わざとらしい程に人気(ひとけ)のない場所だった。王城から続く空中廊下には警備兵の一人も配置されていない。
土鬼(ドルク)からの親善使節団の一員としてトルメキアを訪れたアスベルは、その歓迎の席を抜け出したところだった。社交の場に疲れ、一人の時間を欲した彼にはうってつけのように、空中廊下は月夜の光に沈んでいる。しかし、あからさまに人払いのされた空中廊下の先で何が待っているのかを想像すると、部外者の自分が侵入すべきではないようにも思われた。
腕を組み、わずかに逡巡したがすぐに他の場所を探すべく、空中廊下へ背中を向ける。その刹那、彼の耳が歌を捉えた。今ではもう馴染みとなった土鬼(ドルク)の言葉が、歌となって夜気を振動する。耳をすませば、歌声は空中廊下の奥から漏れ聞こえてくるようだ。
土鬼(ドルク)を旅立つ前に一つの噂を聞いていた。それは元トルメキア軍兵士が土鬼(ドルク)で暴動を起こす計画を立てていたというものだ。噂の真偽は定かではないが、実際にトルメキアでは公開処刑が行われている。ここにもう一つの噂が加わる。元トルメキア軍兵士を扇動したのは土鬼(ドルク)の者だというのだ。ならば、その首謀者はすでに処刑されたはずだが、トルメキアの王城で、それも人払いをされた空間で元敵国の言葉を歌う者の存在がアスベルの琴線に触れる。アスベルは空中廊下へ足を踏み出した。
空中廊下は孤立した塔へ繋がっていた。塔内の廊下には灯りの一つもなかったが、それがかえって歌い手への道標となる。暗闇の中、うっすらと開いた扉から細く光が漏れていた。そこから土鬼(ドルク)の歌が聞こえてくる。どうやら、声の主は若い男のようだ。
開いた扉の隙間から室内をうかがう。壁際に寝台があった。その上に横たわる若い男の横顔をアスベルは見る。瞳を閉じている為、傍目には眠っているように見えるが、唇をわずかに開き、歌っている様子から目を覚ましていることがわかった。気怠そうに掛け布団の上に腕を投げだしている。その横顔だけでは彼の出自がトルメキアか土鬼(ドルク)かを判別しかねた。アスベルは扉に触れないように気を付けながら更に目を凝らす。
と、ふいに歌がやむ。投げ出していた腕をそろりそろりと持ち上げ、サイドテ―ブルの水差しに手を伸ばす。顔を天井に向け、目を閉じたままだ。水差しの横にあるコップへ指をわずかに触れさせ、床へ落としてしまう。小さくない音を立ててコップは砕け散った。
彼は小さく溜息をつくと、またゆっくりと腕を布団の上へ戻し、その動作に似つかわしく体を起こした。まるで、挙動によって生じる衝撃を減らそうとするかのような緩慢さだ。寝台から足を下ろし、腰かける。床に散乱するガラス片を拾おうと、腰を屈め、腕を伸ばした。その時、すぐ足元に落ちていた破片には気付かず、踏みつけようとする。
「危ない」
とっさにアスベルが室内へ踏み込んだのと、破片を拾う彼――ナムリスが足を負傷するのとは同時だった。
「誰だ」
問われた瞬間には、すでにアスベルはナムリスに駆け寄っている。破片を避けさせるように彼の足元へひざまずくと、その足指を持ち上げた。血で自身の手が汚れるに頓着しなかった。
「名乗れ」
ナムリスはアスベルの行動を是非せず、トルメキアの言葉で問いかける。
「土鬼(ドルク)の親善使節団だ」
アスベルは土鬼(ドルク)の言葉で答えた。
「僕はアスベル」
傷の具合を確かめようとしたが、先程よりは素早い動きで布団の中へ隠されてしまう。
「こんなものはほっといても治る」
土鬼(ドルク)の言葉で答えると、再び、ナムリスはゆったりと横たわる。有無を言わせぬ態度に、ついその言葉が真実のように思われた。仕方がないので、そのまま行き場をなくした手で散乱する破片を拾う。
「土鬼(ドルク)の親善使節団がこんなところになんの用だ」
「いや、使節団として見にきた訳じゃない」
アスベルが頭を起こして顔を向けたが、ナムリスは天井を見ていた。再び、床を見る。
「トルメキアで土鬼(ドルク)の歌が聞こえたのが不思議だっただけだ」
静かにアスベルの顎に手がかけられ、軽く上向かされる。
「つまり、その不思議を確かめにきた訳だ」
ナムリスは大きく口角を持ち上げるとニヤニヤと笑っていた。アスベルの顔をちょっと左右に動かす。
「土鬼(ドルク)の氏族の顔には見えないな」
アスベルは彼の手を邪魔そうに振り払うと立ち上がり、拾い集めたガラス片をサイドテ―ブルに置いた。
「そう言うお前は誰だ?」
ナムリスは振り払われた手を抑えて黙っている。眉間にしわを寄せ、瞼を閉じている様子は何かに耐えているようだった。
「どうした?」
アスベルが心配して尋ねる。
「ひょっとして、痛むのか?」
手を振り払う時、さほどの力も込めなかったので、にわかには信じられなかった。だが、押し黙る彼の姿は痛みに耐えているようにしか見えない。
「水をくれ」
アスベルは素直に従うと、水差しを口元に運んでやる。ナムリスはゆっくりと嚥下した。
「病気なのか?」
「単なる欠陥だよ。体を造り替えた時のな」
アスベルには何を言っているのか理解できなかったが、苦しそうな彼の様子を見ていると追求するのもはばかられる。
「まあ、座れ」
言われるままに、室内の椅子を取って寝台の横で腰かけた。
「アスベルは何をしている?」
「いや、実を言うと迷子なんだ。歓迎会から抜け出て、一人になれるところを探したは良いけど戻れなくなってしまった」
「俺は力になれんな」
「良いよ。無理するな」
「だが、ここで待っていれば王城に詳しい者が、じきにくるだろうよ」
アスベルは彼を世話する使用人か誰かだろうと推察した。
ナムリスが再び歌を口ずさみ始める。良く聞くと、それは土鬼(ドルク)の老人たちが歌うような、とても古い歌だった。
(彼はいつから生きているのだろう)
ふいにそんな馬鹿げた疑問が脳裏をよぎり、内心で苦笑する。彼の姿はどうみても青年のそれだ。自分よりは年上のように見えるが、年齢に大した開きはないだろう。
だが、とアスベルは心の中で付け加える。彼のこの落ち着き払った様子はなんだろう? まるで、衰弱死を待つ老人のようだ。生に抗うことを放棄しているかのような倦怠感に包まれている。もしも、彼の眼前に大津波が押し寄せたとしても、変わらず横たわったまま、運命を受け入れてしまいそうだ。
「アスベル……どこかで聞いた名だ」
ナムリスが静かに呟いた。
「どこの氏族だ?」
「マニだ」
ひ、ひ、ひ……と彼が微かに笑う。喉を使うのも痛むのだろう。
「初めて神聖皇帝に逆らった氏族だな……。だが、違う。アスベルの出自はどこだ。マニではあるまい」
「何故、そう思う?」
「思い出したからさ。ペジテのアスベル」
ペジテの名は、アスベルの心を悲しませる。もう二度と戻ることの叶わぬ故国だ。
「面白いから、このままここにいろ。きっと、面白くなる」
その言葉と外から扉に手がかけられるのは同時だった。扉を開き、室内に入ってきた女を見て、アスベルは思わず立ち上る。彼女の名を呟きそうになり、思わず自制した。もはや、昔とは立場が違う。
「よォ、遅かったな。クシャナ」
ナムリスは今までの緩慢さが嘘のように、身軽に起き上がると、寝台から足を下ろし、腰かけた。
「寝巻のまま失礼させてもらうぞ」
声まで溌剌とさせている。
「こんなところで何をしている、アスベル」
「迷子だとよ」
本人の代わりにナムリスが答えた。まだ、アスベルはなんと発言すべきか迷っている。
「迷子?」
クシャナがやや驚く。
「随分、積極的に迷い込んだものだな」
女の平生と変わらぬ態度が、アスベルの心を逆立てた。
「まだ、決闘の権利は留保するか? アスベル」
得体の知れぬ半病人が焚きつける。
「今なら復讐を果たせるのではないか?」
皆(みな)が寝静まった夜、王城から孤立し、人払いをされている塔の中で、その言葉は誘惑だった。クシャナは歓迎会での着飾った姿のままで、何か武器を帯びているようには見えない。だが、それはアスベルにとっても同じことだ。徒手空拳では騒ぎが大きくなるかもしれない。
アスベルはナムリスを見た。彼は面白そうに笑っている。決闘を焚きつけた男への躊躇いが消えるのを感じた。サイドテ―ブルのガラス片を掴むと、寝台に飛び上がる。ナムリスを羽交い絞めするように首に腕を回すと、切っ先を首筋に突きつけた。
「ん? そうくるか」
ひひ……と胸元の首が笑う。首元のガラス片などないかのように、片足を組むと、ヘッドボ―ドに肘をかけて頬杖をついた。
「トルメキアの白い魔女……」
ようやく、アスベルが言葉を発する。
「非戦闘員の年寄りも女子どもも区別なく殺し、市(まち)を焼いた……僕の仇」
「おいおい、つまらぬことを言うのはよせ。折角の局面ではないか」
ナムリスは半ば振り返るかのように上目遣いにアスベルを見る。それと目が合う。
「仇を殺すのは年寄りでも女子どもでも市(まち)でもない。お前の憎悪だ。でなければ、殺され甲斐がない。なァ、クシャナ?」
ナムリスは視線を戻すとクシャナに話しかけた。
「私は殺されるつもりはない」
ヘッドドレスの裏に手を伸ばすと、角張った三日月のような形状をした暗器を手に取る。
「そうでなくては、面白くないな」
ナムリスは一人合点して頷く。
「アスベル、どうしてトルメキアへきた」
クシャナが訊ねた。
「こうなることはわかっていただろう」
「ナウシカが」
その名にクシャナの顔色が変わる。
「僕に『行かねばならない』と」
「そうか……」
クシャナが暗器を手放した。小さな音を立てて、床に落ちる。
「ならば、これは私の問題ではない」
「お前の問題ではないだと!?」
アスベルが怒気を発した。
「奇しくもそこの男が言った通りだ。アスベル、そなたの憎しみの問題だ」
クシャナは無造作に歩を進め、二人の眼前に立つ。腕を伸ばし、捧げるように掌を上へ向ける。
「腕一本ならくれてやっても良い」
アスベルに逆らう気はなかった。その腕をへし折ってくれる。
ナムリスを戒めていた腕をほどき、その手の破片を投げ捨てた。寝台から降り立ち、彼女の顔貌をまっすぐに見る。その瞬間、アスベルの体が震えた。
クシャナの瞳には哀しみがある。それはこれから起こる彼女の運命を哀しんでいるのではない。それはアスベルを哀しんでいる。彼女の面差しは誰かにとても良く似ていた。
(僕の愛しい風使い……)
クシャナの腕を見る。それをへし折る未来を想像する。だが、体が微動だにしない。
「どうした。万に一つの好機だ。今後、もう二度と掴めない好機ではないか」
ナムリスの顔がアスベルの横にあった。驚いて振り向きそうになったが、ナムリスの手が両肩へ置かれている為に身動きが取れない。
「今宵、復讐を果たさずして何を果たす」
手が肩を離れ、そのまま捧げられた腕に向かって伸ばされる。ナムリスがクシャナを掴んだ。
「女の柔肌だ。容易いぞ」
その言葉にアスベルの意志が決まる。ナムリスの腕を払い、クシャナから手を離させると、一歩だけ前へ出た。
「忘れないでくれ。あなたの殺した人々のことを。永遠に覚えていて哀しんでくれ」
クシャナは腕を下ろす。
「心得た」
「僕は近く結婚する。マニ族の娘で、名をケチャという。今、僕は彼女の夫として相応しい行動を取った。それだけだ」
彼女は微かに、あるかなしかといった程度に微笑んだ。その儚い笑顔を見て、アスベルは思った。この女も自分と同じだけの傷を心に持っているのだろう、と――
「つまらん幕引きだな」
アスベルが振り返ると、ナムリスが寝台に腰かけて頬杖をついている。
「お前は一体、誰なんだ。トルメキアの人間か、それとも土鬼(ドルク)なのか?」
「トルメキア代王陛下の男妾さ」
目を丸くしたアスベルがクシャナに向き直る。クシャナは両手を腰に当て、呆れ返ったように顎を上げた。
「馬鹿」
ひひひ……とナムリスが愉快そうに笑う。
「今宵の訪れは遅かったな。待ち侘びたぞ?」
立ち上がるとアスベルの横を通り過ぎる。
「その割には寝巻で出迎えるつもりだったと見える」
「どうせ、同じことだろう。なあ?」
相槌を求めるようにアスベルへ目配せした。彼はなんと答えて良いものかと、視線を泳がせる。
「ええと……」
ナムリスは返事を待たずに、床の上の暗器を手に取った。
「めかしこんだクシャナというのは初めて見る」
使い心地を試そうとでもするかのように暗器の持ち手を握ったり開いたりしている。
「返せ。お前に武器を渡すと不穏だ」
クシャナはドレスの裾を片手でわずかに持ち上げると、ナムリスに近付きつつ手を伸ばした。彼は避けるように後退る。
「綺麗だ」
クシャナを頭から爪先まで眺めながら言った。
「綺麗は 綺麗だ。だが、物足りない」
女は更に追う。男はより遠のく。
「不穏か……」
窓辺まで到達した。外の世界から月が眺めている。
「結構だ。取ってみろ」
暗器を握りしめたまま、差し出した。ナムリスは笑っている。クシャナは憮然とした表情を崩さず、彼の手首を掴んだ。
「手を開け」
ナムリスは従わない。逆にその手を自らの首元へ近付けようとする。クシャナが逆らうので、それは遅々とした動きだ。
「武器を振るうクシャナは見事なものだった。血まみれの花嫁よ」
クシャナが眉間にしわを寄せ、力を強めた瞬間、逆にナムリスが力を抜く。よろける彼女の腰に手を回し、そのまま穏やかに組み伏せた。クシャナの首を囲うように、暗器の先端が左右の床を貫く。
ひひ……と笑うナムリスの腰にクシャナの両足が絡みついた。思わず姿勢を崩し、女の上に倒れこむ。互いの唇が触れない程度の距離で見つめ合う。
「惜しい」
ナムリスは目を細めた。
「俺の首には届かなかったな」
暗器の握り手は両者の首の間にある。
そんな男と女の光景を止めた方が良いのか、はたまたそのタイミングはいつなのかと、アスベルは中途半端に腕を上げて身構えていた。それにナムリスが気付く。
「そうだったな。帰り道がわからぬそうだ」
クシャナの両足から自由になり、起き上がる。クシャナもまた、床に突き刺さった暗器を引き抜くと立ち上がった。
「案内してやれよ。俺は待とう」
「ついてくると良い」
乱れた髪を直しながら暗器をヘッドドレスの裏にしまい込む。そのまま、何事もなかったかのように、二人は離れた。クシャナは扉へ向かい、ナムリスは寝台へ横になる。
そんな二人の行動をアスベルは理解できない。
「い、良いのか?」
クシャナに訊ねる。
「トルメキア代王にこんな無礼を働いて」
困惑するアスベルを、涼しい顔でクシャナが見返す。
「いつものことだ」
ますます、訳がわからない。ちらと横目で寝台の方を見れば、彼が部屋を覗いた時と同じように、掛け布団の上に両腕を投げ出して横たわっている。彼にはその姿がひどく疲れて見えた。
部屋を出る瞬間にふと、自分の掌に乾いた血の跡があることに、アスベルは気が付く。部屋の中を振り返ってみたが、その床に血痕はない。ナムリスが素足で歩いていた床だ。
(そういえば、クシャナは彼を一度も名前で呼ばなかったな……)
トルメキアの王都に住まい、土鬼(ドルク)の古の歌をうたう不可思議な男のことを、ケチャになんと話そうかと、アスベルは少し考える。しかし、クシャナの背中を見ながら歩いている内に、今夜のことを誰にも話すまいと心に決めた。
人払いされた塔の中でしか、この女とあの男は自由に生きられないのではないか、そう思われたので……。