第一話 追想

   一

「あれはなんですか?」

 下女の一人が窓辺を指さした。寝室の大きな窓の脇で、一抱えほどもある物体に赤い布がかけられ、吊るされている。

「あれには手を触れてはいけないと言われました」

「あまり近付いても駄目よ」

「とても気難しい鳥なんですって」

 先輩格の下女たちが噂話でもするように教えてくれた。

「鳥? では、あれは鳥籠なのですか?」

「そうよ。異国の鳥で、環境の変化に弱いそうなの」

「だから、あまり外界を見せてはいけないし、ご主人様以外の者が触れてもいけないわ」

 質問をした下女は思案顔になった。

「掃除はどうしたら良いですか? 残るはあそこだけです」

「お部屋のお掃除を疎かにする訳にはいかないけれど……。窓辺のお掃除は控えめで構わないわ」

「はい。……無駄口をもう少しお許し下さい」

 まだ幼さの残る顔が、好奇心で目を光らせる。

「あの鳥は歌うのですか?」

「歌う?」

「賢い鳥は鳴かずに歌うのだと聞いたことがあります」

 先輩格の下女たちは顔を見合わせた。

「あの鳥が何か囀るのを聞いたことがないわ」

 一瞬、彼女たちの会話が途切れる。その隙間を縫うように、部屋に囁き声のようなものが起こった。

「鳥籠から音が……」

「若い男の歌声に聞こえるわ」

「この言葉は土鬼(ドルク)の……。では、あれは土鬼(ドルク)の鳥なのですね」

 質問をした下女の顔が明るくなる。鳥が自分に答えてくれたように感じ、嬉しさを隠せない。

 だが、先輩格の下女たちは嫌悪感を露わにした。

「気味が悪い! 人のように歌うなんて!」

 その時、下女たちを監督する年配の女性が寝室に入ってくる。

「さあ、もう無駄口はおしまいにして。寝室のお掃除は終わったわね? では、他のお部屋へ参りましょう」

「はい」

 下女たちが一斉に退室する。

 広い寝室には、カーテン越しのゆるやかな陽光が差している。豪奢とは言い難い質素な部屋には誰もいなくなった。

「ひひ……」

 そこでかすかな男の笑い声がする。窓辺から聞こえたようだった。窓の外から聞こえてきたのだろうか? しかし、窓の外の空中庭園には誰もいない。

「この俺が……」

 再び、男の声がした。

「気難しくて賢い鳥か」

 それは鳥籠から聞こえてくる。

「 ひひ……」

 それっきり、寝室にはなんの物音もしなくなった――部屋の主が戻る夜までは。

   二

 夜半、主人は静かに寝室へと戻った。

 そのわずかな物音に反応して、鳥籠から歌声が流れてくる。

「ご機嫌か、ナムリス」

「俺のことを鳥だと教えているそうだな、クシャナ」

 クシャナは何も答えずにサイドテーブルの灯りをともした。

「気難しい鳥だとな」

 ひひ、と笑う。

「繊細な鳥だと伝えた方が良かったか」

 クシャナはナムリスの言葉を待たずに窓辺へ近付くと、鳥籠を覆う布を取り払った。

 丸みを帯びた縦長の鳥籠の中で一本の首が笑っている。ただ、笑っているとわかるのは持ち上がった口角だけで、唇より上は単眼があしらわれたヘルメットで隠されている。

 薄暗がりでは単眼の意匠が本物のように見え、一つ目の生首が笑っているようだ。

 ナムリスはクシャナの姿を見ると、ふいに笑みを消した。

「クシャナ、疲れているな」

 クシャナは少しだけ眉を動かすとナムリスに背を向け、寝台の反対側にまわり腰かける。

 その背中に覇気はない。トルメキアの新しい指導者として、勇ましく活動する代王の姿はここにはなかった。心持ち俯く、髪を結い上げたしなやかな首筋が、どうしようもなく女を感じさせる。誰にも頼らず、一人で立つ女は、誰にも弱みを見せまいとした。そして、部下の誰もが彼女の弱さなど信じなかった。

 クシャナはそれを見破った男にどんな顔をして良いかわからない。その反面、嬉しいような気持ちにもなる。

 しばし、辺りを沈黙が包んだが、先に口を開いたのはクシャナだった。

「お前は狡い」

「そうかな」

「いつも軽口ばかり叩いているくせに、こんな時だけ真剣になる」

「今はクシャナが弱っているからなあ」

 クシャナは振り向くと勝気に微笑んだ。寝台に横たわり、ナムリスの方を向く。

「弱っている女を前に、ナムリスは何をしてくれる?」

 からかいながら嘲るような口調で言う。それには相手の反応を楽しむような期待がこもっていた。

「そんなことより、俺は風呂に入りたい」

 ナムリスの間髪入れぬ返事に、虚をつかれ、一瞬だけクシャナは返答に困る。

「風呂……?」

「入れてくれ」

 ややあってからクシャナは再び立ち上がると、窓辺の鳥籠を掴む。鳥籠を横に開き、生首のヘルメットを取った。

 クシャナの影がかかって、ナムリスの顔は良く見えない。

 彼女が生首を持ち上げようと彼の頬に触れる。彼がその手に全てを委ねようと瞼を閉じた時、クシャナはナムリスの頬をつねった。

「いてえ」

 女は自分が男に何を期待したのか自覚しなかったが、なんとなくナムリスを憎たらしく思う。もっと自分のことを考えさせたかったのかもしれない。

   三

 寝室の隣の浴場で、ナムリスを湯に浸からせてやる。後頭部を支え、息ができるように顔を上へ向かせた。当然、ヘルメットは外している。

「なんだ。クシャナは脱がないのか」

 クシャナは着衣のまま、両腕と両足の袖をまくって、湯船の端に膝をついている。

 ナムリスはちらと上目遣いに彼女の顔を見やると、すぐに目を閉じた。入浴を楽しんでいるようである。

(少し髪が伸びた)

 クシャナはナムリスが瞼を閉じてから、彼の顔をしげしげと眺めた。

 見た目には精悍な顔つきの青年である。あの皇弟の兄とはとても思えない。皇弟の皇子であると言われた方が、余程、似合っている。

(昔、同じことを思ったな……)

 クシャナは初めてナムリスと出会った時のことを思い出した。

 あれはようやく母の喪心を受け入れた頃のことだ。当時、トルメキアと土鬼(ドルク)との間には国交があった。友好の印として、両国で名産品などの交換が行われており、ある年の使者にナムリスがトルメキアへやってきた。

 ヴ王を含め、皇兄と聞いても誰もピンとこなかった。神聖皇帝は兄弟であるということを情報としては知っていたが、神聖皇帝の兄はあまりにも目立たない存在だった。数多くの肖像画が国内外に流布している皇弟とは違い、皇兄の姿形を伝えるものは何もなかった。ただ、皇兄に関して漏れ聞こえる噂話が一つだけあった。不死不老の皇兄、と――

 トルメキア国王の謁見の間は、居並ぶ諸侯で埋まっていた。玉座のヴ王の左右には三人の皇子と一人の皇女が立っている。部屋の入口から玉座へ続く縦長の絨毯の上には、ナムリスと口上を読み上げる従者がいるのみだ。

 ナムリスは、肖像画の皇弟よりも明らかに装飾の乏しい面布をつけている。それだけで皇弟と皇兄の力関係は明白だった。だが、居並ぶ諸侯に囲まれても物怖じせぬ堂々とした態度が、彼を人の上に立つ人間であると物語っている。

 トルメキア側はナムリスをはかりかねた。諸侯はおろか皇子たちでさえ、小声で疑義を唱えている。

「あれは本当に皇兄か?」

 老練な皇弟の兄は、若々しく溌剌としており、また青年然とした不遜さをもってヴ王の前に立っている。

 トルメキア側にとって、いかに旧世界の技術を保持している土鬼(ドルク)の人間とはいえ、弟よりも若すぎる兄という存在は受け入れがたかった。

 クシャナ自身は黙していたが、皇弟の皇子といった方が適当だと思っていた。

 土鬼(ドルク)の従者が口上を読み終えると、ヴ王が口を開いた。

「大層、お元気そうなご様子」

 わざとらしく値踏みするような視線でナムリスを見る。

「時に細君はおられるか。朕には皇女が一人いるが、貴兄と釣りあうか」

 諸侯の疑義の囁きを肯定する発言だった。トルメキアの皇女を娶るのに、皇兄であればその地位に申し分はない。だが、土鬼(ドルク)の一氏族の子弟であれば、トルメキア王家は貧乏くじを引くことになる。

 諸侯の間で、ナムリスを嘲弄する囁き声がおこる。皇子たちも嘲笑を隠そうとしない。

 土鬼(ドルク)の従者は、次の瞬間に皇兄が取るだろう行動を予測してうろたえた。

 従者が止める間もなく、ナムリスは大股でヴ王に近付くと、玉座の背もたれに手をかける。

「国を焼くのに役立つ方を選べ。スパイか裏切り者か。俺はどちらでも構わん」

 ヴ王とクシャナにはナムリスの言わんとすることが、すぐにわかった。皇子たちは理解できずに反応に困っている。

 ナムリスは、土鬼(ドルク)の国々を焼く為に皇女をスパイとして土鬼(ドルク)に潜り込ませるか、それとも皇兄を造反者としてトルメキアが受け入れるか好きな方を選べと言っているのだ。

 当時、トルメキアと土鬼(ドルク)は友好関係にあった。だが、ナムリスはトルメキアの本意を見抜き、かつ弟から国を簒奪する野心を示した。

 諸侯はナムリスの言動に呆気に取られている。

 ヴ王は表情一つ変えない。

「だが、姫君はまだ幼いご様子。それでは俺が楽しめない」

 ナムリスは踵を返して退場しようとする。

「貴兄が楽しめるように育つと良いな」

 ヴ王の言葉にナムリスは振り向くと、人差し指で面布を少し上げた。

「そうだな」

 容貌はうかがえないまでも、口から出された舌が、クシャナからもはっきりと見える。

 クシャナは父王に不遜な態度を取る人間を初めて目の当たりにし、軽く気分が高揚した。

(この人は私を違う世界へ連れていってくれるのかしら? でも、私がトルメキアを離れる訳にはいかないわ)

 まばらに退席していく諸侯に混じり、クシャナはナムリスを探した。

   四

(私はあの後、ナムリスが飛行船に乗り込もうとする間際に追いついた。皇兄にしては従者の数が少なかったことを覚えている……)

「クシャナ、何を見ている」

 思い出から我に返ると、ナムリスが双眸を開いてクシャナを見ていた。彼女にはその瞳が変に澄んで見える。

「血は止まらないのだな」

 ナムリスのちぎれた首の断面に触れた。そこから極少量の血液が流れている。

「首から先を修復しようと常に試みているからな。ちょっとした薬品を含ませた培養液に浸けてみろ。ヒドラの培養なんて簡単なものだ。トルメキアの技術でも出来る」

 クシャナはその言葉には返答せず、ナムリスの髪を洗い始めた。

「どうした。親切だな」

「ナムリスが初めてトルメキアを訪れた時のことを覚えているか」

「なんとなくな」

 クシャナの唐突な質問を大して気にも留めず、ナムリスは答える。

「私の質問を覚えているか?」

「あれは質問だったか? 命令のようにも聞こえたぞ」

 ナムリスは愉快そうに目を細めた。

「トルメキア人で皇兄の素顔を見るのは、私が初めだ」

「唯一であることを願うよ」

「死にたがりが良く言う」

 クシャナの発言を肯定するように、ナムリスは笑う。

 それが憎らしくて、クシャナはナムリスを湯に沈めた。

 ――ずっと私の傍にいられる? 私はトルメキアで守るべき人がいるのよ。だから、あなたがトルメキアにくるしかない。毒蛇の巣で生きていたかったら、私の傍を離れないことね。

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