06 青島の貨幣商

「瑞海泉斎(劉海)

加藤正宏

青島の貨幣商

「瑞海泉斎(劉海)」さん

 加藤正宏

 昨年暮れから今年にかけて、私は中国の青島にある即墨市で生活していた。2ヶ月(2009年12月24日から2月24日まで)の予定で、企業研修生に日本語を教えていたからだ。青島には文化街という街並みがあり、書店や骨董ビルが集まっている。土日には古本や骨董の路上市も立つ、もちろん貨幣や切手やカードなどを取り扱う店の集まりもある。その何軒かの貨幣店に出入りしていて、劉海さんと知り合いになり、昼食をご馳走してもらえるほどの仲になった。

 

「中華民国十八年・東三省・壹分」銅銭と「徳華銀行」壹佰圓紙幣

 その劉海さんが一枚の銅銭を見せてくれた。「中華民国十八年・東三省・壹分」銅銭である。2007年出版の中華書局『中国銭幣叢書乙種本之四 中国銅元譜』段洪剛編に掲載されているそのものだ。この記載には「 編号:0860―奉天省008、品名:東三省大写一分大字、直径23mm、厚1.8mm、重5.5g、(山東劉文合提供)」とある。そして、その下に対比して掲載されている「編号:0861」は台湾の鄭仁杰が提供したもので、「品名:東三省大写一分小字」とある。

 劉海さんの話では、彼が所持している銅銭の時価は15万元するという。この銅銭1枚が日本円に換算すると200万円強ということになる。

 そして、これも現在15万元で取引される品だと見せてくれたのが、「徳華銀行」紙幣の壹佰圓であった。年代は1914年7月1日との記載がある。「徳」はドイツ、「華」は中国を表す。ドイツは早くからこの山東半島と膠州湾に食指を伸ばし、1898年3月6日に当時の清朝との間に、『膠澳租界条約』を結んでいる。この条約によって、膠州湾は99年間にわたってドイツに租借が認められた。このように山東半島はドイツの勢力範囲となり、青島は正式にドイツの植民地となった。「徳華銀行」も1898年に成立している。

 山東関連のものを収蔵するのが劉海さんの最大の楽しみである。彼にとって、青島で発行された「徳華銀行」紙幣(1912年に発行が停止されている)を収蔵したいのは山々だが、入手が極めて困難な現在、この北京発行の「徳華銀行」紙幣であっても彼にとって大切な品だという。時価の高額さだけでなく、ドイツと山東半島の歴史的な絡みからして、どうしても手許においておきたい品の一つなのだそうだ。条件が格段に良ければ別だが、簡単には売るつもりはないという。山東半島の歴史を考えるとき、彼の気持ちはじゅうぶんに理解できる。

 北京発行の「徳華銀行」紙幣と、青島の「徳華銀行」建物、日本の駐青島総領事館として使われていたこともある。

青島文化街 切手 貨幣 カードのコーナ

中華書局『中国銭幣叢書乙種本之四 中国銅元譜』段洪剛編

中華民国十八年・東三省・壹分

劉海さん所持の銭荘票

 なお、青島の徳華銀行の建物は青島が日本の支配下に入った後、1922年から45年まで、日本の駐青島総領事館として使われていた。今なお、桟橋の見える海岸沿いの太平路上に建物は残っている。

山東関連の紙幣や票

 山東関連の収蔵に力を入れている彼の収集は、北海銀行の紙幣と山東半島の銭荘票(地域によっては銀號と呼ばれる)については生半可の収集ではない。北海銀行紙幣は抗日戦争時期、山東革命根拠地で流通した紙幣である。北海銀行紙幣は日本の敗戦(中国の光復)の1945年後にも発行され、1948年に西北農民銀行と合併して中国人民銀行が成立するまで続いた。このために200種強の紙幣が発行されている。そのうちの70種強、つまり三分の一余りを彼は所持している。後者の銭荘(銭庄)票に至っては700種強を所持している。私はこれらの多くを写真に撮らせてもらった。次回および次々回には彼の収集している北海銀行の紙幣や銭荘(銭庄)票を紹介することができれば、幸甚だと考えている。

 今回は、彼が所持している「青島と記載のある紙幣をいくつか紹介したい。それは横濱正金銀行の「銀拾銭」紙幣と中央銀行青島分行の「伍分」と「壹角」紙幣である。これらは稀少な紙幣ではないだろうか。

横濱正金銀行の「銀拾銭」紙幣

 東方の良港である青島に目をつけていた日本は、1914年に始まった第一次世界大戦を好機とし、日英同盟を口実に青島のドイツ軍と戦い、11月には降伏させ、ドイツに取って代わり、青島を植民地にすることに成功した。ここに日本の植民統治が開始された。その後、ワシントン会議での米英仏の圧力下、その意向に沿って、1922年、中国に青島が返還されるまで、日本によって、8年に渡る第一次植民統治が行われた。

 横濱正金銀行について言えば、1913年11月に青島事務所を設立している。しかし、1914年8月に、日独が交戦に入り、設立後1年も経ずして青島事務所は停業に追いやられた。そして、日本軍の青島占領(11月)後に復業し、済南と共に青島にも横濱正金銀行の分行が設けられることになった。最初、日本の国庫業務を代行して、山東で日本銀元を発行した。日本の旧銀元を本位とする、10銭、20銭、50銭、1元、5元、10元、100元の青島の地名を記載した七種の面額の銀元券である。1915年11月から発行し、ドイツの徳華銀行の勢力に取って代わり、1919年9月には、銀元発行額は873万元に達し、青島地区の主要通貨になっている。

 劉海さんが所持している横濱正金銀行の「銀拾銭」紙幣を見ておこう。

 表:日本文で「此券拾枚ト引換ニ青島通用圓銀壹圓相渡可申候」「横濱正金銀行青島出張所」、裏:中国文で「憑此票拾張 即付青島通用 圓銀壹圓整」と表の日本文と同じ内容が書かれている。発行された中では、一番額面が小さいものである。

 青島の横濱正金銀行の建物は今も残っている。青島で最も有名な観光地の一つに「桟橋」がある。その先端から陸に向かう桟橋路の延長線上に中山路があり、更にその北の延長上に堂邑路があり、その更に北延長上線に館陶路がある。その館陶路1号に、旧横濱正金銀行支店がある。

 銀行の建物は長野宇平治の設計によるもので、二階建ての高さ55メートルの建物で、前面の8本の御影石の柱は、古代のローマ神殿を模倣したもので、華勝建築公司によって施工されたというが、今見る限り角柱になっており、ローマのそれとは感じが少し違う。分行に昇格した青島の横濱正金銀行は北洋軍閥政府の統治期間にも、この地域の金融を掌中に収めて活動しており、その象徴的な建物がこの建物であった。

 ところで、この一本の道路とも言える中山路、堂邑路、館陶路には近現代の歴史建築保護単位になっている建物が今も多く残っている。旧中国銀行青島分行(中山路62号)、旧三井物業株式会社(堂邑路1号)、旧麦加利銀行(館陶路2号)、旧三菱洋行(館陶路3号)、旧英国匯豊銀行(館陶路5号)、朝鮮銀行(館陶路12号)などがそれである。








横濱正金銀行の「銀拾銭」紙幣










青島の横濱正金銀行の建物

中央銀行青島分行の「伍分」と「壹角」輔幣券

 文化街で入手した『青島文史資料』第九輯、第十四輯に孫守源さんの小論がある。前者のタイトルは「国民党在青島最后発行的紙幣」、後者は「見証青島解放的紙幣」である。

 前者は簡潔な1頁ばかりの文で、その大意を紹介すると次のようになる。

 広州や重慶の銀元券と中央銀行銀元券の大量放出に比べれば、4、50日早かったものの、青島の銀元輔幣券は国民党が青島で最後に発行し、大量放出した紙幣である。

 1949年5月、全国の大部分が共産党によって解放されていく中で、青島は孤立し、青島の物価は天井知らずで、通貨は急激に膨張した。国民党統治下で流通している金元券は一文の価値もなくなり、市では物々交換が当たり前になった。商店の品も銀元で標示されるようになり、軍や官公庁の給与も実物支給か、銀元で支払われた。銀行も銀元立ての預金や貸し出し業務を行うようになった。国民党政府は金元制が近いうちに完全に崩壊する道を更に推し進めた。

 5月14日、青島に駐在する国民党第十一綏靖区司令官劉安琪は「市況の調節」を理由として、中央銀行青島分行に、桟橋を主景とした図柄の5分(紅色)、壹角(オリーブ色)、伍角(灰色)の三種の額面の青島銀元の輔幣券77万枚、金額にして81320元を印刷し発行させ、「10角毎に銀1元と兌換させる」という比率で、強制的に市場にこれらをつぎ込み、民間の銀元62537元と交換させた。数日後、劉安琪は武装した兵を銀行に派遣し、交換したこれらの銀元を全て取り上げた後、軍を青島から撤収して台湾へ向った。市民の手許に残った青島銀元券は瞬時にして廃紙になり、苦労して積み立てた財も、その全てを失しなってしまった。

 6月2日、青島は解放された。翌日、中国人民解放軍青島軍管会は即時に以下のように宣布した。「青島銀元は非法貨幣とするが、人民の困難を考慮して、北海銀行?東分行(中国人民銀行分行を兼任)で6月6日から10日まで、期限をきって青島銀元の1元と人民元100元(旧版)の交換を認める。」と。

 この5日間内に、青島銀元の32840.75元が人民元3284075元に交換されている。このように、人民の財産は減少したものの、新政府によりいくらかではあるが。経済的な損失が補われた。

 以上が孫守源さんの小論の大意である。後者の小論にも、同様の内容が盛り込まれると同時に、中央銀行青島分行の壹角銀圓輔幣券の写真が掲載されている。その他に、説明上の必要から、中央銀行の伍拾萬圓の金圓券、中国人民銀行の壹佰圓の第一版紙幣、北海銀行の貳仟圓紙幣などの写真も掲げられている。

 中央銀行青島分行の「伍分」と「壹角」輔幣券の写真を撮らせてくれた劉海さんに、これらの小論を示めしたところ、これらは国民党が青島で最後に発行した紙幣ではないと言う。そして、一枚の紙片を持ち出してきて、これが最後の票で11月の発行だと言う。それは「中央銀行青島分行本票」と記載のあるもので、額面は「金圓伍佰萬圓整」と記載があり、また「卅八年五月拾一日」と加印されている。私の概念にある紙幣ではないが、「憑票即付」とあるから、金圓伍佰萬圓を保障した紙片であることは確かである。しかし、日付が5月11日になっており、漢数字の加印の五が少し薄れていたので、劉海さんが見誤ったようだ。孫守源さんが言うように、今回紹介している三種の銀圓輔幣券が、青島で中央銀行が発券した最後の紙幣であったようだ。劉海さんが所持するこれらの紙幣2枚を写真に撮らせてもらったので、ここに紹介しておく。

 なお、主景となった図柄の桟橋と後方の小青島は青島十景の一つにそれぞれ数えられる名勝だ。桟橋は中山路から海中に伸びていて、あたかも海中に巨龍が首を伸ばしたように見える。この桟橋は清朝光緒17年(1891年)に建造され、ドイツの占領期に拡大され、日本から返還された後の1931年に国民党政権は、更に資金をつぎ込み、拡大再建し、33年には完成させている。この結果、桟橋の長さは440米、幅は8米となり、南端の半円形防波堤には、回瀾閣が建てられ、螺旋階段で閣に上ぼれば、巨大な波打つ海を眺められるようになった。小青島には15米強の白い灯台が建っていて、一つの景観を生み出している。今年の春節の時期、桟橋の上は人で賑わっていた。


 







中央銀行青島分行の「伍分」と

「壹角」輔幣券の写真






桟橋と後方の小青島は

青島十景の一つ

異空間世界

 最後に、劉海さんの店で見聞したことをご紹介して、今回は筆を擱たきい。

 私は、毎土日、何時間もかけて、北海銀行の紙幣や山東半島の銭荘票を写真に撮らせてもらっていた。そんなある日、一人の客が入ってきて、店主の劉海さんと紙幣の交渉をし始めた。私は北海紙幣や銭荘票の写真を撮るのに忙しくしていて、どんな紙幣が売買の対象になっているのかわからなかったが、半時間ほどして、合意が得られたようで、客は鞄から100元の札束を4束、無造作に取り出して、旧紙幣4枚を購入した。金額は4万元である。札束を勘定する機械が外部にあるのか、店主の劉海さんはしばらく店を離れ、戻ってきた後、この客と貨幣の雑談に入った。雑談しながら、更に紙幣を取り出し、客に見せている。そのうちに、客が気に入った紙幣があったのであろう。また、数枚購入し、今度はポケットから3600元を取り出し支払っていた。

 日本に行ったことのあるこの客は、私が日本人だということで、私にも名刺をくれた。そこには自動車輸入会社の社長で、同時に山東省の一都市の代議員であることが書いてあった。海外の中国人とも付き合いが多いとのことだ。

 どうも、台湾やシンガーポール辺りの華僑、それも富豪達が故国を懐かしがり、金に糸目をつけず、故国の紙幣や文物を収集していることが、このような売買の背景にあるようだ。それに触発されて中国国内でも投機的な意味での収集熱が高まっているのだろう。

 ボランティアだといえ、私の今回の月給は2500元であり、また街中に張り出されている招工のビラで見る限り、1000元前後から2000元強が、一般人の給与である。そんなことを考えると、貨幣や骨董の売買の世界では、投機にかける人々の熱気で、異空間が作り出されている感じがする。











招工のビラで見る限り、1000元前後から2000元強

余談

 文化街の近くには天幕城と言って、両側の建物の上に天井(天幕)を張り、夜空を描き、両側の建物は西洋的な建物の外観を持った街並みが作られている。道路ではピアノが弾かれたり、中国の古典楽器が奏でられている。

 また、天幕城の近くには青島ビールの工場があり、建物の一部が大きなビール缶の形をしていて、ひときわ目立つ。ここには青島ビールの博物館もある。

 

参考図書

*     青島市政協文史資料選輯第十輯『青島渉外足迹』

の「青島中外貨幣的流通」張凌雲など 1996年

*     『青島市志 金融志』 青島市志弁公室 編 新華出版社 1999年

*     『青島旧事』魯海 著 青島出版社 2003年

*     青島市政協文史資料選輯第九輯の「国民党在青島最后発行的紙幣」孫守源 1992年

*     青島市政協文史資料選輯第十四輯の「見証青島解放的紙幣」孫守源 2005年

*     2009年新版 青島交通旅遊図 山東省地図出版社

 

(初稿 2010年2月末、5月末雑誌『収集』6月号掲載、ネット掲載6月末)






文化街の近くの天幕城

青島ビール工場とその博物館