一
女に秘密を作るのは難しいものだなと、ナムリスは思った。
鈍い曇天の日差しが窓から降り注ぐ。まだ、明るい内からクシャナが塔を訪れるのは珍しいことだ。今、彼女は腕組みをしながら窓框に寄りかかっている。
「座れよ」
まるで、ずっと目を覚ましていたかのようにナムリスは口を開くと、寝台から起き上がった。枕を脇息替わりに姿勢を整え、窓際の椅子を手で示す。
「座らないのか」
クシャナが疑り深い視線を送る為に心で嘆息しつつも、何事も起こっていないかのように顔色を変えない。ヘルメットをかぶっていれば、口元に適当な笑みを張り付けて誤魔化せてしまうものをと、思わない訳でもなかった。寝間着から普段着へ着替えておいたことが、せめてもの救いだ。朝から臥せっていたのではと勘繰られずに済む。
クシャナはナムリスを視線に捉えたまま動かない。
「ムコ殿」
この口調は怖いなと、ぞくぞくする。
「トラスでは閉じ込めてばかりですまないな」
「慣れたことだ」
「しかし、好むところではないはずだ。百年かけてでも墓穴から這い出たお前なら」
優しげな微笑みを送る。その瞳が笑っていないことを、ナムリスは見逃さなかった。
「中庭へなら出ても大丈夫なように取り計らっておいた。一緒に歩かないか」
(俺の動きを見るつもりだな)
ヘッドボ―ドに頬杖をついたまま、片手を差し出す。補助を求めるような仕草に対し、クシャナはさも何も疑っていないかのように手を貸した。その手を頼りに立ち上がるのではなく、力を込めて自らへ引き寄せる。思わぬ強さにクシャナはよろめき、寝台に手をついた。二人の顔が近付く。ナムリスがその耳元へ囁いた。
「俺を横に並ばておきたいなら捕まえておくことだ」
手を離して軽やかに立ち上がると、部屋の扉へ向かう。そこから出る瞬間、追おうとするクシャナに視線だけをくれてやる。
「おいで」
ニヤリと笑い、駆け出した。塔内で迷うことなく歩を進めるナムリスに対し、内部に詳しくないクシャナは先回りすることすらままならず、彼の後姿を見失わないように努めるだけだった。
「詳しいものだろう?」
ナムリスが振り返って軽口を叩いたが、あえて返事をせずにその様子を観察する。彼女には明らかにしたい事実があった。建物内は薄暗く、前方を行く人物の細部は窺えない。彼の淀みない動作だけが答えだ。
やがて、屋上へ通ずる螺旋階段へ出た。そこは左右に窓が多く配置され、陽が入り込んでいる。緩やかに大きな螺旋を描く弧の上で、クシャナはナムリスの手を取った。息一つ乱さぬ両者は同時に歩みを止める。振り返った彼の額に汗の粒が認められた。
「ヒヒ……来いよ」
手を握り返され、屋上まで引かれていく。足取りは力強いが、その手の冷たさが気にかかる。
王城と空中廊下で結ばれたこの塔は他の建造物よりも高いという訳ではない。それでも、建物間の距離が離れている為に矮小な個人を圧倒するだけの空間が頭上に広がっていた。冷えた風が撫でさする。手を繋いだまま、クシャナは腰を下ろした。二人揃って同じ方向を見下ろす。
「塔多き土鬼(ドルク)の眺めとは違うのだろうな」
前方を見据えたまま呟いた。
「さてな」
興味のなさそうな言葉が返ってくる。繋いだ手を離して彼が去ろうとするので、その手首を握りなおす。
「私はお前を捕まえた」
ナムリスは背中を向けたまま動きを止めた。
「毒蛇の牙を逃れたいか?」
ヒ、ヒ、ヒ……と小さく笑い返される。
「ここに」
振り返ると襟首を広げ、首筋を露わにした。
「お前の毒をくれないか」
クシャナはしゃがんだまま彼の腕を引き、腰を屈ませると両腕で掻き抱く。それ以上の動きをナムリスに禁じ、その首筋へ舌を這わせる。
「くすぐったいぞ」
舌は首筋をのぼっていき、耳朶に到達するとその役目を歯牙に譲った。薄い肉を噛みしめる。その瞬間にクシャナはナムリスを己の膝の上へ引き倒した。軽く肉が千切れて血が滴る。それは彼の輪郭を辿り、彼女の唇を彩った。
「この私に何か秘密が? ナムリス……」
やはり、その微笑みに瞳は含まれない。至極、冷静な視線が注がれる。
(これが俺の女だ)
倒されたまま、子どものようにケラケラと笑った。
「痛い」
笑い続ける。
「俺を救おうなどと考えなくて良いからな」
すでに流れる血は止まっている。
「どういう意味だ」
「そこに」
瞳を見据えながら塔の外を指差した。
「外階段がある」
指し示された方向へクシャナが首を動かした隙に起き上がってしまう。彼女も追うように立ち上がったが、ナムリスが一歩も動き出さなかった為に二人の距離は近い。彼女の腰に腕を回し、耳元で囁いた。
「抱かせてくれ」
返事も待たずに抱え上げる。思わず、彼の首へ手を回したクシャナへ勝ち誇ったような笑みを向け、口付けをするとその口元の血痕を拭い去った。唇を離し、塔の端へ歩み寄る。手すりもない外階段は、外壁に突き刺さるわずかばかりの煉瓦が足場だ。ナムリスは抱きかかえ、躊躇わずにそこを下る。
日差しが弱まってきた。陽の力が遠のき、風が音をたてて通り過ぎる。
「代王陛下はそろそろお帰りの時間だろう」
「仕事が進まないので部下が探し始める頃合いだな」
「たまには食事でも共にしてくれ。味気ない」
「土鬼(ドルク)の料理でも作らせようか」
「結構だ」
「はっきりしないな。らしくない口の利き方をする」
「俺らしくないか?」
足を止めて顔を向けると、優しく頬を緩ませる。
「全く、らしくない。誤魔化そうとしているだろう?」
クシャナは眉間にしわを寄せた。
「手厳しいな」
何も堪(こた)えていないかのように言うと前へ向きなおり、再び階段を降りようとする。それを止める為にナムリスの横髪を掴むと、今一度、顔を向けさせた。
「危ういぞ。共に落ちたいか」
「死にたがりの皇帝陛下」
「誰かを道ずれにしようとしたことはないつもりだがな」
クシャナを階段に下ろす。彼女は難なく態勢を保ったが、今まで平気で歩いていたナムリスの方が反動で足元が覚束なくなる。それは実に「らしくない」仕草だった。
彼女が手を貸そうとすると、それを弾く。ナムリスは厳しい表情で自分の女を見た。明確な拒絶に言葉を返そうとした瞬間、彼が足を踏み外して落ちていった。
クシャナは絶句する。しかしすぐさま、我に返ると眼下を覗く間(ま)もあらば、勢い良く階段を走り下り、それなりの高さを残した時点で飛び降りた。
「ナムリス」
「生きてる」
仰向けに倒れたまま、彼が片手を上げる。その傍らにしゃがみ込んだ。
「頭を砕くには高さが足りぬらしい」
手を下ろすとそのまま動こうとしない。
「ヒヒヒ……痛え……痛くて動けねえ」
安堵の溜息をついたクシャナはこの光景に違和感を覚えた。自分たちは乾いた地面に接している。
「血が……?」
「大した怪我はしてねえよ」
「なら、なら何が痛むというのだ?」
ナムリスの頬に触れようと手を伸ばしたが、やんわりと視線で制せられる。
「ただ、痛むのさ。何をせずともな。身体を動かしたり、触れられたりした方がより痛む。欠陥だよ」
言葉の続きを待つ。
「ヒドラの身体に改造した時の欠陥だ。前に俺が四六時中、薬を飲んでいただろう? あれは痛み止めだ」
「いつからだ」
「首から下を生やしてからしばらくの間は良かったが……。大体、庭の野郎に会う前から痛み始めた」
「だから、庭の主にヒドラの技術を訊ねたのか。それにしても大した痩せ我慢だ」
クシャナは立ち上った。
「見捨てるのか。ひでえ女房だ」
どこか満足げな口調に言及しようとしてやめ、踵を返す。
「トルメキアの薬を持ってきてやる。待っていろ」
ナムリスの視界から急ぎ足のクシャナが消えた。
(俺は救うなと言ったんだがな……)
ずっと、血の凍るような思いがしたかった。心は常温のままでは腐ってしまう。だが、自分は温もりとも冷えとも無縁だった。いや、実際は感情を揺り動かす出来事というものはあったに違いない。それを本気にしなかっただけだ。歓喜を希求しては白けてしまい、恐怖を甘受しては手応えがない。全てを緩慢に笑い飛ばしてしまった。
いつでも殺すし、いつでも死ぬる――だが、いつ生きるのかがわからない。愚昧な世界の愚鈍な人間の中で、これほど愚劣な魂というものを他に知らない。
(何か勘違いをしていないか?)
ちらちらと降り始めた雪が、ナムリスの鼻先で溶けて消えた。曇天を背景に見る雪は灰のように思われる。
(俺のような人間はこれが最初でも最後でもない。たまたま、お前の前にいたのがこの俺だったというだけだ、クシャナ)
やがて、庭が雪化粧を始めると、ナムリスもその一部に落とし込められた。身体を冷やされても、痛みが消えたのかどうかは判然としない。
ちょっと歌でも口ずさんでみるかと唇を開いたが、やはり身体の欠陥はそのままだ。それを無視して断続的に歌っている内に、うつらうつらとしてくる。
「すまない。部下に捕まった」
大きな白い息を吐いているクシャナが、ナムリスを逆さまに覗き込んだ。いつも冷静な女が慌てて戻ってきたのかと思うと、少し愉快で目を細める。その手に紙袋を持っていた。
「とりあえず、典医に痛み止めの全てを出させたが……運んでやろうか?」
「馬鹿言え」
笑みを作りかけた相貌が渋面になる。ひょいと起き上がると身体の雪を払いつつ、塔の中へ入っていく。
クシャナは彼の後に続きながら、その立ち居振る舞いがあまりに普段通りなので、担がれたのではと少しだけ疑ってしまった。しかし、部屋に戻ると大儀そうに寝台へ横たわるナムリスを見て、当初の己の直感が正しかったことを確信した。良人はその身体のことで、彼女に秘密を作っていたのだ。
成分表を手渡すと無造作に薬を指定される。
「飲ませてくれ」
該当の薬を口に放り込み、水差しを宛がう。その加減がまずかった為にむせてしまった。
「すまない」
「今日のクシャナは良く謝るな」
上手く薬を飲み込み、口元を緩ませる。
「その気持ちがあるなら、暖めてくれ」
「触れても平気なのか? 薬は効きそうか」
「さてな。だが、とりあえずは触れて動かないでいてくれれば、さほどは痛まない」
その言葉に若干の嘘を感じつつ、クシャナは従おうとする。
「ああ、待て待て。長衣が濡れて気持ちが悪いから脱がせてくれ」
心なしか間(ま)を置いてから、彼の襟元に手をかけた。おそらく、と彼女は思う。
(私がすんなりとは脱がせてやれないことを承知の上で、わざと甘えているな)
「クシャナは不器用だなあ」
予想通りの言葉をかけられた。
「嫌なら自分で脱げ」
「仕事に戻らなくて良いのか」
依頼とは矛盾するような指摘をする。
「黙っていろ」
雪で冷えた身体を胸に抱く。
「痛くないか」
「まあな」
どちらとも取れる返答だったが、今日はナムリスの希望通りにしてやろうと思い、追求しなかった。彼が瞼を閉じる。
「眠るのか」
「クシャナも寝ろ」
「寝ない。部下が探しにくると困る」
「なら即刻、帰ってやると良い」
掛け布団を肩に羽織らせるようにして膝立ちになると、クシャナを見下ろす。片手で頭を支えるようにして寝転がりながら、ナムリスを上目遣いに見返した。彼が掛け布団を両手に掴み、腕を広げる。
「寒いか?」
悪戯をする子どものような笑顔で尋ねてきた。その顔から指先を逸らして仰向けになると腹部で指を組む。
「寒いな」
ナムリスは鷹揚に頷くと、横になりながら彼女を布団の中へ入れ、抱きしめた。
(全く、仕様のない……)
心で呟きつつ、クシャナも目を閉じる。どちらが先に眠りに落ちたのか、彼女にはわからなかった。
二
「お待たせしましたかね?」
待ち合わせ場所にやってきたクロトワが、すぐにクシャナを見つけ、小走りで近寄ってくる。メインの照明は落とされ、非常用ランプのみが灯る薄暗い船の格納庫で、二人は待ち合わせをしていた。すでに整備士たちの姿はない。
コルベットの前で佇んでいたクシャナが片手を腰に当てて振り返る。
「さほどでもない。ところで、それはなんだ?」
クロトワは片手に小ぶりの荷物を持っていた。それを胸の高さまで持ち上げると、ちょっと気後れした胸の内を誤魔化すかのように片頬を緩ませる。
「夕飯時でしょう?」
「良い心がけだな、参謀」
それを受け取らずに辺りを見回した。
「腰かける場所はないが……」
「私のマントの上へどうぞ」
軽く斜めに顎を上げたクシャナが挑発的に視線を投げる。
「伊達男め」
「実は色っぽいことを期待してきたんですよ」
朗らかな笑い声をたてて、女は背を向けて歩き始めた。
「船を選んでもらおうと思ってな」
自分への恋情などは信じもせずに背後へ話しかける。手荷物を後ろ手に持ち替えたクロトワが、愛おしそうに微笑んで肩をすくめた姿は見なかった。
非常用ランプの暗い橙色をした仄かな明かりは、闇との境界線を曖昧にしている。大小様々の船は色合いを統一したかのように暗い色調に見えた。うずくまる影のような機体の間を、二人は歩いていく。勝手知ったる庭を散歩でもするかのような淀みのない足取りだ。
「土鬼(ドルク)まで飛ぶ」
「それはこの間、トルメキアを訪れた親善使節団のことをおっしゃってるんで? まあそろそろ、こちらからも出さなけりゃなりません。時期ですな」
「人員は抑える」
「なら、あの辺りの船では?」
クロトワが大股でクシャナを抜かすと遠のいた。
「大したデカさはありませんから、土鬼(ドルク)の住人も安心でしょう」
少し大きな声で理由を述べつつ、機体に手をかける。
「少し、足が遅いな」
「速度を気になさるんで?」
船から目を離し、振り返った。闇の粒子が周囲で蠢いている。近付いてくる者の姿がはっきりとしない。
「今度の使節団には私が行く」
その表情が読めない。クロトワは平生を努めた。
「……それは穏やかではありませんな」
「だからといって、武装させる訳にもいかないだろう?」
クシャナが非常用ランプの下を通った。それでも光量は足りず、返って陰影ばかりが濃くなる。
「ま、これだけありますからね」
両腕を広げて指し示した。
「何かしらあるでしょうよ」
クロトワの眼前まで女が歩み寄る。このまま腕を閉じたら、と彼は考えた。
(素直に抱かれてくれるのかねえ)
やはり、暗闇は暗闇のままで存在し、相手の表情を明らかにはしない。しかし、彼にはそれがむしろ好都合だと思われた。
(男ってのは、女もそれを望んでいるものだと気楽に考える動物ですぜ、クシャナ)
クロトワが静かに両腕を下げる。
「伺っても構いませんか」
クシャナは傍の機体に寄り掛かると天井を見上げた。
「私が土鬼(ドルク)へ行かねばならぬ理由か?」
「鬱陶しいとお思いにならないでもらいたいですね。臣下の務めです」
「船は二隻」
まだ、上を見ている。
「私と随員とで別れる。私の方の使用人は二人分だ。それだけの大きさのある船を選べ」
「その使用人はあの塔の担当でしょうな」
頭を機体から離し、クロトワに顔を向けた。
「ナムリスを連れていかねばならない」
予想通りの名を耳にし、彼は片手を額に当てる。
「そうでしょうね。陛下がご無理をなさる時は、いつもそれです」
「無理をしていたつもりはないが」
溜め息で返事をされる。そんな部下の態度を腹立たしいとは思わなかった。
「やはり、殺しておくべきだった……」
「殺せず、返り討ちにあったお前が言うのか」
クロトワの手から荷物が落ちた音が響く。彼はその場に膝をつき、胸に手を当てた。
「随員の一人にお加え下さい」
「断る。わかっているだろうが、私の留守を預かってもらわねばならない」
「奴が逃げるとはお考えにならないので?」
機体に寄りかからせていた身体を起こす。
「その時に殺せますか。いえ、陛下は殺せるでしょう。ただ、眉間への一発が必要な瞬間、あなたの心も血を流すのではないですか。あるいは永遠に」
「私の苦しみがわかると?」
ひざまずく臣下の前に立つと見下ろした。
「私を使ってくれませんか」
「良人を殺すのは私の役目だ」
間髪入れぬ返答は自動的な反射のようだ。これは幾度となく、彼女自身でなされた問答と相違ない。答えはすでに用意されている。誰が知ろう? 恋する人の生命を握っているという状態に、甘美な独占欲が含まれているとは? 破滅という結末を覆い隠してさえしまえば、恋人たちは今を楽しめる……。クシャナはその誘惑を承知の上で、ナムリスの顔を見る度に考えている。今がその終末の時か、と――自身の誠実さに呆れながら。
「それは死ぬまで私の役目だ。決して逃しはしない。あれは私の男だ」
起立を促すように手を差し伸べる。クロトワはそれを取らずに、そっと口付けた。
「いつまで」
遠のこうとした指先を捉える。
「続けるおつもりですか」
今度は手の甲へ口付ける。二度目のそれは服従の証だった。主君には逆らわないと告げている。臣下としての立場を示すことで、ふいに漏らしてしまった恋情を誤魔化した。だが、手は離さない。
「死が陛下をこの世から連れ去るまでですか。その時に力は残っておいでですか。奴が変心するとはお思いにならないのですか」
「ナムリスは私があの世に連れていく。それが奴の望みだ」
俯いていた顔がクシャナを見上げる。
「あなたの望みは?」
「離せ、クロトワ」
格納庫のどこかでランプが破裂した。一度きりの激しい音が一瞬の静寂を際立たせた。
優しく微笑むと手を離す。彼女は背を向けた。
「私はただ、ナムリスの苦痛を取り除いてやりたいだけだ。土鬼(ドルク)へ連れていけば、肉体を救ってやることはできるかもしれない。例え、心を救うことはできないにしても……」
足早に格納庫の端まで行くと扉を開く。夕暮れの名残が空に赤味を差している。外へ出る瞬間、扉に手をかけたまま、顔だけを格納庫内へ振り向かせた。ほとんどが無表情の相貌を困惑したように眇(すがめ)てみせる。伴侶を部分的にでも救えるかもしれないという喜びを瞳の奥に宿しながら、その感情を信じきれないでいる。
ようやく、クシャナの表情を認めたクロトワだったが、彼女が泣きそうになっているのか、それとも笑おうとしているのか判然としないままに一人で取り残された。立ち上がると、開け放たれた扉の向こうで小さくなっていく女の背中を見つめる。
「ふいに誰も彼もが死ぬこの時代に、他人の生命を握っていられるということは、幸せなことかもしれませんぜ」
独り言(ご)ちる彼に扉からの光は届かない。まだ、没した陽の代わりに空へかかった月の光は弱く、これからいよいよ夜が訪れようかという黄昏時だった。
三
クシャナは寝室へ入ると、燃え盛る暖炉の上にある燭台を手に取った。蝋燭を一本だけ立てられる程度の質素な作りのものだ。一窓だけカ―テンを開き、着火器で蝋燭に火をつけてから、それを窓際へ置く。外からのわずかな冷気にさえ震えてしまうような頼りなげな灯(ともしび)が、夜を覗かせる硝子に映る。
真昼の明るさを求めないとすれば、室内を照らす為には使用人が主人の帰りを予測して準備をしておいた暖炉の炎だけで充分だった。しかし、室内では無役の灯(ともしび)が室外からは重要である場合もある。それは人物の在室を伝える証となった。
クシャナは暖炉の前の椅子へ深々と腰かけ、背もたれに寄りかかりながら瞳を閉じた。しばらくの間、瞼に炎の熱を感じつつ微睡んでいたが、やがて隠しようもない音で意識が覚めた。まずは寝室の扉を開ける音に気がつき、次に何者かが入室する足音を聞く。
驚きも逃げもせずに、ただ目を閉じている。背後に回った侵入者が背もたれへ手をかけ、もう片方の手でクシャナの頬に触れた。誰の手なのか、彼女は知っている。掌へすり寄せるようにして頭を傾けた。
その指先が顔を上向けるように促す。逆らわずに従うと、うっすらと唇を開いた。予感した通りの口付けに身体が痺れる。そこに火のような水を流し込まれ、瞼を開いた。
「聞し召すと良い」
夜空の三日月のように笑うナムリスが二つの目でクシャナを見下ろした。背もたれの手には瓶がある。
彼の首に手を回して引き寄せると、ねだるように軽く唇を触れ合わせて離れた。ナムリスは口中に瓶の中身を含ませ、再びクシャナの唇へ注ぎ込む。
「ん」
幾度か飲み交わした後、互いの舌を絡め合った。踊る炎が二人を照らし出す。その揺らめきは外見(そとみ)にはわからぬ愛撫を写し取ったかのように動く。激しく、滑らかに舐め回し、柔らかさを擦り合わせる。感じたクシャナがナムリスの胸元を握りしめた。
「朱が差してきたではないか」
赤らんだ頬をからかわれ、いまだに青白い彼の皮膚を色に染めてやろうと椅子から立ち上がる。その手の瓶を奪おうとしたが、ナムリスは頭上高くに持ち上げると後退(あとずさ)って逃げた。片手を上げて求めながら追いすがり、もう片方の手を彼の肩にかける。半ば、のしかかる形で押し倒した先は寝台の上だった。
ナムリスは胸の上でクシャナを抱きしめる。瓶は床に転げてしまった。
「お前も酔ってしまえば良いのに」
「酔っているとも。顔色に出ないだけだ」
「嘘」
「嘘ではない。何が喉を通ったか、口の中を確かめてみると良い」
頭を起こしてナムリスの顔を見たまま、彼の体の上を這うようにして唇を近付ける。それが触れ合う瞬間、クシャナは上半身を起こした。
「悪い奴」
そのまま立ち上がると、寝台から弧を描いて飛び降り、振り返る。
「女を酔わせてどうするつもりだ」
誘うように差し出された片手に応え、ナムリスがゆったりと身体を起こした。
「さてね。お好きなように」
足を床につけると、彼女の手を取って立ち上がる。
「では、こうしよう」
クシャナは握りしめた手を引き、暖炉に近付くとその上の燭台を取った。そのまま、彼を連れて寝室の外へ出る。
代王の寝所に衛兵はいない。壁際にはランプが等間隔で並んでいるのみだ。今宵の月は雲に隠れ、月光は鳴りを潜めている。再び、雪でも降るのか、夜気がひどく冷えていた。
体温を感じさせぬナムリスの手が、クシャナの熱で徐々に暖められていく。二人に残された温もりは他にない。静寂が寒さを際立たせるような空気の中、互いの熱だけで満ち足りているのだと示すように、二人とも沈黙を破ろうとはしなかった。
やがて、天井や壁に大きな歯車の並んだ部屋へ到達する。昇降機である円筒形の箱が横一列に並ぶ。
「不格好だな」
ナムリスは歯車で動かす昇降機を見慣れていない。
「この間、私を追いかけさせたな」
先に彼をその一つへ入れ、後から続いたクシャナが扉を閉めた。脇の腰かけへ燭台を置いた途端に上昇が始まった。
「お前は逃げて私に追わせたが、私はそんなことをさせるつもりはない」
片手を繋いだまま、自由である方の肘をナムリスの顔の横につく。外を見渡せるように硝子を嵌め込まれた壁だ。真っ黒に塗りつぶされた空間に、二人の姿がぼんやりと浮かび上がっている。
「私は逃げずにそのままナムリスを連れていく」
「俺がクシャナを追わぬと思うのか」
「追うか追わぬか、そんなことは関係ない。ここには私の意思があるだけだ。逃がさない」
「ひひひ。流石に毒蛇の娘だ。絡めたら離さないつもりだな」
燭台の灯(ひ)がかすかに二人の顔を明るくしていた。クシャナは酔い、上ずった気持ちが表情を柔らかくしている。それをナムリスはどこか子どもっぽいような真剣な眼差しで見つめ返した。口元にだけ、ちょっと力を込めて引き結んでいる。
「俺をどこへ連れていくつもりだ」
彼女の首筋へ手を這わせ、唇を指の腹でさすった。その指先から顔が離れた瞬間、昇降機が上昇をやめる。扉を開くとそこは屋上だ。船の発着場へついた。
暗闇の中、燭台の明かりだけを頼りに中央へ進み出ると、一隻の船が泊められていることがわかった。船の中へはクシャナが先に入り、手を引かれたナムリスが後に続く。
「二人で旅をするにはちょうど良い船だな」
突然の言葉に先導する足を止め、顔を後ろへ向ける。急に固くなった表情は不機嫌さの表れにも見えた。
「誰が誰との旅とは言っていないぞ」
その顔付きの変化を愉快がるように笑みを作る。クシャナは船室の扉を開けると、ナムリスを中へ入れた。さっさと室内へ足を踏み込む彼と距離ができる。二人の手が離れた。
「明かりを貸してくれ。どこか横になれるところぐらいはあるだろう?」
室外で佇んだまま、暗闇の中の壁際を指差す。
「どうした。入りたくないのか」
引き返したナムリスと部屋の境で向かい合う。先程、一瞬だけ固くなったクシャナの表情が元に戻り、やんわりと目元が緩む。
「離れて欲しくないか」
「私がトルメキアを捨てて、どこかへ逃げたいと言ったら、どうする」
眼前の人物を避けて入室すると中央まで進み出た。
「王道にはもう飽いたとな」
背後に向かって言葉を続ける。
「つまらん」
彼女の動きに合わせて視線を動かし、身体を回転させたナムリスが扉の縦枠へ寄りかかる。
「王なら地獄をつくれ。己の意に添わぬ者を殺し続け、世界を憎悪で塗りつぶすが良い。偉大な女よ」
「お前の弟のようにか」
クシャナは振り向くと、彼を照らすように燭台を持つ手を突き出した。青白い顔が、そこにある。ナムリスの凍りついたような表情を見て、哀れみを覚えた。
この男は、と考える。生を信じられないから死を見たがるのだ。自分は生きているのかと繰り返し問う為に、他人の死を眼前に並び立てた。血肉を分けた弟が人間への不信に絶望する姿を眺めながら、かつては存在した生命に対する信頼の残滓を見つけようとしたのかもしれない。
(憎しみの反対側にしか喜びを感じ取れない男……)
「私を救う気はないのか」
ナムリスは顎に手をやると少し考えた。
「俺には誰も救えまい。己を慈しめずに誰を慈しめるものか」
自虐的に低く笑う。クシャナを見てはいなかった。
「わかっている。何もかもわかっている。この世の理屈など。クシャナが何を望むのかもわかっている。俺を救いたいか?」
「先程、言ったろう?」
幼子を安心させるような笑顔を作る。
「私はお前を連れていく」
「嫌だね」
踵を返すと船外へ出るべく、足を踏み出した。その手を握って引き留める。
「何故、信じない。私が何もかもから逃げ出したいとは?」
蝋燭の灯が振り返るナムリスの顔に苛立ちを浮かび上がらせた。
「見え透いた嘘をつくな。逃げる? 俺の知っている女はそんな軟(やわ)な人間じゃない」
「私とて死にたくなることはある。戦役の時、ヒドラを遣わしたナムリスは私の亡者の使いだった。殺されても良いと思った。知らなかったか」
クシャナの手を払う。事も無げに告げられた過ぎ去った昔日の事実が、男を傷付ける。生命の強さなど信じぬのに、女の折れぬ心だけを愛していた。幻想を愛でていたとは認められず、狂暴さを抑えられなくなる。
「今でも死にたいと言うのか」
素早く、か細い首に両手をかけると力を込めた。意識の飛びかけたクシャナが膝をつく。空気を求めて開いた口を、ナムリスが己の唇で塞いだ。その頭へ燭台が振りかざされたが、蝋燭の根本を片手で抑えて防ぐ。溶けた蝋がだらだらと皮膚にかかった。熱さに構わず握りしめたまま、すぐに首の手と唇を離す。床に倒れ伏す女の姿を、彼の手の中で折れた蝋燭が明らかにした。
「生きたいだろう?」
噛み切られた唇の血を拭いながら、確かめるように呟く。むせながら立ち上がったクシャナは一瞬だけ息を整えると、男の頬を平手で張った。また、息が荒くなる。ナムリスはその手を取り、叩(はた)かれた頬へ宛がうと目を閉じた。
「俺はこの手をこそ愛する」
燭台が床に落とされ、重い音をたてる。
「お前の知る女など、どこにもいない。せいぜい、幻滅するが良い」
顔から離れていく手をナムリスは逃さないが、力を込めて押し止めようとする訳でもなかった。ただ、握ったまま腕を垂れるだけだ。クシャナが力を込めてそれを引き寄せると、彼の胸を叩く。
「死ぬ為には生きねばならない。私に殺されたかったら死んだように生きるな」
力強いクシャナの眼差しを、ナムリスは愛おしそうに見つめ返すとその髪を撫でた。しかし、すぐにその視線を避けるように耳元へ口を寄せる。
「俺の惨めさなど捨て置くが良い」
「捨ててやるとも。だが、それは私の領地ではない。お前の生まれ故郷だ」
逃がさないとでも言うように、両手を彼の背中へ回す。
「身体の痛みだけでも取り除いてやる。無駄とは言うな」
「クシャナの精一杯を俺にくれるのか。愚かな女だ」
「知らなかったか? 己の愛された訳を」
クシャナを引き離すと、手元の灯を頼りに壁際の寝台へ横たわった。腕の一振りで明かりを消してしまう。
痛みを伴う熱を以てナムリスの皮膚に垂れていた蝋も、やがては冷えて固まるだけとなる。掌に合わさっていた他者の温もりを未練がるように、いつまでも自身を傷付けただけの紛い物を握りしめていた。