第四話 執着
一
「何を見ている」
「縁談だ。クロトワが持ってきた」
寝台の上で、首だけをヘッドボードに寄りかからせて横たわるナムリスの方を、ソファに腰かけるクシャナは見ずに答える。
「奴の薦めか?」
「いいや、王侯貴族どもの考えそうなことだ。私の夫という立場を利用したいらしい」
「クシャナ、何を笑っている」
クシャナは自分の微笑みに無自覚だった。だが、指摘されてもその笑みを消そうとはしない。
「クロトワも苦労をする。私への非公式ルートと思われているようだからな」
ナムリスはサイドテーブルに置いていたヘルメットを手に取るとかぶった。彼の表情が読み取りにくくなる。
「見せてみろ」
起き上がりもせずに手を伸ばす。
「どうした、ムコ殿」
嫣然と立ち上がるクシャナは微笑みを消さぬままナムリスに近付いた。
ナムリスは紙を手渡される前に彼女の手から取りあげ、乱雑に見始める。
「誰が良いと思う?」
「どいつもこいつも甘ったるくて、意志の弱そうな顔だな」
寝台へ紙をぶちまける。大半はナムリスの足元に留まった。
「乱暴に扱うな」
クシャナは寝台の上にかがみこんで紙を拾う。
やおら、ナムリスは起き上がり、クシャナの耳元で囁いた。
「血を見るぞ」
クシャナは横目でナムリスを捉えながらも、紙を拾う手を休めない。紙を拾い終わるとソファへ戻り、再び検討し始める。ナムリスの言葉には答えない。
彼女の態度に、ナムリスは無言で立ち上がると空中庭園へ消えた。
クシャナは扉の閉まる音でナムリスが目の前から去ったことに気が付いた。誰もいなくなった寝台をじっと見る。
(もう、自由に動ける手足があるのだものな……)
いつでも、籠の首は彼女の傍らにいた。それももはや、過ぎたことだ。
ふいに狂おしい感情に襲われ、クシャナも空中庭園へ出た。
空気が太陽に暖められ、優しく風が吹いている。
ナムリスは腰に手を当て、眼下に広がる王都を眺めていた。
「その姿が他人に見えたらどうする。その単眼をいまだ忘れぬものもいよう」
彼は振り向かない。
クシャナは仕方なく、彼の横に立った。
「何が見える?」
「高すぎて何も見えねえよ。空気も淀んでいるしな」
「また、出かけたいのか?」
ようやく、ナムリスはクシャナに向き直る。
「どこへ? 俺のものにするはずだった国のどこへ行けと言うのだ」
「らしくないぞ、ナムリス」
ナムリスの表情は読めない。
「俺の……」
再び眼下を捉えながら彼は呟いた。
「俺の素顔を見て、どうだった」
一瞬、クシャナは質問の意図を掴みかねるが、すぐに理解すると声を立てて笑う。
「今更、何を気にしている。私はその顔の様々の表情を見たのだ」
「女では唯一、な」
「そうだな」
クシャナは頬を緩めながら答える。
「複製体からの移植手術というが、その姿に手を加えてはいまいな?」
「博士どもが余計なお世話を焼いていなければな」
「ナムリス、私が答える前にもう一度、素顔を見せよ」
クシャナがヘルメットに両手をかけても、ナムリスは無反応だった。ヘルメットは外され、地面に捨てられた。
彼女が何かを言おうとした瞬間、ナムリスはその唇を己の唇で封じ、彼女を掻き抱いた。
咄嗟にクシャナは抵抗しようとするが、力で敵わぬことを悟り、彼の好きなようにさせることにする。
ナムリスは唇を離しても、クシャナを自由にはせず、その肩口に顔を乗せた。ナムリスは何も言わない。
クシャナは彼の背中を撫でてやる。
「顔が見えぬ」
それには答えず、ナムリスはぽつりと呟いた。
「俺は亡霊の皇帝だ。だが、クシャナを誰にも渡しはしない」
「ならば、どうする? ここから共に飛び降りるか?」
「クシャナには似合わぬな」
「ナムリスには? 神聖皇帝陛下」
ようやく、ナムリスはクシャナを離したが、彼女の両肩にはその手が置かれた。
「ひでえ女だ」
ナムリスはいつものように笑ったが、幾分、寂しそうだった。
「クシャナ、お前が殺せよ。俺は飛び降りねえ」
今度こそ、本当に彼女を離すと、ヘルメットを拾い、寝室へと戻っていく。
クシャナはその背中を見送ると、彼に抱きしめられた時にクシャクシャになった縁談の紙を空中庭園から投げ捨てた。
二
その夜、隣で背中を向けて横たわるナムリスを、
クシャナは抱きしめた。
「何を弱気になっている」
「毒気を抜かれちまったよ」
「ミラルパが出てきたという、あの夢か?」
「清浄の光が俺の何もかもを癒しちまった。俺は空虚だ」
「私にはいじけているように見えるぞ……」
ナムリスが急に起き上がり、クシャナは彼から引きはがされた。
「何を驚いている」
「俺って、くだらねえなあ」
「今更、何を言うか」
「じゃあ、今更なことを聞くぜ。あのクロトワって垂れ目はお前の部下か?」
「部下だ」
「ただの部下か?」
「信頼のおける部下だ」
「代王への非公式ルートになるほどの信頼関係で結ばれた部下って訳だ」
クシャナは仰向けで声を立てて笑う。
「今日は良く笑わせてくれるな。それを気にしていたのか。仕方あるまい。奴と私は死線を潜り抜けた仲だ」
ナムリスはクシャナに覆いかぶさり、彼女の指に己の指を絡めた。
「俺の顔が見えるか」
「見えない」
耳元に口を寄せ、囁く。
「では、俺の声は聞こえるか」
「聞こえているよ」
クシャナはぞくぞくした。
「ここが最後の鉄火場だと言ったな。俺はそうはなりたくねえ」
ナムリスは彼女の手を離して立ち上がると、毛布をマントにして寝台から飛び降りた。
「俺はナムリス。最後の神聖皇帝にしてヒドラの王、恐怖も歓喜も俺の前では魂を震わせるための細工にすぎない」
雲が途切れ、窓から月光が差してきた。満月を背景にナムリスは吠える。
「俺は横たわって死ぬものか」
クシャナも寝台の上に立ち上がる。
「ならば、私が相手をしてやろう」
「それでこそ、俺の女だ。愛してる」
「忘れるな」
クシャナは寝台からしずしずと降りると、ナムリスと相対した。
「私も愛してる」
月光に映える彼女の顔は、かえって生に満ち溢れ、堪らなく美しい。
それを見て、ナムリスは虚無を抱えたまま破顔した。