、何氏眼鏡)などは軍閥官僚によって建てられ、商人に貸し出されたものである。(1928年銘のある瀋陽春天)、北側では五階建ての吉順隆絲房(鵬達体育)、吉順絲房に匹敵する西洋式の五階建ての老天合絲房(何氏眼科、何氏眼鏡)などは軍閥官僚によって建てられ、商人に貸し出されたものである。
建物は当時の物ではないが、当時の名を伝えている店舗には、光陸電影院、天益堂(復元)、中和福茶庄(街路に面した表だけ当時の形を模倣)、萃華金店(その位置を変えて大きな現代的なビルになっている)などがある。
実際に歩いてみよう。
中山西路が西順城街と交差する、その東が中央路(その一部が中街)である。ここに人の目を引き付ける二匹の黄金の龍が、道を挟んだ柱に巻きついて、中央路に顔を向けている。これは薈華楼金店の広告柱である。西順城街と正陽街の間の中央路は外攘門内大街(小西門里大街)と呼ばれていたところで、本来の中街ではなかったが、現在はここも中街と呼ばれているようだ。ここにはいくつかの金店が並んでいる。中国の古風な屋根を装飾にした薈華楼金店は立派な感じで歴史もありそうだが、あまり古くなく、1991年の創建である。この店は本来の中街にも同様の目立つ建物を建て、そこでも店を開き、百年強の老舗である萃華金店に取って代わったかのように、中街中央北側に存在しているが、ほんの十数年の建物である。
旧鼓楼近くの中街の門
現在の位置と異なるが写真の中央に萃華金店の看板も見える
中街 (上)中街の西にあった鼓楼 中街の東にあった鐘楼(下)
黄金の龍と古くない
薈華楼金店
百年強の老舗である萃華金店とその内部
これに対抗したように小西門里大街の南北両側に店を構え、派手な広告を出しているのが老舗の萃華金店である。広告看板にもあるように、百年老店で、清の光緒22(西暦1896)年に本来の中街北側に店を出している。現在、本来の建物は中街にはなく、小西門里大街に近代的な萃華金店の建物を建て、商いを行っている。中街にあった萃華金店には軍閥高官の奥方やその娘たちが争ってやって来ていたという。民国期の張作霖の奥方の首飾りや、満州国期に入っての、溥儀が被った大粒の真珠が嵌め込まれた黄金の帝冠、それに満州国の総理大臣であった張景恵の奥方が身につけた装飾品なども、この萃華金店が扱ったものだそうな。老舗で各地に支店を構えていたこの店も、満州国期の1939(満州国康徳6)年に日本の金融統制の下、中街の多く経営者が逮捕され、中国人経営の金銀業が取り締まられる中で、萃華金店も百貨と時計を扱う店に転業せざる得なかったという。本業の復活は戦後になってからのことだが、お国柄、国営として復活し、国と民間の共同経営、民間経営と発展してきたと大事記には記されている。
この小西門里大街には老舗萃華金店にあやかってか、貴金属宝石の店が多く見られる。大隆珠宝という店に「百年字號」の看板を見かけたので、中に入り、民国期にもこの名だったのか、店員に尋ねてみたところ、元来は萃華金店だったという。しかし、萃華金店のガードマンにこの店のことを確認してみると、萃華金店を継承しているものではないとの回答であった。「百年字號」、「老字號」など老舗と看板を掲げる店の中には、偽っているのもあるようだ。ところで、この小西門里大街には時計眼鏡店亨得利(この店については後に述べる)の職業技術培訓学校もある。
本来の中街に歩を進めてみよう。
現在この本来の中街の入り口には古風な門が建ち、これより東は歩行者天国となっている。道路北側の角には、鼓楼商厦が建っている。古い建物ではないが、その名はこの交差点に鼓楼があったことによって、名付けられていると思われる。道路北側を東に眺めて行くと、最上階に小さなドームを持つ建物が四つ見られる。
天合絲房
吉順隆絲房
中街でも最も早く建てられた吉順絲房
中和福茶庄
一番西のそれはゴールドのドームを持つ五階建てで、何氏眼科眼鏡店になっている。この建物は民国初期に建てられた老天合絲房(絲房は百貨店をさす)で、次に紹介する吉順絲房に匹敵する建物だと当時から言われてきた。
天合絲房の東に見えるドームの二百商場の建物が吉順絲房で、緑の小さなドームを持ち、潮流天地の広告が目に付く。吉順絲房は中街でも最も早く建てられた五階建ての洋風建築で、他の四階、五階の建物の建築を誘発することになったとされている建物だ。この洋風建築を真正面から見てみると、少し違和感を感じるはずだ。入り口を中心に西にショーウインドウが四つ、東に二つなっていて、そしてその東の二つ分が無い東南角に小さな別の店が入っている。東南角が欠けた形で、吉順絲房は建てられていたのだ。中街で最初に五階建てを建てようとしていた吉順絲房はその隣の小さな店である同益成の買収は可能と見て、建て始めたのだが、一寸の虫にも五分の魂というところだろうか、どうしても同意が得られず、東南角を欠いた建物になってしまったのだそうだ。その欠けたところに、現在はSONY、Panasonicの文字も鮮やかな雅仕利家電有限公司がはい入り、営業している。
更に東に、同じように緑のドームを有する鵬達体育の建物がある。これは20世紀前半中頃に建てられて、吉順隆絲房と呼ばれていたものだ。現在スポーツ商品を扱っている。二階の売り場で、店員にこの建物はいつごろの物かを尋ねて見た。7、80年ぐらいは経つだろうとの返事が返ってきた。更に当時はどんな名前だったのかと問うと、分らないが日本人が建てた物だとの答えが返ってきた。彼ら若い店員には、満州国建国前後の建物は日本人が造ったとイメージが着いてまわっているようだ。
更に東に行くと、コンクリートの生地をそのまま見せたドームが見られる。肯徳基(ケンタッキー)の店が入っている。この塔のような部分は一見して、最近建築されたものだと判断できる。しかし、これに続く吉野家の入っている左部分の三、四階部分は従来の古い建物のままではないかと思われるのだが、どうだろうか。余談になるが、吉野家は美味しいとの評判が中国の人の間にはあるそうで、中街以外にも瀋陽には数軒あり、どれも人気があり、どこも客で一杯であるとのことだ。
この肯徳基の東に、中国郵政、北京同仁堂と続き、中街はここで朝陽街と交差する。この交差点は、1920年代末まで鐘楼が建っていたところだ。ここまでが本来の中街(四平街)であった。
ドームを有する五階建ての建物の他にも、老舗の建物が中街には残っている。二百商場の西隣には二階建て中和福茶庄の建物があるが、それがその一つである。中和福茶庄は清の光緒8(西暦1882)年創業で、西湖龍井茶、黄山花雲露などを初として、今も各地の40種類ものお茶を扱っている。建物の壁の上部には中和福茶庄の文字に囲まれて、吉祥の想像上の動物麒麟が首を上げ蹲踞しているのが見られる。でも、哀れなことに、この建物は表の皮一枚残して、その西隣の黄金色の柱と全体が無機質な外壁を有する瀋陽春天百貨店に、呑み込まれてしまっている感じだ。
もう一度西から道路の南側を見て行こう。
角には欧羅巴という建物があり、イタリアのピザが食べられるみたいだ。この南には萃華金店の分店が見られる。
中街を東に向かおう。まず、麦当勞(マクドナルド)と肯徳基(ケンタッキー)に挟まれた天益堂薬房が目に入る。1928年に中街のこの地に店を開いた老舗である。この薬房の現建物は、1985年に、元来の建物を取り壊し、復元した物である。だが、その内容は受け継いでいるとして「老字號」の看板を掲げる漢方薬の老舗だ。
更に東に向かうと、亨得利(ヘンダリー)鐘表眼鏡店の看板が目に入ってくる。この時計と眼鏡の亨得利が中街に三階建ての店を開いたのが、1920年代末であった。開業以来、スイス、日本、フランスの時計を扱い、当時としては珍しい金や銀の懐中時計なども扱った。時代は下がるが、ロンジンやシーマーなどスイスのブランド品も、この店で見ることができた。その他に日本の一般的な懐中時計、柱時計、置き時計や各種眼鏡なども扱い、その名は遠くまで伝えられ、遠くからもやって来る者が多かったという。現在その入り口には門燈形状のロレックスの時計が回転している。その建物の古さは、東隣の春天の方から見る外壁に、消えかかった亨得利の文字が見えるあたりにも窺える。
天益堂薬房
亨得利鐘表眼鏡店
道路から建物の簡単な紹介の碑と年代が見られる
窓と床のタイルが美しい
2階から吉順絲房が見る
横から眺めた瀋陽春天
亨得利の隣は瀋陽春天だ。二階の外壁に見える1928の数字が印象的な古い建物である。入り口付近の商場紹介の牌には、1928年に軍閥官僚が建造した「利民商場」であったことが記されている。この建物は当時の姿のまま残っている建物で、見る、入ってみる価値が十分にある建物である。2階建ての建物だが、少し一般とは感じが違う。一階というのは中二階、地下一階は中地下一階とでも言えそうな感じで、どちらも少し階段を上下したところにフロアがある。見どころは床に敷き詰められたタイル(昔、公衆浴場で見かけたような)と窓である。タイルの見事さは地下一階の奥突き当たりの便所に入られるとよく分る。窓は二階に上がり、テラスに出てみるとよい。そこから北を見れば、中街で最初に建てられた五階建ての建物吉順絲房(現、二百商場)の最上階の緑のドームが見える。瀋陽春天(旧の利民商場)の全体を見るには、建物の売り場を南に突き抜け、外に出てみるとよい(薈華楼金店の対面の路地を南に行ってもよい)。
瀋陽春天(旧の利民商場)の東に続く数軒の建物も古そうだが、昔の何屋か定かでない。
更に東に向かうと、光陸電影院、そして麦当勞(マクドナルド)が入る新時代女人世界の建物と続き、朝陽街に交差する。昔はこの交差点に鐘楼があり、ここまでが本来の中街(四平街)であった。
上記の光陸電影院を少し紹介しておこう。
現在の光陸電影院は1980年代に多機能を有する現代的な劇場に改築されてはいるものの、満州国の康徳年代初期(1930年代中頃)に創建された場所に今も建っている。この場所はもともとロシア商華富銀行があった場所で、民国期以降廃業し、軍閥官僚による東北銀行として活用されていた。1931年の九一八事件(柳条湖事件)を機に起こった満州事変で、この銀行も営業が停止され、満州国期に入って、ここに当時としては現代的な東北西の三面の壁を鉄筋コンクリート打ちし、内部に柱が一本も無い映画館が開設された。それが光陸電影院であった。初期は上海映画が中心であったが、「満映」がしだいに大部分を占めるようになったという。時には、映画のスターや雑技団の実演もあり、中街に人々を呼び寄せる目玉の一つにもなっていた。
朝陽街を越えた東は本来の中街(四平街)ではなく、昔は内治門内大街(通称小東門里大街)と呼ばれていたところだが、歩行者天国は東順城街まで延び、そこに西側と同様に古風な門(私の感覚では鳥居のような)が道路の真ん中に建っている。今はここまで、中街と呼んでいるようだ。
この内治門内大街の西北の角、朝陽街と交差しているあたりに、老辺餃子館がある。建物は旧来の物ではないのだが、この餃子館も老舗で、清朝道光8年(1829年)以来175年も続いている餃子館である。値は少し張るが、美味しい餃子だ。著名な相声(漫才)の一人である候宝林が食して後、「老辺餃子天下第一」と条幅を残したほど、ここの餃子は
美味しい。一度ご賞味あれ。以上で中街の紹介を終わらせていただく。
中街の紹介にあたって、参考にさせてもらった書物
1 瀋陽文史資料 第六輯 「瀋陽中街史話」
政協瀋陽市委員会文史資料研究会 1984年6月
2 瀋陽志通訊 総07期 「萃華金店」
瀋陽市人民政府地方志編纂弁公室 1983年11月
3 瀋河文史資料 第五輯 「鐘鼓二楼」「懐遠門和撫近門」「中街商業街」
中国人民政治協商会議瀋陽市瀋河区委員会文史資料研究会 1997年7月
4 説古道今話瀋陽 「昔日中街」
瀋陽市工商行政管理局その他 2001年9月
5 瀋陽之最 「最古老的茶庄」「著名的金店」「最有名気的餃子」
瀋陽市地方志編纂弁公室 1986年
6 瀋陽景色点民間説 「瀋陽古城中軸線」「鐘鼓楼探幽」
遼寧大学出版社 1998年
7 瀋陽市建築業志 二 「第十章近代、現代及び当代建築 第三節 商業、金融建築」
瀋陽市建築業志編纂委員会 1992年
8 瀋陽市志 第一巻 「大事記」
瀋陽市人民政府地方志編纂弁公室 1990年
9 瀋陽市志 第十三巻 「建築、中街」
瀋陽市人民政府地方志編纂弁公室 1990年
10 瀋陽大事記1840~1987年
瀋陽市人民政府地方志編纂弁公室 1988年
11 瀋陽漫遊 「繁華的商市」 中国旅遊出版社 1984年12月」
12 瀋陽百貨全書 遼寧大学出版社 1992年
光陸電影院
老辺餃子館と候宝林が
残した条幅