一
夜を進む船は静寂とは程遠い。機械が唸るような重低音の中、人間の動きだけが少なくなっていく。小さな船の個室には寝台が一床しかなった。そこにクシャナを腰かけさせ、ナムリスは床に織物を引いて横になる。多めに渡された毛布を黙って受け取った。彼女も消灯すると寝台にその身を横たえる。
明かりの消えた直後は暗さに目が慣れない。視界を奪われた数分間、瞼を閉じないでいれば物の形がわかってくる。
「土鬼(ドルク)の船だ」
低い天井を眺めながら、クシャナが口を開いた。
「墓所の生き残りはこのしみったれた船を動かせるだけの人員しかいないようだな」
寝返りを打ち、背中を向けたナムリスが応える。あまり、会話を続けるつもりはないらしい。
「私に説明を求めないのか」
「何を考えているのかわかっているつもりだ。土鬼(ドルク)にもトルメキアにも居場所のない、シュワの廃墟にたむろするだけの敗残者を始末する」
「他人に優しくなれない男だよ」
「心外だな」
低く笑うと上半身を起こした。寝台に手をかけ、覗き込む。
「優しくしてやろうか?」
手の甲でクシャナの頬をさすった。闇夜に慣れた目で見つめ合うがその表情までは読めない。
「こうして、土鬼(ドルク)の船で横たわっているとお前の嫁になった時のことを思い出す。私の武装を奪っておいて、再び与えたな」
「再会が鎧姿では色気がないと思っただけさ」
クシャナがナムリスの手に指を絡めた。
「戦場に花嫁衣裳は似合わない。私を力としてしか考えなかった。私はナムリスを同じようには考えるつもりはない」
「墓所の生き残りを殺さぬと?」
「私はあの者たちがシュワの墓所と縁を切るなら、新しい秩序に逆らわないで生きていけると思う」
「呆れるほど慈悲深く、極まりないほど残酷だ」
ナムリスが耳元に口を寄せる。
「俺は血を流すことを厭わない。恐ろしいとは思わないだろ」
手を離すと身体を引き起こした。
「なあ?」
クシャナの髪に触れてから寝床へ戻る。その動きを視線で追いつつ、身体を横に向けると見下ろした。彼の瞼は閉じたように見える。寝台の上から片腕を下ろすとその首に触れた。
「朝になれば、シュワへ着く。奴らがナムリスを治療すると完全には信じきれない。だから、私は」
「その先は気をつけろ。きっと、聞いている」
クシャナは口をつぐむと起き上がり、寝台に腰かけて床へ足をついた。すぐにナムリスの寝床へ潜り込む。
「私はお前を離さない。引き渡しなどしない」
返事として言葉が紡ぎ出されるかわりに、彼女の背中に腕が回され、抱き寄せられた。織物から落ちないようにという配慮のようにも思われる。
「なら、なんの為に俺を連れていく?」
「前にも言ったろう? 逃がさない為だ。あとは単なる、私のわがままだ」
クシャナは頬を重ね合わせると唇の触れ合わない瀬戸際で目を閉じた。
「好きにすれば良い。俺の生命はクシャナのものだ」
彼がそっと口付ける。生命を持て余している男は眠りに落ちつつあった。
(私のせいで生きている)
哀れみを覚えなかったと言えば嘘になる。すぐに殺してやる方が慈悲なのかもしれない。だが、今の彼女には残酷さが勝(まさ)っていた。
(わからず屋、か。それは私とて同じことかもしれない。無理矢理に生かしてなんになる? わかっている。そんなものに意味はない。だから明日(あす)、私は憐れな墓所の生き残りを自分自身の為に利用しようと思う。これは賭けだ。だが、信じたい)
信じることを諦めきれぬクシャナの心を殺すとしたら、それはナムリスだと彼女は知っていた。人肌の温もりと静かな寝息が睡魔を誘う。
(私は憎まれるだろうか? 憎むだろうか? 何度、祈っても朝はくる。希望でもあり絶望でもあるその境界を、私たちは越えていく……)
遠くどこかで風が渦巻いている。機械の唸り声にかき消されそうになりながらも、かすかに船を揺さぶることで存在感を示していた。二人の睡眠は深くならず、時折どちらかが目を覚ます。しかし、微睡みの内に視線が交わることはなく、すれ違うように夢と現(うつつ)を行き来する。空が朝焼けに染まる頃、シュワへ着いた。
赤々とした垂れ込める雲には黒い陰影がある。それが確固とした形を持たずに移り行く姿の一時(いっとき)を想像させた。所々に見え隠れする空の青さは、まだ夜を引きずっている。群青をも覆う曙光は大地へ近付くにつれ、黄金色に変わっていった。
色鮮やかな上空と異なり、大地の色は死んでいる。錆とセラミック片の砂の他には黒々とした墓所の残骸しかない。地ならしをされたように、かつての聖都に人間の営みらしいものは残されていなかった。ただ、いつまでも廃墟を守っている空堀とそこへ通ずる橋道だけが、往年の姿を留めている。
土煙を舞い上げながら船が着陸した。昇降口から降り立てば、すぐに墓所へ至る道を踏むことになる。
「上手いものではないか?」
立ったまま、船内の窓から外を確認したナムリスが皮肉交じりに言う。
「むしろ、失敗だろう」
退室するクシャナは振り返りもしない。その姿を見送った後、再び船外へ視線を走らせる。窓は外界を把握するには小さすぎた。
(墓所の主が奇麗さっぱりとさせたのはわかる)
橋道の位置から船窓に広がっているはずの景色を思い浮かべてみる。しかし、現実との乖離が激しい為に脳内の映像が結びつかない。不揃いのパズルのような想像しかできなかった。
(弟の死体はどうしたろう)
不意に打ち捨ててきた亡骸のことを思い出す。皇弟に忠義を立て、皇兄の暗殺を謀った者がいたのだから、他の信奉者に埋葬されたと考えるのが妥当かと推測した。まだ、骨は地中に残っている。だが、そこには誰もいない。
(死の恐怖を抱えたままでは清浄の地など受け入れなっただろうな)
不出来な兄も多少の貢献はしたのかと思うと不愉快だった。矮小な存在の影響を受けるようでは意外と弟も大した人物ではなかったらしい。窓を開け、腰を屈めて窓枠で頬杖をつく。もう片方の手は腰に当てた。
(卑屈だ)
大胆にシュワの匂いを吸い込む。血と臓物と糞尿の記憶が呼び覚まされた。
(すでに死を受け入れている俺は何を手放すべきなのか? 元から俺には何もなかったのかもしれないがな)
がらんどうの心に虚無が居座っている。その事実を見つめなおす前に、昇降口から老いた男たちが追い立てられるように降りてくる姿が目に入った。クシャナが船内の人員を集め終わったようだ。
男たちは一様に緊張した面持ちをしており、行動の主導権を握られたことで怯えていた。委縮しているというよりは、感情を爆発させる寸前のような狂暴性を内在させている。
(死に際の人間は大胆にもなれるものだ)
ナムリスも昇降口へ向かう。まだ、船外へ出ていなかったクシャナと鉢合わせた。
「これからか?」
彼女の腰に腕を回して抱き寄せる。
「手伝おう」
楽しそうに相貌を崩すナムリスに対して、クシャナは彼の胸を片手で押すと引き離した。
「好きにすれば良い」
意外な返答だったが深くは考えなかった。彼女が船のタラップを降りていく。それにはお供をせず、昇降口の手すりへ寄りかかって、集団と言うには少ない男たちを見下ろした。
「他には?」
クシャナが事務的な口調で尋ねる。橋道の端に立つ彼女が一歩を踏み出す度に、男たちは後退(あとずさ)って橋を渡っていく。意に返さず進んでいくがその距離は縮まらない。険しい表情で意味ありげに目配せし合う彼らの最後列で、救いを求めるように背後へ顔を向ける者があった。すぐにクシャナとナムリスはその視線に気がつく。
墓所の残骸から一人の人間が出てきたところだった。船が到着した音を聞きつけたのだろうと見当をつける。どうやら、あれが今の長らしかった。橋道の反対側から歩み寄る長を待たず、クシャナは素早く前進する。気圧された男たちは逃げ出すこともできずに、空堀へ落ちないように道を譲るだけだ。静かにナムリスが俯瞰している。
面布をかぶった長は手指を隠すように胸の前で両袖を合わせた。クシャナが立ち止まって腰の物の柄に手をかける。男たちが殺気立って身を構えたが長にはなんの反応もない。
「殺されると思っている」
挑発的な笑みを浮かべた。剣に触れたまま、自身の発言を肯定するとも否定するともつかない姿勢でいる。
「お力をお貸し願いたい」
長が厳かに頭を下げた。信心者の誠実さが声音に滲み出ている。しかし、それはどこか偽物っぽい、良くできた見本のような真心だった。クシャナは見下すように少し顎を上げる。
「昨日(さくじつ)、理屈は聞いた。人類の苦しみを終わらせたいとな」
「左様」
「手始めに我が良人の痛みを癒すとか」
「左様」
長へ詰め寄って鯉口を切るとその横っ腹に強く剣の柄頭を押し当てた。
「トルメキアへのつてを作る為に、随分と手間暇をかけたものだ。土鬼(ドルク)に見限られたので、その技術を餌にし、他の国で実権を握ろうというのだろう?」
「お一人はお辛かろうと思います」
脇腹の痛みを押し殺した長の発言に眉間へしわを寄せる。
「恐れ多くも貴女の苦しみを理解しているつもりです、トルメキア代王陛下。伴侶も得ず、子も為さず、孤独に生きるはお気持ちを害します。戦役後の世界に貴女は必要不可欠な方です。我々がまず、第一にお救いしようとしたのは代王陛下であるとおわかり頂けるはずです」
思わず、吹き出してしまった。笑いながら天を仰ぐ。
(確かに、それを苦しみと呼んだ時期もあった。孤独、か。今はその意味合いが違う)
炎に血を混ぜ合わせたような朝焼けの空を見る。刹那に燃え盛る火のような生を求めて得られなかった男が、彼女の心に住んでいる。
(私を救えるのはお前たちではないよ)
目尻の涙を指で拭う。小さくなった笑い声が口から漏れる。
「良くわかった。お前たちは何も理解していない。英知によって苦しみが終わる程度なら、人間がこの世に生きる意味はない。救いのない中で悩みながら生きることが生命の価値なのだから。もう、お終いにしよう」
長が何かを言おうとする気配を察し、そのまま言葉をかぶせた。
「いや、そちらの主張など欲しくない。私はシュワの墓所を終わらせると決めた」
言い終わるや否や、長が剣を握ったクシャナの手を払い、柄を握りしめる。彼女を部下たちへ向かって突き飛ばすと、その勢いで鞘から刀身が露わになった。クシャナは羽交い絞めにあい、膝をつく。
「なら、貴女をお終いにして、次の王を尋ねよう」
「トルメキアにも土鬼(ドルク)にもお前たちが尋ねるべき王はいないだろう?」
喉元に突きつけられた刃を無視し、平然と受け答えをする。
「いいや、まだ一人」
長が船へ顔を向ける。
「動かないでもらおう」
言われた当の本人であるナムリスは、少し前から昇降口に腰を下ろしていた。その命令は少し間が抜けて聞こえる。彼の滑稽さを肯定するように、頬杖をつきながら、もう片方の手を空中へ上げた。
「再び、我々とともに帝国を切り取りましょう」
当の本人は取り合わずに交渉を始めようとする。
「わざとらしいぞ、クシャナ」
ナムリスは立ち上り、一歩ずつ踏みしめるようにタラップを降り始めた。彼女の後姿だけを見つめている。
「安い挑発などとは。後始末はこの俺か?」
「殺しをやらせたい訳ではない」
クシャナは長を見た。
「私を上手く使え」
その声はナムリスには届かない。彼は土鬼(ドルク)の大地に足を落とすと焦る様子なく、歩を進める。
「良く聞こえない。クシャナの声が聞きたいな」
ほとんど、男たちへの命令だった。有無を言わせぬ態度に、人質を拘束している者たちまでもが近付く足音に顔を向けずにはいられない。言外の圧力を笑みとして、彼らは視認する。
「細君の指示がご入用ですか。何故、他人の言いなりになるのです。力が足りないのでしたら、我々が差し上げましょう」
長は両者の言い分を聞き流し、剣を握る手に力を込めるとクシャナの顔を上向かせた。
「それとも、女に情が移りましたか。今、この場で貴方の楔を解き放つお手伝いを致しましょう、神聖皇帝陛下」
「確かに、我が父祖はわずかのヒドラで国を奪ったが」
話半分で橋道を渡り始める。
「今となっては単なるお伽話さ。ところで、まあ知っているだろうが、俺は坊主も嫌いだが、博士も嫌いだ」
「我々を殺すと?」
「さてね。女房の言いつけを守って、刀剣の類(たぐい)は持ってこなかったからな」
「お身体の痛みを取り除くには我々の技術が有用であることはご存じのはずです」
「この際だから、はっきりと言っておこう」
風音に負けぬ力強い言葉が発せられる。
「俺を救おうとするな。それほどの価値はない」
この言葉は自分に向けられたものだと、クシャナにはわかっていた。ナムリスは墓所の生き残りたちの元へ到達する前に立ち止まる。
「そもそも、俺に国をやるとか俺の痛みを取り除くとか言うが、それで救われるような俺と思うか?」
自らを指し示すように胸へ手をやると自嘲的に口元を歪めて笑った。
「墓所の英知を気取るなら、もっと気の利いたことを言うんだな」
一瞬、長は言葉に詰まったようだったが部下たちの視線が後押しする。
「貴方に望みがあるなら、我々はその為の努力を惜しみません」
「望み、か。さしあたっては、そうだな。お前は俺に動くなと言ったな」
「お気に障りましたか」
「いいや」
歌うように優しく断言する。
「つまり、俺が何をするのかわかっているのだろう?」
片手を後ろ手に腰へ回した。
「その通りにするさ」
乾いた破裂音が響き渡るのとクシャナの拘束が緩まるのは同時だった。ナムリスの片手に握られている銃が捕縛者たちの頭を撃ち抜いていく。銃声と共に剣を下ろして身構えた長が、死体の下から起き上がろうとしたクシャナの襟首を掴んで引き立たせる。再び、彼女の喉元に刃を突きつけた。まだ、数名の男たちが生きていたが引き金を引くのを止める。
「女を殺されたくなければ、我々の意に従え」
「と、言うと?」
ナムリスは空惚(そらとぼ)けながらも銃を下ろさない。
「新たに国を興し、民衆を取り込む。そこで墓所の主の遺志を完遂するのだ。人々は救済の返礼に我々を崇めるだろう。その為には王が必要だ」
「俺を担ぎ上げようというのか」
朗らかな笑い声をたてたが銃の照準はぶれていない。そのまま、墓所の生き残りの一人を撃ち殺す。死体が空堀に落ちていく。
「ナムリス」
クシャナが口を開いた。
「私の為にこやつらの言う通りにしてくれと頼んだら、どうする?」
額に汗が光っている。とても真剣とは思われない科白を、彼に縋(すが)るように絞り出した。賭けに興じるような危うい熱情が瞳に踊る。ナムリスは銃を握る手を開いた。重さのある音が砂煙とともに上がる。
一人の男が地面へ身を投げ出すようにして銃へ飛びついた。ナムリスがその頭部を高く蹴り上げる。再び、銃は地面に転がった。口から血を吹き、気絶した男の元には誰も近付かない。鮮血の赤さに時が止まる。その中でナムリスだけが何気ない様子で腰を屈めるとその襟首を掴み、もう片方の手で銃を拾い上げる。
「俺が従うのは何もかもどうでも良くなった時だ」
意識の戻らぬまま、男は奈落の底へ落とされた。地上に落下音は届かない。
「逆らうのは惚れているからだ、クシャナ」
児戯を楽しんでいるような笑顔を向ける。言葉が終わった瞬間、男たちは我に返った。すぐさま、残り少ない生き残りは二組に分かれる。一組は弾丸の餌食になる前にとナムリスへ飛び掛かり、長を含めたもう一組は橋道を走った。クシャナは長に拘束され、攫われていく。
殺到する男たちをあっさりとかわし、空堀へ突き落としてやる。背を向けて遠ざかりつつある者どもを冷静に銃で始末していったが、最後に長へ向けられた銃口が火を噴くことはなかった。
「連れていくと言ったのに」
空堀からぼそりと声がしたので目線だけを向ける。足元の橋道に嚙り付いた両手と空洞から突き出された顔が半分だけ見えた。一見すると、それが顔だとは思われない。髪がなく、皮膚は干からび、くしゃくしゃにされた紙が貼り合わせられたような有り様の上に、何もない眼窩が黒々と穿たれている。それが……のそり……と這い出てくる過程で剥き出しの歯列が見え、ようやく人の形をしているらしいことがわかった。
骨と皮ばかりになった片腕を橋道の上に投げ出す。ずるずると誰かに引きずられるようにして、上体が出てきた。動作の一つひとつの間に、身体が巨大化していく。背中を丸めた状態で四つん這いになり、両手をついた時には頭蓋骨がナムリスよりも大きくなっていた。俯く頭を持ち上げ、夜空よりも深い闇を湛えた眼窩を彼の眼前に見せる。すでに銃は下ろされていた。
「去ってしまった」
ゆっくりと指差され、にじり寄られる。
「女はお前を連れていってなどくれない」
どちらも避けるつもりはさらさらない。
「それで良い。お前は生き飽きたのだから」
微動だにしない暗闇が微笑みに目を細めた気がした。
「そら」
ナムリスを見据えたまま、空堀を指差す。
「そこに飛び降りれば楽になれる。三百メルテもあれば、ヒドラの頭も砕けよう。底まで緩衝材となるものもない」
巨大な骨が地面に肘をつき、ナムリスを掴み上げようと左右から両手を近付ける。
「手伝おう」
彼は腕を組み、頭を左右へ振った。髑髏の動きが静止画のようにぴたりと止まる。
「生きることは苦しむことだ。もう、充分ではないか」
言葉だけが優しげに紡ぎ出された。ナムリスは意外の感に打たれる。
「俺は苦しんでなどいない」
「女がそれを望んでいる。生きて苦しめ、と」
強引に骨をこすり合わせる嫌な音がして、巨大な人骨にひびが入った。風が吹いて骨片を散らす。
「しかし一体、なんの為の苦しみだ? 死んだように生きていないという証左の為か? 殺してもらう為の?」
ナムリスは眉をひそめた。
「女の無理強いに相応しい応報をくれてやるが良い」
「いいや、俺は追いかける」
「なら何故、長を撃ち殺さなかった? 本当は女が憎いのではないか?」
一際、大きな風に骨は大きく砕け散り、中に詰まっていた泥沼のような液体と共に吹き飛ばされる。その一滴がナムリスの頬に垂れた。他には何も残らない。
試されている、と虚空と大地の狭間を凝視しながら考える。ある意味では期待されているということでもあり、新鮮な感覚を味わった。だが、それは快いものではなく、臓腑の内側から悪寒が走ったような気持ちになる。垂れたものを親指で拭おうと頬に触れたが、皮膚が触れ合う感触しかない。
私の為に、とクシャナは言った。熱情のこもった眼差しを思い返す。墓所の生き残りに与することが彼女の為になるとは思われない。
(もしも、それが俺の身体の為だとしたら……?)
風が血の臭いを運んでくる。
(間違っている)
クシャナがナムリスの為に誰かへ首(こうべ)を垂れるなど、とても赦せることではなかった。もはや、それは彼の愛した女ではない。
(信じると思うか、この俺が)
またも自嘲的な笑みが口角に表れる。クシャナの偽りに騙されてやるべきか否かを迷う心が、最後の引き金を引かせなかった。鼻歌交じりに墓所の残骸へ向かう。
(嘘は夢だ。やがて、目覚めよう。甘美な惰眠に惑わせるほど、俺は酷ではない)
次の弾丸を撃ち込むまでの間に彼女の真意が知れるだろうと冷静に判断しつつ、一瞬の迷いが愛に似ているとは気付かなかった。
二
背後の銃声が静まったことに、クシャナは気がついていた。墓所の生き残りがナムリスを手こずらせるとは思えない。意図的に銃火を収めたのだろう。
彼女の自由を奪う為に首へ回されていた長の腕が緩まる。振り返る間(ま)もなく、墓所の残骸へ押し込められた。崩れかけた廃墟の間隙へ身体を滑り込ませる時に、長の手にある刃の光がちらと目に入った。
時折、剣で脅しながら、長はもう片方の手でクシャナの背中を何度も小突き、素早く墓所の内部へ逃げ込もうとする。それに逆らうつもりはないが、急いでやる訳でもない。焦れた彼が執拗に拳(こぶし)を押し当ててくる度に思う。
(まだ、死なないでいる)
このまま、残骸の隙間で時間を稼いでいれば、すぐに墓所の生き残りを片付けられることはわかっている。容易く銃撃は追いつくだろう。だが、長の死を願うが為に身体の動きが遅くなるのではない。ただ、ナムリスが生命を殺さない瞬間のあることを感じていたかった。例え、それがまばたきをした途端に消え失せてしまうような可能性であっても、女だけはその価値を信じている。
「無意味だ」
崩れないように補強された洞穴(どうけつ)のような墓所の入口を前にして、クシャナは足を止めると呟いた。
「更にこの先へ逃げきれると思うか。何故、私の生命を盾に交渉を続けなかった? 上手く使えと言ったではないか」
「信用するとでも?」
長は剣先を人質の腕に突き立てた。
「入れ」
「私の為ならお前一人を見逃さない奴ではない」
あっさりと入口を潜(くぐ)りながら対話を続ける。
「誰の女を捕まえたと思っている」
狭くない場所へ出た。だが、入口からの陽光の他に光源はなく、内奥までは見通せない。平らな足元の先に地下へ通ずる大階段があるが、途中から闇に呑まれている。影の切れる先にちらちらと光源の届く場所があった。頭上はどこまであるとも知れない。墓所に自らの影を落とし、クシャナは立ち止まると片手を腰へ当てた。その首筋に剣身が立てられる。
「何が狙いだ?」
「私はシュワの墓所を終わらせると言ったが、お前たちを殺すとは言っていない」
皮膚の上を滑るように刃が喉元へ回され、長が隣へ立った。首の半分に赤い筋が走る。
「貴女は私だけでも生かして帰すおつもりか」
「お前が私を信じるなら」
クシャナはずっと前方を見据えたままだ。さほど強烈でもない光が眩しく思えるほど闇は深く、いつまでも目が慣れない。だが、廃墟の外観から鑑みると内部が無事に残っているとは思われなかった。奥行きのないべったりとした闇が光を遠巻きにしている。
鋭敏になった感覚が不思議な花の香りを捉えた。香(かぐわ)しいが嘘くさく、自然界のものとも思えない匂いがそこはかとなく漂ってくる。
(ああ、きっと)
すぐにクシャナは合点した。
(生き埋めになった者が多いのだろう)
充満する死を薬品で誤魔化しながら、墓所の生き残りは往年の暮らしへ戻る可能性に賭けてきたのだ。
(私の賭けも、もう終わる)
静かに長へ振り向いた。切っ先が首から離れるが、まだ空中に留まっている。
「代王の生命をよすがとし、亡国の皇帝から慈悲を引き出すが良い」
真剣な眼差しが長を射る。彼は考えあぐねたように、土鬼(ドルク)の言語に良く似た言葉で口ごもった。
「私の狙いは何かと問うたな」
剣先を摘まむと、再び己の首へ近付けようとする。
「今の状況そのものだ。私に危機が迫り、良人がそれに心を砕くのなら、他のものは全て些末事にすぎない」
伏し目がちに刃へ視線を送る女の顔に苦い哀しみがよぎった。瞬間、クシャナと長の間を一つの影が走る。三つの影が並んだと思われた時には銃声がこだましていた。肩を撃ち抜かれた長の手から剣が離れ、大階段の上で甲高い音をたてる。
「悪いな。暗くて外した」
ひひひ……と笑い声が続く。入口の壁に片肘をかけて頬杖をついた格好で、銃を構えたナムリスが悪びれもせずに言った。その姿を認めた長は肩の傷を押さえながらとっさに武器を求め、階段を駆け下りようとする。その背中を襲った一発の銃弾により、段上を半ばまで転がり落ちた。
「頭を砕くには高さが足りぬと思うのだがな」
ナムリスが墓所の中へ入ってくる。
「脳天へ食らわせる気になれない」
上から半死人を眺めると、再び胴体へ撃ち込んだ。血塗れの長は痛む身体を引きずり、階下へ逃れようと必死だ。
「すまないが苦しみぬいて死んでくれ」
銃を構える腕に、横からクシャナが手を添えた。
「もう、良い」
「悪くない気分なのさ、クシャナ」
言葉とは裏腹に無表情で言う。
「誰かの為に力を振るうということは」
階段を下りていくナムリスから彼女の手が離れる。次の銃撃が繰り出される前に、クシャナは背後から彼を横へ引き倒した。ちょうど、その瞬間に殷々と銃声が響き渡る。ナムリスの胸へのしかかりながら、長が暗闇の中へ去っていく姿を視界の端で捉えた。
頭を起こして顔を向けたクシャナに対し、ナムリスは獲物の消えた先を見つめたままの横顔を見せた。銃を握りしめた手は踏み面から先の何もない空間に投げ出されている。
「つまり」
視線を動かさずに言葉をかけた。
「俺に助けてもらいたかった?」
何も返答せぬまま身体を起こし、横たわる彼よりも一段下に腰かける。膝に両腕を置き、わずかに光で照らされた大階段へ視線を落とした。
「それとも、俺を試したか。自由を求めてクシャナを殺すのではないか、とな」
「違う」
振り返って否定した声が思わず大きくなる。上半身を起き上がらせたナムリスの顔が近くにあった。その表情から感情は読み取れない。ただ、心持ち持ち上げられた口角が、どことなく剣呑な印象を与える。
「先程の長との会話を聞いていたのだろう?」
良人の両頬を掌(たなごころ)で包み込む。
「私を救ってみないか」
諭すような優しさに凛とした力強さが合わさった眼差しが、まっすぐにナムリスを見た。彼は踏み面に片手をついたまま身動(じろ)ぎもしない。銃を握った手を自身の腹の上へ置いている。
「殺すことしか知らない男に生かすことを教えたかった」
両手を下げると膝立ちになった。己を供物として捧げるような無防備な様子で相対する。
「私の生命で」
ナムリスは臓腑の底で泥沼の液体が静かに泡を吹くのを感じた。それは弾けると血と臓物と糞尿の合わさった死の香りを体内に漂わせる。長の年月で培った自己は殺されつつあった。生命をかけられたことで無価値に価値が上乗せされる。しかし、自分が変わってしまったことを喜べるほど、彼は単純ではなかった。
「俺からどんな言葉を聞きたい?」
ようやく、銃を腰のベルトに収めるとその手をクシャナの首筋へ近付けた。乾きかけた血に触れる。
「口先だけではなんとでも言える。それとも、信じるのか。この俺を」
「私は強い女ではなかったか。人を信じることのできない弱い人間ではない」
何も言いたくない、とナムリスは思った。内心で何を思っていようが関係なく、色好い返事だろうと耳に痛い悪口(あっこう)だろうと、顔色一つ変えずに言ってしまえる彼の言葉をクシャナは信じると言う。
愚かな女だと断言することもできた。ナムリスの生き方からすれば、それが妥当だった。その程度の人間が他人の生に口出しをしたのかと憎むことさえできる。だが、意思が何かを決定するよりも早く、魂が震えた。はらり、と涙が落ち、彼自身を驚かせる。
この切なさになんと名前をつけて良いのか、ナムリスは知らなかった。嘘も真もクシャナを傷付ける気がして口をつぐんでしまう。瑕疵を気にかける女ではないと知りながら、その痛みを哀れんだ。
彼女は首に添えられた手を掴むと、頬をすり寄せる。顔が血に塗(まみ)れた。
「私には殺す為の生命が一つある。お前には生かす為の生命が一つある」
いつでも殺すし、いつでも死ぬる。だが、いつ生きているのかがわからなかった。それを妻が教えるという。己の生命でわからせるのだと。
「私を救ってみないか」
血の沸くような気持ちになる。ナムリスは起き上ると階段を下り、クシャナの横に立った。伸ばされた手を取り、立ち上がらせる。手を繋いだまま、澄んで透明な視線が男の言葉を待っていた。
ナムリスは照れくさそうに口元を動かしたが、何も言葉にならないまま微笑んだ。いつものように皮肉に笑おうとして上手くいかず、愛しさと哀れみに愉しさが混じったような、実に半端な表情だった。
(今はこれで)
と、クシャナは思いながら、彼の涙を指先で拭う。
(これだけで充分だ)
濡れた人差し指を己の唇に触れさせた。じっとナムリスを見る。彼はその指を取ると口付けた。
「俺を痛みから救う為に国を出たのに、その俺に救いを求めるとはな」
ひひひ……とようやく、いつものように笑う。
「あべこべだ」
クシャナの手を離さない。
「まだ、俺を癒すつもりか」
「無論」
「なら、一つ癒してもらおうか」
不意に手を引っ張られ、よろめいたクシャナがナムリスの胸にもたれかかった。その髪を撫でながら、優しく彼は言う。
「生粋のヒドラは人の死体から造られる」
頭からうなじへ手を下ろすと血塗れの首を掴んだ。
「この血肉が半端者にも滋養となるかもしれぬ」
「試したことは?」
「流石にない」
身体を離したクシャナが物怖じせずに見つめる。
「私を食らうか、ムコ殿」
ナムリスは答えずに首筋へ口を寄せた。しかし、その舌が触れるより早く、クシャナが膝頭を蹴飛ばす。あっさりと尻餅をついた。
「優しくねえなあ」
長椅子へ腰掛けるように広げた両腕を後ろの段へ置く。頭を逸らして目を閉じた。
「今日は沢山、身体を動かしたから特に痛むというのに」
「憐れっぽいことを言うな」
「違いない」
頭を俯かせた彼の口元に皮肉の色が浮かぶ。
「それに、どうせ」
クシャナの声が背後に回った。
「悪い冗談なのだろう?」
顎の下のひやりとした感触に、ナムリスは瞼を開いた。膝をついたクシャナの顔がすぐ近くにある。階段に放り出されていた長剣を手に取った彼女が、刃で彼の顔を起こした。
「そうさ」
見上げながら目だけで笑いかける。
「みんな、悪い冗談だ」
クシャナの顔へ下から銃口を向けた。そのまま、女の首筋へ唇を寄せ、滲み出る血潮に吸い付く。舐め回す音がかすかに響いた。
「ああ、血が燃えるようだ」
その言葉へ答えるかわりにナムリスの髪を掴んで引き離し、血塗れの唇へ口付ける。首筋を舐め回されたのと同じように舌を舐め回される。口付けたまま、口内でそれに応えていると、徐々に身体が押し倒されていく。逆らわずに力を抜き、踏み面の上へ横たわる。離れた唇から互いに熱い吐息が漏れた。ナムリスが身体を起こす。
「怖くはないか。死が見ている」
いつものように勝気に微笑んで見せた。
「それでこそ、我が妻だ。犯すに相応しい」
黙って剣の切っ先をナムリスの腹部に向ける。彼はすぐに気がつくと、わざと前傾姿勢を取った。少々、刃を突き刺さらせ、笑う。そのまま、段々と体重をかけて刃が食い込ませるにつれ、その笑顔に凄味が増していく。クシャナは表情を殺して見ている。交わる視線を途切れさせぬまま、不意にナムリスが力を込めるのをやめた。肘を曲げたまま腕を持ち上げ、その指先に引っ掛かった銃を見せる。
「撃ち砕いてしまおうか」
「私の殺しは次で最後だ」
「今、果たすとでも?」
「お前の心掛けしだいだな」
ナムリスは破顔した。
「永遠にわからぬ謎を一つやろう」
次の言葉を口にしかけて、急に真顔になる。上半身を大きく横に向け、階段の下へ銃を構えた。しかし、ナムリスが発砲するより早く、階下から銃撃を受ける。彼の首が飛んだ。
剣を抜き捨て、崩れ落ちる身体へ覆いかぶさるように、頭から血潮を浴びたクシャナが追いかける。銃を握りしめたナムリスの手を取った。ついさきほど、彼が照準を合わせていた方向へ銃口を向けると、影の切れた先に最後の墓所の生き残りがいた。彼は重火器を手にしたまま、その発砲の勢いで腰を下ろしたままだ。
ナムリスの指の上から引き金に手をかける。クシャナが力を込めようとした瞬間、先に彼の指が引き金を引いた。狙いを過(あやま)たずに長の額を撃ち抜く。
「それは人の心というものだ」
階段の上から首が見ていた。見上げる血塗れの女に話しかける。
「俺の心を掴んだ女よ。俺の心中を推しはかるな。お前の気持ちだけで俺の心を決めつけてしまえ。永劫の不可思議さは捨て置けば良い。お前に心を囚われた時から俺に自由などないのだから」
「私に決めろと言うのだな」
クシャナは緩慢に立ち上がった。
「死ぬ為には生きねばならない。ナムリスが如何に生きたか、その判断の全てを私に任せるつもりか。自身の意思を放棄するとは無責任で身勝手な男だ」
「ハハハ。違いない」
剣を拾うと腰へ収め、静かに階段を上り始める。
「その上、私の最後を自分だと決めつけている」
「そうさ。俺へ順番が回ってくるように、クシャナの手が血で汚れぬようにしたのだ」
「結局はお前の血に塗れたが」
ナムリスの目の前にしゃがみ込む。ちょうど、二人の目線が合った。
「不手際だな」
「赦さないか?」
「そうでもない」
クシャナが不敵に微笑んだ。
「今、この場で我が良人らしく振舞って見せよ」
膝の上に肘を乗せ、頬杖をつく。
「連れ合いの不調法なら大目にみよう。このクシャナにその身分を明かせるか」
思案するようにナムリスは口を閉じたが、すぐに口角の片方を大きく持ち上げる。そのまま、薄く唇を開くと、彼女に聞き取れぬほどの小さな声で何事かを呟いた。
「もう一度」
聞き返す彼女に対し、勝ち誇った笑みを浮かべたまま、先程と同じように答える。聞き逃すまいとクシャナが顔を接近させた。次の瞬間、首がひょいと跳ねる。唇が重なったと思った時にはナムリスは階段を転げ落ち、後頭部を向けた状態で動きを止めた。
「不倫の自由は認めたがな」
虚を突かれたクシャナだったが少し経つと声をたてて笑い始める。
「驚かされた」
実に愉快そうな声をあげると階段を下り、彼の髪を掴んで拾い上げた。踵を返し、素早く出口へ向かう。
「俺の身体を捨て置くつもりか。繋いでくれよ」
「そんな時間はない。そろそろ、迎えがくるはずだ。船を降りる時に通信を送っておいた。私たちだけでは操舵できないからな」
「やれやれ」
二人は光の中へ出た。墓所の残骸で覆われている為に、暗闇から見ていたほどの明るさはない。それでも一瞬だけ目を細める。苦しみの中で見出した幸せのように細やかなものが強く思われた。廃墟から這い出ようとする時になって、ようやくクシャナは片腕でナムリスを胸に抱き込んだ。
「まあ、首から下を新しくすれば、しばらくの間は身体の痛みと無縁でいられるか」
「言い忘れていたが、お前が以前に飲んでいた薬の処方箋をチヤルカ殿に見つけて頂いた」
「なんと言い訳した?」
「不治の病に侵されたトルメキアの王族に情けをかけてくれとな。自国の医者の手に負えぬのに、異国人に診られるのは嫌だと、強情を張る者の痛みだけでも癒してくれるようにとお願いした」
「今なお、土鬼(ドルク)に帝国の遺産は失われていないものとみえる。急に失った身体が惜しくなるな」
「未練があるとは似つかわしくない」
残骸から抜け出た。晴れ渡った空を見たと間もなく、さらさらと雨が降り始める。とうに朝焼けの消えた天空は明るい。身を清めるように、クシャナは頭上を見上げると目を閉じた。血痕が洗い流されていく。
「未練にも思うさ。冷たい雨に打たれる妻を温めてやれないとあってはな」
「調子の良いことを」
腕の中の首へ視線を向ける。ナムリスが眉根を寄せて微笑んだ。
「永遠に温めていてやりたいんだよ、クシャナ」
どこか寂しげな声音に、己の望みを皮肉る響きが混じっていた。そうか、これが、とクシャナは思い至る。かつて、共に生きようと示した彼女への答えなのだ。
薄氷(うすらひ)に足を踏み入れた己の愚を嘲りながら、その先を目指して歩む。やがては踏み砕くと知りつつも足を動かすしか術がない。諦念に自棄が混じるも行動するとはこの人物らしい。彼は再び大地を踏めるとは信じていないが、妻が薄氷を渡ろうと賭けをするので、ついて行こうと決めたのだ。
(私も悪い女だな)
返答するかわりに訳知り顔で笑い返し、ナムリスの髪を乱雑に撫でだ。彼は迷惑そうな顔をしている。
「ああ、船がきた」
クシャナが橋道を渡り始める。その上には一体の死体もない。ナムリスが空堀へ落としたのだろうと判断した。血に染まったマントで首を包み込んでいる内に渡り終える。着陸した船から初めに降りてきた人物はチヤルカだった。
「ご無事か」
「大事ない。すまぬな。私を攫った過激派を一人として生け捕りにできなかった」
通信では墓所の生き残りについては触れず、反トルメキアの過激派による犯行ということにしていた。いまだに土鬼(ドルク)でくすぶる親シュワ派を活気付かせない為だ。
「御身の無事が何よりです。しかし、それは……?」
チヤルカがクシャナの腕のものを訝しむ。赤黒いマントに包まれたものから血が滴り落ちている。
「船に乗ってからにすれば良いのに」
誤魔化しを口にするより早く、チククの声が割って入った。
「雨に濡れてクシャナが寒い」
彼は昇降口で立ち止まり、雨宿りをしている。その奥から出てきた人影は天候を気にせず、タラップから大地へ降り立った。
「会えて良かった、クシャナさん」
「私も嬉しいぞ、ナウシカ」
互いに顔をほころばせる。
「一人でなくて安心したわ。孤独に耽るには、あなたは求められすぎているもの」
「孤独を深めるには、二人でも充分にすぎるが」
クシャナは抱えているものに視線を落とした。
「私の望みはここにある。今ではそれを喜ばしく思うよ」
ナウシカが軽く頷く。
「彼の心の痛みはあなたよ。あなたの心の痛みが彼であるように。だから、二人で生きるのね」
面と向かって言葉にされると面映(おもは)ゆく、わざとクシャナは眉をひそめた。本心を見抜いているナウシカが、微笑ましそうに目を細める。その横で話についていけないチヤルカが、理解を放棄すべきか否か困っていた。
タラップへ戻るナウシカに続いて、クシャナも昇降口へ向かう。雨が上がった。明るい空の景色は変わらず、ただ世界がしっとりとなる。まだ、朝を迎えたばかりの今日という日は、黄昏時には程遠い。二人の為の王国は空(から)の玉座を抱いて待っていた。