第五話 王は永遠に毒を食む

(今、何か物音がしたような……)


 庫王は書物から顔をあげた。しばらく、耳を澄ませるが、なんの音もしない。


(気のせいか)


 本当は気のせいだと思いたくない。それを口実に二人の元へ行ける。


(……馬鹿馬鹿しい……)


 思考とは裏腹に手は書物を閉じ、足は脚立を下り始める。……ドキドキする……。勝手知ったる神殿、いつもと変わらない日課、だがしかし、覗いた他人の夢の美しさよ! うわんの目を通して見たいつまでのなんと美しかったことよ!

それは何故? うわんがいつまでを美しいと感じる意味は? 頭に修めた書物も、これから修める書物も、周りを取り囲むどの書物も、一斉に口を開く。「恋だ」と――

 耳を塞いで書庫をでる。


(知らない……そんなことは知らない……!)


 いつまではうわんを迎えにきたのだ。愛しい女が愛しい男を迎えにきたのだ。


(認めない……! 認めない……!)


 庫王と一緒に居るよりいつまでと共に在りたいのだ。奴は去る……。


(嫌だ……!)


 確かめてみるべきだ。今、いつまでの部屋に誰がいるか。何をしているか。


「うわん!」


 庫王はいつまでの部屋に飛び込んだ。そして、立ち止まる。

 うわんは寝台の上に倒れていた。その胸の上にいつまでがしだれかかっている。庫王の声にいつまでが身体を起こす。しかし、長すぎる髪はうわんの上に垂れたまま、まるでうわんの所有を示すように絡みついている。


「は、離れろ! ……儂の僕だ……! 儂の奴隷だ……!」


 床に落ちている戦斧に駆け寄ると、その柄に手をかけた。


「離れろ!」


 もちろん、持ちあがる訳がない。それでも柄だけはしっかりと握りしめる。


「うわんを迎えにきたのだろう? 認めぬぞ」


 いつまでは困ったように眉根をよせた。


「私が救いたいのはあなたよ。庫王」


 意味が解らなかった。故に信じなかった。きっと、自分を落ち着かせようと嘘をついているに違いない。庫王の顔はより険しくなる。

「解らないのね。無理もないわ」


 寝台の上で立ちあがる。


「お兄様」

「お前の兄など、もう、この身には残っておらん」

「そう、あなたは最早別個の人間でしかない。庫王は死んだのよ。遠い昔、その身に叡智を結集させ、永遠に存続させようとした男は死んだのだわ。庫王の始まりとなったお兄様はどこにもいない。だのに何故、あなたは庫王として生きるの? 解って? この意味が解って? あなたは庫王から解放されるべきなのよ」


 手を差しのべる。


「いらっしゃい。名前を付けてさしあげましょう」


 庫王の始まりとなった一人の男――男は他者の魂を吸収し、自分の魂を肥大させた。やがて、生まれもった魂は絶対ではなくなり、相対化された一つの魂に過ぎなくなった。無意識の統合の内に、新たな魂となり、男は消えた。

そして、ここに一人の少女がいる。少女は庫王として生きている。しかし、庫王だった男はどこにもいない。少女の生まれもった魂も失われた。いつまではそれに一つの名を与えようと言う。

庫王はぞっとした。


「儂をどうするつもりだ!?」

「終わりにするのよ」


 寝台をおりようとするいつまでの足を、うわんが掴んだ。


「やめろ。『牙持つ鳥』」


 うわんは空いている方の手を持ちあげた。その動きに呼応するように、戦斧が庫王の手を離れ、いつまでに向かって突進する。いつまでは戦斧を片手でいなすと、うわんの顎を蹴りあげた。


「『三つ指の鬼』、師である私を止められると思うの?」

「庫王様! お逃げ下さい!」


 庫王は走った。勝手知ったる神殿を行く先も解らずに突っ走った。遠くまで行かれるとは思わない。神殿を出ても行く先がない。それでも庫王は走った。言うことを聞かない足を叱咤するように腕を振り、息を切らせて口を開けた。


(何を逃げるの?)


 いつまでの囁き声が先回りする。庫王は知る由もないが、それはいつまでが閉じ込められた時に使った術と同じもので、対象者が呼応することで術者がその者の許へと導かれる。

庫王は考えることを拒否するように、足を動かすことをやめない。早くも走っているといえる状態ではなく、歩くのにも劣る。


(一人は嫌でしょう?)


 遂に足をもつれさせてその場に倒れ込んだ。すぐに顔をあげる。神殿の入り口が口を開けて待っている。


(私、あなたを一人にしてしまってよ)

「う、うわんをどうした!」

「彼はこない」


 いつまでが庫王の傍にしゃがんでいた。長い黒髪に包まれた彼女は一羽の鳥のように見える。


「こないわ」


 首を傾げて微笑むいつまでと目があう。彼女の瞳の奥に泉あり。哀しみはなく、そこに憂いはなく、水の枯れた大地に小さな種が芽吹く。


「あの時、私は逃げた。叡智として永遠を生きようと言う兄に、私は何も答えなかった。信じなかった訳じゃない。兄なら何かしらやり遂げると思った。でも、私は私でありたかった。一つになどなりたくなかった。例えやり遂げたとしても、歪な形のまま夢として生きるのは嫌だった。私はお兄さまを見捨てたのだわ」


 庫王の額に手を伸ばす。


「悔いを晴らさせて」

「儂は何になるのだ……? 今、ここにいる儂はどこへ……」

「そんなものは初めからいない」


 優しく言う。


「幻影よ」


 庫王は俯いた。庫王とはいつまでの兄が自らを焼きつけて作った影だったのだ。だとしたら、この鼓動は何? この胸で脈打つ心臓は誰のもの? あの瞳が胸を高鳴らせ、冷めた血潮を温めた。みつめられてはみつめ返し、言葉を交わしては時に黙っていた。あの時、あそこにいたのは誰?


「嘘だ」


 庫王は顔をあげた。


「お前の言うことは何一つ認められない! 儂は……!」

「いやや」


 白く冷たい手が額に触れる。


「お前はいやや」


 その瞬間、世界は静まり返る。二人の息遣いさえ黙り込み、ぴくりとも動かない。いつまでは手を離すと、微笑みの消えた顔で一人の少女を見詰めた。呆然と目を見開き、何かを言おうと開きかけた唇が微かに震えている。いつまでは手を差しのばした。


「立ちましょう」


 庫王――いややはその手を取る。二人は立ち上がった。


「大丈夫。一人にはしないわ」


 いややの手を両手で包むと、いつまでは優しく笑みかけた。いややは照れくさそうに俯き、ちらと神殿の入り口を見る。


「そちらへ行きたい?」


 首を振る。


「どちらへ行きたいかしら」

「うわん……」

「大丈夫。くるわ」


 片手を握ったまま、入口とは逆の方向を指差した。曲がり角から走る人影が伸びている。足音が大きくなるにつれ、荒い息遣いが聞こえてきた。曲がり角から現れたうわんは、鼻から血を垂らしている。


「誰に会いにきたの?」


 といつまで。

 うわんはその一言で全てを悟った。己の主あるじは生まれ変わったのだ、と。


「庫王さま」


 何故、その名を呼ぶのか? 主とは僕にとって何者なのか?

 うわんは膝をついた。


「……ご命令を……」


 絞りだすように呟いた一言をいややは聞き逃さなかった。小走りに近付くと手をのばした。


「立て」


 うわんは答えない。いややを見ない。その手を取らずに、望む言葉を待っている。


「怖いのか」


 反応しない。


「馬鹿」


 いややはうわんの左頬を張った。


「お前は初めて私の前に現れた時に言ったな。『永遠を味わってみたい』と。永遠とは時間の長さか? 馬鹿」


 今度は右頬を張る。


「永遠とはこの瞬間だ。一瞬で爆ぜて消える火花のようなものだ。在ったと言う、ただ、それだけの事実にすぎない。だからこそ、愚かにも愛おしくなる。私もお前と同じだ。お前は私を嫌うだろうが、今この時だけで良い。呼んでくれ。私の名を。いやや、と」

「いつまで」


 うわんはいややの後ろに立ついつまでを見た。


「これが救いか」


 いつまでは何か答えようとして咳きこんだ。口元を押さえた指の隙間から血が垂れる。

 うわんが駆けよると、その胸に倒れこんだ。


「……私は……良いから……」

「黙れ」


 うわんは口付ける。唇の間から鮮血を垂らしながら、長い間、唇を吸っていた。弱弱しく逃れようとするいつまでの肩を力強く抱きしめる。やがて、大きな赤黒い物体を口から吐きだした。

 その様子に、いややは目を丸くし、心底、悔しそうに顔を歪めた。


「うわん!」


 悲痛な声で叫ぶ。


「その女が大事なのだね……」


 俯き、衣の裾を握りしめる。泣くのは、悔しかった。彼女は震えて泣いた。自分の何もかもが馬鹿げてみえて、どこにも何も届かないと信じた。


「どうなされたのです」


 うわんには解らない。女の機微など解らない。彼の仕えた庫王は女でもなく男でもなく、何者でもなく、叡智を喰らい続けることで永遠を体現した至上の存在だった。それを、彼は求める。

 抱いた女を手放すと、主の元へ跪く。


「術で戯れなどなさるから、御身を害したのでしょう」


 いややの硬直した腕に優しく触れ、裾を握りしめる手をときほぐす。


「お疲れなのです」


 俯いて泣くいややの顔を下から覗きこんだ。

 いややはうわんの顔を見ない。

 うわんはいややの顔を見た。


「お勤めは後で、お休みになった後でも宜しいでしょう」


 その言葉にいややは顔をあげる。


「本日の叡智の確認がお済ではありません」

「叡智! そんなもの!」


 うわんの頭を抱きしめる。


「要らない! もう、必要ない! 解らないのか!」


 頬を後頭部に押し付ける。


「どうして、解らない……」

「俺にお前を抱けと言うのか」


 うわんは立ちあがった。少女の倍はある巨体が影を落とす。

 いややは見上げた。多少、恐怖を感じながら。


「永遠とはこの瞬間だと、言ったな」


 目を離さない。


「俺の永遠はそんなものではない」

「では……何……」

「誰にも必要とされないのに屹立と立つ者。俺はそれに寄り添う」


 うわんは二人に背を向けた。


「お前は只の女だ」

   終話