前日譚2
船に乗り込もうとするクシャナを数人の土鬼(ドルク)の民が引き止める。クシャナは半分だけ振り返った。
「何用か」
土鬼(ドルク)の民たちはじっと彼女を見つめ、押し黙る。
「何用か」
若干、語調を強めると、一人の男が布に包まれたものを両手に持って差し出した。
「あなたさまのものです」
「それはなんだ?」
クシャナの言葉に土鬼(ドルク)の民は顔を見合わせる。
彼らの緩慢な反応が、クシャナの癇に障った。
「用向きを申せ」
先程の男は両手に物体を持ったままじっとしている。その隣人が布を取り払った。布は大地に捨てられる。
両の掌に収められていたのは、一本の首だ。その顔は伺えない。首がヘルメットを被っているため、鼻から下しか見えなかった。
だが、その首が誰であるかを、クシャナは明瞭すぎるほどに理解してしまう。
「ナムリス……!」
彼女は息を呑んだ。
「あなたさまのものです。お収め下さい」
首を差し出す男は動かない。
「何故だ? それは土鬼(ドルク)の皇帝だった男だろう。お前たちが煮るなり焼くなり、好きにするが良い」
「いいえ。彼はあなたさまの良人ではありませんか」
ふいにクシャナは冷水を浴びせかけられかけたような気分になる。無意識に唾を飲み込んだ。
「私の……良人だと……?」
土鬼(ドルク)の民たちは押し黙る。
「それを私にどうせよと言うのだ?」
「お好きなように」
男たちはクシャナの表情を盗み見るように笑った。
「彼はあなたさまのものです」
「あなたさまもまた彼のものです」
「そこに余人が挟まる隙間など御座いません」
「さあ、お納め下さい」
男がナムリスの首をクシャナに捧げる。
周囲では多くの人間が行きかっているのに、誰も彼女たちに注目しない。そのことがクシャナには不気味に思われた。
クシャナは腰の物に手を伸ばす。柄に手をかけたところで動きを止める。
一斉に、だがゆったりと、土鬼(ドルク)の民たちは俯いた。
クシャナを誰も見ていない。その現実が彼女の心に囁きかける。
――取れ、と。
クシャナは先ほど捨てられた布を手に取り、ナムリスの首を覆った。その瞬間、首が彼女の手の中に滑り込む。それは重かった。
土鬼(ドルク)の民たちが踵を返すよりも早く、クシャナはその場を立ち去った。
船に乗り込むと、足早に自室へ向かう。
自室には空気の清浄さを測るために、鳥籠に飼われた鳥がいる。クシャナは鳥籠を開け放ち、窓から鳥を逃がした。その鳥籠へナムリスの首をいれようとし、我に返る。
鳥籠を床に置き、ソファへ腰かけた。手の中の首をじっと見つめていたが、おもむろにヘルメットを脱がせる。
若い男の顔だった。
唐突に、クシャナの喉から笑いが漏れる。膝の上に首を置くと可笑しそうに頬を緩ませた。
「笑うな」
ナムリスが目を開ける。
「随分と可愛らしい顔をしているのだな」
クシャナは笑い続ける。
「だが、心根が目つきに表れている。剣呑な顔だ」
「では、お前は? その美しい顔に似合った心根か?」
クシャナは笑いを納める。
「生意気なことを」
床の鳥籠を手に取り、その中にナムリスを放り込んだ。
「狭い」
「良い子にしていたら、その内に大きな鳥籠を与えよう」
クシャナは元のように鳥籠を吊り下げると、ナムリスに背中を向けた。
「いつから気が付いていた? 初めからか?」
「いいや。俺はクシャナの笑い声で目が覚めたのだ」
「眠っていたのか?」
「さァな。案外、死んでいたのかもしれない」
「不死身のヒドラが良く言う」
扉をノックする音で、クシャナは鳥籠に布をかけ、ヘルメットを隠した。
「入れ」
ナウシカが扉から顔を出した。
「忙しい? お別れする前に少しお話ししたいと思って」
クシャナは張り詰めたものが緩むのを感じた。
「いや、大丈夫だ。入ってくれ」
微笑みでナウシカを迎える。
ナウシカは入室すると、クシャナの隣へ腰かけた。その目の前には布で伏せられた鳥籠がある。
「あれは……?」
「鳥だ。瘴気マスクを四六時中つけている訳にはいかぬ」
「そう」
ナウシカは少しだけ哀しそうに微笑んだ。
「私、クシャナさんが心配なの」
「何故だ」
大げさだなとでも言いたげに、クシャナは笑う。
「あなたは心の傷を一人で抱えているもの」
ナウシカはまっすぐにクシャナを見る。
「悲しみに飲まれてしまうんじゃないかって」
「可笑しなことを。誰よりも一人で抱え込んでいるナウシカの吐く台詞ではないな」
クシャナは立ち上がる。
「茶でもいれさせよう」
「怖がらないで」
扉の外に出ようとするクシャナを、ナウシカは声で制した。
「悲しみは悪じゃないわ」
クシャナは振り返らない。
「癒えぬ傷をまざまざと見せつけるようなこという」
「ごめんなさい。でも、必要なことよ」
「相変わらず小気味良い娘だ」
「え?」
「褒めたのだ」
クシャナは振り返ると扉にもたれかかった。
「そうか……」
クシャナの視線はなんとなく鳥籠を避ける。
「ねえ、クシャナさん。私にも悲しみを分かちあう人はいるのよ。一人で抱え込んでいる訳ではないわ」
「そうか……」
「クシャナさん」
「ナウシカ、私の悲しみは私のものだ」
鳥籠を指差す。
「見るが良い」
ナウシカは手を伸ばすと、鳥籠を覆う布を取り払った。
「ヨオ、神懸かりの小娘」
「あなたは……!」
ナウシカはその声音から首が誰かを察する。
「皇兄ナムリス……!」
「畏れ多いぞ。神聖皇帝と呼べ。小娘め」
ナウシカは立ち上がると、クシャナと向き合った。
「愛しているの?」
彼女の一言に、クシャナは誇るように顎をあげ、悔しがるように唇を結んだ。その瞳は笑っている。
「どう思う?」
「ヒヒヒ、さァてな」
クシャナの問いかけにナムリスが当然のように答えた。
「わかるまいよ」
ナムリスはふざけた口調から一転し、力なく呟く。
「酸いも甘いも知り尽くしたようなことを言うんじゃない。小娘」
ナウシカは鋭い視線でナムリスを射抜くと、鳥籠を掴んだ。
「これがあなたの悲しみだというのなら、これはあなたの心です」
鳥籠を開けると首を掴みだす。
「目を背けては駄目」
クシャナは扉にもたれかかったまま、ずるずると床に座り込んだ。やはり、その瞳は笑っているが、涙に潤んでもいる。
ナウシカはナムリスの首を支え持つと腰をかがめ、クシャナに差し出した。
「ナウシカ、それを潰さなかったのは、私の誤りだ」
「いいえ」
ナウシカは優しく手渡す。クシャナが首を受け取ると、ナウシカは片手を差し出した。クシャナはその手を取り、立ち上がる。
「もう、行かないと。クシャナさん、さよなら」
「別れの言葉は好かぬ。また会おう」
「ええ、またいつか」
ナウシカとクシャナは手を取り合ったまま微笑みを交わす。ナウシカは普段と変わらぬ足取りで去っていった。
扉が閉まると、クシャナはソファに横たわる。
傍らにナムリスを置くと、落ちないように腕で支えた。
「可笑しなものだ。私がお前を抱くとは」
クシャナの頬に涙が一筋流れる。
「泣くのか」
ナムリスは驚いた。
「私はお前が考えているような私ではない」
「そうだな。人は変わる。残念なことにな」
「残念、か」
クシャナは己の涙を人差し指で拭うと、ナムリスの頬へ縦に撫で付ける。
「そうでなければ、俺たちの道は容易に交わったはずだ」
この男は、とクシャナは思う。今再び、互いの道が交わることはないと考えている。ならばそれが覆された時、男はどんな顔をするだろうか。
ふいに、クシャナの胸の内で期待が弾ける。道を歩むのも切り開くのも己であると、彼女は知っている。
「では、これは何?」
クシャナが寝返りを打ってナムリスの額に口付けた。
「わかるか?」
「やめろ、クシャナ」
クシャナはナムリスを抱きしめて離さない。
「私にはわからない。教えてくれぬか?」
「やめろ」
ナムリスの声音が悲哀を帯びる。
「俺には応える体がない」
「あるだろう? 今も私の耳朶を打っている」
「クシャナ」
「ナムリス」
制止を求める声に挑発的な声が答えた。
「言葉を忘れた唇は封じてしまおうか」
猫が球にじゃれつくような姿勢で、クシャナはナムリスの顔を見る。
彼は飢えるようなせつなさに身を焦がしていた。
「ああ、お前にはわからぬことが俺にはわかる」
笑うクシャナは美しい。
「俺の魂はお前のものだ。だが、お前の魂も俺のものだ。我ら二人の暁に他の者はいらぬ。恋よ」
「恋」
クシャナはナムリスの唇を己の唇で封じた。
船が旅立つ――