04 高まりを見せる

人民幣の収集熱

加藤正宏

路上市での分紙幣の売買

第2版(2套)人民幣

価格表

遼寧晩報07年4月1日

華商晨報07年3月22日

 3月20日発行の雑誌『収集』4月号(2007年)の誌上に発表掲載したものを、写真の色など直に見ていただくために、発売一週間後の今日、ここHPに登載するものである。

なお、雑誌の写真や図とは多少違ったものを登載している。

 3月に中国瀋陽に戻ってみると、雑誌で紹介したような「高まりを見せる人民幣収集熱」の動向が更に大きくなっている状況を目にしている。路上市の写真と2007年3月22日の華商晨報の記事で、その様子を感じ取っていただきたい。記事の見出しは「1分紙幣已能売到10元」、小見出しには「第二套人民紙幣1分、2分和5分、4月1日停止流通 瀋陽出現兌換冷収蔵熱 有市場出現2分売20元 5分売50元」の文字が踊っている。両替は冷え込み、収集が熱くなっている現象が起きているようだ。1分が10元、2分が20元、5分が50元で売られているのだから、紙幣を以後も使用が認められるアルミ貨に両替する者は当然いなくなり、手元に収蔵することになるのであろう。

 遼瀋晩報07年4月1日の記事は1頁を「FORTUNE財富」と題していて、次のような見出しが躍っていた、「第二套人民幣今日正式停止流通」「『退休』紙幣一天一个価往cuan」「第二套人民幣『退休』前後」「印阿拉伯数字的 第二套壱分幣漲了95倍」「「第三套人民幣中罕見紙幣跟風上漲」「人民幣収蔵投資当心三大誤区」。その内容を紹介しておこう。アラビア数字の記載のある一分紙幣は95倍になり、一揃いの1、2、5分は3月初めにはまだ200元であったが、既に350元前後になっているという。1分紙幣だけでも以前の95倍の95元になっているという。第三套人民幣中でも稀少な紙幣はこれも値あがっているという。例えば、1953年版五元紙幣は3月初めに7000元だったのが、8500元に跳ね上がっているし、背面が緑の一角紙幣も先月の700元から1250元と78%も上昇しているという。最後にテレホンカード・紙幣協会会長の収集に当たっての注意が記載されている、例えば、同じ分紙幣でもアラビア数字記載のものかどうかで天と地ほどの差があるなどと。

以下に雑誌『収集』4月号(2007年)の記事を再録し

ここHPで御紹介する

高まりを見せる人民幣の収集熱

加藤正宏

市場経済の浸透

 北京のオリンピックが来年の2008年、上海万博がその2年後の2010年、中国の経済はエンジン全開の感がある。2004年9月から生活し始めた瀋陽(旧奉天)での中国生活(瀋陽薬科大学に勤務)も3年目の後半に入ってきたが、この間だけ見ても、沿岸地区でない東北のこの瀋陽の街でさえ大きく変化してきている。2006年には瀋陽で花博があり、08年にはオリンピックのサッカー会場になる瀋陽である。現在、何本かの地下鉄の工事が進められている。また、8車線道路が何本も整備され、最大の繁華街太原街(満鉄の附属地時代に生まれた旧春日町繁華街)は大きな歩行者天国の道路として整備され、道路に面して、巨大な高層の商業ビルやデパートが新しく建ち並び、東京や大阪の繁華街のビル群にも負けない姿を見せている。扱っている商品も、高級品に至っては、日本の商品と変わらないような世界各国のブランド品が並ぶ。道路も車でいっぱいである。一般の旧アパート住宅の前庭にも数台マイカーが見かけられるのが普通で、高層の高級住宅区域では地下駐車場が設備されている。これら高層の高級住宅もあちらこちらに次々と建築されてきている。

 大学内でも研究院棟、外事処棟、教務処棟などの前には何台ものマイカーが場所を占領している。地位を背景に公用車を私的に流用していた昔とは様変わりの感がある。学生もほとんどが携帯電話を所持し、10人に1人はパソコンを所持する。大学も経済利益を追求する機関になり、年間約5千元前後の授業料とそれを上回る教材費・寮費・生活費を合わせて1万元強を用意できない者は、成績が良くても入学はできなくなってきている。都市の近郊でない農村の子弟の多くは、年間収入の何倍もの授業料や都市での大学生活の費用が工面できず、入学を諦めざるを得ないのが現状だ。

 社会主義市場経済は一部の富める者と従来のままの多くの貧しき者との二極分解を生んでいるといわれる。瀋陽に出稼ぎに来ている農民工(農村籍の労働者)の去年8月の一ヶ月の平均給与は924元(『遼瀋晩報』2006・9・22)であった。但し、半分以上の者が700元を切っているのだそうだ。瀋陽にやって来てもう8年にもなるのに1度も映画館に行ったことがない者もいるとのこと。そんな彼らの毎日の食費は5元以下の者が37%、6元から10元までの者が56%、残りの7%の者がやっと10元以上を食費に当てているのだそうだ。中国では大都市、沿海都市、地方都市、農村の順で経済格差があるので、これを中国全体に普遍することはできないが、都会から離れた農村は更に貧しい状況に置かれている。もう一例挙げておこう。2006年9月、北京大学の副教授が自己の給料明細と一ヶ月の支出をネット上で公開し、その苦しい状況を明らかにしたとき、社会的な大反響が巻き起こった。各新聞社がいろんな角度からこれを取り上げ評論するだけでなく、ネット上でも多くの個人が高い安いと意見を寄せた。このとき、まな板に載せられた副教授の一ヶ月の給与が4786元であった。首都北京の有名な大学の副教授の給与として妥当か妥当でないかは私には判断できないが、以下に御紹介する収集対象の紙幣の価格を考える時の基準として見て頂ければと思う。1元は約15円である。

 鄧小平が言ったといわれる、先に豊かになった者が貧しいものを引き上げて、共に豊かになるという、そのような社会からは縁遠い感じが私にはするのだが・・・・。このような社会だからこそだろうか、利潤追求という市場経済の考え方は、この約20年の間に国民全てに定着してきている。

分紙幣の「再見」が引き金に 

さよなら分紙幣華商晨報

06年9月26日


遼寧晩報

06年12月11日

 第2套(版)人民弊の額面10元の紙幣は前世紀90年代には5千元強であったが、その価値は跳ね上がり現在8万元にもなっており、更に値が上がると考えられている(『遼瀋晩報』2006・12・11)。美品のそれで3万元近くにも値が膨れ上がっているという報道(『華商晨報』2006・9・26)もあるから、前者の評価8万元はおそらく未使用のそれであろう。この第2套(版)人民弊の10元紙幣が路上市で売られていた。値は4千元であった。私にはとても高値で手の届かない物であったが、手にして見せてもらった。それだけではなく、デジカメで写真を撮ることも許してもらった。このデジカメ内の写真を中国人知人に見せたところ、真札か贋札か分らないという。しかし、値を話したとたんに、彼は贋札だと言い切った。札の形状や品質からでなく、そんな値で売られているはずがないという判断であった。わたしにはその真贋は分らないのだが・・・・。それにしても、10年そこそこで、16倍近くにもなる代物が貨幣収集物にあるわけだ。額は別にして、誰にでも手が出せる貨幣の収集、市場経済の考え方が身についてしまった一般中国人の注目を引かないわけがない。 

 新聞の切抜き(『華商晨報』2006・9・26)を見ていただこう。

タイトルは「再見了、紙分幣」である。「さよなら、分紙幣」というタイトルだ。分紙幣とは1、2、5分の3種の紙幣である。分は中国のお金の単位で、1元=10角、1角=10分にあたる。「明年4月起第二套人民幣紙分幣停止流通 紙分幣徹底告別流通領域」と小見出しにもあるように、今年の3月末でその役目を終え、4月からはこれらの紙幣が流通面から姿を消すことになった。中国人民銀行が2006年9月25日に出した公告によると、国務院の批准を経て中国人民銀行が決定したのは、2006年10月1日から2007年3月31日にかけて集中して兌換するというもので、それ以降は指定された金融機構の営業店のみで兌換されるというものだ。なお、1、2、5分の3種のアルミ貨の方はスーパーマーケット、医院、税収、電信などでまだ需要があり、なお継続し流通することになっている。

 実際、私もこの2年半、スーパーマーケット以外では分貨幣を手にしたことはないし、また使用できるのも、スーパーマーケット以外にはなかった。そして、流通している分紙幣のそれは見たことがなかった。暗黙裡に同意ができているのか、一般の果物店、雑貨店でも使用が認められているのは1角までで、分貨幣での支払いを断わられたこともあった。既に中国社会では分貨幣の役割は終わっているといえよう。しかし、その発行額が多かったことから、貯金箱や引き出しの隅に忘れ去られていたような1分、2分、5分紙幣はどの家庭にもあるようだ。

 そんな紙幣が流通停止されたことにより、収集の対象となり、価値を増やし始めたことで、第二套人民幣はもちろん第一套、第三套(2000年7月1日流通停止)、第四套人民幣(第四套のそれは現在も流通が認められている)にまで、その貨幣収集熱の高まりが波及していっている(現在、第五套人民幣が流通)。今まで収集に関心がなかった人まで引き込んで、高まりを見せている。この数ヶ月その高まりは増えることはあっても減ることはない状況を生んできているとのことだ。

分紙幣、1,2,5分

角紙幣、1,2,5角

圓(元)紙幣、1,2,5元

第2套人民幣10元券(真贋?)


下段  56年版(黒》53年版(赤)

1圓(元)



下段  上、56年版、下、53年版

5圓(元)



下段  第2套5分紙幣(上)

第3套以降(下)

ソ連で印刷した紙幣も 

 その高まりを生むきっかけとなった第二套人民幣の1分、2分、5分紙幣とその他の第二套人民幣を簡単に紹介しておこう。

 第二套人民幣は1955年3月1日に発行が開始された。この時、第一套人民幣の額面1万を第二套人民幣の1に切り替えたデノミが行われている。額面は1(トラック)、2(飛行機)、5(汽船)分、1(トラクター)、2(機関車)、5(ダム)角、1(天安門・紅)、2(延安の宝塔山)、3(井崗山の龍源口)、5(歓呼する群衆)元の10種、それに1957年12月1日発行の10(労働者と農民)元券1種の11種であった。その後1961年に1956年版黒色1元券が、1962年に1956年版棕紅の5元券が発行され、1957年に発行された1、2、5分のアルミ貨を加え16種の貨幣が発行された。補幣(分幣、角幣)と主幣(元幣)が準備されるなど、はっきり言って、新中国の貨幣体系の基礎が整ったのがこの第二套人民幣からだと言っても言い過ぎではないのではなかろうか。以後受け継がれている紙面上の「中国人民銀行」の文字も、中国人民銀行の当時の職員馬文蔚の書写による魏碑「張黒女」字体が用いられているとのことである。漢字以外に蔵(チベット)、蒙(モンゴル)、維吾尓(ウイグル)の文字が記載されたのもこの第二套人民幣からだ(更にローマ字表記の壮文字や漢字の?音が加わるのは第三套人民幣から)。

1、2、5分人民紙幣は発行以来、停止されることなく、半世紀を越えて流通してきた補幣である。はっきり言えば、他の額面の紙幣は新紙幣切り替えにおいて、その面貌を常に新しくしてきたのだが、その対象にならなかった紙幣といえる。しかし、まったく面貌を変えていないかというと、そうでもなく、第二套人民幣時にはローマ数字の後に7桁のアラビア数字の紙幣番号が入っていた。第三套人民幣以後はローマ数字だけになっている。

 私が初めて中国に旅行した80年代半ば、まだ現役だった糧票とさして区別のできない、紙幣らしくないこの小さな紙幣を糧票と共に持ち帰った覚えがある。もちろん、ローマ数字だけのものだ。紙幣番号がつけられないため、いくらでも印刷発行ができた代物であろう。現在、このローマ数字別に1分、2分、5分紙幣を分けてみると、1分が318種、2分が129種、5分が61種あるとのことである。

 第二套人民幣のもう一つの特徴は、ソ連に印刷を依頼した紙幣が含まれていることである。3、5、10元の紙幣がソ連に印刷を依頼した紙幣だ。

時代商報06年6月7日     紙幣は第2套3圓(元)

 その依頼にあたっての外交的なやりとりは外交秘密であったが、その文書が昨年国民に公開された。さっそく、新聞社がその文書をもとに当時の様子を紹介した記事を掲載している。タイトルは「蘇聯上世紀曾代我国印人民幣」(『時代商報』2006・6・7)で、小見出しには「周総理親自指揮 蘇方按時将数十億元人民幣交付給了中国」と書かれ、その記事として取り上げた主旨を、一般には他国に任せるような事柄でない紙幣の印刷という重要な事柄をなぜソ連にやってもらったのか、この間のやりとりの曲折を、近日公開された外交文書で明らかにしてみようとするものだ、と述べている。更に「内幕」「原因」「更改」「票面」「交接」などの小見出しを付け、その具体的説明をしている。これらの説明の中から、ポイントになる点を幾つか御紹介しておこう。

 この第二套人民幣の準備が開始されたのは1952年4月で、最後に10元券が国境の満州里持ち込まれる1957年までの5年間を要した作業であった。持ち込みはソ連の木材公司の技術装備品目の名で国境の満州里まで列車で持ち込まれた。この5年間、中国人民銀行の幹部と駐ソ大使がソ連の財政部の大臣執務室で30数度にわたってソ連方と、印刷様式、数量、用紙、手渡し期日や方法など話し合って、決めていっている。しかし、決定されたことも実際は何度か更改されるなど、曲折を経て進行せざるを得なかった。例えば、最初は100元、50元、10元、5元の四種の、総金額40億元であった。でも、その最初の決定から半年強後に、中国政府は再三考慮した挙句、面額の大きなものは取りやめ、5元券と3元券で総額45億元の印刷に依頼を変更し、ソ連方に要請している。ソ連方では、印刷量が当初の計画の3倍になること、完成予定期日の変更がないために時間も短くなることなどで、要求された期日までの完成は困難であるとの見解であった。しかし、この変更要請が周総理直々の電報であったこともあって、事は前向きに進められ、当初計画の10元券の図案とサイズを5元券に、当初計画の5元券の図案とサイズを3元券に用いることとし、作業を進めた。そして、準備開始から約2年後の1954年更にもう一つ変更要請がおこなわれた。10元券20億元の追加である。211ミリの長さを持つあの10元券である。この10元券の図案は最初は労働者・農民・兵士の図案であったが、戦争は既に過去のことで、平和建設、世界平和維持が求められているとの希望を反映し、兵士が削られた。

 準備が開始された1952年4月初めは、第一套人民幣が1948年12月に発行され流通し始めてから、3年と4ヶ月しか経っていな い時期である。こんな早い時期に新紙幣の発行を考えねばならなかった理由を外交文書で紹介し、それに基き、以下のように新聞記事は説明している。

 外交文書は張聞天駐ソ大使がソ連の財務大臣に説明している内容だ。

 「中国は近年物価も安定してきており、財政収支も均衡を得、今後の計画経済建設のために、わが国は近いうちに幣制改革をしなければならない。新人民弊の価値は1元が旧人民弊の1万元とする。このため、新弊の品質をより高め、偽造防止を図ることが最も重要である。特にわが国の東南国境で、台湾の蒋介石匪賊と米帝が偽札を輸入して破壊活動を展開しており、そのために偽札防止が更に重要になっている。ソ連の技術と印刷条件はどれもわが国に比べて明らかに高い。我々はルーブル紙幣に施された様々な技術をわが国の新幣に用いられることを求めている。・・・・ルーブル紙幣上の花紋のような良いものを求めている。」

 新中国成立後、ほんとに短い3年間で、戦争が国民経済にもたらした影響は迅速に解消された。しかし、解放前より残され、長年連続してきた悪性の通貨膨張による影響で、第一套人民幣の面額はとても大きくなり(最大5万元)、単位価値はより低くなった。加えて、この第一套人民幣は戦争がまだ完全に終結しない状況下で印刷され、紙の品質も悪く、券の種類も煩雑なほど多く(12種の面額、62種の紙幣版)、文字も漢字だけであり、券の破損もひどかった。これらのいくつもの問題解決のために、より健全な貨幣制度に進む必要があり、我が国政府は幣制改革の決定をしたのだが、当時にあっては物や技術面で条件に制限があり、ソ連の援助に頼るほかなかったのである。

 以上が新聞記事(『時代商報』2006・6・7)の説明である。

 このように、紆余曲折してソ連で印刷された紙幣ではあったが1964年4月15日にこれら3、5、10元の紙幣の流通は停止されている。他の角、元幣の第二套人民幣が第五套人民幣が発行された1999年まで流通が許されたのに比べ、短命であった。そのことが、収集対象の貨幣としてはソ連印刷のこれらの紙幣の価値を高めているようだ。

高まり広がる収集熱 

 このような人民幣収集の高まりを特集した「人民幣収蔵 驟然昇温」(『遼瀋晩報』2006・12・11)から、その高まりぶりを少し紹介してみよう。

 高まりは第二套人民幣の分紙幣から、第二套人民幣全体に、更に第一套、第三套人民幣更に金属貨幣へと広がりを見せていっているとのこと。

第一套(版)人民幣については次のように紹介している。

 第一套人民幣は1948年から1953年の間、5年足らずの期間発行されただけで、60(『反假貨幣必読』遼寧人民出版2003年10月印刷によると62種)もの種類に及ぶが、当時は経済も困難であり、収蔵の意識もあまりなかったので、現存する量が少ない。このような状況下、前世紀90年代初めに、香港や台湾の収蔵家が新中国の最初の紙幣であることや図案の違いや種類多いことから、目を付け始め、しだいに値が高まり、今では1枚が100元以下のものは無くなってしまった。現在、高いのは何十万元する状態だ。一通り揃えようとすると、130万から150万元になってしまうという。金が有れば、すぐなんとか全部そろえられるという代物ではなくなってきている。

 第一套人民幣の新華門5万元と牧馬1万元及び駱駝1万元札も路上市で見かけ、手に取らせてもらった。それぞれ数千元の値が付いていたので、私には購入できなかったが、デジカメで写真を撮らせてもらった。中国人知人たちはそんな値では絶対購入できないはずだと言い、デジカメ内の写真を見ながら、どこが贋札だと指摘できないものの、真札とは認めようとしない。状態が悪ければ、このような値のものがあっても不思議ではないと私は考えるのだが・・・。未使用クラスの価格が一般収集者の頭にインプットされてしまっているようだ。

10圓(元)紙幣

20圓(元)紙幣

100,200圓(元)紙幣

1千,5千圓(元)紙幣

1万圓(元)紙幣・牧馬、駱駝

5万圓(元)紙幣・新華門

第1套(版)人民幣価格表


 第二套(版)人民幣については既に上記に紹介しているので省くが、ソ連印刷のもの以外でも、1956年版の透かしのある5元札が高値になっている。

 第三套(版)人民幣の現時点での価格の王は1962年版背緑の1角(俗称は胡蝶)紙幣である。面値の7万倍の価格7千元の評価を受けている。なぜこんなに評価が高いかというと、1966年1月10日に発行され始め、それから4ヶ月も経たないうちに発行が停止され、実質発行された時期が中国の紙幣発行史上最も短かった紙幣だからである。紙幣の背面の色が64年に既に発行されていた1962年版2角券の色とよく似ていて紛らわしいとの苦情が、発行後すぐに民衆から巻き起こったためである。1967年の12月に背面の色だけを橘黄に変更した1角紙幣が発行されている。残念ながら、この胡蝶の1角紙幣を私は所持していない。

第3套の角紙幣

第3套の圓(元)紙幣

第3套(版)人民幣価格表

第3套赤の1角紙幣

 第三套(版)人民幣で、2番目に高額なのも1角紙幣だ。1962年4月20日に発行された1960年版1角紙幣だ。正面も背面も紅いので俗称は紅1角と言われているものだ。なぜこれが収蔵の珍品なのか。瀋陽市の切手・貨幣・カード商協会の会長が面白い推理を紹介している。この紅1角紙幣の図柄は幹部が民衆と共に労働に参加しようとしている図である。これらの人の群れは全て右に向かって行進している。66年、67年に発行された62年版1角紙幣の人の群れは左に向かって進んでいる。この向きの違いから、彼は次のように推理したのである。紅1角紙幣発行後数年経て、図柄に問題があることに気づいた当時の為政者は、図柄を刷新した新紙幣に切り替えを図り、紅1角紙幣の回収に努めたのだろうと。為政者が問題にしたであろうとの推察は、1960年代の紅1角紙幣発行の時期は極左勢力が盛んだった時期で、「全員が右に向かって進んでいくとは何事だ」という、この図柄への為政者の批判があったからだろうというものである。面白い推理だと私は思うのだが・・・・。

 上記の文を読んで疑問を抱かれている向きもあるかも知れないので、ちょっと、ここでお節介な忠告を一言させてもらう。紙幣に記入されている年代(年版)と、実際に紙幣が発行され始めた年代は異なっている。誤解のない様にされたい。

 最後に、この人民幣収集が金属幣に及んでいる状況を、盛京古玩城(骨董デパート)の貨幣商社長や瀋陽市の切手・貨幣・カード商協会の会長が例に挙げたものを紹介しておこう。

建国後に流通した記念幣は1984年10月1日に発行された建国35周年記念幣を最初として、今日まで63套9大類(民族団結、生誕記念、台湾風景、珍奇動物、世界平和、体育イベント、世界遺産、振興中華、民族魂)が発行されてきたが、特に当時の銀行員全員に一枚与えられた「中華人民銀行成立40周年」記念幣(1988年12月1日発行)は、この18年間毎年その価値を高め、面値1元のこの記念幣は現在1450元の価値になっているだけでなく、購入することもままならない現状だ。

 一般の流通金属貨幣でも、1985年の1分、2分、5分、1角、2角、5角、1元の揃い、それも「精製」のそれは4200元するのだそうだ。

 但し、貨幣収集の魅力を語るこれらお二方は、新しく貨幣収集に参加しようとする人たちへ注意を与えている。貨幣には「精製」と「普製」との区別があり、その値は天と地ほどの差があることを認識しなければならないと。前者は収蔵、贈答用の最佳品で凹面は鏡のようになっていて流通することはない、「普製」は一般に流通しているもので、その摩滅損傷の状態から7通りに分けられているのだと。

貨幣収集は誰でも参入できる魅力のある世界ではあるものの、新規参入者が簡単にその利益を上げられる世界ではないことも明らかなようだ。

 

建国35周年記念幣