第三話 所望

   一

 声にならぬ声が脳髄に響く。ミラルパの苦悩と苦痛が、ナムリスまで漏れてくる。

 ミラルパの超常の力が、本人の意思とは無関係に作用し、超常の力を持たぬナムリスに念話として届くのだ。この無意識の念話は、他の者には届かぬらしい。

 今、ナムリスはヒドラの飼育槽の端に腰掛け、足下で蠢くヒドラに餌をやっている。

 ヒドラは腕を頭上に伸ばし、他のヒドラを押しつぶさんばかりの貪欲さで餌を求めた。

 ナムリスは長い棒に突き刺さったなんの肉とも知れぬ餌を、気まぐれに放る。ふと自分の手に目がいく。まだ、若々しく、少年のような手だ。

(ミラルパはだいぶ老いたろう)

 ナムリスは力を蓄えている。弟を栄光の座から追い落とし、帝国を我がものとするために歯牙をといでいる。

 面布の下で、彼はちょっと欠伸をした。

(気怠い)

 膝を立て、その上で頬杖をつく。

 弟とはほとんど会っていない。彼の苦悩と苦痛にかけてやれる言葉がない訳ではないが、わざわざ話しに行こうとは思わない。

 血を分けたただ一人の兄弟の声無き声を、聞くともなしに聞きながらヒドラを手懐けていると、盆の上の餌がなくなった。

「誰か」

 自然と口にした言葉に違和感を覚える。

(今、俺が発した言葉は俺のものだろうか? ミラルパの抱えきれなくなった苦しみが、俺を通じて助けを求めたのではないだろうか?)

 近寄ってきた下男を片手で下がらせ、ナムリスは立ち上がった。

「陛下」

 下男が後から呼ばわるのを無視する。

「陛下」

 いつになく下男がしつこく声をかけてくる。

「何用か」

 クシャナの寝台の上で、ナムリスは目を覚ました。ヘルメットは寝台の下に転がっている。

 同時に扉をノックする音が中途で止まる。どうやら、「陛下」と呼ばわっていたのは、寝室の扉の向こうにいる男のようだ。

 扉の向こうの困惑を感じ取り、ナムリスは夢中の最後の言葉を思い出す。夢で下男にかけた言葉は、寝言として口から出たものと思える。

「何用か。入れ」

 寝室の扉が開かれ、外の光が寝台まで届く。

 逆光によって、ナムリスからは男の容貌がわからないが、相手からは上半身が裸のナムリスの姿が良く見えただろう。

「陛下は?」

「風呂だ」

 ナムリスは「陛下」とは自分のことではなく、クシャナのことであると察した。先程は寝惚けたのだ。

 男は慌てなかったが、落胆を誤魔化すように肩を竦めた

「そうかい。じゃ、また後で来るぜ」

「嘘だ。安心したか?」

 ひひひと笑うナムリスに、男はかける言葉がない。

「まあ、閉めろよ」

 男は躊躇わずに寝室へ足を踏み込むと、後ろ手に扉を締めた。

「陛下は?」

「さァてな」

 お互い、不躾に相手のことを観察する。一方は計算高く、もう一方は享楽的に視線を走らせた。

 男は垂れ目で髭を生やしている。見た目よりも歳は若そうだ。

「そう固くなるな。クシャナはいねえよ」

 男は「そうかい」と言うと、言葉少なに立ち去ろうとする。

「おい。何か聞きたいことがあるだろう」

 それは質問ではなく命令だった。

 その意を敏感に感じ取った男は動きを止める。態度を決めかねるような沈黙が流れたが、大して頑張らずに男は会話の主導権を明け渡した。

「なんで返事をしたんだ、あんた」

「ん? 寝惚けたんだよ。陛下を気取った訳じゃない」

 ナムリスはあぐらをかき、頬杖をつく。

(むしろ、俺はすでに陛下な訳だが)

 先程の夢を思い出す。あれは過去の記憶だった。何者にもなりきれていなかった時分が、そのまま現在と重なる。

 亡国の皇帝の今は何者? 頭に響く声はすでにない。彼は一人で、その気怠さと向き合わねばならない。

 ナムリスは寝台から降りると、一直線に男へ近付く。

 男はちょっとたじろいだが、身動きしなかった。

「暇か」

「いや、俺は陛下を……」

「一緒に探してやろう。ついてこい」

 ナムリスは男の返事を待たずに背を向けると、クローゼットの下から箱を取り出す。そこにトルメキア人の男装が入っていた。

「当てがあるんで?」

「無駄口を叩くな。名乗れ」

 男は口をつぐむ。

 ナムリスは男の態度に腹など立てなかった。彼は振り返ってせせら笑う。

「どうした。恐ろしくて名乗ることもできんか」

「クロトワ」

 その声に敵愾心はなく、達観のような諦念が滲み出ていた。

(長いものには巻かれろという訳だ。だが、まだ俺の正体を計りかねているな)

 ナムリスは手早く着替えていく。だが、彼の外出を想定して揃えられていない衣服にはマントが欠けていた。

 ナムリスはクロトワを手招きする。

 彼は不承不承という感じで近付いてきた。ナムリスがクロトワの肩に手を置くと、世慣れた顔がちょっとビックリする。

「何……?」

 ナムリスはクロトワのマントを剥がすと着用した。

「人肌の温もりが残る衣服は気持ちが悪いな」

 流石に何かを言おうと、クロトワが口を開きかける。

 それを真っ直ぐにナムリスは見た。

 今までのにやけた表情が消えた彼のひどく真面目な顔つきに、クロトワの言葉は喉の奥で雲散霧消する。彼は後頭を掻きながら、扉を開けた。

 ナムリスは満足げに口角を上げ、当然といった足取りで寝室の外に出る。クロトワがついてくることを疑いもしない足取りだ。

 クロトワは扉を閉める時に寝室の中を見回したが、寝台の下にある神聖皇帝のヘルメットには気が付かなかった。

   二

(不思議なのは)

 王城からの連絡船に乗り、ナムリスを座らせながら、クロトワは考える。

(こいつが王宮内に全く詳しくないってことだ。どの通路を突っ切れば外に出られるかもご存知ねえときた。このお坊ちゃんは)

 ナムリスの隣に腰掛けながら、ちらと彼を見た。

 クロトワのマントを敷物にし、壁に寄りかかるナムリスは、サイズの合わぬ衣服から鎖骨を覗かせている。肉付きが悪すぎて衣服がブカブカだ。

(兵役逃れの王侯貴族ってとこだろうよ)

 トルメキア軍が外征で苦しんでいる間、こいつが本国でのうのうと暮らしていたのかと思うと、クロトワは嫌悪感を消すことができない。

(クシャナの情夫にはとても思えねえんだが……。じゃあ、なんでこいつはクシャナの寝室なんかで寝ていやがったんだ?)

 推測を裏付けるものがないため、状況証拠的に主君の情夫として相手をするしかない。

(くそっ。情けねえな)

 クロトワはクシャナに関する決定的な事実を知ることを忌避している。また、その現実逃避を自覚してもいた。

 ほどなくして連絡船は地上へと降り立つ。

「市場へはどう行く」

「他の連絡船に乗り換える。探してくるから、ここで待っていてくれ」

 人混みを縫い、目的の連絡船を探す。

 連絡船の集合場所ではあるが、目的地別に着陸する場所が決まっている訳ではないのだ。

 運転手に尋ねること数回で目的の連絡船を見つけ出した。もうすぐ、離陸する気配である。

 ナムリスの元へ急いで引き返していると、進行方向から怒号が響き渡ってきた。

 ナムリスが待っているはずのところに人垣ができている。

(まさか、な)

 なんとか人垣から顔を出すと、そこにいたのはナムリスと素性の悪そうな男たちだ。

 先程の怒号をナムリスが発したとも思えず、クロトワは頭が眩む思いだったが、気を取り直してナムリスに何度も呼びかける。

 ナムリスはクロトワに気がついたが、ちらと気のない視線を送っただけだった。

(あいつ……! どうなっても知らねえぞ!)

 長剣を手に男たちが襲いかかる。

 それに対してのナムリスの動きは二、三歩だけ前に進んだようにしか見えない。ナムリスは男たちの動きを全てかわして通り抜けた。

 双方の位置が逆転する。

 男たちは現状を把握できるほど、頭に昇った血が冷めていない。ナムリスの手にする鞘が自分たちのものだと気付くことはできたが、剣に鞘が敵うはずもなしと高をくくっている。

 ナムリスは三本の鞘を簡単に比べると、二本を投げ捨てた。三人の内、最も体格の良い男を指差し、自分の頭を軽くつついてせせら笑う。

 挑発された男は仲間を制し、ナムリスに斬りかかった。

 ナムリスは避けながら、剣を振り下ろす腕を軽くいなし、鞘で上から下へ思い切り殴りつける。

 腕の骨が折れ、男は思わずしゃがみ込んだ。その腕を更にナムリスが踏みつける。

 男は叫びながらも動けない。

 ナムリスは腕を踏みつけにしたまま、男が手放した長剣に手を伸ばした。

 その時、人垣からクロトワが飛び出し、ナムリスを担ぎ上げて走り去る。クロトワの勢いに、人々は道を開ける。

「おい」

「もうすぐ、連絡船が出ちまうんだよ!」

「そんなに急ぐほどのことでもあるまい」

「一日一本だ!」

 クロトワは嘘をついた。

(長剣に手を伸ばした時のこいつの目! ただの喧嘩じゃすまねえ。血を見なきゃすまさねえって目だ!)

「担ぐのはやめろ」

 ナムリスに後頭部を殴られ、クロトワは彼の体から手を離した。彼は軽く着地する。

「あれか」

 顎で連絡船を示す。

「そ、そうだ」

 振り返りもせずに連絡船に乗り込むナムリスを、クロトワは追いかけた。

   三

 ――ずっと、笑顔だと良いね。民がずっと、ずっとね。

 王城のお膝元で、奴隷たちが競りにかけられるのを見物しながら、ナムリスは幼き日の弟の言葉を思い出した。

「土鬼(ドルク)の奴隷が多いな」

「どうしてもな」

 市場の広場に簡単な壇上が設えられ、奴隷たちはその上で競りにかけられていた。入札者たちは壇上の前に並んでいる。競りの順番待ちをしている奴隷は、男女毎に広場の左右で分けられ、互いの足を鎖で繋いだ状態で地べたに座らされていた。奴隷の男女は目を合わせることを禁じられている様子だ。

「それより、陛下がこんな場所にいる訳がないだろ」

「今はな」

 クロトワは真意を掴みかねる。

(その内、やって来るとでも? 待ち合わせをしているのか? クシャナが奴隷市場で待ち合わせなんてぞっとしねえな)

 ナムリスが壇上の前から移動するのを放っておく訳にもいかず、後をついて歩く。競り待ちの一群の内、先に男奴隷を順繰りに見た後、女奴隷の方へ向かった。

 ナムリスは男奴隷と同じように女奴隷を順繰りに見始めたが、ふと足を止めてしゃがみ込み、二、三の言葉をかける。

 クロトワに土鬼(ドルク)語はわからないが、女たちは興味を示したようだった。

(何を話してる?)

 次いで、ナムリスは静かに歌い始める。それはナムリスが籠の鳥だった時に口ずさんだ歌だ。土鬼(ドルク)の女たちにはそれがなんの歌であるかをすぐに理解した。

「乙女よ、泣くな。我らが誇りを仇敵に示さん……」

 故国を遠くにし、異国で売られていく女たちの心に感情が蘇る。

 ナムリスが繰り返し歌っている内に、女たちも徐々に歌へ加わり始めた。

 広場の中央で競りに熱中している者たちは気がつかない。競り待ちの奴隷を見回っていた警護はナムリスを問い詰めようとしたが、彼から顎下に軽く一撃をもらって昏倒してしまった。

 ナムリスは女たちにそのまま歌い続けろと目配せする。

 女奴隷の歌に、男奴隷は耳聡く反応した。

(故国の歌! 故国の女たち!)

 彼らの心にも熱いものが蘇る。土鬼(ドルク)の男たちも歌い始めた。

 広場中央のトルメキア人たちも流石に気がついたが、とっさに自体を収束できない。

 土鬼(ドルク)の男女は互いを求め合うように歌声をあげる。更に鎖を激しく打ち鳴らし、足踏みをするなど、奴隷市場は騒然とした。

 王城へ連絡をつけに壇上の司会者が走り去る。売り手側は奴隷を押さえようとやたらに殴りつけるが、逆効果のようだ。

 群衆を軽々と避けて進むナムリスに、クロトワは追いつけない。彼はクロトワのことなど気にもせず、壇上に上がると手近の椅子へ腰掛けた。

(野郎……。高みの見物か?)

 だが、ナムリスの顔は笑ってはいない。椅子の肘掛にもたれて頬杖をつき、至極どうでも良さそうに欠伸をした。

 クロトワは一歩後すさる。

 ナムリスには虚無がある。

(関わってられるか!)

 クロトワが踵を返そうとした瞬間、壇上のナムリスが片手を上げた。

「ご苦労」

 とでも言うかのように……。

 クロトワはなんの返礼もせず、そのまま踵を返すと立ち止まる。

(俺は呼び水に使われた)

 ナムリスがここで好き勝手をするための道案内として利用されたのだ。

「気に入らねえな……」

 クロトワが呟いた時と、広場の出入口から王城の増援がやって来た時は同時だった。

 先頭には甲冑に身を包んだ馬上のクシャナがいる。

(なんて哀しそうな顔だ)

 クシャナはクロトワに気付いているのか気付いていないのか、彼の横を素通りする。

 彼女の左右から騎馬兵が広場内に広がり、騒動を集約し始めた。

 クシャナはしずしずと広場の真ん中を進む。彼女の視線の先にはナムリスがいる。

 彼女を追うクロトワも自然とナムリスを見た。

(なんて嬉しそうな顔をしやがるのか!)

 ナムリスは立ち上がり、腰に両手を当てる。

 クシャナは壇上に馬を横付けにすると、「乗れ」と無感動に言った。最早、その表情に悲しみの色はない。

 ナムリスはクシャナの後に軽く飛び乗る。

「クロトワ! 後の指揮を任せる」

 彼の返事も待たずに、馬上の二人は走り去った。

   四

 クシャナとナムリスは市内の河岸で足を止めた。兵装のクシャナと奴隷市場の騒ぎとが合わさり、川べりにいた人間たちは怯えていなくなってしまった。

 ナムリスが先に下馬した。何か軽口を叩こうと振り向いた瞬間、馬上から下馬した勢いさながらにクシャナがナムリスの腰に手を回して引き寄せた。有無を言わさず接吻する。

 ややしてからナムリスが引き剥がした。

「積極的なのは良いことだがな、クシャナ。何を飲ませた?」

「毒だ。また、生首に戻りたくなるような猛毒だ」

「結構結構」

 ナムリスは軽く笑う。

「上等じゃねえか。殺してくれよ」

「ヒドラは頭を潰さなければ死なない」

 彼女はひどく冷静に言った。

「そうさな……」

 ナムリスの口から一筋の血が流れる。

「血反吐をぶち撒けて、地べたを這いずり回って、それでも生き続けるんだろうよ」

 クシャナは彼を見ている。二人はまっすぐに相対して怯まない。

 ナムリスは大地に血を吐き捨てた。更に更にと口から血が溢れてくる。

「だからなんだ。それが俺だ。俺はただの一度を立ち上がるために、それまでの人生を全て無に帰しても構わぬのだ」

 ナムリスは血まみれになりながら、腹をかかえて笑う。

「だから、今の俺は残り滓みたいなもんだ……」

 クシャナはナムリスを突き飛ばした。

 彼はあっさりと水底に尻餅をつく。ポカンとした顔でクシャナを見上げた。

「わかっていたとも、ナムリス。お前は立ち上がるのが遅すぎたのだ」

「 ひひ……憐れんでくれるか? 女房殿」

 ナムリスは仰向けに倒れ込む。

「冗談じゃねえ。いらねえよ。もう、何も」

 そのまましばらく血反吐を吐き続けると、ナムリスは激痛に気を失った。

 清流に人血が交じり、流れていくのを見ながら、念のためにクシャナは解毒薬を嚥下する。

「おやりになったんで?」

 背後からクロトワが言った。

 馬蹄の響きがなかったので、クシャナは驚いた。彼女が振り返ると、クロトワは徒歩で来たようだった。

「……この男を私の庭まで運んでくれるか?」

「何を弱気におっしゃいます、陛下。ご命令とあらばすぐにでも」

 クロトワは優しく言うと、胸に手を合わせて頭を下げる。

 クシャナは何も答えずに、ただ空を見上げた。

 まだ、陽は高く、空は青く、広大無辺の大空は彼女を包み込む。河岸に倒れ込むナムリスも、大空に包み込まれ、彼女と共に世界の一部になっているとは、クシャナには思えなかった。

世界をおもちゃに遊ぶ男は、壊すことしかしてこなかったのだから――

   五

 夕日に照らされた空中庭園は、緋色と黒い影に彩られ、他の色彩を失った。

「私は悩んでいるのだ、クロトワ」

 池の傍でクシャナが言う。

 クロトワは寝室の出入り口に佇んでいる。彼からは逆光でクシャナの表情が良くわからない。

「救うべきか、それともいっそ砕いてしまうべきか」

 クシャナは池に解毒薬を撒いた。

 池にはナムリスが浮かんでいる。虫の息で時々血を吐くが、ほとんどが気を失っていた。

「何故です?」

「何故かな。放っておけないのだ」

「そいつは救いようのない男ですぜ」

 クロトワはナムリスの虚無を思い出す。

「わかっている。わかっているが……」

 クシャナはその場で膝をつくと、ナムリスの額に触れた。

 クロトワはちょっと肩を竦める。

「良いでしょう。俺で良けりゃ、幾らでも話を聞きますよ」

「ありがとう」

 クシャナは顔を上げでクロトワを見たが、やはり彼からはその顔色を伺うことはできなかった。

(俺も本当にお人好しだよ。そう言われちゃあ、嬉しくなっちまう)

 もちろん、内心を表情には表さない。

「この男は私の良人、最後の神聖皇帝ナムリスだ。巨神兵の前で捨てたこやつを、土鬼(ドルク)の人間が拾ってきたのだ。今、こうして悩むぐらいなら、あの時に砕いてしまうべきだったのかもしれん」

 クシャナはナムリスの額から手を離して立ち上がると、再び解毒薬を彼の口元へ落とす。

「ただ、ふと思ったのだ。私とてこやつのようにならなかったとは限らないと。血縁者と争い、己の感情を満たそうとしたのは私もナムリスも同じだ」

「でも、あなたはそいつのようにはならなかった。そうでしょう?」

「そうだな……。だから、放っておけないのだ。ナムリスもいつか……」

「あなたのようになると? それをお待ちになるつもりで? なんのためです? 陛下のお気持ちも考えずに好き勝手やる男ですよ、そいつは」

「知っているよ」

 空に流れる雲が、空中庭園にうっすらと影を落とす。逆光が弱まったことで、クロトワからクシャナの表情が読み取ることができた。

 彼女は微笑んでいた。「仕方がない」とでも言うように……。

 クロトワは無性にやるせなくなった。

「なのためです? そんな男を救ったって意味はありませんよ。あなたらしくもない」

 まだ、クシャナは解毒薬を撒いている。

「あなたが砕けないなら、俺が……」

 空中庭園に一歩だけ足を踏み入れた。

「私の心に触れる勇気があるなら来るが良い」

「それは怖い」

 クロトワはおどけて足を引っ込めた。

「クロトワ」

 クシャナの語調が心持ち和らぐ。

「私はナムリスが虚無を抱いたまま楽になるのが許せないだけだ」

「知ってますか。そいつは陛下が好きなんですぜ」

 クシャナが承知のことを敢えて口にする。

 彼女が「私に……」と何か言いかけたところで、ナムリスが大きく血にむせながら何事か呟いた。

「……の野郎……」

 二人の視線が一点に集る。クシャナは再び膝をつく。

 閉じられたナムリスの目から血が流れた。

「ミラルパの野郎、大嫌いだ」

   六

 沐浴場へ行くと、窓辺にミラルパがいた。

「ナムリスも沐浴か? もう、俺はすんだよ」

 先にミラルパが話しかけてくる。声音は老人のものだった。

(やはり、老いたな)

 ミラルパと距離を取り、ナムリスは腕組みをしながら、彼を観察する。

 彼は面布をかぶり、仰々しく着飾っている。ナムリスよりも背が高く、着込んでいる分だけ大きく見えた。歳を重ねた声音は落ち着いているが、ひどく疲れているようにも思われる。

「今、誰かを呼んだか?」

 ナムリスが問いかけると、それまで彼の頭に響いていた声が途絶えた。どうやら、ミラルパが己の力を抑えた結果らしい。

「いや」

 ミラルパは否定する。

「嘘をつけ。お前が何もかも背負いこむなら、お前で何もかもどうにかするんだな」

「それは助言か? 警告か?」

「ひひ、さてな」

 いつものようにナムリスは笑う。

「どうして、そう身軽でいられるのだ」

 ミラルパは嘆息する。

「羨ましいだろ?」

「いや」

 再び、ミラルパは否定する。

「可愛くねえ、弟だ」

 ナムリスはカラカラと笑った。

(俺は夢を見ている。昔の夢を……)

 夢の世界でナムリスは、現実の記憶を呼び覚ます。彼の記憶では、次にミラルパは「では、ゆっくりとしていくと良い」とだけ言い残して去るはずだ。

 だが、弟は立ち去らずに兄と視線を合わせる。

「ナムリス、苦しいね」

  急に若々しい声が弟に戻った。彼は面布を取り、着飾った衣服を脱ぐ。そこに現れたのは、こざっぱりとした衣服をまとった青年のミラルパだった。

「別に苦しくはない。ただ、気怠いだけだ」

 相変わらず、腕組みをしたままでナムリスは平然と答える。どうせ、これは夢なのだ。

 ミラルパは微苦笑した。

「だって、ほら」

 ナムリスを指差す。

 ナムリスの口元から垂れる血が、衣服を汚していた。

「こんなことはなんでもない」

 その言葉に強がりはない。ナムリスは面布を剥がすと口を拭った。

「良くないよ、ナムリス」

「何が言いたい」

「クシャナが悲しむ」

「俺に毒を差し入れたのはクシャナだぞ」

 ナムリスは小馬鹿にしたように片方の口角を上げた。

「俺たちのことをとやかく言うんじゃない」

「そうかもしれない」と言って、ミラルパが屈託なく笑う。

 二人が一歩前に踏み出すのは同時だった。互いに歩みをとめず、兄弟は目前で相対した。兄が皮肉に笑み、弟は爽やかに笑む。

「俺の夢になんのようだ。弟よ。さっさと清浄の地とやらに戻るが良い」

「良くないよ、ナムリス」

「では、ミラルパならどうする?」

「俺は俺のできることをするよ」

 ミラルパが一粒の涙を流す。涙は光の粒になり、彼の掌に収まった。

 清浄の光に、ナムリスは体を動かすことができない。

「それは好かんな」

 なんとか口だけは動く。

「それでも良いよ」

 ミラルパは光を持つ手をナムリスの口にそっと当てた。光がナムリスの中に落ちていく。

 意識が遠のくのを、ナムリスは感じた。

「俺たち、二人だけの兄弟なのに一人ひとりで生きてしまったね」

   七

「ミラルパの野郎、大嫌いだ」

 ナムリスは目を覚ました。見上げると、クシャナがいる。

「ヨオ」

「夢を見たか、ナムリス」

「そうだな」

 彼は手を伸ばして彼女の顔を自分の頬に触れさせた。

「お前を探してたんだ」

 クロトワは何も言わずに退出する。その眉根に哀しみを漂わせながら。

(結局、俺はなんだったんだ? クシャナの秘密なんて知りたくなかったぜ。こんな秘密ならな)

 クシャナはナムリスの手をはがすと立ち上がり、背を向けた。

「私に何も期待するな」

 まだ、彼女は悩んでいる。救うべきか? 砕くべきか? それを彼が知らないことがやるせなかった。

 ナムリスは池から上がる。

「すっかり、冷えちまった。暖めてくれ」

「人の話を聞かん奴だな」

 クシャナの声は少しだけ嬉しそうだ。

「俺がどういう人間か知っているだろう。それだけで良い」

 ナムリスは背後からクシャナを抱きしめる。

「知っているが、赦さない」

「そうさ。お前は苛烈な女だ」

「ナムリス、離せ」

「離すとでも?」

「また、血を流したいのか?」

 クシャナがナムリスの腕を掴む。

「今はこのまま。このままだ……」

 甘えるナムリスを持て余し、クシャナは彼の頭を撫でた。

 夜は二人の時間だった。今まさに陽が沈み切る。

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