03 笠貫尚章氏の建てた中日友好楼

笠貫尚章氏の建てた中日友好楼

加藤正宏

 長春に、残留孤児の養父母への感謝を表すために、日本の篤志家が設けた中日友好楼(「日本国 笠貫尚章先生敬建 一九九零年十月」と記した看板が外壁に掛かっている)がある。最初は篤志家によって住宅費や高熱費や水道代も提供されていたようだが、現在はそれらの提供もなくなったようで、住宅費が他に比べ安いだけになってしまっていて、そのため、引越しをされていった養父母の方もおられるそうで、現在は養父母だけが住んでいる楼ではないが、まだ何人もの養父母の方が住んでおられる。一人の方にお話を伺った。

笠貫尚章氏の資金提供で建てられた

中日友好楼にての聞き取り(02年6月現在)

一カ月、三室で八○元(一般で五〇〇元ぐらいだとのこと)

養母 関 秀蘭 85歳

養われた娘 (中国名 趙 玉琴)63歳

養女に迎えた経緯

 1945年、瀋陽で、妻を亡くし、残された七人の子供を連れて、困っていた日本人がいた。関 秀蘭さんのご主人の弟が、その日本人から六番目と七番目の子供を預かり、中国人の養父母を紹介したのだそうだ。六番目の子は別の中国人にもらわれてゆき、子供のいなかった関 秀蘭さんが七番目の子(当時五歳)を養女とすることになったという。

ご主人のお母さんは、家系を重んじる昔の考えを持っていて、子供の生まれない嫁(一七歳で結婚し、当時二七歳)は離婚し、別な人を嫁に取り、子供をつくるように息子に求めていたそうで、養女することは同意しなかったそうだ。だから、玉琴さんが病気になっても費用は出してくれなかったという。費用をなんとか工面して、養女を背負って病院に行った記憶が今でも鮮明に残っているとのこと。玉琴さんを養女としてから一〇年後に、男の子が生まれ、さらに二年後にもう一人男の子が生まれた。秀蘭さんは玉琴さんを実子同然に育て、日本に帰るような話が出てくるまで、日本人であることは知らせなかったくらいだそうだから、玉琴さんも二人の弟を実の弟と思っていて、よく世話をし、可愛がり、弟たちも姉に懐き、姉弟の本当に良い関係だったという。

文化大革命の時、七馬路の男性は日本人を養子にしていたことが分かって、日本のスパイだとして、批闘にかけられ(紙で造った細長い円錐の帽子を被されて、胸に看板をぶら下げ)、群衆から弾圧を受け、一五年も監獄に入れられたことあったそうで、そのようなことにならないかと随分恐れていたが、文化大革命時期、批闘にかけられることも無く、無事にこの時期を終えたという。秀蘭さん一家の周囲の人たちは誰も、玉琴さんが日本人だということを政府に告げるようなことはしなかった。主人の母が、秀蘭さんを去らせ、別な人との結婚を息子に勧めていたことが、周囲の人の同情を秀蘭さんに集めた結果だという。

 文化大革命が終わり、日本との関係が修復されて、残留孤児の問題が次第にクロウズアップされるようになってきた時、日本人であることが近隣の老人の口からもれ、中国人と結婚していた日本人女性が、玉琴さんの兄姉を探す手助けをしてくれることになり、日本のテレビで彼女の幼少の時の写真と、別れた当時の家族構成などが流された。これを病院のベッドで見ていた、玉琴さんの兄が、妹だと確信して連絡をとってきたことで、兄妹の再会が叶うようになり、二度の訪日探親を経て、一〇年強前に、一家四人(主人と子供二人)で日本に帰国し、現在、大坂に住んでいるという。帰国後も、次男と生活する秀蘭さんのもとを何度も訪ねて来てくれているという。つい最近は二年前だったと言い、部屋にある電気製品の名をひとつひとつあげながら、娘たち夫婦が買ってくれたものだと話す。靴や衣服までも買ってもらったものだと、指を差し示してくれる。外国に行ってしまって寂しくはないのかという問に、日本から月に一、二度電話が掛かってくるから、との答えが返ってきた。

 あの日本の敗戦時、多くの日本人の子どもたちが、秀蘭さんのような心優しい中国人の方にもらわれ、自分の子ども同然に育てられてきたのである。山崎豊子著『大地の子』の主人公である陸一心と養父母の陸徳志と淑琴を思い出す。中国の多くの庶民(中国語でいう老百姓)は、日中の忌まわしい歴史を経ながらも、ごく自然に人間としての思いやりのある行為を実践してこられた。育てられた日本人の子どもの多くも、また、玉琴さんのように、養父母への思いを大切に過ごしてきておられる。

 しかし、残留孤児として帰国された方たちを迎え入れる日本の態勢はほとんどできていないのが現状のようで、ここ笠貫尚章氏の中日友好楼に住まわれる養父母の育てられた残留孤児の方の中にも、一旦は日本に帰国したが、再度中国に帰ってきておられる方も何人かいるとのことである。政府の帰国者への社会適応に向けた職業訓練や住宅提供などが不十分で、なかなか日本語も覚えられず、言葉も通じない。そのため、適当な職業も探せないだけでなく、日本の社会に根を張っていく基盤が得られない現実があるようだ。

 私たち日本人の老百姓も、中国の養父母が意識せず作ってこられた日中友好の流れを共に大きくしていく必要があるのだろう。少しでも、日本の社会に根を張れるように、手助けできることから、始めたいと自分自身に言い聞かせている、この頃である。(2002年記)

















関 秀蘭さん