一
クシャナは目を覚ましても瞼を開けなかった。
(私に残り香が……)
定まらぬ思考で昔の記憶を呼び覚ます。それは初めて皇兄がトルメキアを訪問した時の記憶だ。父ヴ王に近付いたナムリスの衣服に焚き込められた香の匂いがまざまざと思い出される。
(私に残り香が移っている……あいつの……)
意識がはっきりしても、クシャナ身じろぎせずに横たわっていた。
もしかしたら、この部屋へ自分を運んできたのは、皇兄自身かもしれない。
(あいつの腕に抱かれてきた訳か)
そう思うと笑みが浮かびそうになる。
周囲に人の気配がするが、それがナムリスだとは思われなかった。しばらくすると、その内の一人がクシャナに近付いてきた。身をかがめ、彼女を調べようとする気配がする。その瞬間を待って、彼女は瞼を開けた。
やはり、土鬼(ドルク)の舟だった。
寝たまま膝を持ち上げ、医者らしき人物に一撃を喰らわせる。次いで襲いかかる警護兵をヘッドドレスの暗器で血祭りにあげた。
(あいつが私を連れてきた)
倒れる警護兵から剣を奪うと、火の灯る照明を破る。それに酸素筒からの空気を送って爆発させる。まだ、小さな爆発だが、酸素筒本体に引火すればただでは済まない。
(何故?)
殺到する土鬼(ドルク)の者どもと次々に切り結び、血路を開く。
(何故?)
すぐに酸素筒は爆発した。
(私が欲しいか。血まみれの我が身が)
クシャナを鬼だと言って逃げる人々を追って、舟の中心へ行く。血刀を手に広い部屋へ入ると、音を立てて扉が閉まった。
退路を断たれたことを、彼女は気にしない。槍衾で迎えられたこともどうでも良い。クシャナの視界で重要な人間はただ一人、二階から仁王立ちで自分を眺めるナムリスだけだ。
「やはり、お前か。ナムリス」
「ヨオ、毒蛇の娘。相変わらずだな」
クシャナが船中で引き起こした騒動を百も承知で、そんなことはどうでも良いと態度で示す。ナムリスは愉快そうに笑ている。
「そちらこそ、ようやく弟を追いおとしての遅すぎる出陣か」
(何故、今更? 今更では遅すぎる……私はもう昔の私ではないのだ)
クシャナの怒りが彼女の口角をあげさせ、挑戦的な表情を作り出す。
「ハハハ。そうカッカッするな。見せたいものがあるのだ」
彼女は僧衣をまとわせようとするナムリスの従者を一言で退ける。
(私の怒りを承知で笑うか。だが、その理由をお前は知るまいな。私の怒りは、私を乱暴に連れ去ったお前の無体のためではない……。何もかも手遅れだからだ。私たちの関係はもう先には進めない)
せりだす艦橋の上から、クシャナは地上を見た。彼女の部下たちが生きているのが見えた。
「サパタから脱出した本体だよ。俺はあいつらが欲しいんだ」
(私は欲しくない?)
ナムリスはご丁寧にも艦橋の入口にたたずみ、部下たちへ迫りくる粘菌の脅威を説明する。彼女に選択肢を与えているようでいて、それは一つしかない。
(それでは、私の取るべき道は一つしかないではないか)
クシャナは眼下から視線を移し、ナムリスへ振り返る。
「条件を聞こう」
「土鬼(ドルク)トルメキア二重帝国」
「私の夫になろうというのか」
クシャナは笑って見せた。
「ヒドラだけでは心もとなくてな」
なんでもないことのようにナムリスも笑い声を立てる。
(私はナムリスを殺さねばならない)
二
(俺は他にどうすれば良かったと?)
ナムリスは艦橋の入り口から一歩前に踏み出し、クシャナを眺める。彼女は挑戦的に笑う。
「トルメキアの王位継承権と精兵の持参金の見返りはなんだ!?」
「当面の生命、反乱の自由、不倫の自由、あらゆる可能性……」
自分の言葉は事前に考えていたもののようにも、とっさに口からでまかせを言っているようにも聞こえた。彼自身、昔から考えていた計画をなぞっているだけだが、その言葉は空虚だった。
「ムコ殿の素顔を見せよ」
(こいつに素顔を見せることなどあるかな。俺は一度、この腕にクシャナを抱いた。良い気持ちだった。もう一度、抱きたいものだな)
「ヒヒ……。ふしどをともにするまで楽しみにしておけ」
この口からはまぜっ返したような言葉しか出てこない。彼の本当の気持ちは絶対に出てこない。
「牙をむく毒蛇の巣穴に裸で踏み込めるかな?」
クシャナも誘うような、拒むような言葉を返す。
(好きだな。こういう掛け合いをする相手が、お前でなかったらな)
クシャナが艦橋から船内に戻ってくる。
「それでこそわが血まみれの花嫁だ。憎悪と敵意こそ真の尊敬を生む源となろう」
ナムリスは片手を広げて彼女を迎えた。
「二人してたそがれの王国を築こうではないか」
(これしか俺たちが交わる道は他になかった。お互いに並んで立ち、血道を進む以外には)
三
クシャナはナムリスの横を通り過ぎる。やはり、あの香りがした。郷愁に胸が締め付けられるが、表情にはおくびにも出さない。
(昔の私なら進んでお前の横に立った。だが、何もかもが遅すぎた。お前はそれを知っているのか? 私にはわからない……)
クシャナとナムリスの視線は交わらなかった。
(すまない。だがもう、その先の言葉は言えぬ)
参考
診断メーカー「言おうとしたこと、言えなかったこと」
ナムリスがクシャナに言えなかったこと。それは「どうしたらいい?」ということ。「隣に立ちたい」ということ。「抱きしめたい」ということ。
クシャナがナムリスに言おうとしたこと。それは「君の気持ちが知りたい」ということ。「ごめんね」ということ。「愛してる」ということ。