トルメキア戦役勃発の報せを弟以外の者からもたらされるのは、ナムリスにとって面白いことではなかった。
(一人で勝つつもりか。臆病者め)
容器の外からは中を窺い知れない沐浴槽に沈み込む。日常使いの為に簡易のものが私室の一部にこしらえてあった。部屋の中には世話をする者の一人とてなく、静まりかえっている。ナムリスは横たわるように身体の力を抜くと浮遊感に身を委ねた。
皇弟が何を恐れて皇兄を戦役から遠ざけるのか、彼には理由がわかっていた。軍の指揮系統を二分することは戦況へ不利に働くと見越した為ではない。帝位の独占を諦めぬ同胞(はらから)に兵力を預けることは、帝国の実権を握り続ける上で差し障りがあると予見した為ではない。
皇弟の猜疑心が衰えない原因を、ナムリスは把握している。長い在位中に皇兄の存在が彼の心を乱したこともあった。だが、戦乱という大厄の力を借りてまで排除しなければならない程の脅威ではない。世の統治者たる者がその役目を終えるまで頭を悩ますべきは民草のことと決まっている。その結果としてかつての名君は今や土民を憎むに至った。
彼は土民からの尊崇と畏怖の念を自らの配下である僧会へ集めることが、土鬼諸侯国連合帝国を永続させると信じている。ナムリスにはそれが被支配層への恐れと思われた。従える者たちを神聖皇帝の膝下へ繋ぎ止める為に、戦争の効果を皇弟一人へ集約させる腹積もりと読める。すなわち、戦勝者の名は二つもいらぬという訳だ。
(好きな道をいくが良い。俺はお前の足元の影にはならぬ)
沐浴槽から上がるとタオルで身体を拭きながら隣室へ移る。寝台の上に用意させた着替えに腕を通した。サイドテ―ブルの小箱へ手を伸ばそうと目をやった時、その隣に頼んだ覚えのない瓶があることに気がついた。口にグラスが引っかけてある。特徴のある容器ではないが見覚えのあるような気がした。
長衣をかぶると着替えもそこそこに寝台へ腰を下ろす。小箱の蓋を開けて取り出した錠剤を口に含むと、瓶を手に取り、グラスを外した。手触りから記憶を引き出すように両手を添える。かすかに漂う内容物の匂いがナムリスに物の正体を思い至らせた。
顔色を変えず、静かに立ち上がると、瓶からグラスへ液体を注ぎながら移動する。素足をさらしたままテラスへ出た。まだ、陽は高く、うららかである。透明なグラスを目の高さまで上げ、その色を確かめた。
彼にはこれが何かわかっている。瓶の形も液体の匂いも色も全て覚えている。かつて、何度となく届けられ、一度として拒否したことはない。複製体からの移植手術が済むと決まってこれが送られてくるようになったのは、術後の経過が思わしくない為に大熱をだして臥せった時に遡る――
「ナムリス」
閉じた天蓋カ―テンの向こうからミラルパが寝台に横たわるナムリスへ声をかけた。うっすらと目を開いた彼には仰々しく飾り立て、面布をかぶった弟の姿が影法師のように見えた。天蓋に覆われた暗がりの中で他に人の気配のないことを感じ取る。
「殺されるかと思った」
ひひひ……と苦しげに笑う。
「何故」
深刻さのない態度に安心するよりも呆れたミラルパが嘆息混じりに聞き返した。
「俺なら殺すからさ」
「その性根には屍肉を漁る犬が相応しかろうよ」
「お前の手を血で汚した人間の数よりも少なく、俺の剣が振るわれたと思うか。事切れる瞬間の顔がどんな色をするかも知らないで、一端(いっぱし)の口をきくな」
「わざわざ、手を下す身分でもあるまいに、それはただの悪趣味では?」
「異教弾圧も酷い趣味だと思うがな」
「あれは趣味ではない! 国事に私情を挟んだことなどない!」
ミラルパの大きな声に室外で控えていた者たちが慌ただしく扉を叩いた。彼は身体をそちらへ向けると一言でその音を制す。
「怒ったか」
「怒ってない」
抑制の利いた声で答えた。
「お前が怒ると嬉しいよ」
返事をせず、サイドテ―ブルの水差しへ手を伸ばす。コップに注ぐと面布の下に手を入れ、断りもなく一息に飲みほした。
「恨むでもなく憎むでもなく、ただ怒るのはこの兄に対してだけだものな。なあ、もう一度、先程のように言ってくれないか。弟よ」
ミラルパは天蓋カ―テンの隙間へ腕を入れると、ナムリスをつねくった。
「痛い痛い」
くすぐられたのを咎める程度の軽い声が応える。直に触れた熱を帯びた皮膚が濡れていることを訝しんで、彼はすぐに手を離した。何が付着したのかと掌を確認する。それは血だった。
「誰も呼ばなくて良い」
先んじてナムリスが制する。
「術後しばらくしてから止まらなくてな」
「皮膚を移植したのか」
「皮膚という皮膚の毛穴から血が滲みでて仕方がない。今は寝具を取り換えたばかりだから匂いが酷くないことだけが救いだ」
「いつまで」
「さあな。身体に馴染めば治まろう」
「意味が違う」
ミラルパが両手を身体の前で組み、ちょっと押し黙ったので、ナムリスは面倒くさい話になるなと思った。
「いつまで、移植手術を続けるのかと訊いている。そもそも、移植手術などというものは不安定な爆薬を身体に積み込むようなものだ。いつ、破裂するともわからないのに全く気が知れない。生が遠のき、死が近付く」
天蓋カ―テンの隙間から血だらけの片手をそっと突き出して見せてやる。思わず飲み込んだ言葉が短い呻き声となって、ミラルパの口から漏れた。
「怖いか。何が怖い。次の瞬間には砕けた肉塊となり果てるかもしれぬ兄の元へ良くもこられたものだ」
足の力が抜けるようによろめきながら窓際の椅子に座り込む。背もたれに片腕を乗せ、その上に顔を伏せた。
「気分が悪い」
「俺が移植を始めたのも続けるのも、お前の為だとしたら、どうする? ミラルパ」
彼は椅子の上で身動(みじろ)ぎもしない。
「父の死を目の当たりにした故に移植を拒む弟へ、手術をしても無事に生きていられると証明してやる為だとしたら。老いと死を恐れるお前を哀れんで」
「嘘だろう」
「では、父の死に様を思い出させる為かもしれない。移植を受けた俺が生きている姿を見て、今一度、生命が目の前で果てるのではないかと、お前の心が穏やかでいられぬように」
「自らの生命を誰かの為に犠牲とするような人間ではない」
「いつまで、身体を取り換えて生きるのかと訊いたな。神聖皇帝が一人になるまでだ」
「兄君」
ミラルパが頭を起こして寝台へ顔を向けると、すでにナムリスの腕は天蓋カ―テンの向こうへ消えていた。
「このミラルパと勝負をしようと? むしろ、それは賭けに近いのでは?」
ひひひ……とかすれた笑い声をたてる。
「熱に浮かされて、余計なことを口走ったか。余計ついでに、まだ言葉を続けよう。その強気な鼻っ柱をへし折ったら見物だろうよ」
さっと椅子から立ち上ると視線だけをくれながら寝台を遠巻きに扉へ向かう。
「誰が死のうとも、俺は死なぬ」
返事を待たずに弟は去った。夜更けになり、皇弟名義で薬と称した瓶が届けられる。それを飲みもせずに見ただけで、ナムリスは使者に伝言を頼んだ。良く効いたので、また送るように、と――
それ以来、術後に必ず届くようになった薬が手術とは関係なく、ナムリスの手元にある。一口だけ含むとすぐに吐きだした。彼にはこれが何かわかっている。毒だ。
「誰かある。弟の居場所を探してこい」
室外で控えていた使用人は入室せずに返事だけを残して去っていった。着替えを完全に済ませた頃には答えがもたらされる。面布を被ったナムリスが供の者を一人だけ連れてシュワの居城を移動する。人気(ひとけ)のない奥まった中庭に、皇弟が胸の前で両手を組んだ格好で立っていた。陽が良く差している。
「今はお身体におられません」
傍に控えていた供回りの一人が声掛けを制した。
(つまり)
霊体の抜け出た肉体と距離を置いたまま、ナムリスは考える。
(少し突き飛ばしてやれば、ミラルパは死んだも同然になるという訳か)
中庭を横切る渡り廊下の屋根の下で腕組みをすると柱へ寄りかかった。
(今のような機会はこれまでに何度かあった)
その都度、差出人の明らかにされた毒薬のことを思い出す。
(死の間際に俺が殺したと伝えてやりたいのさ。俺たちの間でけりがついたとな)
「ナムリス」
ミラルパが身体に戻った。ナムリスは片手を上げて応える。それぞれ、供の者を下がらせた。
「戦争だそうだな」
屋根の下の影から出ずに会話を始める。
「首尾良く攻め入れさせた。俺たちの狙い通りという訳だ」
「遠い国での戦争に国民は関心を払わない。どれだけ兵士が傷付こうとも他人事だ。僧会の力を知らしめ、恐怖を伴った尊敬で土民共をまとめあげるには奪われた国土を取り戻すぐらいがちょうど良い」
「だが、気をつけろ。一旦、タガが外れると国は脆い」
「心配ない。この戦は始まる前からすでに勝っている」
「それは初耳だな」
その声音の皮肉な響きに、ミラルパがナムリスを注視する。
「信じないか?」
「聞かせろよ」
「トルメキアに先王の血を引く娘が一人いる」
「クシャナか。武名は聞いている」
「正統なる王位継承者を疎んじ、戦乱に乗じて謀殺しようという動きがある。皇女の作戦はこちらへ筒抜けだ。彼奴(きゃつ)らの短期決戦の構えから、この戦争は王家の厄介者を始末することが目的だろう」
「面白い話ではないか」
ナムリスは弟のこの手の読みは信用しないことにしている。
「俺も長期戦は望まぬ。国土からトルメキア人を追い払ったら程々のところで手を打とうと思う」
「俺が面白いと言うのは」
中庭へ足を踏み入れ、日向に身体を出す。
「その娘のことだ。良い火種ではないか。血を燃やし続ける為のな」
「つまり?」
ミラルパに近付くとその肩に肘を乗せ、下から覗き込むように顔を見た。
「トルメキアの正統なる王位継承者を我が懐へ招き入れ、継承権を行使させれば、彼の国は放って置けまい。父祖のように国を切り取って見せよう」
面布によって互いの顔色は窺えない。だが、ナムリスには弟の嫌悪感が伝わり、ミラルパには兄の誘惑する笑みが感じられた。肩に乗せられた腕を振り払う。
「では、皇女を生かして捉えよと?」
「いいや。殺せるなら殺してしまえば良い」
訳を訊ねるように黙り込む。
「死の淵から憎悪を滾らせて立ち上がる女ならば連れ添う価値もある。いつ、喉元に食らいつくかわからない者をこそ、抱く甲斐があるというものだ」
「運命の女とでも言うつもりか。女の心に何があるかも知らないのに。まるで、片思いだ」
ナムリスにとって弟の指摘は意識の範疇外だった。その事実が恋に盲いた気持ちにさせる。
「そうだな。たった今、恋をしたのかもしれない」
「言っておくが、俺は許さない」
背を向けると足早に中庭を進んで去ろうとする。
「トルメキアなど欲しくない。土民共だけでも頭が痛いというのに……」
「何を怒っている?」
一応、歩いて追いかけてやるが、追いつこうという気持ちはない。
「日陰者同士の傷の舐め合いぐらい許してくれよ」
一陣の風が草木を鳴らした。足を止めたミラルパとの距離を詰めていく。
「クシャナを嫁にすると? 駄目だ」
「お前が反対するのか。父でもあるまいに」
「このまま、ずっと……」
急に振り返るとナムリスの胸ぐらを掴んだ。
「ずっと、何もかも変わらなければ良い。土鬼諸侯国連合帝国が存在し、神聖皇帝が統べ、僧会が人心を掌握し、土民の不満は国外の敵に向けられ、俺の足元には兄がおり、世界は生まれた時から変わらないのだと証明し続ければ良い」
「永遠に生くる者なし」
腰に両手を当て、平然とした態度で応えた。その言葉が正鵠を射ていることに愕然とし、ミラルパの腕から力が抜ける。号砲が鳴り響いた。
「戦争へ行かなければ……」
ナムリスを離すと勢いのない小さな声で呟く。避け得ぬ死という現実がミラルパに重くのしかかり、肩を落とさせた。
「俺には留守居を頼むという訳だろう? それを確かめにきた」
この機会に毒薬を送られた意味を、ナムリスは把握している。それを弟の口から言わせたかった。戦役の全責任を負いたいのなら明言してみせろという訳だ。
「そうだ。墓所を守って、俺が戻るまでは決して出てこないでくれ」
その意図を読み取ったか否かはっきりとしない、心ここにあらずと言った様子でナムリスの目の前を通り過ぎていく。出陣に似合わぬ覇気のなさを見かねて仕方なく、その背中に声をかける。
「いつもの薬をまた届けてくれ」
「次があるなら」
「なくてどうする、皇弟。俺がここにいるのに」
ちょっと振り返りかけて、途中で動きを止めた。
「ならば、皇兄。次は国中で俺の凱歌を歌わせよう。支配者の名を二つと唱えられない程に」
幾分、ミラルパの歩みに力が戻ったようだ。ナムリスはそれを見て取ると背を向けて遠ざかる。
戦場で死なぬように発破をかけたのは己の手で政敵に止めを差す為だろうと、弟は気付いていた。実際、兄の意図も同じだった。だが、と兄弟は共に考える。今の言葉に優しさを感じることは不可能だろうか? ただの一度、痛みに苦しむ兄の元へ、弟が見舞ったこともあったのだ……。