第一話 明日の家族――父と子

 今日も息子が泣かされて帰ってくる。

「お父さん」

 静かに正面の扉が開かれ、ドアノブの少し上から遠慮がちに見せた顔は目元が赤かった。乱れた柔らかい黒髪から小さな葉っぱを覗かせている。

「救急箱あるかな」

 ついこの間まで、入室するなり一直線に膝元へ飛んできては慰めを求めていた息子の姿を瞼に描きつつ、ムトは内緒話へ誘うように手招きした。すぐさま応じ、扉を後ろ手に閉めて入室したが、そのまま俯いて立ち尽くしてしまう。

「どうしたんだ、イナーク」

 眉根を下げた笑顔で椅子から立ち上がり、彼の足元で膝を折るまでの間に秘密は頬へ零れてしまった。ムトの背後から燦燦とした陽光を届けている両開き窓の中桟(なかざん)が、二人に横一文字の影を落としている。いつも、自信がなさそうに下がっている目尻に溜まった輝きが流れ、死んだ光の上を通っていく。それが再び煌めく前にイナークが袖で拭った。

「膝が擦りむけてる」

 半ズボンから覗く膝小僧の傷が浅いことを目視する。

「歩くと痛いか? おいで」

 首を振って応えたのを確認してからその背に手を添え、扉の横で次の季節まで沈黙している暖炉の前にあるテーブルまで促した。父の温かさで溶け始めた心は、瞬く間に眼(まなこ)を濡らす。無言でしゃくりあげる小さな身体を抱きしめた。

「どうした。何も恐ろしいことなんてないよ」

 大丈夫だと繰り返す言葉からは非難も叱責も感じられず、ただ受け入れて包み込む心地良い優しさだけが響いてくる。

「当ててみようか?」

 イナークが落ち着いてきた頃に腕を解いて向かい合った。

「転んで頭から藪に突っ込んだんだろ?」

「どうしてわかったの?」

 ビックリして見開かれた目から涙が止まる。

「頭に木の葉がついてるからさ」

 取って見せてやると、恥ずかしそうに髪を整える仕草をした。そのまま、長椅子に座らせてやる。手にした葉をテーブルの端に置き、ムトは背を向けてチェストの引き出しから救急箱を取り出した。

「それでラサカンドラに怒られたか」

「カーラがどんくさい奴って」

 彼女を愛称で呼ぶ子どもは従兄であるイナークだけだ。

「足手まといだって言うから帰ってきた。皆が笑うんだ」

 膝をついて彼の前にしゃがみ込み、手際良く消毒してガーゼを当てていく。

「なら、誘わなきゃ良いのに。いつも、カーラが引っ張るんだよ。僕が家で遊んでると」

 彼女のぶっきらぼうな愛情表現に苦笑するムトへ抗議するように言葉を続けた。

「本当に困るんだ。皆も真似して好き勝手なことを言うし」

「手も見せて」

 掌の傷は水で清潔にしておくだけで大丈夫そうだった。先程まで仕事をしていた机へ水差しを取りに行こうとし、自然と視線が上を向く。たまたま、その延長線上にあった幼い瞳は無垢そのものだった。

「お父さん、人を殺したの?」

 全ての言葉が口から零れ落ちるまでにムトは起立し終える。外から吹く風もないのに、わずかな動作の為に木の葉が床へ落ちた。顔色を変えるような真似はしない。

 今日は晴れ晴れとした良い日で、朝から気分良く領地の見回りへ出かけた。そろそろ収穫が終わろうかという農作物の量を測っていたところ、三等国民である領民に声をかけられた。明き盲の役人にだってこの豊作は誤魔化せそうにないと言って笑うので冗談交じりに訳を訊ねた。だって、ここんとこずっとお天気続きで、こんなに明るくっちゃ何もかも見通せてしまいそうじゃないですか――学のない農夫は屈託なく言ったのだ。

 まだ、その陽は衰えない。親子の上へ窓枠と中桟の影が歪に落ちている。だが、日光は事物を晒すのに充分だ。イナークの少し納まりの悪い黒髪と灰色に近い黒い瞳の質感までをも感じ取れるようだった。

 少年は男に真実を見るだろうか。ムトにとっての真実が上目遣いに彼を見ている……。

(姿形は瓜二つなのに、どうして全く似ていないのだろうな)

 かつて覗き込んだ瞳の奥底にあったものと眼下の少年が同じでないことを知りつつ祈る。

(もう少し、秘密のままにしておけないものか。なあ、おい、ニヤーグ)

 ムトの亡き親友にしてイナークの実父である男の名は、時折こうして彼の心臓の癒えきらぬ傷から血を流させる。

「どちらの父かな」

 心で過ぎた時間よりも早く、無表情だった口元に微笑を浮かべて応えた。

「僕はお父さんを二人も持ってないけど」

「この間は貰われっ子だと言われていたじゃないか。また、同じ子らに言われたんだろう? 彼らの言い分の通りだとすると、イナークには血の繋がりの異なる父がいることになるのだから、罪を犯したとは、果たしてどちらになることやら」

 救急箱より端切れを取り出し、会話を続けながら水差しへ向かう。視界の隅にイナークの顔が綻んだのを収めた。

「馬鹿を見たみたい」

 口さがのない子どもたちにからかわれたのだという納得をしたようだ。初めから真剣には信じていなかったのだろう。

「お父さんはなんでもお見通しなんだ」

 軽やかな足音が背後から迫って、水で端切れを湿らせるムトの袖口を掴む。

「平気だよ。これぐらい」

 まだ何も知らぬ息子の顔から目を背けるように仕事机の椅子へ腰かけると己の膝を軽く叩いた。

「ちゃんとする」

 支持するような口ぶりにイナークは大人しく従う。ムトの膝の上に座ると掌を優しく拭(ぬぐ)われるままにじっとしていた。

(この子の言う通りだったら良かったんだが)

 弱気な己に内心で苦笑した。

(これぐらい平気でちゃんとするだけの心がなければ生き残った者の責任を果たせないな)

 それにどうせ、と客観的に現実を受け止める。二等上がりのムトでは一等国民の血を引くイナークとは容姿の特徴に差があった。帝国は臣民を一等から三等までの身分にわけて統治している。一等である上流階級と三等である農奴階級は同一民族だが、対外戦争で併合した他国に出自のある二等は主要民族とは異なる。

 ムトも黒髪だが直毛であり、瞳の色は茶褐色だ。また、彼は他の民族からとても幼く見られる傾向にあり、外見(そとみ)から判断される年齢では親子と見做されない可能性もあった。

(混血を理由とするにも限度がある)

 その点によって、ますます妻が己の外貌を皮肉に見るだろうと思われ、ムトにはそれが溜まらない。

「数字がたくさん書いてある……」

 手当てが済むと、イナークは膝に座ったままで机上に散らかる紙片を観察し始めた。仕事の邪魔をしないように手を机の下へ隠している。

「今年は豊作だからな。いつもと違う計算がいる」

「どうして?」

「例えば、一本の木に実が十個できるとして、半分の五個を誰かに渡す約束をしたとする。ところが、十個できるはずの実が二十個できた。その年は約束通りに五個を渡すことで相手も納得した。そして、次の年も二十個できた。そうすると、半分という約束なのだから五個ではなく、十個を渡す約束に変えて欲しいと言われても不思議はないだろ?」

 説明の節々で神妙に頷きながら聞いていたが、今度は殊更に大きく頷いてみせた。

「でも、これからずっと二十個もできるとは限らないから、最初から十個しかできなかったと言っておいた方が後で困らない。わかるか?」

「つまり、どれくらい少なくしようか計算してる……」

 言葉で褒めるかわりに頭を撫でた。役人にありのままの収穫物を渡すと翌年のノルマを引き上げられ、その差分をピンハネされるからだという説明は難しいだろうから省いておく。照れくさいのか、ちらっと笑みを見せたきりで視線を机上へ戻した。

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