1986年(三十数年前)頃の中国西安

その1 西北工業大学   加藤正宏   (2019 05 27)

  

 奈良や京都が模範とした碁盤状の街並みは唐の都長安を真似たものだと言われる。唐代の長安城郭は現在の城郭より更に大きく、大雁塔や小雁塔なども内に含むものであった。少し小さくなった明代の地方都市城郭が現在の西安の城郭である。西北工業大学も現在の西安城郭の外に在るが、長安の城郭内に在る。

 

長安の城郭内には南北に11本、東西に14本の大きな街路が交差し、これらに区画された坊ができていた。坊自体が高さ約3メートルの壁で囲まれ、坊にはそれぞれ門があり、日没時には太鼓の合図で城郭の門が閉じられると同時に、各坊の正門も裏門も閉じられ、坊はそれぞれが一つの空間をなしていたという。

 1986年、大学に招聘され、日本に留学を希望する大学の先生方に日本語を教えていた西安の西北工業大学の敷地は、上記の坊のごとくに私には思えた。夜には、西北工業大学も正門も裏門も閉じられ、隔絶された一つの空間ができた。この空間に迷い込み、この大学敷地内をさ迷い歩き、一晩過ごした日本語しか話せない日本人の旅行者もいた。敷地は一つの町と言ってよく、学生寮や全職員の住宅が立ち並ぶ居住区には、子弟の通う学校から、病院、銀行、郵便局、各種商店、食堂、それに外国人講師や大学を訪れる外国人客のための賓館までそろっていた。私はこの賓館の一部屋を貸与され、2年間ここで過ごした。時には街中のホテルが満杯で、この大学賓館に外国人ツアーを泊めることもあった。NHKの『黄河』取材班がしばらく滞在したのもその一つであった。その時には、私も親交を深めさせてもらい、その後もお付き合いが続いている方も居る。

 もちろん、教学区には、多くの講義棟、実験棟、大講堂、図書館、大食堂、庭園やグランド、更にはプールなどもあった。

 大学正門の黒板には大学の紹介が書かれていた。それによると、1985年1月に国務院が批准した15の重点大学の一つであり、最も古い学部は1935年に創設された飛機工程、発動機工程であるそうだ。学校の現有学生数は7000余人、その内の1000余人が大学院生だとのことである。正副教授は500余人、講師640人で、62教研室、10研究室、4研究所、15学部の規模の大学である。 私の学生であった副教授の話では、この大学は教育部管轄の大学ではなく、航天航空部の管轄で、西安では交通大学に次ぐ二番目に大きい大学だそうだ。部は日本の省にあたる。 

 このような状況下で、当時の学生は専ら勉学に励むことが求められていて、夜間の教室にも夜遅くまで自習する学生たちの姿が見られたし、朝早く校内の庭を行きつ戻りつしながら、大きな声で教科書を読む学生の姿があちらこちらで見かけられた。これらの光景は今でも私の脳裏に焼き付いている。

 下の写真は 高考(全国統一大学入試)風景

 学生は高考(全国統一大学入試)に合格し、はじめて大学生に成る。1986年当時はこのようにして大学生に成れるのは、中国で同じ時期に生まれた人たちの数パーセントでしかない人たちで、超エリートであった。日本の感覚とは真逆で、幼稚園、小学校、中等学校(中学、高校)では学費が必要だったが、例えば幼稚園で年間30元前後の費用が必要であった。だが、大学生は学費は全く必要なく、むしろ助学金や奨学金が与えられ、ひたすら勉学に励むことができるようになっていた。助学金とは家庭の経済状況によって貧困順に与えられるもの、奨学金は成績に準じて支給されるもので、一般には4、5段階に分けて支給されていた。西北工業大学では8段階に助学金が細分化され、月額22元から3元までの額を支給していた。親が50元以上の収入がある者には支給されていない。この他に、年に一回だけだが、三好学生(道徳、成績、体育面の三面で最も優れた学生)をクラスで選び、賞金を与えている。西北工業大学では、その額は80元であった。新任の大学教師の給与が100元前後の時期である。

 大学生がこのように好待遇であったのは、国家が中国に必要な人材を、しっかり養成して、国家発展の為に必要な部署に提供することにあったからであろう。その為に、「分配」という、卒業にあたっては、国家の指名する地区の、国家の指名する企業に就職しなければならなかった。職業や企業の選択の自由はなかったが、しかし、現在のような就職にあぶれることもなかった。




1986年(三十数年前)頃

           の中国西安

その2 陝西省中級人民法院布告

加藤正宏

 人口が多い中国にあっては規律を維持するための見せしめ無くしては、その維持は困難なのであろう。布告内にも「対社会危害極大、均応予厳懲」とある。

 私は数限りないこれら壁に貼られた中級法院の布告を見つけ、その都度写真を撮ってきた。常にそこには人だかりできていた。この人だかりこそが、政府の意図する見せしめによる犯罪抑止には効果をあげさせているのだろう。

中級法院の布告だけでなく、「中華人民共和国 治安管理処罰条例図解」など、絵や漫画などにより図解した啓蒙も盛んに行われていた。

 身体の前後に、犯罪名、姓名、性別、年齢、民族名、居住地、職業を書き込んだ看板をぶら下げ、トラックの荷台に立たされた犯罪人たちを乗せたトラックが、城内のメイン道路をゆっくりゆっくり走行していくのを、一度だけだが見かけた。見せしめもいいところである。  聞くところによると、このように城内を引き回しした後、郊外の畑で処刑するそうである。畑に穴を掘り、三人がかりで処刑するという。処刑される者のそれぞれの左右の肩を二人が押さえ、至近距離から撃つ瞬間に離れるという。その話がほんとであれば、ドラマの江戸時代を連想してしまう。

 大学講師の学生の話では、魯迅の『薬』には、その処刑された者の流した血を饅頭に着けて食べる姿が描かれているという。子供の肺病をなおすため、処刑人から饅頭を買い取る場面を「その男が片方の手のひらをひらいて、彼の前につきだした。片方の手は鮮紅色の饅頭をつまんでいる。その紅いものはなおぽとぽとと滴っていた。」と高橋和巳は魯迅の『薬』で訳している。

魯迅が小説に描いた、迷信に満ち満ちていた古い中国からの覚醒を願った時代とは、異なり血の饅頭などは1980年代後半ではありえない話ではあるが、公開処刑はされていたようだ。

街中の壁に、陝西省中級人民法院布告が張り出されていて、人々が見入っているのに何度も出くわした。下記に一例を掲げておく。

陝西省中級人民法院

布告

(86)院刑執字 第21号

故意殺人犯 薛安民、男、二十六歳、漢族、陝西省藍田人、住藍田県厚鎮辺庄村。捕前系農民。罪犯薛安民、乱搞両性関係。其未婚妻賀淑性勸其改正。薛犯競産生殺人悪念。一九八六年二月十八日、薛犯将賀淑性騙到藍田県城関、次日晨、又将賀騙到該県北関外一機井傍、乗賀不備。猛捏賀的頸部、将賀推入十八米深機井、逃離現場。賀落井呼喊、経他人発現撈救医治脱険。 * 機井=動力付きポンプ井戸

強姦犯 賀西江、男、二十一歳、漢族、陝西省藍田人、住藍関鎮北街。一九八三年曽因流氓罪被判刑一年。捕前待業。罪犯賀西江与賀衛鋒(已判刑)于一九八五年十二月二十六日晩八時許、在藍田県天主堂、対両名女青年進行調戯、侮辱、併将其中一名女青年劫持到賀衛鋒住処。当夜、二犯以暴力手段将該女青年、多次輪姦直至天明、臨走時賀西江犯威該女青年晩上再到電影門前等他、否則、対該女青年“要放血”。

* 調戯=からかう 劫持=誘拐する 天明=夜明け 放血=痛めつける

強姦犯 劉平世、男、二十九歳、漢族、陝西省藍田人、住藍田県孟村郷華村。捕前系農民。罪犯劉平世、一九八六年三月十二晩、賭博后回家、携帯尖刀一把、干次日凌晨三時、翻墻進入、一女青年住室、対該女青年肆意猥褻侮辱持刀威脇、連続強姦両次、還持刀威脇不準告発。 * 威脇=脅迫する

上列三名罪犯罪行、事実清楚、証言確鑿。査罪犯薛安民、賀西江、劉平世、分別犯有故意殺人、強姦罪行、犯罪情節特別厳重、対社会危害極大、均応予厳懲。本院依照≪中華人民共和国刑法≫有関条款規定、分別判処薛安民、賀西江、劉平世死刑;剥奪政治権利終身。各犯提出上訴。経陝西省高級人民法院終審裁定。駁回上訴、維持原判、併依法核準死刑。

遵照陝西省高級人民法院下達的執行死刑的命令、本院于一九八六年六月二十一日、将罪犯薛安民、賀西江、劉平世、験明正身、押赴刑場、執行槍决。* 槍决=銃殺処刑にする

此布

院長 史剣青

一九八六年六月二十一日

 この布告は21日付け21号の布告であるが、20日付の19号では6人、20号では7人の処刑が布告されていた。20日付の布告では強盗も処刑されていた。

 上記の例に挙げた布告では、殺人犯と強姦犯を死刑と判決を下し、犯罪者が控訴したが高級人民法院で上訴も却下され、中級法院の原判決が維持され、高級人民法院の死刑執行命令により銃殺処刑したというものである。

殺人を犯しても、何年か後に出獄が許される例が多い日本と比べ、どちらが良いとも私には言えないが(殺され損、生存者優遇に私は疑問をもつ)、日本では考えられない厳しさである。故意殺人犯の薛安民は女性を18米の井戸に投げ込み殺そうとした人物だが、殺人は未遂(経他人発現撈救医治脱険)に終わっている。殺人未遂であっても死刑、強姦も死刑なのである。

 判決や処刑もそれぞれ短期間で実施されているのも、驚きである。犯罪を起こした年、或いは翌年に処刑されている。冤罪なども往々にして起こっているのではないかと思えてしまう。





1986年(三十数年前)頃の中国西安

その3 大学内の掲示物

加藤正宏



 大学内の通路には様々な掲示物が張り出され、黒板には色チョークで連絡や通達などの掲示がなされている。黒板に書かれたり描かれたりしている色チョークの掲示の端麗さに立ち止まらせられたことも多い。日本人で、中国の大学に勤められた方なら、きっとそんな思いをしたことがおありになると思う。 

 この時から四半世紀を経た2011年に勤めた江西省の萍郷高等専科学校でも黒板の掲示には魅了されたものである。 IT関連が進んでいる中国にあって、これらの掲示がどのようになっているのか、現在、中国の大学でご活躍されている諸先生方からのご報告を聞かせていただきたいものと思っている。

 ITの普及した現在とは異なり、様々な内容が、通告や通知や布告の名で、そこで伝えられていた。


 学生にとって、両側から見えるガラスに挟まれた掲示板の各種の新聞も情報源の一つになっていて、手に食器をもち食事をしながら、学生たちが入れ代わり立ち代わり両側から新聞を読んでいる姿を見かける。

 掲示板や黒板には、証明書偽造したことによる 学位申請資格の取り消し、学内での賭博問題の処理、窃盗による退学処分の決定、殴り合い事件の処理、教師に関した訃告、告別式の通告など、大学労働組合(校工会)の夏季休暇中の活動表、試行条例の内容、政府のスローガンなども、書かれている。それぞれの件の当事者は、学生であれ、教授あれ、所属学部や名前が明確に書かれ、人権など微塵も意識しない掲示になっていた。不正や規律違反をしたものは名前が書かれて当然だという感覚であった。一つ、二つ、例を紹介しておこう。学位申請資格の取り消しの例である。 

通告 

 八三級航空宇宙航製造工程専業碩士研究生潘湧、在申請学位答弁的過程中、通過複印偽造了学位課程更改単和証明、弄虚作仮、情節厳重、但此事被発現后、経教育、該生尚能認識錯誤、経主管校長批准、決定給予潘湧同学記過処分併取消学位申請資格。


対于白明等十一名学生参加賭博問題処理決定 

この掲示には、以下の内容が書かれていた。

 賭博に参加した11名全員の学生の氏名と所属班、賭博日時や回数、賭博に使用された部屋が明記され、麻雀賭博で賭けの対象は煙草、食券、金銭で、その額は数十元に及んでいたことなどが記載された後に、11名ぞれぞれの処分がこれまでのその学生の問題行動の有無や、賭博における役割などから判断され、警告に始まり、留年から退学までの処分が宣告され、これらが数枚の掲示で示されていた。その内容は実に具体的である。

 当時は情報伝達の手段は学内の道路脇の掲示板や黒板でしかなかったように思う。私が延安参観学習旅行に参加するきっかけになったのも、校工会(教職員労働組合)の夏季休暇中の活動表であった。私の場合は学生からの情報と、外事処からの情報があり、道路脇の掲示板だけではないのだが、学生たちにとっては大事な情報源のようであった。

 ある朝、大学賓館前にて、学生金さん(週1時間の「日本概況」で講義しているクラスの四年生)に出会う。腕に黒の腕章。家族に不幸があったのかと尋ねると、この大学で唯一の朝鮮族の大学の先生が亡くなったのだという。胸(肺)を患い、1年間この大学の病院に入院していたという。52歳で、物理力学専攻とのこと。城外で遺体を火葬して骨にするという。大型バス一台に朝鮮族の人たちが満席になって出かけて行った。 これなども、教師に関した訃告、告別式の通告などの大学内街路の掲示によって、知ったようだった。 

 もう一つ、社会主義的な要素が少し感じられた掲示を紹介しておこう。 

緊急通知


 今年我省商洛、渭南、安康、漢中四地区因令夏高温久旱不雨、受災面積達48%到61%造成人民群衆衣食很大困難、為此政府召開緊急会議、号召全市人民積極行動起来、募捐衣物(糧食由市政府統一解決)根拠張家村街道弁事処地時間安排第一批救災物資将於本月十八日運往実区、並対所属各企、事業単位、提示了募捐要求、因此希望全校師生員工積極行動起来、安排専人組織募捐、棉衣単衣新旧皆可、教職工以系、処為単位、学生以班為単位、務必於九月十七日上午以前、送総務行政科修配組(五舎対面)進行収交登記、以便打梱包装、統一上交。

特此通知..

総務処

学生工作部

一九八六年九月十三日

                 (* 令夏=夏 安排=手配する 単位=所属部門、職場 上交=政府機関に納める)

 異常気象による災害地区への義援の呼びかけである。学生や教師などの話では、このような呼びかけは、文字面では参加不参加は強制でなく任意な呼びかけだが、実際は不参加が許されないという。立場や職歴に応じて応分の義援が求められる。社会主義の観点から行われていた被災者へのそれぞれの同情によるものが、いつの間にか形骸化し、ノルマ化しているというのだ。

 学費が必要になっている現今の学生においては、どのようになっているか分からないが、政府が一声上げれば、全ての企業や官庁は、現在でも、ある一定の比率で義援するのが一般的で、企業経営者になった元学生も企業規模に応じた義援を常にしているとのことである。その元学生の企業経営者は東日本大震災にあたって、当時、中国江西省の萍郷に赴任していた為、私ではなく、私の家族の安否を尋ねるメールを寄こしてくれただけでなく、3万元、日本に義援したという。勿論、中国政府を通じての義援に参加したのだ。


 この「日本語クラブ」のメンバー各員は、大学内でいろんな掲示を見てこられたことと思う。習近平によって、中国での官僚たちの腐敗を摘発する運動が展開され始めた時、大学の掲示黒板や掲示板に色鮮やかな掲示が多数なされていることを、メールで、当時瀋陽薬科大学に勤められていた山形達也先生から頂いたことがある。まさに「打老虎、拍蒼蠅(虎も蠅もたたく)」のキャンペーンが始まった時の事である。

(2019 06 10)





1986年(三十数年前)頃の中国西安

その6 街中で気になった事柄いくつか

加藤正宏

 西安の街中を自転車で出歩いていて、気になったことがいくつかあった。

狗肉

 自転車に積まれ市場に持ち込まれようとしている狗肉には度肝を抜かれた。皮をはいだだけの姿は肉というより、狗そのものであった。東北だけでなく、西安でも狗の肉をごく普通に食べている人たちがいた。

 あるとき、ある学生が私を自宅に招待してご馳走してくれた。

 中国では客に満足してもらうためにテーブルいっぱいにご馳走が並べられる。会員諸氏の皆さんも、残してはいけないと考える日本の礼儀と違い、中国ではそれぞれ手をつけながら、用意されたご馳走を残すのが礼儀に叶っていることをご存知だと思う。残すことで、十分用意されていて、満足していることを示すのである。

 肉だけでも何種類もの皿が用意されていて、請喫吧(チンチィバ)、請喫吧(チンチィバ)と私の皿に各自の箸で盛り付けてくる。招待してくれた学生が、それぞれの肉の皿から、この肉の味はどうですかと、次々と肉を私の取り皿に盛りながら、訊ね、最後にどの肉が一番美味しかったですかと問う。どれも、美味しかったと応える私に、この皿の肉は何肉かと一つ一つ更に念を押すように尋ねてくる。牛かな、豚かな、羊かななどと応えていく私に、くだんの学生は「老師(先生)、この皿の肉は狗肉なのですよ。」と言う。

 私は知らないうちに狗肉を食べていたのである。講義のとき、日本人は狗肉は絶対食べない、食べる習慣がない、私も食べたことが無いし、これからも食べないと公言していたのだ。学生にしてやられてしまったという結果になった。

 別の学生に招かれて、青蛙の料理も、西安では食している。25年後の江西省萍郷市でもこれらを食料として市場で見かけた。

参照:中国地方都市の日本語教師のつぶやき

「これも食べよう!!!」

中国地方都市の日本語教師のつぶやき (livedoor.blog) 

「狗肉、まさにその姿 その2」

中国地方都市における日本語教師のつぶやき (livedoor.jp) 


便所

 扉もなく、横並びに存在する便所。義父と義母に中国旅行をプレゼントしたとき、義母の帰国一声が、「観光地の便所ではアメリカ人と横並びで屈んでやるのよ」との報告であった。とんでもない経験をしてきたという報告である。義母の言うアメリカ人とは西洋人一般を指す言葉だが、観光地であっても当時の中国はこのようなものであった。

 西安の街の公衆便所も、同様であった。西安の街中で、更に私には奇異に思えたのが男子の立ち小便する所に大きなポリタンクが並んでいたことである。小便はそのポリタンクに向かってするのである。 後日、中国人の方から聞いたのだが、これらは回収されて化学薬品の原料として活用されるというのだが、私には驚きでしかなかった。

幼児のズボン 

 ズボンの股間が割れている。冬の時期のズボンもやはり、股間部分が割れている。屈むとおちんちんが諸に現れる。幼児にとって、便利なことは便利なんだろうが、日本では見られない光景だった。参照:兵庫通信「日本おちんちんが見えていた」―兵庫県立青雲高等学校https://livedoor.blogimg.jp/mmkatofu75/imgs/1/5/1505accb.png 

 すし詰めになった荷台の子供たちたちの姿を見ながら、日本では見られない光景に驚いたものだ。でも、子供たちはカメラを向けている私の方に、むしろ驚き、注目していているかのよう表情を見せている。荷台に多くの学生が乗せ、高考(大学入試統一試験)の試験場に送り込んできた高校のトラックも見たことはある、・・・・。

街路に乾される穀物(玉米)や果実(棗)

 軒や樹木に乾される玉米(とうもろこし)だけでなく、広く道路にも玉米が広げられる。瀋陽でも棗が道路に広げていたのを避けて歩いた覚えがあるから、さほど珍しいものではなかったのかもしれない。自動車の走る道路に穀物を広げ、脱穀するのを見た覚えもある。

道路上の煎餅のごとく薄く加圧された鼠(ネズミ)

 煎餅のように薄くなった鼠を道路上で幾つも幾つも見たことがある。道路を渡り切れずに自動車に轢かれた頓馬な鼠もいるものだと思っていたが、その数があまりにも多く、中国人知人に訊ねてみた。知人曰く、捕らえた鼠が二度と鼠になって来世も生まれてこないようにと、捕らえたり、薬殺した鼠を道路に放り出し、自動車に何度も何度も轢かせて鼠の形や姿を完全に失わせ、鼠への再生を阻むためだとのこと。

(2019 10 05)







1986年(三十数年前)頃の中国西安

その7 路上で見かけた職業     加藤正宏

 西安の街中を自転車で出歩いていて、路上で見かけた職業を紹介してみよう。

蒲団綿ほぐし人

 細での大きな弓のようなもので、豪快に綿をほぐしていく。どんどんと綿がふんわりと軟らかくなっていく。綿埃も立つのだが、機械でやるほどには気にならない。

猿廻し

 日本でも猿回しは行われているが、現在の日本のそれは舞台やテレビ行われているのではなかろうか。1970年代の西安では道路で盛んに行われていた。


飴細工職人

 日本の縁日などでも見かけたことがあるが、悟空や八戒など、色も鮮やかに作っていく。見事と言うほかはないくらい。見とれていた覚えがある。

身長体重計測

 計測器を前にして、じっと客を待つ老婆を見かけて、ほんとに客が現れるのだろうかとしばらく眺めていたが、客は現れなかった。でも、これも仕事として成り立つから、このように待っているのだろう。

裁縫屋

 繕いをする女性たちが集まる路上の一角があり。中には手動式の機械とも道具ともいえないものを持参している者も居る。布鞄なども修理している。依頼する客たちもそこ目途にやって来る。

路上歯医者

 歯医者というより、抜歯専門なのだろうか。抜歯した歯が、これ見よがしに並べられ、あたかも証はこれこのようにと示しているかのようだ。

茶水売り老婆

 机の上に茶の入ったガラス・コップを置き、コップの上に小さなガラス板を載せ、茶水を売っている。誰もが作っている茶水が商品になっているのを、私が見た最初であったように思う。現在の日本では、茶水は自動販売機のメイン商品であり、コンビニでも欠かせなくなっている。老婆は先見の明を持っていた人物だったと言えようか。

殺鼠剤売り

 毛並みのしっかりした鼠の遺体が何体も並べられ、その奥に液の入った瓶や粉末の入った瓶が並べられている。道路前面に並べられた鼠の遺体は薬の成果の証なのであろう。

鍵造り屋

 門扉だけでも何重にも鍵をかける中国人にとって、鍵ほど大切なものは無いようで、腰に多くの鍵をぶら下げ、ガシャガシャさせているのをよく見かけたものだ。しかし、それだけ何重にも鍵をかける必要がある処に、問題の本質があるのだろう。

路上西瓜売り

 路上に山積みした西瓜は一日や二日では売り切れない。そうなると、盗まれぬように寝ずの番をしなければならなくなり、簡易ベッドを用意し、何日もここで過ごすことになる。

代書屋

 大きな郵便局の門前には代書屋が何人も待ち構えている。農村の人だけでなく、街中にも文盲の人たちが居た1970年代、手紙を書いてもらうために、また読んでもらうために、郵便局の門前の代書屋は無くてはならないものだった。

21世紀の現在はこのようなことはなくなっているのではないだろうか。

自転車預かり人

 大きな店舗や観光地近くの道路には、ロープで仕切った自転車預かり場所が必ず存在する。自転車の行動が多かった私には便利で、安くて、安心できるものであった。でも、一度だけ、慌てふためいたことがある。西安に赴任してあまり月日が経っていない頃、大雁塔の見学に出かけた。じっくりと数時間かけて、見学して戻ると、そこにはロープの仕切りも、預かり人のおばさんも、もちろん自転車も何もなかったのである。ほんとに驚いて、あちらこちらと聞きまわってみたところ、客足が絶え始めたので、より人が来そうなところへ、預かり人のおばさんが勝手に移動していたのだ。

自転車修理屋

 赴任直後に、大学を卒業したばかりの日本語教師の同僚が半坡遺跡見学に誘ってくれた。二人は大学の自転車を貸与して、半坡遺跡に向かった。半時間走った頃、彼の自転車はパンクして、走りづらくなった。彼は慌てることなく、道路脇の自転車修理屋に修理を依頼し、待つこと半時間弱、修理を終えた自転車に乗って、目的であった半坡遺跡の見学を実現させてくれた。

 道路はでこぼこで荒れてはいるし、大学の貸与してくれる自転車も整備もされていない年期ものだし、頻繁にパンクしているのであろう。大学だけでなく、このような自転車が多く使用されていて、パンクも珍しくなく、修理を必要とする者も、またそのような機会も多く、どの道路にも自転車修理人が陣取っている感じだ。

路上豆本貸出し

 小さなトン(上に登、下に几の一字)ズ(子)という簡便な椅子に座り、壁に立てかけられた棚から豆本を選び、その場で読み終え、少額の読み賃を支払うのが路上豆本貸出しであった。中には大人も混じっていることがあった。

 後日、豆本を私は収集しているが、中国古代の故事(劉邦など)、清末の故事(孫文、西太后、太平天国の乱の洪秀全など)、中国革命の故事(毛沢東や周恩来、朱徳など)、西遊記の故事、近代中国文学(阿Q正伝など)の豆本などと共に、日本のテレビ・ドラマを豆本化したものがいくつも見られた。山口百恵の「赤い疑惑」の「血疑」、「お信」の「阿信」、「聡明的一休」、「阿童木(アトム)」、「柯南(コナン)」などである。中国でシャンコウ・バイホエと言って山口百恵が、人気があったのも肯ける。

 中国の路上で見られ、日本でほとんど目にしないものに、バイク・タクシーがあるが、これは21世紀の瀋陽でも見かけた。路上理髪店、路上歯科医も瀋陽で見かけている。当時、大いに気になったのが路上の四つ辻などで胸にプラカードをぶら下げ、その日のその日の求職を求める人たちが居たことだ。「立ちん坊さん」として、当時の瀋陽で発行されていた『日本語クラブ』に紹介した覚えがある。ご存じの方もいらっしゃるかも知れない。

(2020 04 01)






1986年(三十数年前)頃の中国西安  

その8、お雇い外国人のように

加藤正宏

法門寺地下宝物発見ニュース発表会

 大学から与えられている賓館の部屋に、賓館服務員の岳さんがやって来て、この画報に先生の写った写真が載っていると、画報を見せてくれた。中央で、屈んで写真を撮っている西洋人の後ろで、腰に手を当て、覗き込むように見ている人物、胸に横縞が一本入ったシャツを着ている人物、まさに私であった。

 この写真には「在省政府挙行的新聞発布会上、中外記者興致勃勃地参観法門寺真身宝塔地宮出土的珍奇文物―八重宝函」と説明が付いている。この黒白のような写真ではなく、次頁には「珍奇文物―八重宝函」の七重宝函が彩色写真で「珍貯佛指舎利的八重宝函(二至八重)」と説明が付けられ掲載されている。表紙に採用された最も外側の函の中に七重宝函が次ぎ次ぎと入れられ八重宝函を構成していたのであろうか。

 私を含め皆が覗き込んでいるのが、これら「珍奇文物―八重宝函(二至八重)」である。

 1987年5月29日(金)の私の日記に次のような記録がある。

「 授業中に外事弁公室の張前が省政府のニュース発表会に参加するかどうかと連絡に来た。省政府のニュース発表など、官製発表でつまらないと考え、私が断ろうとしたところ、省政府がわざわざ外国人を招いて紹介しようとするのだから、きっと面白いことですと学生たちが口々に言う。そこで、学生の意見を入れて参加することにした。緊急なことでもあり、西北工業大学からは私とカナダ人の英語教師の老夫婦が張前に伴われて、大きな省政府の中の城黄楼(西安事変の旧址)に出向いた。

 最初の話は中国語が十分わからないということもあって、たいして面白くなかった。しかし、配布された文書を見て、馬王堆漢墓、秦兵馬俑の発見同様の新発見の発表と知り、がぜん興味がそそられた。ビデオやスライドの解説で更に関心が深まった。省内にある宝鶏の法門寺の地下に、仏舎利の他、様々な歴史的な文物が発見されたのである。

 解説の後、展示された実物を見学する機会が与えられた。学生の意見を軽く見ていたこともあって、カメラを持参せず、他の外国人たちが真剣にカメラを構えて撮っているのを羨ましく思いながら、指を銜える羽目になった。

 夜、テレビを見ていると、その発表会の模様が放映されているではないか。急いで画面の写真を撮る。勿論、私も写っている。しかし、私は頭髪の色が中国人と同じだから、クローズアップはない。同僚のカナダ人教師はクローズアップされていた。」

 画報は『陝西画報』1887年の第5期である。画報は表紙と最初の四頁をまるまる使って、法門寺の地下宮殿で発見された唐代の宝物を写真と文で紹介していた。

 「古寺地宮弥珍宝―法門寺唐代真身宝塔地宮文物」(* 弥=満ちる、いっぱいになる)というのが、タイトルとサブタイトルである。

 書き出しには次のように書いてある。

「1987年5月29日下午、陝西省人民政府挙行新聞発布会、鄭重宣布:不久前、我省文物、考古部門在扶風法門寺唐代真身宝塔下、発現一座金碧輝煌的地宮、内臓珍貴文物数百件。這是継半坡遺址、秦兵馬俑之后的又一次重大考古新発現。会上僅展出地宮出土文物数件、便使中外記者為之傾倒、紛紛称賛這些稀世珍宝価値連城、不可估量!

(* 新聞=ニュース、発現=発見、這=これ、この、紛紛=続々と、連城=故事から宝玉を指す、估量=見積もる)

書き出しにもあるように、法門寺地下で唐代の珍奇な文物が発見され、これらが陝西省の半坡遺址、秦兵馬俑に次ぐ、考古学上の新発見であり、省政府として、内外の記者にその発見を発表したもので、発表とその地宮出土文物の数件を展示するだけで、国内国外の記者を感服せしめ、これら珍らしい幾つかの宝物は価値を見積もる事ができないほど素晴らしいとものだと、次々と称賛を受けたとの記載である。

文面では記者とあるが、記者だけでなく、この発表会には西安に在住して仕事をする外国人たちが招かれたのである。1980年代のこの時期、西安在住の外国人たちには、月に一、二度の小旅行や観劇会や音楽会が提供された。この考古学上の新発見発表会も外国人は特別扱いであり、このような外国人の扱いは、自身が明治時代のお雇い外国人でもあるかのような錯覚を覚えたものである。事実、いくつもそれに近い扱いを受けていた。外国人を多く受け入れ始めた21世紀に勤めた瀋陽薬科大学の時期の扱いとの違いは、文革直後でもあり、また、80年代はまだまだ外国人が少なかった事によるのかもしれないが・・・・。例えば、以下のような例もあった。

彬県(ピンシェン)の大仏と塔の一日観光

 他の外人講師と共に賓館の玄関に早朝の6時半に立ち、外事弁公室から随伴する2名の女性を待ち、連れだって隣の西北大学まで歩いて行き、そこからバスに乗り、彬県(ピンシェン)の大仏と塔の一日観光に出発した。7台のバス、バス1台につき20名強、中国人随伴者も含め、総勢150名ばかり、西安在住の外国人が対象の観光旅行である。日本人は40人ばかりで、師範大学に留学してきている日本人学生20名、中国の会社と提携し、中国の工場に来ている日本人15人、中国で教鞭をとっている日本人6人であった。

 7時20分に先頭のバスが出発する。バスは日本製の日野で、彬県までは170キロ、8時に咸陽に着き、9時に乾陵に着く。ここはトイレ休憩と地下墳墓である永泰公主墓を見学するのみ、休憩30分で出発する。この短時間だが、当時の唐が世界的国家である証となる頭部を欠く61賓王石像を背景に、私は写真を撮った。これら胸の前で手を組む61の石像はシルクロード沿いの都市国家の王や使節を刻んだもので、唐の高宗に拝謁している姿だと言われる。


 幾つか丘を越えて行く、道端に養蜂家たちの巣箱を多く目にする。山に咲いているのはニセアカシアのようだ。丘は段々畑になっていて、麦が栽培されている。なお、咸陽からはバスの列を公安の車が先導して走る。

 11時に彬県招待所に到着し、昼食なのだが、何人もの地元有力者の歓迎の挨拶、こちらのそれに対する答礼の挨拶と儀礼的なものが続く。招待所の周囲及びその沿道は人、人、人で埋め尽くされている。パンダ見たさ、いや肌や髪の毛の色が違う外人見たさに集まった地元の人たちだった。警官がそれらの人たちを整理している。招待所前の塔から大仏寺まで、バスで15分、この間、先導の公安の車の前にジープのような車が2台、我々の隊列を誘導して行く。たぶん地元の車であろう。下車地点から大仏寺の間には、ある距離を置きながら警官が配置されて、ガードに当たっていた。

 大仏寺は上部が張り出した大きな岩の下に建造したもので、包み込むような岩壁には大仏の光背や小さな仏がたくさん刻み込まれている。この大仏の左右には大仏の高さに劣らぬ観音像がそれぞれ立っていた。これら大仏や大観音の前面に深紅な柱を立てて寺院の正面としている。大仏寺の大仏は本当に大きくはあったが、粘土の塑像であり、さほど驚くものではなかったが、地元の警備と群衆の多さには驚いた。情報を聞き、この村だけでなく、近辺の村々から集まっていたのであろう。

戸県の農民画博物館、楼観台一日観光

 大学の費用で一日旅行、7時に出発、賓館外の他の宿舎に住むカナダ人家族をマイクロバスに乗せ、これに大型自家用車2台(いずれも大学の車)、外事所の女性2名、男性1名、賓館からはドイツ人4名、アメリカ人夫妻、それに日本人の私、これにそれぞれ専属の大学の運転手が付く。

楼観台までの距離はおよそ80キロ、途中、戸県の農民画博物館を見学、1958年に1ダースくらいの農民画家が居て、絵を描き出し、現在は1500人を超えているという。これらの者が日常を題材に、これまでに11万もの労作をものにしてきているという。

国内外の観衆の要求を満足させるために、1976年に「戸県農民画博物館」が新しく建設され、200近い美術作品がそこで展示されるようになっていた。

 農民画の題材は豊富で、形式も多様で、壁画、版画、切り紙(剪紙)、黒板報、光栄榜、箱子画、速写などがあるという。壁画、黒板報などは大学構内や街中で何度も見てきているし、切り紙(剪紙)も中国の伝統であり、購入した古本の間に個人の切り抜いた剪紙が入っていることも多い。文革時代の古本には毛沢東を切り抜いたものがよく入っていたほど、ポピュラーだ。これらでも分かるように、庶民の生活に沿った中から生まれた画が農民画なのであろう。でも、ここまで大きく発展させるには地方政府の何らかの意図が働いたのであろうと思う。しかし、確かに絵画自体は独特で、心惹かれるものがある。 

12時過ぎに農民画博物館に別れ、楼観台に向かう。道路の左右にポプラ並木であろうか、背の高い並木が続く。まっすぐ走る道路は、前方上方を見ると緑のトンネルの中にあるように見える。並木の下方、腰の高さほどに白いペンキが塗られていて、夜間の道路走行を助けている。道路の左右はずーっと麦畑が続く。そんな中にも、ところどころ一面に菜の花が咲いているところも出現する。

楼観台は道教の重要な場所で、名所になっているようだ。駐車場には100台近い、バスやトラックを中心に、自家用車、マイクロバスなどが駐車していて、その参道には出店が出ており、人々でごった返していた。この参道の途中まで5,6頭の馬が客を運んでいて、馬に付けられた鈴が人を搔き分けていく。これらの馬の糞も参道の真ん中にあり、注意して歩かねばならない。馬に混じって、駱駝が1頭、やはり参道の途中に居た。これは、あまり移動しないで、その場で乗せて、写真だけ撮らせているようだった。

 はっきりした物乞いをこの参道で三人見かけた。それぞれ椀を前に置き、金を求めて座っていた。小学校1年くらいに成るか成らないくらいの一人の子供がやはり椀を持って、これは座して他人からの恵みを待つのではなく、人に近寄っては集るかのように付き纏っていた。当時の私の頭の中では、社会主義の国なのに、どうしてこのような人たちが居るのだろうと不思議であったが、その後の中国を見る限り、中国の社会主義そのものがペテンに近いものだとの感覚が身についていった。

楼観台は周至県城東南15キロの秦嶺山北麓にあり、いわゆる終南山と呼ばれているところだ。領域は「説経台」を中心として周囲数キロに及ぶ植林された森林や池を含んでいると言われる。周の時代より3千年の歴史をもち、道教の祖とされる老子(李耳)がこの地に到り、道徳経5千言を伝えたという。各王朝の皇帝も楼観台の修建や拡張に力を貸した。秦の始皇帝、漢の武帝を始めとして、隋の文帝、唐の李淵、玄宗など、更にはその後の各王朝の皇帝たちも修建や拡張を支援した。特に唐朝では皇室の姓と老子の姓が同じであることから老子を遠祖とし、その保護に力を入れたとのことである。ここを訪れた文人も数限りないが、私の知っている文人だけでも次のような人たちが訪れている、唐の王維、李白、白居易、李商隠、欧陽詢、宋の米芾、蘇軾,蘇轍など。

老子の墓もあるそうだが、私たちが見学したのは、「上善池」と「説経台」のみであった。


  「上善池」と書いた碑文が納められた八角堂の右手に上善池があり、石積みで八卦を形造った池で八角の径は2メートル75センチ、池の北端には石彫の龍頭があり、その口から水が流れ出している。この水を飲めば無病息災になり、治病に効果があり、延年益寿が叶えられると信じられている。元の時代に疫病が流行り、夢に現れた老子が、これを治癒する効能がある水の湧くところを教えたというのがここだとの伝説があるからだ。

池の中で、この水を受けているのが「金蟾(きんせん)」または「三足金蟾」と言われる蝦蟇(ガマ)である。陝西省西安に伝わる「財神劉海与金蟾伝説」によれば、劉海という仙人が退治した妖怪の金蟾(退治された時に足を一本失う)が改心し、刘海が貧しい人を助け、皆を幸福にしようとすることに協力し、お金を口から吐き続けたという。「大銭」という貨幣を何十枚も紐で結びつけたものを背負い、足元の「元宝」という貨幣が積まれている台座に鎮座する。道教信者の風水でも信じられる、「招財進宝」の象徴にもなった蝦蟇である。

日本でも、白瀧酒造の銘柄に「上善如水」という銘柄の酒がある。上善如水 それは道教の祖である老子の言葉で、「上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず、衆人の恵む所に処る。」と人間の理想的な生き方を水のように様々な形に変化する柔軟性に求め、他と争わず、自然に流れるように生きることを説いたものだと言われる。

 説経台は老子がここで道徳経を説いたという場所である。碑が多く建てられている。米芾の「第一山」の碑や、蘇軾の「剣舞有人通草聖 海山無事化琴工 此台一覧秦川小 不待傳経意已空」が刻まれている。正殿の東西には方丈、斎舎などがあり、参観当時ここは道教の歴史文物展示室になっていた。もちろん、老子の塑像(泥土で造られた)一尊も安置されていた。

とにかく、人の多さには驚かされた。中国民衆の民間信仰のエネルギーを感じた場所であった。このような場所に外国人を案内した大学の計らいは、まさに「お雇い外国人」扱いであった。

漢中の旅行五日間

 漢中の旅行の時など、希望した西安の外国人60人ばかりに、外事所や省関係の中国人が40人ばかり、総勢100人ばかりの旅行団が組まれ、夜行列車約12時間、現地では5、6人乗りのワゴン車20台ばかりが列をなし、その先導に公安車が行く。街角、街角に公安官が立っているという国賓並みの扱いを受けた。現地の中国人にとって、こんなに大勢の外国人を見るのは初めてで、外国人見たさに人垣ができた。そんな中を、武侯祠、真贋二つの武侯墓を見学する。一つは明代の『武侯祠墓志』に記載の武侯廟の後方にあり、もう一つは清時代に風水で推理され特定された山前にある。

 三国志で劉備に三顧の礼をとられ迎えられた智将の諸葛亮、字は孔明、この人物が武侯である。土饅頭の墳、武侯墓、そこは古柏漢桂が青々として茂り厳かで粛然とした雰囲気が漂う。漢桂が二本植えられていて、これらの樹木は「護墓双桂」と言われ崇められている。古より現在至るまで、ここを訪れる者が絶えないとのことである。清明節の時期には数万にもなる観光客がやって来るとのことである。 

  観光地だけでなく、茶畑や茶の工場、それに籐の家具をつくる農家の見学も用意されていた。茶畑や工場や農家への道は、前日か当日の朝、山道を削り階段を造ったようであり、また、道路に急遽土を撒いた跡が見られた。我々外国人は賓客なのである。勿論、要所要所に公安官が立っていた。また、ホテルの夕食には生バンドが付いた。

 今回の旅行でも、各所で、「お雇い外国人」扱いを私は感じていた。


運動会や観劇会や音楽会

 グランド正面の中央貴賓席で学長自らが外国人講師を迎えて握手し、席を与えられ、それぞれ同僚の中国人教師が通訳として傍らに座る。

 夜7時過ぎ大学のワゴン車が賓館の外国人を積んで、西安音楽学院へと向かう。アメリカからやってきたオーケストラを聴きに行く。帰りも勿論大学のワゴン車が迎えに来てくれていた。

 9月10日の教師節、市内辺家倶楽部にて、式典、その後上海映画と拳法の映画が上映される。

 教師節の音楽週間に西安音楽院の音楽会に招待される。演目は『献給教師的歌』声楽専場音楽会―チベット族の歌曲や「春天来了」など、鋼琴(ピアノ)独奏音楽会―巴哈(バッハ)、肖邦(ショパン)、斯克里亜賓(スクリャービン)、拉威尓(ラベル)、貝多芬(ベートベン)、舒曼(シューマン)などの曲、奏鳴曲音楽会―巴哈、弗蘭克(フランク)、勃拉姆斯(ブラームス)の曲、民族器楽専場音楽会―笛、筝(ショウ)、古琴、二胡、琵琶、阮咸(琵琶の一種)、嗩吶(チャルメラに似た管楽器)などの民族楽器による演奏、それぞれの音楽会が開かれる。中国の民族楽器の演奏は初めてでもあり、とても新鮮であった。

* 市内の五四劇院で「姐妹皇后」を観劇する。中国衣装風俗を堪能する。

 陝西省戯曲研究院排演場で、7時から外国人対象の「五一」文芸晩会があり、4,5歳から12歳までの子供たちが演じる催しがあった。観客として迎えた外国人を持て成すために、それぞれの国の歌も組み込み、披露された。日本の歌は「お月さん」と「幸せなら手を叩こう」が歌われた。子供たちは、ずいぶんと練習したのであろう、歌だけでなく、唐代の伝統的なものから新疆などの民族的なもの、更に現代的なものまで、多種多様な踊りを見せてくれた。





その9、法門寺界隈、報本寺塔、武塔小学校

加藤正宏


法門寺

 西安の西北工業大学での任務を終え、1988年に帰国し、1993年に再訪を果たした時、企業から派遣されていた元学生たちの接待を受け、法門寺を観光することができた。

1987年5月29日、陝西省人民政府が内外の記者を集めて、ニュース発表会を開いて紹介した宝物が地下で発見されたあの法門寺である。

 元学生たちが自家用車を用意してくれていたので、西安から西へ約150km程度離れた宝鶏市扶風県に向かい、片道約3時間半で目的地法門寺に行くことができた。宝物発見後6年が経過しており、観光化が進んでいて、各所で門票(入場券)が必要となっていたし、法門寺近くでも、農民たちが次から次へと車の前に飛び出してきて、食事に引き込もうとする。寺自身も門票だけでなく観光土産など用意していた。私も記念にと、7字10行の『養生歌』一枚を購入した。そこには「静坐常思自己過 閑談勿論他人非 ~ 能知足者心常楽 能忍気者身自安」(* 閑談=雑談、おしゃべり。勿=なかれ、忍=我慢する、気=怒り)などと書かれている。ごく常識的なことだが大事なことなのであろう。

  門票3枚の裏面の文を紹介しておこう。


法門寺参観券

 法門古刹、始建於東漢恒霊之世、距今約壱千七百余年歴史、素称関中塔廟祖庭。寺内有釈迦如来真身宝塔、塔下地宮珍蔵佛舎利、名聞中外。塔上蔵有宋、元古版経蔵、唐、宋、元、明銅鋳佛像、為世稀有 

法門寺博物館

 法門寺博物館与馳名中外的法門寺為隣、是国内第一所以佛教文物為内容的専題性博物館。

法門寺相伝創建于東漢、隋、唐時因供養佛舎利而成為四大佛教聖地之一。至明代、唐建木塔倒毀、又在原基地上重建磚塔。一九八一年明塔由頂至底中裂崩搨、僅余一半巍然斜立、一時成為奇観。一九八七年修塔時発現塔基下唐咸通十五年(公元874年)修建的地宮、内臓佛指舎利及金銀器、秘色瓷、瑠璃器、石雕、絲織品等各種器物両千余件、都是唐代皇室的供奉品。其質地之精良、器型和装飾図案之精美、作工之精細、均無与倫比。這些稀世珍宝都収蔵于博物館内、供海内外遊客参観。(* 磚=煉瓦、巍然=高大な様子、倫比=匹敵する)

法門寺地宮参観記念

 法門寺地宮是我国所発現的佛塔地宮中最大的一座・地宮位於塔基之中・総面積為31.4㎡・包括踏歩漫道・平台・前室・中室・後室及後室秘龕七部分。

地宮内珍蔵釈迦牟尼佛指骨舎利及唐代八帝為迎送舎利之供品・有金銀宝器・珍珠宝器・瑠璃器・秘色瓷・絲織品和夾金織物二千余件。其種類之繁・制作之精・等級之高・保存之完好在国内外実属窂見。

1988年重建真身宝塔・除保留了塔代地宮外・併増建了外地宮・以供奉佛指舎利。

(* 秘龕=密かに仏像を安置する厨子)


 前回、『陝西画報』1987年第5期での法門寺の紹介をしたが、そこに掲げられた法門寺の真身宝塔は無残にも半身がまっすぐ切り取られたような姿であった。これは1981年8月4日夜半、真身宝塔の半分が大雨によって崩壊したためであった。

法門寺はもともと歴史上では規模のとても大きな寺で、一時期、寺の占有地は百畝(1畝=667平米)以上、そこに24院の建物があり、和尚が数百人居たこともある。寺領は縮小してきてはいるものの、伝統ある寺院であり、1985年、陝西省政府が真身宝塔を再建することを決定し、修復工事の過程で1987年4月3日、真身宝塔の地下にあった地下宮殿が開かれ、稠密な彫金を施した八重もの宝函に収められた四粒の釈迦牟尼の指の舎利などの大量の貴重な文物が出土した。半坡遺址、秦兵馬俑に次ぐ、考古学上の新発見として歴史考古学上の一大事件となり、陝西省地方政府による1987年の内外記者向けのニュース発表会となったのである。

門票3枚の裏面の文に書かれていることによると、寺は東漢(後漢)の時期の創建で、1700年強の歴史を有し、宋や元の古い版の経蔵や、唐や宋や元や明の銅製鋳造の佛像などがあり、四大佛教聖地の一つとして尊崇されてきた。釈迦如来を祀る真身宝塔の地下には釈迦牟尼の指の仏舎利が奉納されている。塔は明代まで木造で、明代から煉瓦造りの塔に変わった。1987年に開かれた地宮の総面積31.4㎡の場所には、唐の歴代の皇帝が佛舎利に供えた品が2000強も発見され、その種類の多さ、装飾図案やその製作の精巧さ、品質の高さ、その保存の素晴らしさが確認された。

その後、改修中であった塔は1988年10月に竣工し、同年11月9日に法門寺博物館が開館した。だから、今回私が見学したのは修復し終えた真身宝塔であり、歴史的な重さがあまり感じられず、珍宝は別にして、塔についての感慨は今一つであった。現在(2019年)に在っては更に歴史的な外観は損なわれ、テーマパーク的な建築が追加されてきているということだ。


報本寺塔

法門寺の塔よりも、心惹かれたのが法門寺の少し手前にあった、古めかしい感じの今にも崩れそうな報本寺塔であった。観光化されていず、塔の入口から入ってみると、中は天辺まで空洞(からっぽ)で藻抜けの殻であった。

陝西人民美術出版社の『古都西安』王崇人著にも載っていなかったが、いろいろ調べてみると、報本寺塔は以下のような塔であった。

陝西省武功県城北に位置し、俗称「武功塔」と呼ばれ、1957年に第二批陝西省文物保護単位に指定されている。唐の建国者李淵が隋朝の役人であったときに武功に住み、ここで唐朝二代目になった太宗李世民を出生した。李世民が即位後、この旧宅を慶善宮と改め、生母が常に住まう別荘となった。そして、この別荘が改められて報本寺となる。現在、報本寺は無く、塔のみが存在する。煉瓦造りの八角形七層の空芯で、高さ約37メートルの塔である。1994年に、塔の傾きがひどくなり、取り壊して再建されたとのことである。

私がこの塔の内部に入り込んだのは1993年の7月であるから、取り壊して再建された年の前年になり、宋、唐以来のオリジナルを目にし、触れたことになる。


武塔小学校

 報本寺塔の近くに、武塔小学校があった。こぢんまりした小学校は院子を拡大した感じのものであった。元学生の交渉によって子供たちの写真を撮ることが許された。子供たちは天真爛漫で、フラッシュに最初は驚いたが、次々と乗り出すようにして写真を撮ってもらおうとするなど、生き生きとしていた。数学の授業をしていたのが3年生、運動場の地面に、それぞれ教科書の文章を書いていたのは1年生だが、ずいぶん難しい漢字を地割された場所で書いていた。私は写真を撮るだけでなく、子供たちと一緒に居る私自身を元学生に撮ってもらった。教室で1枚、グランドで1枚撮ってもらった。グランドで写真を撮っているとき、元学生が「老師、好像毛沢東一様」と大声で笑いながら言った。「先生、まるで毛沢東と同じです」と言ったのだ。元学生たちが小学校の頃の教科書や子供の雑誌には、にこやかに笑う小学生たちの中心で、これも又にこやかに笑っている毛沢東の挿絵が必ず掲載されていた。文革時代のプロパガンダ(政治的宣伝)の一つであったろう、その挿絵の小学生の笑いは本物だったかどうかは分からないが、武塔小学校の子供たちの笑いは真実本物であった。




補正



1986年(三十数年前)頃の中国西安  

その4、紙銭冥銭

加藤正宏

 

 1986年、私の方の事情(日本の年度替わりは3月末終了)に合わせて、西北工業大学は四月からの講義ということで私を受け入れてくれた。西安に着いた私が奇異に思えたのが、街角のあちらこちらで自転車に積んで売り歩いている穴の開いた藁半紙であった。

 不思議に思い、同僚になった若い中国人日本語教師に、「皆さんは、あの穴の開けた藁半紙で尻を拭くのか」と尋ねてみた。写真を撮っている私に「手紙(便所紙)ではなく紙銭というものだ」と答えながら、なぜこんなものを撮るのかと訝し気な顔をしたものだ。

 説明によると、清明節に墓の前で燃やすものだそうで、政府は迷信だと禁止しているそうだが、実際には民衆に根づいている風習なのだとのことであった。

 後日、古老から聞いた話では、清明節の日には、墓に参って墓を清掃し、墓の前にいろいろな供物を捧げ、この紙銭や冥銭を燃やすという。この時、亡父に対しては「お父さん、沢山のことはできませんが、どうぞこのお金を受け取ってください。」と、墓に語り掛けながら燃やすのだそうだ。冥国で、亡父が経済的に困らぬようにとの家族の思いが込められているという。冥国つまり「あの世」も金次第なのであろう。

 紙銭は藁半紙に鏨で幾つもの穴を縦横にたくさん空けたもので、その穴は古銭のような円形方孔の形をしている。冥銭は玩具のような紙幣に天帝の肖像などが入れられたもので、額面は1万元とか10万、100万と現実にはない額面が記載されている。素朴な物は農家の人が版木を持っていて、それで印刷する一色刷りもので、額面は当時の紙幣の最高額面の10元であった。

上 紙銭        下 清明寒食節

  墓の前で燃やす紙銭は全部燃やしてしまわないで、数枚墓の上に置き、その上に煉瓦を載せて帰ってくるという。墓の上に紙銭が無いと身寄りのない墓だと見られてしまうからだそうである。しかし、必ずしも墓がお参りできる距離にあるとは限らない。そういう時は、道路や広場に丸い円を描き、墓の方向だけは線を消しておく。そして、その中で紙銭や冥銭を燃やすのである。円の切れた方向に煙が流れ、お墓まで流れて、燃やした紙銭や冥銭が届くと考えている。墓の場所を示した紙を共に燃やすこともある。清明節の翌朝などは道路という道路は円を描いた跡や焼けた残った紙幣による痕跡があちらこちらに見られた。これによく似た風習に、冬を迎えた時期に「寒送衣」というのがあった。亡くなった人に衣服を送るのだが、「お父さん、寒くなったでしょう、この服を送りますから、暖かくして過ごしてください」などと言って、少し綿を入れた紙で造った衣服を墓前で燃やすのである。このときも、紙銭や冥銭も燃やした

 これらは中国で永年続いてきた伝統的民族風習と言えよう。唐代の杜牧の『千家詩』に取り上げられた七言絶句に、『清明時節雨粉粉 路上行人欲断魂 借問酒家何処有 牧童遥指杏花村」がある。この時期の雰囲気をあらわす詩としてよく知られている。また、唐代の詩人白居易(白楽天)には「寒食野望吟」という七言律詩があり、『烏啼鵲噪昏喬木 清明寒食誰家哭 風吹曠野紙錢飛 古墓壘壘春草綠 棠梨花映白楊樹 盡是死生別離處 冥冥重泉哭不聞 蕭蕭暮雨人歸去』と詠んでおり、どこからともなく聞こえてくる祖先を哀悼する泣声、風が吹き広野に舞い上がり飛び交う紙銭、古墓の周囲一面を覆いつくす茂った春草の緑など、下線部が伝統的な清明寒食節の様子を伝えてくれている。

 いくつか由来が伝えられているが、我々には馴染みのない語句なので、清明寒食節の由来の一つを、雑誌『収集』(1986年8月号)に私が以前紹介した内容から引用しておく。

 中国の春秋時代、晋の文公を助けて、国の復興を成功させた介子推は、引退し、綿山に隠居する。しかし、文公は彼を必要とし、山を下りて任官するように求めるが聞き入れられない。そこで、山を焼けば介子推も出てくるであろう、その時、直に彼に会って任官を求めようと、文公は考えた。清明節の夕方、山林に火をつけ山を焼いた。しかし、文公の予想に反して介子推は山を下りず、樹を抱いて焼死した。血詩が一首、残されていたという。その中に「肉を裂き、主君に奉仕し(苦戦していた時、食料が何一つなく、介子推が自分の腿を裂き、その肉を文公にささげたこと)、忠義を尽す、ただひたすら主君が常に清明(公明正大)なることを望む」の句があった。文公は介子推の遺詩を読み終えて、激しく心を揺り動かされた。そして、介子推が隠居した綿山を介山と改め、介子推が焼死した日(つまり清明節の前夕)は火を燃やすことを禁じ、煙草を吸うことや、火を使った食事をとることを禁じた。このようにして、清明節前夕の寒食節が生れた。そして、この寒食節には祭祀掃墓し、先祖を偲ぶ風習が生れた。

 初めて赴任した中国で、このような中国の伝統的な風習の洗礼を受けたわけだが、その35年後の四度目の赴任地江西省萍郷市の或るお寺の門近くの外壁に、以下のような表題の内容掲示を見かけた。

「関於規範城区喪葬秩序的通告」

 公安局や民政局を含む五つもの局や室が連名で通告したもので、先ずその目的を、都市管理を強化し、都市環境を良くし、都市の品位を向上させ、全国的な文明都市を創り上げ、調和の取れた住環境を打ち立てるために、萍郷市人民政府が既に発している通知文件の精神に基づき、市内の喪の秩序に関する事項を規範して通告するものだと書いてある。

 その規範として、5つの禁止事項を掲げ、違反者に対する罰則や処置が述べられている。禁じられているのは、居住区の道路や公共の場所に棺を設置し葬儀を行ったり、死者の遺物を燃やしたり、紙銭や冥幣をばら撒いたり燃やしたり、鞭炮に火をつけて鳴らしたり、葬送の銅鑼や鐘を鳴らし、笛を吹く、大きく放送を流すなどである。また、街路で棺を担ぎ練り歩くことや、葬儀の車列を組み交通渋滞を引き起こすことなども禁止されている。

 もちろん、迷信に由来するものも禁止されている。風水を見たり、のぼりを揚げて霊魂を呼ぶなど、また巫女や占い師に頼んで宗教場所以外のところで法事や、紙銭・冥幣を燃やして死者に送るなどの迷信に基づく活動、そして紙銭・冥幣などの迷信に関る葬喪用品の製作などが挙げられていた。

 それぞれに処罰があるだけでなく、楽器を含め、違反した物品については没収され、公職人にあっては、提供される葬儀費用や慰問救済が停止されると記載されていた。

 江西省萍郷市では、通告で禁止されている事項のほとんどが伝統的社会慣習として、2011年頃も生きていたと言える。禁止事項というものは、守られない現実があるからこそ、このように通告されるものだからだ。

そう言えば、西安で紙銭以外にも喪や葬に関して意外な見聞をしている。額から垂れ下がる白い鉢巻の帯が地面に着きそうなものから額を一回りしただけのものまで長短様々な鉢巻の帯を着け、銅鑼や鐘を鳴らした葬送の集団による行列を見たことがある。その帯の長さが葬られる人物との近しさを示しているとことだった。また、お墓の傍らで笛やラッパや太鼓が大きな音を鳴らして死者を葬っているのにも出会った。また更に、お墓の囲む人々の中に、一際大きく泣き叫ぶ女性がいて、あまりにも声が大きく大げさに泣いているので驚いたものだが、葬儀に雇われた「泣き女」だとのことであった。

萍郷市の通告を見る限り、中国の伝統的社会慣習は生き続けていっているようだが、IT革命の進む現在の中国ではどのようになって行っているのであろうか。

葬喪だけでなく、会員諸氏で冠婚葬祭に参加されたり、見聞されたりした方からの情報が寄せられることを願っている。





1986年(三十数年前)頃の中国西安  

その5、街路に描かれた唐詩

加藤正宏

 赴任した当初、大学から貸与された自転車で、講義の終わった午後や休みの土日には、独り西安の街並みを駆け巡っていた。西安城内では古い町並みが壊され始めた時期であった。それでも、四合院(東西、南北に対面した家屋の中央に中庭がある家屋)や胡同(路地)があっちこっちに残っていた。その路地の建物の壁に以下のような唐詩を幾つも見かけた。さすがに中国の都市だとその時は単純に感心したものだが、今考えるとどんな意図があったのだろうと不思議に思われてくる。描かれた詩には1986年に描かれたものが多かった。

 当時の小学生課本にも多くの唐詩が紹介されていたし、書店などでも、多くの幼児用や小学生用の詩の冊子やテープが出版されていて、私もそれらを多く買い求め、今も手元に置いている。 

 街路で写真に収めた唐詩をご覧いただき、どなたか、その意図を解き明かしていただけないものだろうか。文革が終了して10年、海外から技術や知識を導入しようとしていた時期である。

 

『静夜思』  李白(701-762)

牀前看月光 疑是地上霜 擧頭望山月 低頭思故郷

 

書き下し文

牀前(しょうぜん) 月光を看(み)る

疑うらくは是(これ) 地上の霜かと

頭(こうべ)を挙(あ)げて 山月を望(のぞ)み

頭を低(た)れて 故鄕を思う


 

『楓橋夜泊』  張継(8世紀中頃)

月落烏啼霜満  江楓漁火對愁眠  姑蘇城外寒山寺  夜半鐘声到客船

 

書き下し文

月落ち烏(からす)啼(な)いて 霜天に満つ 江楓漁火(こうふうぎょか)愁眠(しゅうみん)に対す 姑蘇城外(こそじょうがい)寒山寺 夜半の鐘声(しょうせい) 客船に到る


 『送日本國僧敬龍歸』 韋莊(836~910)

扶桑已在渺茫中 家在扶桑東更東。此去與師誰共到 一船明月一帆風。

 

書き下し文

扶桑(ふそう)は已(すで)に渺茫(びょうぼう)たる中に在り 家は扶桑の東の更に東に在り。此(こ)こを去りて師(し)與(と)誰か共に到らん 一船の明月一帆の風。

*  扶桑:東海にある神木。時には日本を指す。

*  渺茫:広く果てしないこと。

 街路の壁面に見たのではないが、日中の往来としてよく知られているのが、李白の『哭晁卿衡』と王維の『送秘書晁監還日本国』だと思うが、1984年に陝西人民出版社が出版した張歩雲著『唐代中日往来詩輯注』を入手している。そこには、これら韋莊、李白、王維の詩だけでなく、私たちの良く知っている鑑真や最澄や空海を詠んだ詩なども多数再録されている。 

 そこには、これら韋莊、李白、王維の詩だけでなく、私たちの良く知っている鑑真や最澄や空海を詠んだ詩なども多数再録されている。その中から、李白、王維の詩を紹介しておこう。

『哭晁卿衡』 李白

日本晁卿辞帝都 征帆一片遶蓬壺 明月不帰沈碧海 白雲愁色満蒼梧

書き下し文

日本の晁卿(ちょうけい)帝都を辞す。  征帆(せいはん)一片 蓬壷(ほうこ)を繞 めぐる。  明月帰らず 碧海(へきかい)に沈む 。 白雲(はくうん)愁色(しゅうしょく)蒼梧(そうご)に満つ。

*晁衡:安倍仲麻呂 *卿:尊称  *蓬壷:蓬莱の島 *蒼梧:中国の南方、中国

 

『送祕書晁監還日本國』 王維

積水不可極 安知滄海東 九州何處遠 萬里若乘空 向國惟看日 歸帆但信風 鰲身映天黑 魚眼射波紅 鄕樹扶桑外 主人孤島中 別離方異域 音信若爲通

書き下し文

「秘書晁監(ちょうかん)の日本国に還(かえ)るを送る」

積水 極む可からず

安んぞ 滄海の東を知らんや

九州 何れの處か遠き

万里 空に乗ずるが若(ごと)し

国に向かって惟(た)だ日を看(み)

帰帆は但(た)だ風に信(まか)すのみ

鰲身(ごうしん)は天に映じて黒く

魚眼は波を射て紅なり

鄕樹は扶桑の外

主人は孤島の中

別離 方(まさ)に域を異にす

音信 若爲(いかん)ぞ 通ぜんや

 

*積水:海のこと *滄海:東方の大海原 *鰲身:大海亀の胴体

 

 これらの詩には「日本」「日本國」と記述があり、唐の当時おいて既にこれらの名で我が国は認識されていたのかと、改めて日本人である自身と日本に思いが及ぶ。鑑真や最澄や空海を詠んだ詩などにも「日本國」の文字が出てくる。

街中で出会い知り合った中国人から、現在の中国は日本の何年前ぐらいだと、先進国日本を意識した質問に何度も出くわし、その憧れの対象に日本がなっていることに微かな優越感を感じさせられることが多かった。


『望廬山瀑布』 李白(701~762)

 日照香炉生紫煙 遙看瀑布挂前川 飛流直下三千尺 疑是銀河落九天

 

書き下し文

日(ひ)は香爐(こうろ)を照(て)らして 紫煙(しえん)を生(しよう)ず、遙(はる)かに看(み)る瀑布(ばくふ)の 前川(ぜんせん)に挂(か)かるを、飛流直下(ひりゅうちょっか) 三千尺(さんぜんじゃく)、疑(うたが)うらくは是(これ)銀河(ぎんが)の 九天(きゅうてん)より落(お)つるかと。

 


『春暁』 孟浩然(689-740)

春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少

 

書き下し文

春眠(しゅんみん) 暁(あかつき)を覚(おぼ)えず、処処啼鳥(しょしょていちょう)を聞く、夜来風雨(やらいふうう)の声(こえ)、花落(はなお)つること 知(し)らず多少(たしょう)ぞ。 

* 花落知多少:花落不知多少の不を略した形―松枝茂夫の解説。 

『送元二使安西(渭城曲)』 唐 王維

渭城朝雨潤輕塵 客舎青青柳色新 勧君更盡一杯酒 西出陽關無故人

 

書き下し文

渭城(いじょう)の朝雨(ちょう) 軽塵(けいじん)を潤(うるお)し、客舎(きゃくしゃ)青青(せいせい)柳色(りゅうしょく)新(あら)たなり、君(きみ)に勧(すす)む更(さら)に盡(つ)くせ一杯(いっぱい)の酒(さけ)、西(にし)のかた陽關(ようかん)を出(い)ずれば故人(こじん)無(な)からん。

『黃鶴樓聞笛』李白(701~762)

一為遷客去長沙 西望長安不見家 黄鶴楼中吹玉笛 江城五月落梅花

 

書き下し文

一ひとたび遷客(せんかく)となって 長沙(ちょうさ)に去る  西のかた長安を望(のぞ)めども家を見ず 。 黄鶴楼中(こうかくろうちゅう)玉笛(ぎょくてき)を吹く  江城(こうじょう)五月 落梅花(らくばいか)。

『塞下曲 一』 

唐の常建(708~765)

玉帛朝回望帝鄉 烏孫歸去不稱王 

天涯靜處無征戰 兵氣銷為日月光。

 

書き下し文

玉帛(ぎょくはく)は朝(ちょう)より回(かえ)って帝鄉(ていきょう)を望(のぞ)む 烏孫(うそん)歸(かえ)り去(さ)って王(おう)を稱(とな)えず 天涯靜(しず)かなる處(ところ)征戰(せいせん)無し 兵氣(へいき)は銷(き)えて日月(にちげつ)の光(ひかり)と為(な)る。

この詩については、訳文(高木正一『唐詩選 下』朝日新聞社)を付け、現代からの解釈の一つを紹介しておく。

玉帛をささげて入朝した烏孫王は、朝廷から退出したあとも、わが天子の都を慕い望み、国にひきあげてのちは、もはや国王の称号を用いなくなった。かくて、空のはての静かにひそまるところまで、討伐のための戦はなくなり、兵器の気は消え失せて、日月の光がかがやく世界となった。

*  玉帛:諸侯が天子に謁見するとき、進物としてささげる宝玉や絹布。

*  烏孫:漢代から南北朝のはじめにかけて、今の新疆ウイグル自治区の西境からソ連領イリ地方に国を建てていた遊牧民族。

 

劉根生が2017年5月15日付けの湖北日報網(ネット)で習金平が提出した「一帯一路」の「新シルクロード経済帯」と「21世紀海上シルクロード」を高く評価している。

その根拠に、常建の『塞下曲 一、 玉帛朝回望帝鄉 烏孫歸去不稱王 天涯靜處無征戰 兵氣銷為日月光。』を取りあげ、そこに描かれているように、二千年前のシルクロードの世界が平和で繁栄し、とても明るく幸せな世界が造り上げられているとし、習金平が提出した「一帯一路」を新しい発展理念の偉大な実践だとして、高く評価しているのだ。現時点では、日本人の私から見れば、湖北日報の劉根生による最高権力者に対する忖度にも見えるのだが・・・・・。

西安の壁にこの詩が描かれた1980年代当時、既にそのような意図が託されていたのだろうか。それともこの詩を壁に描いた意図は別にあったのであろうか。

2017年5月15日付けの原文は以下のようなものだ。 

“一带一路”是新发展理念的伟大实践 (来源:湖北日报网 2017-05-15 作者:刘根生)

2013年9月和10月,习近平总书记在先后提出了建设“新丝绸之路经济带”和“21世纪海上丝绸之路”的战略构想,引起了国内和相关国家、地区乃至全世界的高度关注和强烈共鸣。 “玉帛朝回望帝乡,乌孙归去不称王。天涯静处无征战,兵气销为日月光。”常建的《塞下曲》,以雄健的笔力描绘出两千年前丝绸之路的和平昌盛、光明幸福的历史图景。而今,借助丝绸之路的历史符号,中国全面推进“一带一路”战略,这是一种智慧,也是一种胆识,是创新发展的中国在前进过程中迈出的重要一步。