一
(結局、俺は庫王を愛していたのだ。惚れていたんじゃない。愛したのだ)
うわんは独りで寝台に腰かけている。膝の上に戦斧を横たえ、それを握りしめる両手を凝視していた。
月面のクレーターを閉じ、月の内部に訪れさせる人工的な宵闇……。
夜のしじまは彼のしじまをを拒み、胸の内から言葉を押しだそうと試みる。静寂が耳を痛め、圧迫されているかのように錯覚させる。
(俺がここを訪れた時、すでに庫王には何もなかった。叡智は古び、従者は絶え、紐解くものは飢えて震えながら明日を向かえていた。だが、俺を一目見た瞬間の庫王はどうだ。蓬髪の隙間から除く目の挑戦的だったことは! 俺は仕えにきた訳ではなかった。主を探していた訳でもなかった。だが、俺という存在が王の息を吹き返させたのは事実だった。自らを王と鼓舞する存在の惨めさよ……)
壁龕(へきがん)の灯が揺らめいて、戦斧の煌めきをうわんの目に届ける。
(王は死ぬなら、王として死にたかったに相違ない。俺は殺すつもりできた。いつまでが俺の許を去ったのは庫王の為だと解っていたから……。その俺に『儂みの髪を切れ』だと! 今、思い出しても笑いがこぼれる!)
彼は笑わなかった。
剣呑な目つきを強めつつ、顔面を硬直させている。もう、彼は自分の両手を見てはいなかった。はっきりと正面を向いて夜を睨みつけている。
夜のしじまはうわんに息を吹きかける。
……ぞわり……として、彼は合点した。
「そうか。殺すべきはこれか」
目を閉じて息を吐く。
「月だったか」
彼は立ち上がると、戦斧を肩に当てて部屋を出た。
廊下に灯りはない。
暗闇の中、足音が冷たく響く。靴音は泡沫のように床から湧き起こり、僅かに浮上した後、ひっそりと消えてしまう。
幾年月を過ごし神殿内を、事物の気配だけを頼りに歩を進める。彼には庫王の居室へ向かうことも、いつまでの寝室へ寄ることもできた。
だが、そのどちらも選択せずに、うわんは神殿の入口から水面に繋がる階段の上に立つ。
(月の何もかもを水泡に帰す)
水面から遥かに高いところにいるにも関わらず、そよとも風は吹かない。神殿内と地続きの暗黒が虚空に広がる。色も変わらず、匂いもしないが、石材の表皮に張り付いた暗黒よりも、虚空の暗黒の方が人を惹きつける。その足を踏み出せ、と――
靴音の泡沫は密やかに、だが、躊躇わずに湧きおこる。
瞬間、階段を下った先から風が進行してきた。
――髪が、彼の胸に。
横を通り過ぎる女の痕跡が触れた。
バサリ、と――
瞬きよりも僅かの間、彼は硬直する。女の痕跡が脳内で反響する。
男は振り返った。
「何をしている。どこを彷徨う。お前の子はどうした」
「眠っているわ……」
舌の上を這う言葉が、勿体ぶりながらおずおずと、唇から漏れいでる。
「何故……拒むの?」
闇は下から吹きあがり、渦を巻くように濃縮される。うわんの見つめる先で、女は逃げずに闇と同化する。
「いえ。もう、終わったことね」
闇を引きずったまま、いつまでは歩く。
「さようなら」
「解っているな」
うわんの言葉は、闇と混ざりあえずに滴り落ちる。
「俺はお前のものだ。そこにしか真実はない」
はらはらと、闇が剝がれていく。
来朝――
二
クレーターの蓋が徐々に開きつつあった。しめやかに降りる光が、水面で戯れている。
女ははにかんで、語る言葉を持たなかった。
男は彼女の手を取ると頬に寄せた。
「どうしたの」
いつまでも身じろがずに受け入れる。
「ここに覚悟があるのだ。許しがたい覚悟が。他に何もないのだ」
瞳を閉じて、掌に口付ける。
「俺は孤独を愛したのだ。愛すべきではなかった。慰めもせぬのに……」
「解っているわ」
頬と頬とが触れ合う。
「私に慰められて?」
「一緒に飛んでくれ」
いつまでの髪に一輪の赤い曼殊沙華が咲き綻ほこぶ。
握る両手を互いの胸に合わせながら、二人は階段から飛び降りた。
投げ捨てられた戦斧は、雨滴のように空中へ散らばり、雨だれのように水面へ吸い込まれる。
風が抱きとめるよりも早く、二人は落ちていく。
いつまではうわんの両手を離すと腕を広げ、水面を背に微笑んだ。幾輪もの赤い曼殊沙華を咲き綻ばせる。
うわんの体が届くか届かないかの瞬間に、二人は水中に没した。
陽の光が届ききらぬ仄暗い水の底で、二人は地に足をつける。浮かばぬ身体とは異なり、衣と髪が微風に揺れる草花のようにたゆたう。
「あの時、俺はすぐに水面へ向かった」
「私を抱きしめたまま」
「庫王さまを不安がらせないように」
「私は弱っていた」
「そうだ。だから、今のお前にはなんの力もないのだ」
「魂だけを昔の身体にすり替えたのね。ここは過去」
「ここから未来を分岐させる」
「どのようにして?」
うわんを水面へ顔を向けた。その視線の先に一艘の船影がある。
「ただ、力で」
地底が一斉に泡を吹いて震える。
「私は贄ね。あなた一人では過去に戻れない」
「違う。俺は……」
「私は」
いつまでは悪戯っぽく笑う。
「怒っていてよ」
大小様々の無数の泡に乗って、いつまでは舞うように浮上する。曼殊沙華が散って、水に溶けた。赤い筋が伸びて、いつまでを中心に幾重にも渦を巻く。
「にくらしい人」
泣きそうに笑いながら、いつまでが天を仰ぐように両手を上げる。瞬発的に、赤い筋はその輪を広げ、二人から遠ざかった。
遥か遠くの轟音が、耳朶を震わせる。
「やがて、全てが崩れるでしょう。庫王を終わらせるには、乱暴なやり方だけれども」
うわんは目を見開くと俯いた。
「何故」
渇望するように尋ねる。
「何故、月と地球の狭間を漂っていたのだ」
「私はずっとあそこにいたのよ。あなたが気付かなかっただけ」
うわんは彼女の歌を思い出す。あの哀愁を。
熱を帯びた泡が、地底全体から吹き上がった
三
月の底は沸騰する。大きく震える水面が、神殿都市を揺さぶり、薙ぎ倒す。
荒れ狂う水上で、庫王はただ一人で耐えていた。成す術なく振り回される舟から落とされまいと、懸命にしがみつく。
(訳が解らぬ)
月は滅びるのだと解っていた。しかし、それは水面みなもに浮かぶ木の葉が、ゆっくりと沈んでいくような、緩慢な滅亡となる筈だった。
(荒々しく滅ぶほどの若さが残っていたとはな……)
余裕があれば、庫王は笑っただろう
(滅びることに変わりはないというのに)
ひどく裏切られたような気持ちになる。神殿都市の盛衰は庫王の象徴だった。表裏一体の存在が、自分から分離していく。孤独を感じる。庫王には神殿都市の断末魔のように己を主張することはできない。庫王には一つの名前しか残っていない。
「……うわん……」
船底を大きな波に突き上げられ、庫王は舟から振り落とされた。しかし、いつまでたっても水面は近付いてこない。それどころか潮騒すらも遠ざかる。
「お呼びでしょうか」
崩れかけた神殿の屋根の上から、意識のないいつまでを抱きしめたうわんが答える。
庫王は彼らの上空を飛んでいた。
「そのまま、行って下さい」
転覆したと思われた舟が水面から浮かび上がり、庫王は舟に足をつけた。呆然となるより他にない。
眼下に展開する崩壊は止まらない。
「お気に召すな」
うわんは破顔した。
「御心配には及びません」
舟は上昇する。
庫王は身を乗り出して叫んだ。
「お前は」
「おさらばです」
「何故」
うわんは神殿の屋根に膝をつくと、いつまでを横たえた。
彼女の口元から一筋の血が流れている。
「私の永遠は、ここにこうして横たわっているのです。あなたはあなたのままであって下さい」
「もはや、何もない。儂には何も」
荒々しい水面には、何も残っていなかった。ただ、荒れ狂い、水が湧き上がっている。
「ありますとも。形がなくてご不安でしたら、それをいややとお呼びになれば宜しいでしょう。いややは、庫王さまとうわんめが共に過ごした証です。消えてなくなりはしないのです」
うわんが大きく手を振った。ずっと手を振り続けていた。
舟はクレーターから差す一条の光に身を曝さらし、砂塵が網目を通り抜けるように、宇宙へと飛び出した。透明の結界が舟を覆う。
だらしなく寝ころんで、宇宙を眺めた。何を考えて良いのかも解らぬまま、眠ってしまった。
四
草原を走る一本道で目が覚めた。
(なんという青さだろう)
陽光を袖で遮る。見つめていると青空が自分を吸い込むようで、驚いて瞬きをした。
何気なく、舟べりを掴んで起き上がる。
(……地平線……)
青と緑の世界に見惚れていると、顎に汗が垂れていることに気が付く。その心地良さに目を細くした。
立ち上がって全身に風を浴びる。大きく息を吸い込み、土と草の匂いを楽しむ。初めは少し不快に感じた匂いが可笑しくて、目を閉じた。
船底で膝を抱えていると、道の先からエンジン音が聞こえてきた。サイドカー付きのバイクである。まっすぐにやってくると、舟の横で停止した。
「あら」
小柄な運転手は民族衣装に身を包んだ女だった。
「なんて声をかけたものかしらね?」
無思慮な言葉に、怪訝な顔をすると、その意を汲んだ運転手はヘルメットとゴーグルを外した。金髪に黒瞳の少女である。
少女は舟を指さした。
「どこかへ行きたいのかしら」
何も知らない少女の言葉に断罪される。
いつだって、どこにも行きたくなかったはなかったのだ。うわんと二人で同じ毎日を過ごしていられれば、それで良かったのだ。
「あなたは誰? 私はアダーリヤ。あなたの名前は?」
「儂に誰と問うな……」
ふいに涙が溢れくる。
「名前には意味がない」
「そう?」
「だって、その名を呼ばれていた頃の自分は失われてしまったのだから……」
「どうして、失われるのかしら。私には解らないわ。あなたを想う人が、あなたを呼んで、あなたは応えた筈なのに。その事実を永遠と呼ぶには、空の広さが怖いかしら?」
怖くない。覚えている。そこで誰と過ごしたか。彼女は一人ではなかった。
アダーリヤはヘルメットとゴーグルをかぶり直す。
「どこかへ行く途上なのか?」
「市場へ行くのよ。薬を売りにね」
「頼みがある」
涙を拭ぬぐう。
「乗せてくれ」
「良いわよ。芸人さん」
「芸人に見えるのか」
「だって、それは衣装でしょ? 遠い異国のお姫さまみたい。舟だって、舞台装置よね。ここには陸路しかないもの」
「置き去りにされた芸人を、アダーリヤは良く拾うのか?」
「いいえ。初めてよ。初めてって大好き。だから、あなたも大好きよ」
「儂も好きになれそうだよ」
「では、お手をどうそ。私の姫」
アダーリヤの差し伸べた手を躊躇なくつかむと、サイドカーへ乗り移る。
「荷物を潰さないでね」
「姫ではなくて王なのだけれどな」
「女王でなくて?」
「それも違う。呼びたければ、いややと呼べば良い」
アダーリヤは返事をするかわりにバイクを走らせる。
昼の空に、月はそっと隠れていた。