「仲良しね」
隣の書斎から白い女が姿を現す。主要民族に特有の白い肌よりも青白く、またそれを覆う細身のドレスも白一色である。小さな顔の上に白鳥が両翼を広げて天地を違えたような半円形の頭飾りがあり、結い上げた髪を隠していた。服飾品にはきめ細かな刺繍が施され、更にレースと宝石で飾られているが、ことごとく色がない。例外は彼女の双眼でそれぞれに別たれた黒色(こくしょく)と暗紅色(あんこうしょく)、そして今は手に持たれている表紙が革製の本だけだ。
今の声音にはどこか他人事を表すような響きがある。その違和感は川面に落ちた火のように一瞬で消えたが、水の流れに運ばれつつも存在を主張する煙のようにムトの脳裏に残った。
「見つかったか、イェルミニア」
「ええ、一冊だけは。まだ、もう少し借りていたような気がしたのだけれど」
「お母さん」
イナークが膝から降りて駆け寄った。
「持つよ」
返答より早く、厚さのあるガッシリとした作りの本は手から手へ移される。勝手に暖炉の前まで運ぶとテーブルへ置く。振り返って見た彼女の顔に当惑と微笑みが浮かんでいた。
「あなたのせいよ」
ムトへ顎をしゃくった。
「イナークまで私を病人扱いして」
ちょっと怒って見せる。
「ち、違うんだよ!」
慌てて傍へ寄る子を意に介さず、歩を進めると長椅子へ座った。少年は顔色を窺いながら後に続く。
「疲れて病気になったら大変だから……」
「実際、君は病弱じゃないか」
「いいえ、虚弱なだけよ」
深く腰掛けて背もたれに寄りかかり、肘掛けに片腕を置いて身体を支えている姿勢は如何にも気怠そうだ。
「どうせ、私は病気の小鳥よ」
今度はいじけて見せる。肘掛けの腕に顔を乗せるとそっぽを向いた。彼女が動く度に陽光を反射する宝石が明滅するように輝いていたが、その煌めきが動かなくなる。ただ、じっとする光が言葉を待つ主の心を代弁するかのように留まっていた。
窓から届く暖かさを遮らないようにして、やっとイェルミニアの隣へ腰を落ち着けたイナークがそろそろと母の腕へ手を伸ばす。
「お母さんはなんでも理解できるから……」
袖を掴まれ、少しだけ顔を上げて横を見た。
「大丈夫だよ。このままで」
腰を屈めて顔を寄せると納得させるように頷く。
「本気で言うの」
「だって、こんなに難しい本を読んでる。僕は題名すらわからないよ」
「その内、ナドリアーサが教えるわ」
それはラサカンドラの母の名であり、彼女にとっては義理の姉に当たる。
「この間、数字が終わって、今は文字の読み書きをやってる」
「難しいか?」
ムトが口を挟んだ。
「うん。この文字は軽やかで伸びるように書き終わるとか、机からはこれぐらい身体を離すとか、色んなことを覚えなくちゃいけないけど面白いよ。カーラは読めれば良いって適当に書いてるけど」
「じゃ、この本から習った文字を拾って書いてみて」
「良いよ!」
イェルミニアが身体を起こすと、ムトへ手を差し出した。その意を察し、仕事机の上から紙と鉛筆を取ると立ち上がって近付いていく。彼女の手を経て渡された文房具が嬉々として用いられた。
「丁寧に書けてるじゃないか」
「もういつ、お兄さま方が帰ってらしてもおかしくない」
起立したまま息子の習熟度を確認しているムトを見上げもせずに、頬杖をついて窓の外を眺めつつ話を始める。彼にはこの母子の距離感を好ましく思えない。それでもイェルミニアへ視線を移し、追随するように顔を向けた。
「郵便馬車が手紙を届けにきたでしょう?」
「いいや」
「どうして、噓をつくの……」
明後日を向いた妻の双眸(そうぼう)が無垢とも言える無表情で責め立てる。陽光を受ける瞳は色の違いが際立って良く見えた。
「それとも忘れていたいのかしら」
不意に挑発するような笑みに変転する。口角を片方だけ持ち上げて反応を待ち受けた。瞳の色が分かれたのはその二面性の為ではないかと、しばしばムトには思われるのだった。女の奥底で二つの心が絡み合っている。
「命日だものね。何年たっても、誰が亡くなったかを思い出すのは辛い? そうでしょうね。だって、あなたが……」
その先の言葉を聞きたくなかった。イェルミニアの頬へ手を添えると親指の腹で唇に触れる。その掌の温もりを味わうかのように少しだけ首を傾(かし)げ、伏し目がちに無音の言葉を紡いだ。互いに皮膚の擦れ合う感触だけが残される。イェルミニアは姿勢を正して男の要求から逃れ、彼も追わなかった。
「やはり、疲れてしまったわ。イナーク、その本をおじいさまへ持っていって。私が詫びていたと伝えてね」
夢中になって文字の書き取りをしていた手が止まり、元気の良い笑顔が答えた。
「任せて!」
「お部屋にいらっしゃらなかったら鳩舎へ行ってみて」
本へ視線を落としたまま頷くとそれを脇の下に挟み、落とさないように両手で支えて立ち上がる。慎重だが軽い足取りで少年は去っていった。