一
親善使節団として土鬼(ドルク)へ赴いたクシャナたちを出迎えた人々の中にナウシカはいなかった。
「クシャナ」
船から降り立つや否や、チククが駆け寄ってくる。最後に会ってから随分と背が伸びたようだ。
「すまないな。急にやってきて」
「そうだ。クシャナがくるとわかっていれば、ナウシカも腐海になど行かなかった。チクク、残念だ」
ちっとも不本意な様子のない、あっけらかんとした表情で言う。
「しかし、あなたのお出で下さったことは喜びです、代王陛下」
出迎えの列から進み出たチヤルカがチククの傍らに立った。
「いつも、ご援助痛み入る」
深々と頭を下げる。クシャナはそれを片手で制した。
「食糧難に慢性的な居住区不足……とても我々だけでは立ちいかない」
かつての侵略者を感謝の念を込めて見つめてから、軽く首を横に振る。
「こちらからできることは限られているが、何か援けが必要になったら遠慮なく伝えて欲しい」
「クシャナ、行こう」
琴線に触れた申し出に返答する間(ま)もあらば、チククが彼女の手を取った。
「チヤルカは気が利かないから立ち話が長くなる」
子どもの指摘を真に受けて大の男が困り顔になる。社交の場で対面を傷付けられたというより、その言葉の正しさに己の未熟を顧みているようだった。だが、すぐに意識を切り替えると賓客を先導する為に片腕で前を指し示した。
「こちらへ」
チククもそれ以上、何かを言及する訳でもない。二人の間にはさばさばとした気持ち良さがあった。それがクシャナには好ましく思われ、つい頬が緩む。
「ナウシカが腐海で何をしているか知ってるか?」
チヤルカの後に続いて建物の中に入り、少年の歩幅に合わせて歩くクシャナにチククが訊ねた。内緒話をしようと多少の背伸びをしながら、彼女の袖を引く。上半身を傾けさせ、耳元に口を寄せた。
「蟲使いたちに会っていると思う」
返答を待たずに述べられた推論には不貞腐れた不満が滲み出る。クシャナは感情の吐露を促すように次の言葉を待った。
「ここからいなくなる理由を作ってる」
事実か否かを判断する術は彼女にない。
「チククに秘密で?」
「誰にも秘密だ」
言うなり、ちらと背後について歩く人々を見た。廊下の幅いっぱいに広がりながらも、親善使節団とそれを出迎えた土民たちは二人から礼を失しない程度の距離を保って付き従っている。
「でもチクク、ちゃんと知ってる。だから、一緒に行く」
まだ、幼いとはいえ、やがては国を背負って立つ者の無邪気な発言に、クシャナは妙な清々しさを覚えた。己の感情に驚きつつも、この小さな友人をどうやって引き留めようかと言葉を探す。
秘密を吐き出したかっただけで、誰の助言も必要としない少年はすっきりとした様子で前を向いた。クシャナは背筋を伸ばすと、なるべく彼を見下ろさずに会話を続けようと試みる。
「腐海での暮らしは苦労が多いのではないか?」
「暮らしたことがないからわからない」
「私は心配だ」
誠実な真心を感じ取ったチククが向ける視線には応えない。どこか遠くを見ながら言葉を続けた。
「腐海が嫌になって土鬼(ドルク)へ帰りたくなっても、その時には平和な時代は終わっているかもしれない。もう、帰る場所はないかもしれない。チククがいなくなったら、土鬼(ドルク)はどうなる?」
「でも、ナウシカが……」
「私はナウシカがどこにいようとも、彼女を近くに感じるよ」
「なら何故、クシャナの心は孤独なんだ?」
胸を刺されたような驚きが一歩の動きを緩慢にさせる。しかし、すぐになんでもないように足を動かした。
「代王だからかな?」
先程と声音に変わりはない。
「チクク、違うと思う」
素早くクシャナの前に回り込むと頭を起こした。真っ向から二人の視線がぶつかり合う。上向きの力強さが、いっそ儚げとも思えるような穏やかさを足元へ向けさせた。わずかと言うには少々長い時間、二人の歩みが止まる。充分にクシャナの意識を集中させると、チククは断固たる口調で言い放った。
「彼がわからず屋だからだ」
ああ、と彼女は胸中で嘆息する。その彼が誰なのか、自分は誰よりも知っている――
秘密をしまい込む為に脳髄の迷路の奥深くへ己の心を運びつつ、クシャナは考えた。
(かつて、私は奴を捨てたのに)
巨神兵の足元に投げ捨てたナムリスの首を一顧だにしなかった時の記憶が脳裡をよぎる。
(あの時から、奴の心は変わっていないというのに)
哀れな男は何をも成し遂げられず、己の人生に自らで引導を渡すこともできず、自他の生命を雑に扱うだけだった。昔も今も生きているという感覚に乏しく、妻の手から死を送られることだけを求めている。
(なのに、私は何を諦められないのだろう……?)
眉をひそめたクシャナを残し、チククは小走りでチヤルカを追う。先導者は背後へ意識を向けていなかった為に、やや先へ進み過ぎていた。
「チヤルカ殿」
呼び止められて振り返る彼の横をチククが歩調を緩めずに通り過ぎる。そのまま、廊下の角を曲がり、視界から消えた。
「頼みがある」
穏やかさが去り、皮肉の影が濃くなった相貌に消えぬ儚さだけが哀しみに似ていた。
二
父の遺骸はとても人とは呼べぬ代物だった。
シュワの墓所にて神聖皇帝へ割り当てられている部屋へ入った瞬間、血と臓物と糞尿が入り混じったような臭気が鼻をつく。その根源は探すまでもなく、すぐ目の前にあった。絨毯の一部を赤黒く染めた血痕が部屋の中央から壁際へ向かって、ずるずると這ったような筋になっている。
部屋の中に進み出でながら、歩数でその長さを測ってみた。死に始めてから死に終わるまでの数歩が、滅亡しつつある世界での生と死の関係に似ている。彼岸と此岸の距離はあまりに近い。
(意外ともった)
生きながらに身体が砕け散った父へ対する感想が、他には特に思いつかなった。裂けた人体は肉塊となって、掃き貯めた塵芥のように盛り上がっている。それが父の長衣をまとい、襟首の中のものを隠すように面布を頂点へ乗せている。
でこぼことした長衣に比べると、やけに面布が平らに見えることを何故か気にしつつ、その横で立ち止まると片手を腰に当てた。視線の先には父へ横顔を向ける形で、膝を抱えて座り込む弟がいる。
さほど年の差もない同胞(はらから)は、びっしょりと汗をかき、大きく目を見開いて虚空を見つめていた。まだ、幼い少年の心をしっかりさせようと、取り囲んだ臣下たちがしきりに話しかけている。
その言葉を聞いているのかいないのか、精神に衝撃を受けた状態から回復した様子のないまま、会話にならない返事をしたのが聞こえた。しかし、その声はすぐに途絶え、再び一方的に臣下が慰め始める。
気がつくと部屋中に言葉が溢れていた。そのどれもこれもがこれからの帝国の在り方だったり、自分たちの身の振り方だったりと、なんらかの未来について話し合っている。室内のあちらこちらに数人の塊が点在していた。
どこの会話にも属さず、物言わぬ遺骸と沈黙を共有する。到来し得る未来から取りこぼされていくような気にもなったが大して心に留めなかった。
ふいにまざまざと片手に握りしめている剣の重さを感じ取る。ちらと視線を下げた。武道の鍛錬中に父の死を知らされ、抜き身を鞘に納めはしたものの、そのままで持ってきてしまっていた。
(ああ、だから)
目線を弟へ戻す。
(お前は一人で震えている訳だ)
父は政務に忙しいながらも、時間を見つけては息子たちに会いにくるようにしていた。教育係に全てを任せるつもりはないようで、特に超常の力を持つ弟のことを気にかけていた。常人にはない力を持つ者への指導は同じ能力を持つ父でなければ務まらなかっただろう。
父と弟は向かい合わせで立ったまま、いつまでも黙り込んでいることが多かった。超常の力によってどんなやり取りが為されているのか、余人には知る由もない。じっとして身動きのない二人を眺めていても暇なので、それが始まると武芸の鍛錬に出掛けてしまうことにしていた。
父には息子たちの為に使える時間が限られていたことは理解できる。その上で弟の方により多くの時間を割くことが必要だということも納得できる。しかしどうしようもなく、無価値とは何かを教えられているような気持ちになった。超常の力がないことが無価値に直結するならば、この世に価値のある者など滅多にいない。
父が死んだ日も、いつものように身動きせぬ二人の元を去り、武芸の鍛錬に励んでいた。手加減なく、真剣で相手を滅多打ちにしながら、頭の隅で立ち合いとは無関係のことを考えている。眼前で血を流し、痛みに耐え、荒く息を吐き続けているこれは生きるに値するだろうか?
無価値の者同士が切り結ぶ。双方の違いは強いか弱いかの一点に尽きる。
(弱い者は好きではない)
肩に受けた一撃の為に、尻餅をついた相手を見下ろしながら思案する。
(価値のある者が生き残るとは限らない。その為には力が必要だ)
気紛れに首でも刎ねてしまおうかと剣を振りかぶった瞬間に、父の死の知らせが入る。教育係がへたり込んだまま身動きの取れぬ相手を庇うように立ち塞がったのと、ほぼ同時だった。それらには目もくれず、数名の者を引きつれて父の元へと向かう。
価値のある弟と価値のない兄では父から贈られるものが違うと考えていた。だから、弟が一人っきりで死にゆく父と向き合わねばならなかったのは、当然の成り行きのように思われた。その結果、弟は死から顔を逸らし、震えながらうずくまっている。
助けて、と脳髄の隙間に声が入り込む。慰める臣下には応えぬ言葉が、分かち合った血肉に呼応するかのように届けられる。だが今になって何ができると言うのか? もはや、父は死んでしまった。生きている内に駆けつけたとしても、治療などできるような状態ではない。せいぜい、弟の目を塞ぎ、何か安心させるような言葉をかけてやることしかできなかっただろう。
馴染みの無力感に浸っている内に脳髄へ響いてくる声音が二つあることに気がつく。それは弟と父のものだった。死の間際、助けを求めた父の言葉が弟に強烈な印象を与えたらしい。父の哀願を幾度となく思い返しては、その願いを叶えられずに他者へ助けを求め続けている。その記憶と己の叫びが絡まり合い、残された唯一の肉親へと届いていた。
平気で弟の叫びを無視しつつ、父の声音に耳を傾ける。それには生前の姿に似つかわしくない矮小さがあった。我が父にも恐れるものがあったのかと、少し意外だった。恐ろしさに興味が湧いた。それは血の凍るような思いかもしれない。
時を置かず、父の面布に手をかける。すると、それまでの絶妙なバランスが崩れたものか、肉塊の頂点から何かが一つ転がっていく。
ドッ――と音がして、絨毯の上に目玉が落ちた。超常の力で何もかもを見通していたかのようだった父の目が、こちらを見ている。だが、千切れずに残った視神経の先には何もない。
「ひひひ……」
まだ早い、と父に咎められたように感じた自分の愚かさが可笑しくて、思わず笑い声が漏れる。こんな風に笑ったのは初めてだった。
弟を慰めていた臣下の一人が、場に不似合いな笑い声を耳にして、ギョッとした顔を向ける。穏やかに面布から手を離すと、そちらへは口角を引き上げた不敵な笑みを向けてやった。
素早く、鞘から刀身を抜き払うと絨毯を貫き通して床に突き刺した。突然の大きな音に部屋中の視線が一身に集まる。片手を柄頭に置くと、まずは父の遺骸を片付けろと命じた。その後も事後処理についてきびきびと命令を飛ばす。臣下に帝位を侵される前に釘を刺してやらねばならなかった。
早々に父の遺書を探させる。帝位の空白期間に臣下どもによって、異常な長命の皇帝には遺書など存在しないだろうと自らに都合の良い解釈を流布され、父の遺志が黙殺される恐れがあったからだ。まだ幼少とはいえ、父が息子以外を後継者に指名するはずはない。もし、有力な氏族の内の一つが帝位につけば、土鬼(ドルク)は四分五裂の内戦になるだろう。
後日、氏族の長たちを立ち会わせながら、探し出した遺書の内容を確認した。案の定、後継者は皇帝の血族から選ばれている。しかし、それは一人ではない。遺書には神聖皇帝の座を兄弟二人で担うようにと書かれている。
正直、気が抜けるのを感じた。常人の兄など政争の元にしかならないとし、出家でもさせられるのが関の山だと思っていたからだ。弟に帝位を守らせている間にその下で力をつけ、やがては帝国を簒奪するという腹積もりだった。それを玉座の上から弟の隣人として機会を待つことになろうとは! いやむしろ、超常の力を持つ弟にとっては危険人物を近くに置いておいた方が御しやすいのかもしれないとも考える。
しかしもしかしたら、と遺書の文言を初めて目にした時の気持ちを反芻してしまう。もしかしたら、父は自分を愛していたのではないか?
今まで、そんなことは考えたこともなかった。証左を求めるように父との記憶を辿ったが、いずれの思い出も靄(もや)がかかったように曖昧ではっきりとしない。どうでも良いと思っていたので、何もかも受け流してしまったのだろう。ついには父との会話を何一つとして思い出すことはできなかった。
(失ってから気付くこともある)
だが、それはただの可能性であり、事実かどうかは永遠に確証が持てない。五体満足の父よりも目玉一つとなった父の方を生きている実在として感じ始めていたとしても、依然としてやはり、自分を人間として無価値な存在であるとする考え方は不変のままだ。
――ナムリスは目を覚ました。
船窓からの穏やかな陽光が彼を包む。つかの間の小春日和にうっすらと目を開けた。だが、空の色を確かめるより早く、とっさに瞼を閉じてしまう。身体の痛みの為だ。それに耐えて唇を動かす。
「戻ったか」
船室の片隅から足音が近付いてくる。
「クシャナ」
寝台の傍らで立ち止まったクシャナが、そっとナムリスの髪を撫でた。なるべく、皮膚に手が当たらないように気をつけている。触れれば弾けるとわかりつつも、シャボン玉へ指を近付けてしまう子どものように、女は良人を求めずにはいられなかった。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、身体が痛まぬように配慮しているクシャナの顔が頭上にあった。目が合うと、やるせなさそうそうに眉根を寄せて微笑んだ。ほんの少し持ち上げた口元に皮肉の色を滲ませた様子は、彼女には似合わなかった。
ナムリスは視線を外さぬまま、髪に触れる手を掴み、己の頬へと宛がった。その親指を唇の隙間から舌で舐める。
「柔(やわ)い」
「痛まぬという訳ではないのだろう?」
それには答えず、指先を口中に差し入れると愛撫した。濡れた温かさと細かなおうとつの滑らかさを這わせる。互いに存在を感じ合ってからクシャナは寝台へ膝をつき、口から指を引き抜くと接吻した。彼女の背中に腕が回され、引き寄せられようとしたが寝台の上で膝が堪(こら)える。唇を離したクシャナの真剣な眼差しが男を制した。そのまま、身体を起こすと傍の椅子へ深く腰かける。両腕を椅子の肘へ置き、足を組んだ。
「お遊びでは済まされない」
笠木にこめかみ辺りを寄りかからせる。その横顔の気怠さが美しい。
「私たち二人というものは」
ナムリスは上半身を起こすと枕を脇息代わりにしつつ、体を横へ向けた。片腕を持ち上げ、天井へ掌を見せた。
「いいや、所詮はただの火遊びさ」
にこやかに言うと腕を下ろす。
「捨てられるのは私ではない」
「そう、俺だ」
身体の痛みなどないかのように寝台から立ち上がった。いつも、クシャナの前では溌剌として見せる。それが嘘だと知れた後も、以前と変わらすに振舞っていた。何も問題などないのだと無言の内に示し続けている。椅子の後脚に手をかけ、その横へ立った。背中合わせのように彼女へ後ろ姿を見せる。
「捨てるなら、勢い良く突き落としてくれ」
「甘えるな」
ナムリスが頭をやや振りかえらせながら視線を落とすと、顎をあげて上を向くクシャナの顔が良く見えた。その気の強い面差しが堪らなく愛おしく思われる。互いに不敵な笑みを浮かべ、見つめ合う。
「ひひひ……今の俺には殺すほどの価値もないな」
「また、見捨てようか?」
「ひでえ女房だ!」
彼は上を向き、実に愉快そうな笑い声をあげた。椅子の後脚を一本ずつ、左右の手で掴むと椅子の後ろから回り込むようにしてクシャナに顔を近付ける。彼女はごく自然な態度でそれから離れるように椅子の肘で頬杖をついた。
「諦めちまうのは、いつだって俺だ。クシャナじゃない。亡者の使いを他人に託しても、部下の生命の為に生きることを選択した女じゃあないか?」
「お前が私を死なせなかった。生きるように仕向けただろう。気付いている」
「生きていてもらわなくては困る局面だったからな」
「今も、そうだろう? ムコ殿」
ナムリスの唇に人差し指を軽く当てた。会話としては回答を求めつつ、行動としては言葉を断ち切ろうとする。その指を撫でるようにしてかすかに下ろし、下唇の上で止めた。真実など知ったことではないが伝えたいのなら好きにするが良いとでもいうかのように猶予を残す。
一拍の間(ま)の後(のち)、口元から指を離すと腕を下ろした。椅子の肘からだらりと手首を垂らし、頬杖をついたまま明後日の方向を向いた。船窓から陽光が降り注いでいる。光の筋に照らされた白い肌が眩しい。滑らかな体の輪郭がぼやけ、瞳の色だけがはっきりとする。
蠱惑的な女を男はジッと見た。その顔(かんばせ)に触れたいと思いながら手を伸ばさず、その心を掴みたいと望みながら言葉を飲む。やがて、クシャナは視線を戻すだろう。その時こそ、男は降伏する。妻だけを求めているのだと認めざるを得ない。影の落ちた彼の両目がちらっと光った。
いっそ、とナムリスは考える。憎みながら愛せれば良いものを……。
――ガコン、と音がして、外から船の昇降口が開かれる。突然、暗がりに熾った鬼火のような唐突さで第三者の侵入が告げられた。二人揃って船室の扉へ顔を向ける。両者の視線は混じわらなかった。
瞬間、ナムリスは臭気を感じ取る。扉の隙間から匂ってくるはずのない香りが流れ込み、侵入者を誰と告げた。彼は身体をまっすぐに起こすとクシャナを隠すように扉へ向き直る。
彼の意図を察しかね、心を探るようにその背を見た。力強く立つ姿に不自然なところはないというだけで、それ以上のことはわからない。それでも、椅子に座ったままではいられなかった。立ち上がって良人の隣に並ぶ。手が触れそうなほどの近くに寄り添うが求めることはしない。二人とも、横に並び立つ人物が伴侶であるという事実だけで充分だった。
程なくして、無言の内に眼前の扉が外から開かれる。トルメキア代王の船に乗り込んできた人物は土鬼(ドルク)の人間だった。姿形からは中肉中背の老けた男であるという以上の情報は読み取れない。感情の死んだ相貌は立ち枯れた老木を思わせる。
「何用か」
厳しい口調で尋ねるクシャナに、男はゆっくりと視線を這わせた。
「あの時も同じようにお尋ねになりました」
わずかに口を開いただけで唇を動かさずに発せられた言葉は、窓硝子を震わせる木枯らしのように無視できない存在感がある。大地へ横たわる影に似たなんの印象も残さない容貌との対比が不気味だ。
クシャナには男の言うことが理解できない。更に詰問しようとする気配を察して、ナムリスが片手で制した。
「久しいな」
「神聖皇帝陛下」
「久しく感じなかった血と臓物と糞尿の匂いだ」
「ナムリス」
発言の意味を訊ねるように呼ばれた名に対し、顔も向けずに彼女の髪を撫でて応える。優しい仕草とは対照的に侮蔑の念を込めて男に笑いかけた。
「シュワの墓所は深く広い。死にぞこないか」
クシャナの表情が険しくなる。触れる手を振り払うように一歩前へ踏み出した。ナムリスは笑みを消さぬまま、腕を組む。
「墓所の生き残りの用向きはなんだ」
「お納め頂いたものの……」
「なんだと?」
「修復が必要かと存じます」
男の声に肺腑の奥がひやりとして合点した。
「お前は……私にナムリスの首を渡した……」
「良くも腐海の底から見つけ出してきたものだ」
男が返事をするよりも早く、椅子へ腰かけたナムリスが口を開く。寝台へ向いたまま、後頭部を男とクシャナに見せている。
「ご苦労なことだよ」
「代王陛下」
男は服従の意を示して膝をつき、首(こうべ)を垂れた。
「陛下は墓所の主のお考えをご存じありません」
ナムリスが聞えよがしに欠伸をした。
「主は人類の苦しみを終わらせる為の知の結晶でした。その英知には遠く及びませんが、私(わたくし)共もまた、人類の苦しみを終わらせたいのです。この微々たる知識と技術で、世界へ貢献することをお許し願いたいのです、代王陛下」
実際、クシャナは墓所の主については何も知らない。だが、かつて墓所の主と対峙したナウシカが否定したであろう言葉を、この男が吐いているのだと直感で察した。急に頭が冴え始める。
「お信じになれませんか」
男が顔を上げた。仕草の一つひとつが予定に組み込まれているかのようでわざとらしい。
「私共の気持ちを証明する為に、まずはあなた様の良人の苦しみを取り除いて差し上げましょう」
「お前」
ナムリスが振り向きもせずに話しかける。
「その頭をこちらへ持ってこい」
軽く片足を持ち上げ、空中で足首を動かした。
「這いつくばって許しを乞え。踏みつけにしてやろう」
どうでも良さそうに言うと足を投げ出す。
「そなたには知識と技術があるというのか?」
クシャナが腰をかがめて膝に手をつき、優しく話しかけた。
「しかし、それを実現する為には特別な道具が必要なのではないか?」
「いいえ。いいえ、陛下。道具など替わりはいくらでもあります」
しめた、と言わんばかりの反応で顔を上げる。一瞬、如何にも俗っぽく表情が歪んだが、すぐさま無表情を取り繕う。
それを椅子の肘に頬杖をつき、背もたれから上半身を乗り出す形で振り向いているナムリスが見ていた。眉間にしわを寄せ、うんざりとした様子を隠しもしない。
「ですが、土鬼(ドルク)ではいけません。私共をトルメキアへ……」
「そうか。それではシュワへ行かねばならん」
クシャナの真意を掴みかね、男が反応に困って目を泳がせる。
「何故でしょうか……」
しばらくしてからどうにか言葉を紡いだ。
「トルメキアも戦役の後で苦しいのだ」
にっこりと笑いかける。
「わかってくれ」
男には何もわからない。
「そちらで船を用意しろ。今夜にでも向かおう」
急に冷たい声で命ずると身体を起こす。
「さて、お帰り願おうか」
男は伏して動けぬまま、目論見から外れていく話の成り行きを取り繕おうと会話の糸口を探している。
「陛下」
意を決して面(おもて)を上げた瞬間、クシャナがナムリスの膝の上に座り、彼を抱きしめた。
「失せろ。生臭坊主」
ひひひ……と、その言葉を肯定するように意地悪く笑うナムリスが、横目で男を見ながら手を振った。