第四話 鬼は偶さかに夢を見る
「食べても良いのよ。そのかわり、私で最後にしてね」
耳に届いた声が遅れて脳に届く。声が意味するところを理解するまで、自分は動きを止めていたようだ。振り上げられた右手が下ろされるのを、女は待っている。
地平線を越えてもなお何もない、嘘のように広がり続ける草原で、人喰いにして同胞喰らいの妖怪は、自らの生命を差しだす生き物に初めて出会った。何故、と考える。何故、この生き物は自分に喰らわれるのか。そして何故、自分は動きを止めたのか。
女は微笑んだ。
「嬉しい。お前にも知恵があるのね」
女の手が額に触れる。白く冷たい手が意識を覚まさせる。草原には風が吹き、陽光が差していることを知る。それまでの自分は遠い彼方に消え去り、新たに生まれ変わる。
「名をあげましょう。私はいつまで。お前はうわん」
「……う……わん……」
その時、世界の中心はいつまでただ一人だった。光の中に女が佇んでいる。自分にはその顔しか目に入らない。女の瞬きが世界を決める。その哀しそうな――
夢だった。目を開くと、天井が見えた。何の彩色も施されていない、舎人の部屋だ。
(何故、昔の夢など……)
夢から覚めきらない意識は、身体を動かすことが出来ない。夢の世界に戻りたいと願う。全体として楽しくはない夢の中で、悲哀に浸かりながら、時を過ごしたいという誘惑が、瞼を閉じさせる。だが、夢には帰れない。それはすでに終わってしまった。
(術の気配がする)
感傷を振り切るように勢い良く起き上り、衣を纏う。
いまだ、草原の夢が語りかける。月に風は吹かない。冷たさも暖かさもない。得るものは少なく、満たされることはない。お前は誰を求める? 今、感じている寂しさも苛立ちも捨て去ってしまえるとしたら? それは至極、簡単で単純なことだ。去れ。
戦斧を取ると、庫王の部屋を目指して自室を出た。
意匠として柱が多く用いられている廊下を抜けると、すぐに庫王の部屋についた。居住区は神殿の入り口付近に固められている。扉は閉じられていた。
「うわん。入ります」
返事も待たずに扉を開ける。むせ返かえるような花の香りが、部屋に満ちている。うわんは眉を顰ひそた。だが、室内の床に座る二人にはすでになんのことでもないようである。
一人は片手に持った水差しを高く掲げ、大きな水盤に中身を注いでいる。その中身は砂だ。さらさらと音を立てて砂が流れ落ちていく。もう一人は水盤に溜まった砂を覗き込んでいた。
「あなたの夢を借りたわ」
いつまでは水差しを下ろす。
「もう、何も映らない」
砂を掻き混ぜながら庫王が言う。
「うわんが起きたからか」
いつまでが頷いた。
「お戯れですか?」
胸に手をあてて片膝をつく。
「お前達のことが知りたくてな」
「お珍しい」
「図に乗るなよ。いつまでの術がお前のものとは違うような気がしたから、確かめてみただけだ」
「はい」
「如何にも雅ではないか。酸素の不足を補う為に、自らの一部を変じて花を咲かせるとは。赤い曼珠沙華の花言葉は幾つかあるが……『再会』と言ったところか?」
「そうね」
「そろそろ、時間か」
庫王が立ちあがる。
「中々、面白かった。礼を言う」
庫王が部屋を出るまで、いつまでは座ったままだった。それに一瞥をくれると、うわんは庫王の後に続いた。
柱を横に何本も通り過ぎながら廊下を行く。
「お前は」
前を歩く庫王が口を開いた。
「いつまでと暮らしていたのか」
「はい。いつまでから世の仕組みを教わりました」
「何故、道を違えた?」
「彼女が兄から行方を眩くらませたのです」
「お前に黙って?」
「はい」
「……怒らないのか?」
「何故ですか?」
「儂なら自分の元から勝手に逃げだしたものを赦さない」
力なく呟いた。とても王者の言葉とは思えなかった。威嚇にもならない。それはただの吐露だった。
何か変わってしまったと、うわんは思った。
やがて、神殿の大半を占める書庫に辿りついた。中の書棚は全て埋まり、収まり切らなかった書物が乱雑に積み重ねられている。庫王は迷うことなく指示をだし、うわんに幾十冊の書物を持ってこさせると、脚立に座って読み始めた。
書棚の間で、身体の大きなうわんは窮屈そうに、片膝をついた。夜の訪れまで、そうして時が流れていく筈だった。しかし、うわんは口を開く。
「お願いが御座います。庫王様」
「なんだ」
書物から顔をあげずに答える。
「退席しても宜しいでしょうか?」
「良い。だが終日、戻ってくるな」
「はい」
庫王の態度は落ち着いて見えた。安心して退席する。
(戻ってくるなというのが気にはかかる……)
だが、今はそれよりも急がなければならないことがある。
「何かしら?」
床に伏せるいつまでが言う。
「何をしに来たのかしら?」
「起きるな。寝ていろ」
足早に寝台の傍まで行く。
「大丈夫よ……」
「そうかな」
うわんはいつまでと唇を重ねた。探るように唇を動かすと、唇を離した。床に何かを吐き捨てる。それはかさぶたの塊のような赤黒い物体だった。
「術の中毒を起こしているな。いつからだ?」
「お解りでしょう?」
額に汗を浮かべ、辛そうに微笑む。うわんは小さく唸った。
「あの七夜の後か……。何故、無理をする?」
「まだ、眠っている私の許にやって来て、庫王が言うのよ。『うわんとはどんな関係だ』って。可哀想に。一睡もしていないに違いないわ」
「それで、という訳か? 嘘だな」
「……」
「俺の主に何をしようというのだ!」
いつまでに覆い被さると首に手をかけた。戦斧が大きな音を立てて床に落ちる。
「言え!」
「……救いたいの……」
「なんのことだ?」
手に力を込める。
「……あ……われな……人……」
「哀れ? 大きなお世話だ」
甘い。花の甘い香りがする。再び、唇を重ねる。物体が口の中に移ってくる。彼女の毒……。
「暫く、術は使うな」
口内の物体を吐きだすと、首から手を離した。
身体を持ちあげたいつまでの手が追い縋るように首に回された。
「理解する必要はないのよ」