一
「陛下、お聞き及びですか。これは恐ろしい話なんです」
クシャナと二人きりの執務室でクロトワが語る。
「初めは誰も相手にしなかったそうですよ。先の戦役が終結して仕事を失った軍人崩れどもが、傭兵やら用心棒やらをやっていただけですからね」
彼は筆を走らせる手を止めようとはしない。
「奴らは街々を渡り歩きながら日銭を稼ぐだけのケチな連中です。むしろ、市井の連中には煙たがられていますよ。国に見捨てられたと被害者面しながら、暴力を働くことしか知らない厄介者ですからね。それが最近になって、城下町で妙な大口を叩くと言うんです。相変わらず、金の羽振りが悪い、景気の良くない連中が変に陽気な酔っ払いぶりで『進軍だ』と気勢を上げて人目を憚らないと言うんですよ」
インク壺にペン先を浸し、再び勢い良く紙片の上を走らせる。
「進軍ですぜ。懐かしい言葉を使います。国軍でもない奴らが使うには過ぎた言葉です。ある日、酔漢の一人がそれを咎めると、奴らは臆せずに言い返したそうです。『偽帝と言わば言え。それが俺たちの頭だ』と」
クロトワが顔を上げずにクシャナへ目配せした。双方の視線がまっすぐに行き交う。
「奴らを軍隊としてまとめ上げた輩がいるということです。そして、その輩は皇帝を僭称しているということがわかります。トルメキアには代王であらせられる陛下がおられ、土鬼(ドルク)には土王が即位したというのに、何故、わざわざ皇帝を僭称するのでしょうか? 皇帝といえば、いまだに生存説が根強い長命不死の皇弟と不死不老の皇兄がいたきりです。その事実から鑑みるに、その輩の目的は間違いなく土鬼(ドルク)ですぜ」
書き上げた書類を束ねると、自席に座るクシャナの前に立ち、差し出した。
「また戦争になると?」
書類を受け取り、サインをしながら会話を続ける。
「土鬼(ドルク)の内戦なら問題はありませんがね。偽帝はトルメキアにいるんですぜ」
「その上、トルメキアの退役軍人を率いてな」
「そこですよ。恐ろしいのは」
嘆息して頭を掻く。
「偽帝はトルメキアと土鬼(ドルク)との間に何かしらの楔を打ち込むつもりでしょう」
「最低でも、な。まず、予測としての可能性が三つある。一つ目は土鬼(ドルク)で内戦が起こりうるということ、二つ目は内戦の背後でトルメキアが漁夫の利を狙っていると勘繰られること、三つ目はトルメキアが扇動し、偽帝を盛り立てたのではないかと疑われることだ」
サインを書き終えたクシャナが顔を上げた。その瞳に冷徹な光が宿っている。
「ならば、我々のすべきことは一つだ」
「ですな」
クロトワが肩をすくめる。
「我々がすべきことは事態を隠し通すことではない。我々がすべきことはトルメキアに非がないことを証明するために、単純かつ明瞭に事態を公表することだ」
「ボヤはボヤのままに出火させましょう」
「だが、薪はくべるな」
「痛くもない腹を探らせはしません」
「仕事にかかれ、参謀」
クシャナは立ち上がるとクロトワに背を向け、窓から空を見ながら続ける。
「公開処刑だ」
「ご随意に」
クロトワは胸に手を当てると深く頭を下げた。
二
春で夜だった。
粗末な農家の真ん中に一脚の椅子がある。傍に小机の一卓もなく、白々しく大部屋の中心点となっていた。
意図的に配置された椅子には、まだ、誰も腰掛けていない。
カチ――と電源が入れられる音がし、椅子の上の電球が灯った。とても部屋中にいきわたる光量ではなく、椅子だけが光に照らされる。
部屋の端から静かな靴音が起こり、部屋の中心へ近付いていく。その靴の先端が明かりの範囲内に入ったところで、玄関扉が大きく開けられた。靴の主は踵を起点に小気味良く体の向きを変えると、玄関に向き直った。明かりの範囲内から靴の先端が外れ、代わりに華奢な肩とほっそりとした腕が加わる。
扉から乱暴な足取りで十数名の男たちが入ってきた。誰に言われるともなく、男たちは椅子の前で横並びに整列する。
「素面か」
肩と腕を見せるだけだった者が、躊躇なく光源の下の椅子に腰掛けると訊ねた。膝の上に肘を置き、肘から先を太腿の内側に垂らす。俯き加減の頭が影を作り、その表情を読み取ることができない。
「無論で」
整列する男たちから一つの返答があった。
「俺の為の心地良い嘘だな」
椅子に座る格好を変えぬまま、顔を上げる。そこにあったのは一つの目玉だ。単眼の意匠を施されたヘルメットをかぶった男――ナムリスが、椅子に座っていた。
鼻から上までを覆う大きなヘルメットの為に目鼻立ちはわからないままだ。ただ、唇だけが彼の表情を明確に伝えていた。それは冷笑だ。
男たちが弁明しようとするが、ナムリスは聞く耳を持たずに口先で制した。
「これで全員だろう? 俺は記憶力の良い方でな」
男たちは固唾を飲む。
「何を緊張している? ここにいる者が皆、俺に歯向かった過去があるなどとは気にせぬが良い」
その言葉で彼らの気持ちがほぐれたとはとても言えなかったが、それ以上に慰めようとはしない。
「休め」
男たちは姿勢を楽にさせたが、気持ちまでもが楽になった訳ではないようだ。
「さて」
ナムリスは背もたれに寄りかかると、腕組みをした。
「お前たちに初めての仕事をやろう」
「何をすれば良いんで?」
先程と同じ声が返答する。
「血塗られた我が手を取るか決めさせてやる」
椅子から立ち上がり、整列する男たちに向かって歩き出す。その歩みを阻まぬように、無言の内に列を崩し、恐る恐るナムリスの後に従った。
夜の帳が降りた田舎道には、彼らの他に誰も現れない。あからさまに男たちは安堵した。
「どうした? 残りの者に包囲させているとでも思ったか?」
「あなたは恐ろしい人ですから、神聖皇帝陛下」
「お前以外の者が声をかけられぬ程にな」
最後の神聖皇帝は前を向いたまま答える。
田舎道の上り坂を、月明かりだけを頼りに歩を進めていくと、さほど行かずに小さな教会へ着いた。その明かりは落ちている。
「俺は強い者が好きだ」
ナムリスは振り返ると腰に手を当てた。
「さあ、お前たち。俺が誰とは知らずに歯向かった蛮勇の徒よ。鉄火場に着いた」
「ここは俺たちが寝泊まりしている……」
「知っていて言っている。この廃村で俺と出会った時、たった一人の男を目の前にして、力を振るわなかった弱卒など気に食わぬ」
「共に戦場で泥水をすすった戦友を殺せと?」
「好きにするが良かろうよ。血塗られた我が手を取らぬと言うなら、即刻、この場を立ち去れ」
教会のシルエットを背景に皇帝は軽々と発言する。言葉としては男たちを威圧する内容なのだが、言葉尻が飄々としており、まるで重みがない。
「指揮官殿」
ナムリスと口をきいていた男の周囲に人だかりができる。
「やるぞ」
指揮官は躊躇しなかった。
「しかし、なんの為に?」
「なんの為? 自分たちの為に決まっている」
疑義に対して即答する。
「俺たちは権力がなければ単なる暴力装置にすぎない。軍人としての誇りを取り戻すのだ」
「なら、他にも方法が……」
「ない。ある訳がない。これは過去との決別だ。我々は生まれ変わるのだ」
「偽帝の為に?」
偽帝という言葉を発した男を指揮官は殴りつける。
「それがどうした。俺たちの頭になろうという方が他にいるか?」
反論の言葉はなかった。
ナムリスは男たちをから少し離れ、教会の敷地内にあるブランコに腰掛けている。
彼の予測では男たちは従うはずだ。今、軍隊を追われ、大義から切り離された人間に再び大義が与えられようとしている。その甘美な誘惑を斥けるだけの根拠を、彼らは持たない。なればこそ、ナムリスの廃村を根城にしたのだ。
静かに元兵士たちは準備を始める。一つしかない教会の出入り口を塞ぐ為に、閂をかけるように押棒の隙間へ何本もの鉄の棒を突っ込んだ。教会の窓は建物の左右にあるが、二階を持たない教会内部からは届かない位置にある。だが、万一のことを考え、教会の左右に銃器を持って散開した。
指揮官ら数人が松明を手にする。まず、教会の外から火をつけていく。火が大きくなった頃に、一つひとつの窓へめがけて手榴弾を投げつけた。硝子の砕ける派手な音の後に炸裂音が響いた時には、教会は火に包まれている。
一つしかない出入り口は内側からの強烈な力によって激しくたわむが、無慈悲な鉄の棒は微動だにしない。炎が激しく燃え、人間の叫び声を飲み込んだ。
再び、手榴弾が投下される。その時、教会内部で何をしたものか、窓から人間が落ちてきた。間髪入れずに銃撃が加えられる。
同じ瞬間に、出入り口の上にある大きな飾り窓からも人間が落ちてきた。それはちょうど、ナムリスの目の前だった。血塗れのその者は足を折ったのか、這いずりながら逃走を試みる。少しでも教会から遠のこうと、無思慮に体を動かした。血塗れの人間が足元に迫りつつあったが、ナムリスは無表情に見下ろすだけで何もしようとしない。
それに気が付いた指揮官が落ち着き払った足取りで火炎を背景にして歩きながら、拳銃の遊底を後ろに引く。すぐに淀みのない動作で戦友を射殺した。
もはや、教会の出入り口はたわまない。
指揮官が死体を引きずって炎に投げ込むと、部下たちもそれに倣い、窓から降ってきた戦友の死体を炉にくべるように放り始めた。
ナムリスはバイザ―を上げ、夜空を焦がす炎の塊を生で見る。眼球の水分が蒸発するかのようだ。
指揮官は号令をかけて部下たちをナムリスの前に整列させると、前に進み出て膝をついた。
「お手をお許し願えますか」
ナムリスが片手を差し出すと、その手を取り自身の額に当てる。
「陛下、我らの手も同じように血に塗れていましょうか?」
しばらく、燃え盛る炎の轟音だけが耳朶を打つ。沈黙の返答に対し、ややしてから指揮官が視線を上げる。ナムリスはただ彼を見ていた。その視線の無意味さにぞくぞくする。そこにあったのは大きな虚無――ナムリスと彼らが邂逅した時から何も変わりはしない。
あの時は空に今夜のような月はなく、代わりに燦燦と輝く太陽があった。男たちがこの廃村を訪れたことに意味はなく、単なる偶然にすぎなかった。村の広場だった場所で馬鹿騒ぎをしていた彼らの元へ、ナムリスがふらっとやってきて言ったのだ。
「煩い」
指揮官は廃村に人がいたことに意外の感に打たれた。しかし、部下たちは無頓着にナムリスを嘲笑する。その時の彼は単眼のヘルメットをかぶっておらず、華奢といって良いぐらいに痩せている単なる若造にしか見えなかったからだ。
一瞬、指揮官からその若造の姿が消える。そのことを意識した時には部下の一人が倒れていた。ナムリスが素早く部下の懐に潜り込み、腹部に掌底をくれたのだ。それは狙い過たずに急所を捉え、大の男を昏倒させた。
広場は水を打ったように静かになる。ナムリスはそのまま立ち去ろうと背中を向けた。
その背に仕掛けたのは指揮官だ。彼は大きく拳を振りかぶったが、それを振るう暇もなく大地に倒れる。ナムリスに足払いをかけられていた。
唖然として横たわる指揮官はあっさりと腰の物を奪われる。抜き払われた刃が彼の首元に突き立てられようとした瞬間と、部下たちが飛びかかったのは同時だった。刃は指揮官の首筋を薄く走ってから、襲撃者たちの中で閃いた。ナムリスに腕力はない。だが、彼の技は素晴らしかった。軽々と攻撃を避けつつ、的確な一撃を与え、容易く倒す。むしろ、それは格闘というより剣舞のようだった。
倒された男たちの首元に赤い筋が残る。それは一瞬の間に刃を走らせた痕だった。ナムリスは遊んでいたのだ。
意識を失い、大地に転がる男たちの他はその技の冴えに恐れおののき、息一つ切らさずに立つナムリスを遠巻きに見ている。
勝者の前に指揮官は弱弱しく立ち上がった。
「誰だ……お前は……」
「神聖皇帝ナムリス」
容易に答えが返ってくる。事の真偽を図りかねる指揮官に対し、ナムリスは己の手首を刃でかき切ってみせた。
「不死不老の皇兄だ」
無造作に流れる血潮が徐々にその勢いをなくしていく。手首の傷口が塞がったのだ。それが全員に見えるように、ゆったりと体を回す。最後に指揮官と目が合った。
ナムリスは薄く笑う。わかるまいとでも言うかのように――その突き放した達観が指揮官には心地良かった。
ナムリスとの邂逅から幾夜も過ぎ、今こうして彼の手を取りながら、あの時と同じ心地良さを感じていた。ナムリスの虚無が彼の心を掴んで離さない。
ブランコに座る彼の前にいるのは、邂逅時に彼を殺そうとした者たちだけだ。
「気に入った」
短く言葉は言い放たれた。
三
ミラルパは座禅を組んだ格好で眠るクロトワの枕元に現れた。上半身が裸のその姿は、寝台よりもわずかに上を浮かぶ。
「トルメキア人」
その言葉で意識の覚めた彼が、瞼を開いてちょっと眉をひそめる。それはミラルパの上半身に彫られた紋様のためらしかった。
彼の言葉を借りれば、この神聖な紋様は「複雑で奇怪」ということになる。己の呼吸に従って波打つ紋様の美しさを知るミラルパにとっては心外な言葉だ。
「何度目だよ。あんた、覚える気ないでしょ。俺の名前」
クロトワの言葉遣いが少々気安いのは、自分が青年期の姿で現れる為だと、ミラルパには思われた。
「トルメキア人、儂の与えた情報を邪に利用するのはよせ」
「邪、ね。こちとら真面目だよ」
「儂は穏便にことを済ますようにと指示したはずだが?」
しばし、二人は不動で無言のまま見つめ合う。初めに動いたのはクロトワだった。彼は上半身を起こすと頭を掻いた。
「クシャナも俺も出来が良いからよ。下策では動かない訳」
「下策、と?」
若干の怒気を孕んだ雰囲気に、クロトワは人が好さそうに少し怯んでみせた。
「つまりよ、俺とあんたとでは目的が違うってことだ」
「儂は皇兄を回収しろと伝えたが、お前は皇兄をどうしたいのだ?」
「永遠に王城から遠ざけたいのさ」
「何故。なんの益がある?」
「あんたは皇兄が一番なんだろうが、俺にとっての一番はクシャナだからよ」
「大した忠誠心だ」
「違えよ」
寝台から降りると、洗面台まで行き、顔を洗う。クロトワが寝室へ戻ってくるまで、ミラルパは身動きせずに浮かんでいた。
「では、その『違え』ものが儂に逆らう原因だと?」
「ま、そうだな」
「それはなんだ?」
「訊くだけ野暮ってもんだ」
ミラルパは首を傾げる。
「で、今日のご宣託は?」
空中に浮かんだ姿勢を崩さぬまま、クロトワに向き直った。
「廃村で内部粛清があった。有象無象が減った分、皇兄を生かして捉えやすくなったはずだ」
「制圧するのも容易になったと」
「だが、一つの目的をもって動き出されると厄介だ」
「無駄なく短時間で済ませようとするだろうな」
「下手をするとトルメキア領から出てしまう。その前に確保しろ」
「……一度聞きたかったんだが」
「答えよう」
「あんたはクシャナをどうするつもりなんだ?」
寝台に腰かけるクロトワの背中に、ミラルパが答える。
「あれは皇兄の妻だ。それ以上でも以下でもない。クシャナのことは皇兄が決めるだろう」
「そこだよ。俺があんたに従いきれないのは」
振り返るとミラルパを指差した。
「もう一回、言っておく。俺はクシャナが大事なんだ。あいつの傍に厄介ごとを持ち込むな」
「生意気なトルメキア人だ」
ミラルパは嘆息する。
「さァて、会話は終わりだ。もう一度、夢を見るが良い」
言葉が発せられるよりも早く、ミラルパがクロトワの意識を奪い、寝台へうつ伏せに倒した。音もなく空中を移動すると、クロトワの頭上に両手をかざす。
「村が見えるだろう。近郊の廃村など珍しいものではないが、目印が一つだけある。これだ。燃え尽きた教会がその目印だ。探すが良い。だが」
クロトワの額に人差し指を触れさせる。
「公開処刑など行ってみろ。その瞬間にお前の体をもらい受ける」
長い爪の切っ先で軽く皮膚を裂く。
「これはそのための標だ。傷は癒えても痕が残ろう。さらばだ」
ミラルパは空間に溶け込むように姿を消した。
四
クシャナには予感があった。それは腹の底をざわつかせるような嫌なものだ。
「貴様の情報収集能力は大したものだな、クロトワ」
「良いんですか?」
「良いも悪いもない」
「あの廃村ですぜ」
それには答えず、茶を口元へ運ぶ。
「あの男のいる……」
「クロトワ、捕物はいつにする」
問われて肩をすくめた。
「なるべく早い方が良いでしょうね」
「では、準備を進めろ。つつがないようなら私の指図を受けなくとも構わん」
「ご随意に」
「下がれ」
クロトワは礼をすると退出した。
クシャナは執務室に一人になっても、しばらくの間は書類にペンを走らせる。
窓から見える外は快晴の素晴らしい陽気だ。陽光が手元に濃い影を作らせる。
やがて、溜め息とともにペンを置く。
予感はあったのだ。初めて偽帝という言葉を聞いた瞬間、ナムリスのことが思い起こされた。彼女にとっての皇帝は一人しかいない。
きっと、良人はいつもの冷笑を口元に浮かべながら意思を貫き通しているだろう。確固たるものがありながら、不似合いにも気怠そうに頬杖をついている姿が目に浮かぶ。
片手で目元を抑えた。クシャナの中で何かが弾けそうだった。背後から暖かな光が優しく包み込んだが、それはなんの慰めにもならない。むしろ、苦しみを際立たせるばかりだ。
弾けようとする感情を懸命に抑え込む。だが、なんの為に? ここには誰もいない。孤独に一人で防ぎ止める感情の名を女は知っている。それは恋――
立ち上がり、窓に向き直ったが、そのあまりの明るさに思わず顔を背けてしまう。窓に手をつき、光から逃れるように壁伝いで横へ進む。もう片方の手で顔を覆う。
恋――ナムリスにもその苦しみがあるのだろうか?
壁にもたれて進みながら徐々に床へ膝をつく。ちょうど、膝をついたところが部屋の隅だった。
弾けようとする感情を抑えつつも、心を解放したいと望む。義務を投げ出し、未来を諦め、恋情の虜となるには、クシャナは聡明すぎた。
聡い頭と滾る情の狭間で、女は悲しみに沈む。それは一つの嗚咽にもならなかった。強さを枷に膝を折る。クシャナがもっと弱ければ、恋に溺れることもできたろう。
ふいに初めてナムリスと出会った時のことが思い出された。あの時、絶対であると思い込んでいた父王を軽くあしらった男に、新しい可能性を感じたのだ。絶対者に抗うのは愉快だった。皇弟に組み敷かれた皇兄も同様の感情を抱いていたと確信する。
その時からクシャナとナムリスの心は同じだった。だが、どこかで道を違えてしまった。その岐路に異国の少女が一人で立つ。彼女とは大分、昔に別れたきりだが、志を同じくしているという実感がある。彼女――ナウシカは生きることを諦めなかった。それを生きるものの義務と心得ていた。それを放棄しようとするナムリスとは鏡の表と裏のように正反対だ。
生きねばとナウシカは言った。生きねば、と。殺してくれと願う伴侶を相手にするのは自分だけだと、クシャナは知っている。それは恋――恋を諦めきれぬ女の強さだ。
クシャナは立ち上がる。傍目にはいつもと変わらぬ足取りで執務室を出た。誰にも何も悟られぬまま、自分の寝室へと辿り着く。
もう、そこに鳥籠はない。
空中庭園へ駆け込み、大空を仰ぐ。
「願わくは、再びここに帰られんことを」
抑えきれなかった女の心が、頬を伝う一筋の雫となってこぼれた。
五
ナムリスは丘の下の質素な農家で朝食を取った。ヘルメットは机の上に置いてあり、朝食を作った指揮官が彼の傍らに立っている。
食事の半分にも手を付けず、食器類を置いた。
「お口に合いませんでしたか」
「腹は空いてない」
「もっと見晴らしの良い家へ移られては? その方が食事も進みましょう」
「ここで良い。持ち場に戻れ」
うんざりとした様子で背もたれに寄りかかる。指揮官は動かない。
「俺の世話など焼かずとも良い。適当にやる」
「あなたを一人にしておいたら、雀の涙ほどしか食べないではないですか」
「いつも煩い奴だ」
「せめて、目の前のものだけでも食べて下さい。それまではお傍を離れません」
「全く色気のない話だな」
ナムリスはヘルメットをかぶると席を立つ。追いすがろうとする指揮官を片手で制した。
「俺は欲しいものがあれば自分で手に入れる。それまでは動くな」
「陛下には待てましょう。ですが、我らは気の長い方ではないのです」
「仕様のない奴らだ」
薄ら笑いを浮かべて答える。
「食事も進軍も同じことだ。時期を見なければ無駄に終わる」
世話人を気取る男を捨て置いて退室しようと背を向けた。
「いつまでここにいれば良いのです」
「なァに、じきだ」
突然、全ての窓硝子を打ち破り、投げ込まれた幾つもの物体がある。さほどの大きさを持たないそれは煙を吹いていた。
「発煙筒!」
指揮官が叫んだ頃には、ナムリスは行動を開始している。屋内の梯子を上がり、広い屋根裏部屋へ出た。指揮官も遅れて後に続く。
「どちらへ!?」
「風通しの良いところへな」
天窓から屋根に出ると、農家の一階部分へ侵入者たちが乱入するのが見えた。農家の前には戦装束をまとった馬上の人間と、その者に率いられているとおぼしき兵らがいる。
「クシャナ! ここをどこと思う?」
ナムリスの声に応えるように、丘の上から喚声が上がった。丘の下に建てられた農家を取り巻く形で、軍人崩れどもが現れる。
「ここは魔女の鍋底だ」
馬上のクシャナが片手を上げる。その瞬間、乾いた破裂音がした。
丘の上の人間が一人、力を失ったように斜面を転がっていく。
「狙撃手か。お見事」
続く破裂音に再び数人の人間が丘を落ちる。廃村の至るところに狙撃手が潜んでいるようだ。その時になって、ようやく、事態を把握した軍人崩れどもは丘の上に伏せて身を隠す。
「陛下もお隠れに」
指揮官が天窓から顔を出してナムリスを諫めようとしたが、すぐに屋根裏部屋へ到達した侵入者たちとの乱闘になり、その姿は屋内へ消えた。次に天窓から顔を出したのは、指揮官の手からこぼれた侵入者だった。
間髪入れずにナムリスはそのどたまを拳銃で撃ちぬいた。死体が中に引きずり込まれると、今度は自動小銃だけが現れる。そこから弾丸が撃ち出された時には、もうそこには誰もいない。天窓の上から自動小銃を握る手を蹴りつけられる。若干の間、自動小銃は天窓から落下しながらも弾丸を発射し続ける。
流れ弾がクシャナたちの周囲に及ぶ。
「やめろ。陛下に当たる」
クシャナを庇いながら、クロトワが叫んだ。
屋根裏部屋での乱闘は指揮官が取り押さえられて終結したが、侵入者にも相応の手傷を負わせたらしく、わずかに周囲は水を打ったように静まり返る。
「どうする。何を見せてくれる?」
屋根の上で天窓に足をかけながら、ナムリスが嬉しそうに大声を張り上げた。
クシャナは無言でナムリスへ片手を差し出す。
「いらぬ」
言葉を吐き捨て、背を向けた。
「逃げるか」
屋根の上で立ち止まる。
「また、私から逃げるのか。私は逃げずにお前の相手をしよう」
クシャナは差し出した手を下した。
ナムリスが狂暴な笑みを浮かべて振り返り、屋根から飛び降りた瞬間と、彼が立っていた屋根が撃ち抜かれたのは同時だった。ナムリスは大地を蹴る。腰の物を抜きはらい、突き進む。狙撃手の弾丸がその体を何発も貫くが、足取りが鈍ることはない。
眼前の兵らは主君へ流れ弾が及ぶことを恐れ、一発も発射しない。戦斧を片手にナムリスへ飛びかかる。仲間の動きを見て、狙撃がやむ。
血を撒き散らしながら、ナムリスは兵らを屠っていく。彼は喜色満面に笑う。兵が一人倒れるごとに、ナムリスとクシャナの距離が縮まっていく。
一塊に敵へ殺到する兵らの隙間から一筋の槍が繰り出された。槍はナムリスのどてっぱらを突き破り、その衝撃で彼の太刀を大地へ放り出させる。動きを止めた兵らの隙間から槍を握っているクロトワが見えた。ナムリスと目が合う。
「ひ、ひひ……お前か……」
一撃をくれた男を指差そうとするナムリスを、クロトワは力を込めて槍で持ち上げる。どくどくと流れる血が、槍を伝って彼の手を汚した。
春のうららかな太陽がそれぞれの頭上にある。季節は春で良い陽気だった。流血沙汰の範疇外から、鳥の美しい鳴き声が響き渡る。丘には花々が咲き乱れ、葉が青々と輝いている。棚引く雲は陽光を遮らず、燦燦と大地を照らす。
人間たちの足元で砂埃が静まっていく。風はなかった。春の陽気が充満し、それぞれの体を包み込む。ナムリスが動きを止めたのに合わせるように、兵らもクロトワも動きがなくなる。
静まり返る空間でただ一人、クシャナは下馬するとクロトワの脇を通り、ナムリスの元へ歩を進める。クロトワはその横顔を見て、想い人を制する為の言葉を飲み込んでしまう。その凄愴な悲しみの美しさが、クシャナとナムリスとの間に余人を許さない。
クシャナはナムリスを見上げ、血反吐に塗れた顔へ白い手を伸ばす。彼には届かないことを承知の上で差し出した手に、血の一滴(ひとしずく)が垂れた。手の甲に赤い斑点が残される。それをじっと見ていたのは、女がただ一人だけだった。