01 中華人民共和国糧票 その16

中華人民共和国糧票 その16

加藤正宏

 今回は山東省の糧票を取り上げる。山東半島は朝鮮半島の西、黄海を挟んで対峙している。日本人の我々にとって、山東省で最もよく知っているのが、青島であろう。中国人にとっては、これと同じ、或いはそれ以上に知られているのが、泰山のある泰安市と孔廟や孔林がある曲阜市がある。しかし、これらはどれも省都ではない。済南が省都である。

 青島も済南も日本が関わりをもった都市である。青島はドイツの租借地として、ドイツの東洋艦隊の基地として、ドイツ的な街並みができていた都市だ。第一次大戦時、日本はここを攻略して占領し、大戦講和のヴェルサイュ条約(1919年)でドイツ権益を継承したのだが、ワシントン会議(1921~22年)で中国に返還させられたところ。済南は蒋介石の国民党の北伐の動きに対し、在留日本人の生命財産の保護を口実に、日本が3次に渡る山東出兵行い、第二次出兵時に、事件を起こしたところである(済南事件、1928年)。

山東省の行政地図(1987年)

 済南市⑧、?博市⑦、金郷県⑫左下、青島市⑤下、ラオシャン(山労山県)⑤右下。ラオシャンのラオは左に山、右に労働の労の上が草冠の文字である。

 入手しているのは省と上記の地区の糧票や油票を紹介してみよう。

山東省の糧票]

      山東省糧食総局の柴草票 壱百斤 中華民国36年(1947年)

 私の入手している糧票の類の中でも、歴史的に貴重な資料となりうる1枚である。日本の敗戦(中国などの光復)後、国民党との解放戦争の中、部隊や共産党の政治工作員に必要な生活物資の供給を保障した票である。中国人民銀行金融研究所・財政部財政科学研究所編「中国革命根拠地貨幣 下冊」1982年初版にも、形式のほぼ同じもの「馬料票 参百斤 中華民国36年(1947年)」が222頁(表),223頁(裏)に山東根拠地糧餐票の一枚として紹介されているだけである。 

      文化大革命期の糧票(1969年)

        71年、78年、84年の糧票

励行節約、厳禁浪費糧食,千万不要忘記階級戦争

備戦、備荒、為人民。抓革命、促生産

 


[山東省油票]

    文化大革命期の油票(1969年)

最高指示 抓革命、促生産

要節約閙革命

最高指示

必須把糧食抓緊

② 1975年の油票

 

[威海市工種専用糧票]

[金郷県生活煤票]1970年 5、25、50、100公斤 要節約閙革命

済南市] 糧食副券 大豆糧票

[淄博市 油票 購貨券 細糧票]

最高指示

必須把糧食抓緊必須把棉花抓緊必須把布匹抓緊備戦、備荒、為人民

 [青島市細糧票]

 下段の上の糧票は青島市魯迅公園にある青島海産博物館、標本陳列館と水族館からなる。

 下の糧票は右が前海桟橋の先端の回瀾閣、青島十景色の第一景、左の図柄は小青島。

 海岸の写真は下の糧票(5千グラム)の図柄にあたる。手前・前海桟橋、奥・小青島

 青島からラオシャンに行く途中にある別荘。付記の旅行のところ参照。

 

[laoshan(牢山)区]糧食局熟食品票] laoは山労の字

 「泰山雖雲高、不如東海lao」と『斉記』にあり、宋元以来、寺観が建てられ有名な道教の名山となり、「神仙之宅、霊異之府」の地として、中国人に人気がある。

付記 古林大学2002年山東旅行

長春~青島~済南~泰山~青島~長春

青島往復とも飛行機(各1時間半)

(5月1日~4日)

* 青島~済南(約5時間) 大型バス2台 窓外に青い麦畑が続く、途中からビニイールハウスがどこまでも続く、ハウスの屋根には莚の巻き茣蓙が置かれており、温度調節がされているようだ。

泰山

 大型バスから中天門まで行く専用の小型バスに乗り換え(山道のすれ違いを考えてのようだだが・・・)、半時間登る。このバスに乗るのに大変時間を要した。5月2日、この日に泰山に登った人は4万人だったそうで(地元の新聞報道)、これらの人が全て、この専用の小型バスで中天門まで行くのだから、混んでいて、待たされるのも仕方がなかったのであろう。中天門からは階段の登山道が南天門で続いている。約2時間弱の行程だが、ロ-プウェイで南天門に行く片道40元の方法もある。階段の登山道の脇の崖や岩には、多くの文字が刻まれている。小雨で霧が多かったこの日は、60歳を迎えた者にとっては厳しいものであった。階段の勾配も下りるときには恐ろしいだろうなと思われるような勾配もいくつかあった。途中、いくつも寺廟があり、それを抜けていく。こんな登山道にも、身体障害を装った人物が、両足を一つの袋に入れて横たわり、物乞いをしている。このような険しい山道に、どうして来れたのかを考えれば、ペテンと分かりそうなものなのに、このようなペテン師に恵む者いる。

 ヤッケを着ての登山だった為に、下着は汗でぐっしょりとなり、辿り着いた南天門で休憩していると、寒くなってきて、下着のシャツを脱ぎ、毛糸のセーターを直に着込んで、寒さを凌いだ。

 そこから頂上の寺廟まで30分ぐらいで、勾配もきつくはなかったそうだが、疲れていて、頂上まで行くことは断念した。

 帰りも長蛇の列に並び、ようやく8人乗りのロープウエイで中天門まで戻り、更に小型専用バスで麓まで戻ってきた。

曲阜

 孔廟、孔府、孔林を見学する。樹木で龍と鳳の形をしたものが見られた。次から次へと物を欲しがる架空の動物が太陽まで求めている絵もあった。孔子の墓は、その刻まれた最下段の文字「王」が一部見えないようにしてあるのは、皇帝祭礼のためだそうだ。孔林には日本の神社の縁日のように、屋台が出ていて土産を売っている。石造りの印はその場で文字を刻んでくれる。最も安いのでは、孔子の姿が彫ってある石に字まで刻んで、5元である。湯を掛けると、勢いよく小便をする土器の人形が気に入り1元で買った。

 曲阜から青島へ

曲阜を2時半に出発して、青島に10時半に着く、長時間の移動。窓外が岩山であることを改めて感じた。このような条件の中、土を集め畑や田圃にして活用している農民の努力を見た思いであった。養蜂箱が並べられているところもあった。じやがいも畑が続く中に一部、菜の花が咲いている畑も見られた。畑に直にビニイールが掛けられた畑が地平線まで続く所もあり、これらは水面ができているように見えた。また、ところどころで、ローマ時代の水道橋を小型化したようなものを見かけた。道路沿いにやってきた自動車から、畑に水を引くためのものよう思えた。

蒙陰から上海に向かう高速道路に乗り、何度か乗り換えて、青島に向かう。青島に入ってから、新経済開発区のハイラル道路を1時間ばかり走り、中心部のホテルに辿り着く。

青島

 後日、青島だけをまとめたものを文にしようとは思っているので、今回は市内は省略し、郊外にある道教の名山についてのみ記す。

 道教の寺廟のあるロウ(左に山、右に労)シャン(山)に行く。海岸線に別荘の立ち並ぶ道路を走って行く。一戸建ちの別荘は大きくて見栄えもいい。1平米8千元ぐらいだそうで、1軒の別荘は200平米ぐらいあるそうだから、160万元ぐらいになる。大学の先生で月給2千元ぐらいだから、67年ぐらい、飲まず食わずで貯えられる金額、そんな価格の別荘が海岸線ずーつと続く。どのような中国人が住むのであろうか。ロウシヤンに近付くにつれて海岸は岩場となり、釣りをする人の姿も見かけられる。平地の方のロウシヤンは緑の豊かなところで、なかなか美しい。道教では、いろいろな人物が神として祭られていて、尭舜禹はもちろんのこと、張飛や関羽なども神格化されている。道教の秘密の符号と蝙蝠が関係ありそうだ。石に刻まれた符号と蝙蝠の図柄を写真に撮っておいた。