一
代々のトルメキア王の空中庭園はクシャナの薬草園と化している。それは土鬼(ドルク)との交流からトルメキアへ流入する旧世界の技術に抵抗するためだ。クシャナは旧世界の技術を自分から遠ざけようとしていた。やがて、老いる己が延命に走らないとも限らない。土鬼(ドルク)に残る旧世界の者どもがトルメキアへ付け入る隙を作る訳にはいかなかった。
クシャナは薬草園に自分以外の者を入れることを禁じている。ただ一人の例外を除いては――
「クシャナよう」
薬草の手入れをするクシャナを見ながら、彼女の寝室から空中庭園へと出る扉の脇で、鳥籠の中のナムリスがぼやいた。
「殺してくれ」
「今度の理由は?」
クシャナは手を休めずに答える。
「太陽が暖かい」
「たまには日向ぼっこも良いものだ」
「脳味噌が溶けちまう」
今でも時折、ナムリスはクシャナに自分の頭を潰すように頼む。だが、それを真面目に受け取る彼女ではない。
「クシャナよう」
「歌でも口ずさんでいろ」
ナムリスが静かになる。
クシャナがそれとなく視線を送ると、ナムリスのヘルメットの頂点部にある数個の目玉だけがきょろきょろと動いていた。
彼女の視線に気付くか気付かぬかの内に、ナムリスはささやかに、だがしっかりと歌い始める。
クシャナは土鬼(ドルク)の言葉に明るくないので、彼が何を歌っているのかはわからない。
(だが、悪くない)
異国の歌は民族的な調べを持ち、彼女の胸を打つ。何かと決裂するように、ひたすら前に進みながら生きる気持ちを奮い起こさせるような歌だ。
クシャナはナムリスが一曲を歌い終わるまで待った。
「何を歌っていた?」
「『乙女よ、泣くな。我らが誇りを仇敵に示さん』といったところだ」
「やはり、血が恋しいか」
「お前は? トルメキアの白い魔女、その手は草花に馴染むか?」
クシャナは呆れたような卑下するような微笑みを浮かべると、ナムリスの元に近寄り、鳥籠を開けた。両手で彼を掴むと己の顔に寄せた。
「私の血はここにある。これだけが私の最後の鉄火場だ。ナムリス」
ナムリスと唇を重ねると、彼の下唇を噛み切った。
「 ……ッ……」
お互いの唇を血で汚す。
クシャナは唇を離し、水草の浮かぶ池を指差した。
「お前をあそこに沈めようか? あそこには土鬼(ドルク)の薬草も浮かんでいるから、もしかしたらヒドラの培養の役に立つかもしれない」
「 良いね……」
ひひひ、とナムリスは笑った。
「それでこそ我が花嫁。純白を汚すに相応しい」
クシャナは彼がどんな気持ちで己の誇りを歌ったのかを考える。
(私は奴の乙女であり、また仇敵でもある。私が涙を流すとしたら、それはナムリスのためだ。男の誇りを掌中の珠のごとく愛撫する女だったのだ、私は)
機嫌をなおしたナムリスが、唇を血で染めながら、再び歌を口ずさんだ。
二
クシャナは外遊のために数日間、王都トラスを留守にすることになった。
「鳥よ、鳥よ、土鬼(ドルク)の鳥よ。歌ってちょうだい」
ナムリスが人前で歌って以来、下女の数人がお天気占いでもするように、代わるがわるに彼を囃し立てる。大体は気まぐれで反応を決めているナムリスが、必ず歌ってやることにしている者がいた。賢い鳥は鳴かずに歌うのだと言った下女である。
「あ、歌ったわ。あなただといつも歌うわね」
その下女が王宮に勤め始めて日が浅いだろうことは、下女同士のやり取りで察しがついた。
「あら」
その彼女が、鳥籠の下にポツンとある赤黒い染みに気が付いて立ち止まった瞬間と、同僚たちが退室し、寝室の扉が音を立てて閉まる瞬間は同時だった。
下女はその染みがなんであるかを理解するよりも早く、汚れを落とさなければと鳥籠の下にしゃがみこんだ。その頬に、ぽとんと暖かい液体が垂れる。それに手を触れ、目で確かめた。
(血? まさか、クシャナ様の鳥に何か……?)
下女は禁じられた覆いを取ることを躊躇わなかった。
「ヨオ」
単眼のあしらわれたヘルメットを被った生首が挨拶する。同時にヘルメットの頂点部にある数個の目玉が彼女を見た。
「 ……!」
彼女は言葉もなく、その場にへたり込む。
「いつかはばれると思っていたがな」
再生しようと試みる細胞の流す血が、鳥籠の底に溜まっていた。
「さて、お前には一つだけ決めなくてはならないことがある」
にやにやと笑う生首が何を言っているのか、混乱する彼女には何もわからない。
「この俺を、トルメキア代王クシャナ陛下の秘密を外聞に晒すか? はたまた、黙殺するか? どうするね?」
「あ……あなた、誰……?」
「土鬼(ドルク)の鳥だよ。知っているだろう。気難しくて賢い鳥だ。その鳥をお前はどうする? 早くしないと、クシャナ様の評判に瑕疵がつくぞ」
「わ……私が」
「そう、お前が。決めな」
その日、窓辺のカーテンは開いていた。窓から見える空中庭園の池が、この下女にどう映ったのかはわからない。ただ、混乱の極みにあり、王宮に勤め始めて日の浅い彼女の論理は飛躍した。
「ご主人様に瑕疵などあってはならないわ」
素早く立ち上がり、鳥籠を開けてナムリスを取り出すと、窓から空中庭園の池へ向かって放り投げた。
「おいおい、乱暴だな」
ナムリスが言い終わらない内に、彼は水中へ没す。
下女は素早く鳥籠を元の通りに正し、覆いをかけると、床にしゃがみ込んで一心に血痕をこすり始めた。
三
ずっと横たわっていた。いつか、己の足で立ち上がるのだと心に秘めつつ、忙しく立ち働く弟を尻目に力を溜める。だが時折、立ち上がった自分は己の意思のままに振る舞えるだろうかと考えることがある。
長く横たわっている間に様々のものを観察した。中でも皇弟が堕ちていく様は、墓所の主が早くから予言していたことだ。堕ちた皇弟のなすことも、想定済みであり、墓所の主は彼に様々な技術を与え、意のままに操った。
では、皇兄は? 彼は特別のことをするつもりはない。超人的でない人間の感情を読むことなど、墓所の主には造作もないだろう。彼が自分をヒドラの体に作り変えることを進言した時も、すでにその準備は整っていた。
それでも彼はいつか己の足で立つとの決意を鈍らせずに横たわっている。それしか、生きる方法を知らなかった。
――ずっと私の傍にいられる?
やがて敵となることが明らかな姫君が、まっすぐに自分を見る。まだ、無力の娘のくせになんという力強い瞳だと、ナムリスは姫君に興味を持った。姫君は皇兄の野心に対する答えを示した。
――私の傍を離れないことね。
それはまるで結婚の申込みだった。彼女の言葉に対し、自分がなんと返答したのかは良く覚えていない。ただ、名を尋ね、彼女は臆することもなく答えた。
いつまでも、その名はナムリスの心に留まっている。
月明かりにナムリスは目を覚ます。その瞬間、何故とはなしにふと「 クシャナが帰ってくる」と思った。次に幼い頃の弟の言葉が蘇る。
――予感だよ。ナムリス、初めは予感に似ているよ。
超常の力に目覚め初めた頃、ミラルパは超常の力を予感と説明した。
(俺には超常の力など必要ない)
ナムリスはヘルメットに溜まった池の水を出すために、極自然に腕を動かそうとする。その時になって、ようやく、彼は自分の体の変化に気が付いた。
「あらァ、面白いことになったな」
土鬼(ドルク)の薬草は、本当にヒドラの培養に役立った。
ナムリスは久方ぶりに己の首から下を見る。そして、自らの両手でヘルメットを外し、自らの足で池から這い上がる。体についた水草を手で振り払いながら、クシャナの寝室へと戻った。
「さて、こんな格好じゃあ、クシャナがビビっちまう」
ナムリスはクローゼットから適当にクシャナの服を選び出すと身に付け始めた。ズボンを履き、長衣の上からベルトを締める。
池の水で冷えた体を温めようと暖炉に火をつけると、寝台に身を沈めた。
(ぞっとしねえなあ、女の格好なんてのは)
だが口から漏れ出た笑いは愉快そうだ。
(俺は再び、己の足で立ち上がれるって訳だ)
彼は笑顔を消す。
「クシャナ」
もちろん、呼びかけに答える声はない。
「俺が何を望むか、お前にわかるか?」
やはり、笑わなかった。
四
ナムリスは喉元に触れる冷たい感触で目を覚ます。
「おはよう、ナムリス」
「おかえり、クシャナ」
寝台の上で二人は見つめ合った。ナムリスに覆い被さるクシャナは、彼の喉元に短剣を押し当てている。
「そういう顔をしている時が、お前は一等綺麗だ」
ナムリスがクシャナの顔に手を触れようとするので、彼女は短剣を持つ手に力を込めた。
「ひひ……痛えよ」
短刀の刃に沿って、ナムリスの首に血の筋が走る。
「何を怒っている? おかしな奴だ」
それでも、彼は笑う。彼女にはそれが赦せない。
クシャナはナムリスの胸に片膝を置いた。
「首から下の生やし方を教えようか?」
胸を押さえられているために、彼は苦しそうに言う。
「そんなものに興味はない」
「なら、何に興味がある?」
ナムリスはクシャナの腿に手を走らせる。
「何に……」
彼女はさっと立ち上がると、力任せに彼を蹴り飛ばした。
ナムリスが寝台から落ちる。だらしなく上半身を起こしてクシャナを見上げた。鼻から垂れる血を拭いもしない。
「なんだ。その貧弱な肉体は?」
「仕方ねえだろう。俺は生粋のヒドラじゃねえんだ。形は整っても、生まれたての赤子みたいなもんだ」
クシャナの見下ろすナムリスは、女物の衣服に収まる程度の肉しかついていない。多少、袖口から手足が伸びていて筋張ってはいるが、華奢なものだ。
それが恥ずかしがりもせずに胸を張り、鼻から血を垂らして偉そうに笑っている。
クシャナも皮肉な笑みを浮かべた。
「だらしのない、仕様のないムコ殿だ」
クシャナは寝台から降りると、短剣をナムリスの足元に投げた。
それを見て、ナムリスは笑みを消す。ずっと欲してきた手の届かないものが、突然、手の届く位置に現れ、どうして良いかわからない子どものような顔になった。
ナムリスの次の行動を待つように、クシャナは寝台に腰かける。彼女の顔からも笑みは消えている。待ち合わせに遅れた人を待つような雰囲気だ。
「どうしろと?」
ナムリスは短刀を軽く蹴る。
「私はお前を試した」
「それで? 俺が短刀をこの手に取って」
ナムリスは起き上がりながら短刀を手に持つ。
「お前の前に立ち、刃を突きつけたら満足か?」
クシャナの座る寝台に深々と突き刺す。そのすぐ横に彼女の手がある。
まだ、ナムリスは短刀から手を離さない。
自然と二人の顔が近付いたが、どちらもその距離を縮めようとはしなかった。
そのまま、クシャナが寝台に横たわり、尋ねた。
「何を怒っている?」
ようやく、ナムリスは短剣から手を離すと、鳥籠の吊り下げられている窓辺へ行く。
「お前が俺を恐れているからだ」
「恐れられたくはないと? 強い者は好きだろう?」
「お前は弱い女か? 俺にはそれが許せない」
クシャナは寝転がったまま、両腕を突き上げる。
「起こしてくれ」
ナムリスは勿体ぶるようにゆったりと近付くと、クシャナの腕を取り、引き起こす。
その反動で彼女は彼の背に手を回し、二人して寝台に寝転がった。
「おかえり、ナムリス」
「ただいま、クシャナ」
短剣の鈍色は何も映さない。二人の姿も、二人の体温も、知るのは男と女がただ二人――