一
叛徒どもを掃討した後、生き残りを数珠繋ぎにして、王都トラスへしょっぴいた。負傷している者も、外見(そとみ)には傷のわからない者もいる。しばしば、警護兵は彼らがおかしな気を起こさないように、こん棒をくれてやらなければならなかった。
その先頭にはトリウマに引かれる檻がある。それは大人が膝を抱えて座ることができる程度の大きさしかない。ナムリスは腸(はらわた)をはみ出させながら、そこにいる。単眼のヘルメットによって隠された表情を、陽に晒される唇が物語っていた。それは空模様に反する歪な三日月だ。
気怠い春の陽気は、日なたの者を余すところなく火照らせる。だが、その熱は鋭さを欠き、呼吸する者を生殺しにでもするかのように、曖昧なままで間断なく降りそそぐ。気まぐれに吹く風は清涼さを含みながらも通り過ぎる。遠くのどこかで鳥ぐらいは鳴いたかもしれないが、お祭り気分の群衆の騒めきによってかき消された。
城下町の大通りを捕り物劇の顛末が行く。物見高い人々の中でも、罪人へ近寄ってみるのは子どもたちばかりだ。中でも、怖いもの見たさで並走するのが、ナムリスの捉えられている檻だ。小走りで見世物小屋のゲテモノをまじまじと眺める。そこに恐怖はない。微動だにしないナムリスが死んでいるのか生きているのかを判ずるべく、ヒソヒソと観察結果を報告しあっている。
ふいに、ナムリスは腸が零れ落ちないように押さえていた手を檻の外に放った。その弾みでヌラヌラとした血液が少年の顔に跳ね散る。彼は大袈裟に飛び跳ねて尻餅をついた。それを見た仲間はわざと遠巻きにするように走りだす。
「生きてるぞう」
逃げる方も追う方も、巫山戯て笑い転げながらナムリスの視界より消えていく。彼も又、いつものように笑おうとしたが血でむせてしまった。檻の外での役目を終えた腕を引っ込めようとした時、自然と群衆に視線がいく。
その視線の先に若い女がいた。彼女は先程の子どもたちとは異なり、明確に怯えのこもった瞳で死にぞこないの化け物を見ていた。彼と視線がぶつかり、素早く俯いてしまう。なおもナムリスは彼女を見つめ続けようとしたが、群衆は緩慢に通り過ぎる。諦めて背もたれにしている檻へ頭を寄りかからせると空を見上げた。ここから王城は見えず、もちろん、クシャナの空中庭園がどこにあるかなど見当もつかない。
(どこかで見ているのだろう……クシャナ……)
ナムリスは自分に差し伸べられた手のことを考えると嗜虐的な笑みを堪えることができない。
(俺を誰だと?)
歪な三日月は更に歪みを大きくする。再び、血にむせ、檻の外へ吐き出した。
(もう、お前の横には立てないさ)
逃げるのかと自分を咎めた女の眼差しが、脳裏に浮かび上がる。まなじりを怒らせた瞳が澄んで美しい。
(ああ、お前は)
ナムリスは大きく息を吸った。
(怒っているのだな)
小声で歌い始める。時折、むせながらも断続的に、歌うことをやめない。
やがて、群衆の誰かがそれに気が付き、一瞬だけぞうっとした。それは城下町での流行歌だったからだ。つまり、この化け物は自分たちの知らない間に、それなりの月日をここで暮らしていたということになる。
血生臭い化け物の歌声は血泡のごぼごぼという音のせいで、決して美しいものではない。だが、それだけに一層の悲愴さがこもる。何故なら、民衆の間で流行る歌は決まっているからだ。それは恋の歌――愛しいものにその手を取ることを乞う憐れな男の恋の歌だった。
二
クロトワはクシャナのうなじを見ていた。執務室の窓から城下町の大通りを見下ろす彼女が振り返るのを、机一台を挟んだ距離で立ったまま待つ。
「クロトワ」
クシャナの声音は静かだ。
「私はあれを処刑すべきなのだろうな」
断定しきれない口調が、彼には不穏と思われた。
何の反応も返ってこずとも、部下が何かを感じ取ることを承知して言葉が続く。
「頭を砕くか、四肢を切り落としてしまうか」
クシャナが振り返る。その口元にある微笑みに反する無表情な瞳に、クロトワは己の勘が外れていないことを認めた。
「また、首を切り落とされては? 籠の中に閉じ込めてしまえば宜しいじゃありませんか」
努めてなんでもないことのように言ってみる。
「クロトワ、クロトワ」
幼子に言って聞かせるように優しげな声音で名前を呟きながら立ち上がる。机を迂回する女の動きに、男は直立不動で応えた。
「疲れたよ」
クロトワの肩に手をかけながら、己の手の甲に額を押し付ける。
その時、彼の心境は複雑だった。
(見てるよなあ)
自分の頭上より斜め前の空中に、座禅姿のミラルパが自分たちを見下ろしている。クロトワ以外に視認できない彼は眉間にしわを寄せた。
(やっぱ、見てるよ。兄貴の女に手を出すのかって顔してるよ)
顔色には出さないまでも、得体の知れない死霊が放つ無言の圧力には冷や汗をかかされる。
「陛下」
それでも、男は女の両肩を掴む。
「あなたは厳しすぎる」
その言葉がクロトワの顔を見るクシャナの視線に悲しみの色を生じさせた。
「誰もおっしゃらないなら、俺が申し上げますよ。もっと、素直(すなお)に生きたって良いんです。誰も咎めやしませんから。クシャナ様」
言い終わると両肩を掴んだまま引き離す。それが彼のせいぜいだった。彼女を遠ざけたことで、頭上のミラルパが当然だと言わんばかりに頷くとその姿を消した。彼の偉そうな態度はクロトワの癇に障ったが、おくびにも表情には出さない。表面上はしれっとしたものである。
反対にクシャナは一瞬だけ脱力したように顔面を弛緩させが、すぐににやりと笑った。
「言うじゃないか、参謀」
「陛下の参謀ですから」
再び、クロトワは直立不動の姿勢を取る。その姿に勝気な微笑みを向けると、クシャナは元の場所へ着席した。
(堪らねえな)
その気持ちは女に対する男の降伏宣言でもあり、また、それを表す術のない自分に対する不甲斐なさの為でもあった。
「では、こうしよう。磔刑といこう。幾日か晒して良うく懲らしめてやるとしよう」
「それで、陛下御自身は何をなさるんで?」
「甘えさせてやるかな」
「は?」
「私は奴を手ずから介抱して優しく抱きしめよう。頭を撫でながら言葉をかけ、幾夜も寄り添って眠ってやろう」
「恐ろしいことをなさる」
クロトワは口角を持ち上げると、笑うのと呆れるのとの中間のような妙な表情をした。それに対し、クシャナは片手を机の上に置くと人差し指で天板を何度も叩く。
「毒蛇の娘に相応しいと思わないか。砕くこともできずに呑み込むというのは」
皮肉のこもった微笑みが、クロトワの臓腑の奥をひやりとさせる。
「殿下」
「懐かしい呼び方をする」
「失礼致しました。陛下」
胸に手を当て、軽く一礼する。
「この件を俺に一任させてはもらえませんか」
クシャナはその胸中を推しはかる。
「心配か? この私が?」
机上の腕はそのままに、再び窓の外へ顔を向けた。すでに城下町の大通りは平生と変わりない。それでも見下ろし続ける。
クロトワはクシャナのうなじを見つつも、今度は待たなかった。
「宜しいでしょう」
「そうだな……」
どこか他人事のように返事をする。その時、雲の切れ目から陽光が降り注いだので、クシャナは片手をあげて瞳を守った。
主君の注意が完全に自分から逸れたことを悟ったクロトワは、そのうなじにちょっと手を伸ばした。が、すぐに腕を下し、元の姿勢に戻ってしまう。
その事実にクシャナは気が付かなかった。
三
唐突にクシャナの母が死んだ。彼女が幼き日、その身代わりに毒杯を受けてよりずっと死に続けていた母が、今ようやく死に終えた。
――私はトルメキアで守るべき人がいるのよ。
思い返せば、とクシャナは考える。母への接し方が定まったのは、それを言葉にした時からだったかもしれない。自分は母を守る盾にも剣(つるぎ)にもなるのだと、心に決めた。それから幾年か経ち、自分がトルメキアで父兄と戦う理由が徐々に変化しつつあった時も、それはいつまでも志として残っていた。
父が斃れ、兄たちが去ったとしても、母の心に安寧が戻ってこないことはわかっていた。いつまでも心の壊れたままの母との永劫の別離がもたらしたのは安堵感だった。その感情がひどく彼女を傷付ける。だが、その反面で怜悧な人間として、それは極自然なことだとも判断してしまった。
母の死を知ってから幾夜がすぎても、彼女が泣くことはなかった。孝徳の異端者のように自分を感じ、親の死に対する正常な行動を取ることを妨げた。
「よォ」
両手両足を鎖に繋がれたナムリスが、地面に腰を下ろしたままで彼女を見上げる。腸は体内に収まり、その頭を覆うものは何もない。
人気のない王墓にナムリスは監禁されていた。かつての高層ビル群の一角に王墓があり、モニュメントのように石棺が飾り立てられている。その一櫃(いっき)ごとに屋根があり、さながら小ぶりな聖堂のようだ。その屋根の下で、ナムリスは立ち上がる自由すら奪われまま、大体の時間を放置されていた。
――ずっと私の傍にいられる?
母の死去は、誓った志とともに口にされた言葉を思い返させる。個人的にはクシャナはずっと独りだった。心の壊れた母によって家庭の温かさは失われ、新たに寄る辺として得たトルメキア第三軍の中にあっても、彼女の心を自由にした者はいなかった。
――私の傍を離れないことね。
「一人できたか」
ひひひ……とナムリスは笑う。
「なら、俺はまだ処刑されないという訳だ」
クシャナはナムリスから距離を保って立っていたが、おもむろにその手が届く範囲まで歩を進めると、膝をついてしゃがみこんだ。優雅な仕草で男の首に指を絡める。手に力を込めず、体の重みでゆっくりと押し倒す。
「覚えているか」
クシャナは小さいがはっきりとした声で訊ねる。
「私が少女であった時、こうして、お前の命を握ったことを」
「あの時も命の危機など感じてはいなかったがな」
涼しい声音で答えた。唇の端に微笑みすら浮かべている。
(変わらないな、この男は)
クシャナはその時のことを思い出す。あれは彼女が成人する前のことで、いつも、兄たちの嫌がらせというには危険な行為に苛まれていた時のことだ。
あの日、クシャナは一人で腐海に置き去りにされた。賢く振舞うならば、その場に留まるべきだとわかっていたが、連日の嫌がらせに嫌気がさしていた彼女は腐海の奥へと足を踏み込んだ。傷付けられる毎日に慣れてしまい、危機に対して鈍感になっていたのかもしれない。
不思議と、とても静かだったことを覚えている。好奇心も恐怖心も実感の乏しいまま、腐海の植物に身を隠す程度の警戒心で散策を続けた。
ナムリスと出会うのにあまり、時はかからなかったように思う。初めに見えたのは一体のヒドラの大きな背中だった。それが自分の方へ振り返ろうとした瞬間、ヒドラの前方から男の声がした。
「放っておけ」
それは土鬼(ドルク)の言葉で発せられた為、意味は通じなかった。しかし、ヒドラが再び前方へ向きなおった為、危機は回避されたと判断できた。クシャナの意識はヒドラの背中に隠れて姿の見えない男へ傾注される。何故なら、その声に聞き覚えがあったからだ。
簡単に身を隠しながら、一定の距離を保って後をつける。やがて、開けた場所に出た。そこにはトルメキアの娘が見たこともない恰好をした人間たち――森の人がいた。腐海に詳しくない少女は、その人々の全身を包んでいる防瘴が蟲の皮だとは気付くはずもない。
彼らはヒドラの主とおぼしき男と二三の言葉を交わすと、地面にしゃがみ込んで何かを準備し始める。ほどなくして、透明な泡でできた膜のようなものが、人が二人だけ入れる程度の大きさに広がった。彼らの一人とヒドラの主が中に入ろうとした時になってようやく、クシャナは目当ての人物の姿を見ることができた。初めから顔を知らない人間なので、その頭に単眼のヘルメットがかぶされていることには、大して気落ちしなかった。
泡の膜に入った二人を除き、その他の人物は腐海でじっと立ち尽くす。彼女にとっては謎のつなぎを着た人間にしかすぎない人物は、泡の膜の中に入ると、防瘴の頭部分を外し、つなぎの上半身を脱ぎ捨てた。そこに現れた人間は単なる壮年の男性だ。クシャナは瞬時に、あの泡の膜の中ではマスクなしでも呼吸ができるのだと察した。
ならば、彼もマスクと共にヘルメットを取るのではないかと期待された。しかし、当の本人――ナムリスにそのつもりはないらしく、マスクを外し、ヒドラに手荷物を渡させると、それを脇息代わりにその身を横たえただけで動くのをやめた。
当然、彼らの話す内容がクシャナに聞こえるはずはない。しかし、なんとはなしに壮年の男性の言葉数の方が多いように思われた。明確に表情や態度に表れている訳ではないが、何かを説得しているようにも見える。
少女には動きのない光景を見続けるのは、とても退屈だった。その上、腐海という危険で慣れない場所にいるのだから、知らず知らずの内に疲労が溜まる。自然とクシャナは眠りに落ちてしまった。
次に目を覚ました時、彼女はヒドラに持ち上げられて運ばれている最中だった。思わず、大きな声で命令しながら体を動かしたが、宙に浮いた足が地面につくことはなかった。
「トルメキアの娘か」
その時、ヒドラを除けば、周囲にはクシャナとナムリス以外には誰もいなかった。彼は先程と同じ格好で泡の膜の中に横たわっている。
「皇兄、でしょう?」
見知らぬ異国の娘に正体を当てられ、クシャナに興味を持ったようだった。
「さて、ではこの俺が皇兄として、そういうお前は誰かな?」
彼女が黙っているので、ヒドラに土鬼(ドルク)の言葉で命令を下すと、泡の膜の中へ投げ入れさせた。
「名乗れ」
クシャナはすぐに立ち上がると臆することなくマスクを外し、名乗ろうとした。
「トルメキアの第四皇女……」
「クシャナか。覚えているぞ」
自分勝手に言葉を遮ったナムリスに対して抱いた気持ちは奇妙なものだった。それは喜びだった。トルメキアの王宮では、誰も彼女のことなど気にもかけない。落ち目の王位継承者に与する人間などおらず、その態度は使用人にまで及んでいた。
「覚えているの? 一度会ったきりなのに」
「クシャナも覚えているではないか」
気安く名前を呼ばれるのも久しぶりのことだ。
「私には……誰もいないから」
俯いて小声で呟く。その態度がこの娘には不釣り合いだと、ナムリスには感ぜられた。
「以前に会った時とは印象が違うな。落胆したぞ。毒蛇の娘」
「仕方ないじゃない」
「日陰者同士、慰め合うつもりはない」
ゆったりとナムリスは立ち上がり、クシャナの横を通り過ぎようとする。彼女はその足元をじっと見ていたが、意を決したようにその頭を持ち上げ、仮想敵国の指導者を睨(ね)め上げた。
「赦してね」
素早く、長靴に隠していた小刀を引き抜くと、ナムリスの足を切り裂いた。そのまま、流れるような動きで立ち上がると、不意の攻撃に思わず姿勢を崩した彼の喉元に刃を突きつけようとする。その腕をナムリスは簡単に掴み、動きを止めた。
「ぬるい」
ひひ……と笑ってクシャナを見る。渾身の力を込める少女は無力だった。しかし、彼女の顔に焦りはなく、懸命に頭を働かせているのがわかる。
「だがそれでこそ、我が未来の花嫁だ。こうしてやろう」
ナムリスはクシャナの腕を押さえたまま、自然な動きで横たわると微笑んだ。
「さあ、もう少しだ」
そうは言われも、小刀を掴んだ腕は微動だにできない。段々と己の力が失せていくのを感じる。
「何よ。あなた」
腹の奥底から口惜しさが沸き起こる。横たわる体に馬乗りになる要領で蹴りを入れようとした瞬間、クシャナの体はひっくり返り、小刀が手の中から消える。一瞬、呆然となるが、すぐに上半身を起こした。
「よしよし。良く起き上がった」
二本の足で立つナムリスが、掌中の小刀を弄ぶ。
「その闘志には見込みがある」
「何を楽しそうにしてるのよ」
クシャナは無意識に不貞腐れたような表情をしてしまいながら立ち上がった。
「さてね」
外のヒドラへ小刀を放ってしまう。ナムリスは再び手荷物を脇息代わりに横たわった。
「もう片方の長靴にもあるのか?」
「ないわ」
クシャナは衣服の裾を握りしめて立つ。もう、機会は那由他の彼方に去ってしまったのだとわかっていた。口惜しさに拘泥して事態を悪化させる程、彼女は愚かではない。
「俺が赦さないと言ったらどうする」
ナムリスの足から血が流れ続けている。
「こうするわ」
クシャナは自分の衣服を裂くと止血をし始めた。
「俺がそのまま死んだとしても?」
「その時は泣いてあげる。約束よ」
応急処置が終わると、彼の傍らに座り込んだ。
「何故、殺されようとしたのか理由を聞きたい?」
「言いたいのなら言えば良い」
少女はまっすぐに男の顔を見る。
「意外と優しいのね」
「クシャナに言われたくはないな」
自分の負傷した足をさすりながら答える。
「力が欲しいのよ。その為には外部に私自身の能力を認めさせなければならないわ。今のままじゃ、名誉連隊長ぐらいにしかなれない」
「手柄を立てて、その褒美に士官学校にでも入るつもりか」
「そんなところよ。私はもっと強くなる」
「例の母親の為か」
母を思い出すと悲しくなる。人殺しをなんとも思わないような娘を母は嫌うかもしれない。しかし、母の心が壊れる前から自分が苛烈であったなら、今でも母は自分に微笑みかけてくれたかもしれないのだ。それを思うと、悲しくなる。
「そうよ……。いつか、殺さなければならない。ヴ王を」
「異議なし」
彼女が深刻に表情を強張らせているのに構わず、飄々とした態度で賛同する。
「気軽に言わないでくれる?」
また、クシャナは嬉しくなる。胸襟を開いて語るのは愉快なものだ。
「その時になったら俺が共謀してやっても良い。ただし、血を見ないで事が済むとは思わないことだ」
「見損なわないで。躊躇なんてしない」
「そういう意味じゃない。戦争だよ」
「必要かしら?」
「俺にはな。クシャナ」
また、手当された足をさすりはじめる。
「お前が父を殺しただけでは、俺はトルメキアとの戦争をやめるつもりはない」
相変わらず、重みのない態度で重大な決意を話す。
「なら、あなたは私の敵になるのね」
「俺が蹂躙する前に蹂躙してみせよ。毒蛇の娘」
彼は笑って言う。
「殺してくれよ」
冗談だと思ったクシャナが何か軽口を叩いてやろうとした時、腐海の奥から森の人たちが戻ってきた。
「クシャナの為だろう」
ナムリスが立ち上がる。
「トルメキアからの迎えでもきたのさ」
「彼らと何を話していたの?」
「弟への嫌がらせに邪教の教えを乞いにな。それにしても、弟め。土民の救世主を気取るなら、自分で青き衣のものをやってしまえば手っ取り早いものを。変なところで律儀な奴だよ」
話しながらマスクをつけて泡の膜から出るとヒドラをしゃがませ、その肩に腰を据えた。そのまま運ばせるつもりのようだ。
「上手くやれよ」
ヒドラに乗ったナムリスが背中を見せる。
「ねえ、あれも覚えてる?」
「言うが良い」
そうは言葉にしたものの、ヒドラに歩みをやめさせようとはしない。ヒドラの一歩は大きい。
「私と共謀するなら、私の傍にいるのよ。聞いてる? ナムリス!」
彼は軽く片手を上げた。それだけだった。
(殺してくれ、か。今の私ならそれになんと答えるか)
相変わらず、指に力を込めてはいない。ただ、ナムリスの胸にしだれかかるようにして上半身を寄りかからせている。
「母が死んだ」
クシャナは無感動に言った。手の中の首を握りしめたまま、顔をそむける。
ナムリスも表情一つ変えない。
「こちらを向け、クシャナ」
その言葉には従わない。
「どうした。泣き顔を見せるのは恥ずかしいか」
風が吹いて草木を鳴らす。
「その昔、俺の為に泣くと言ったではないか」
クシャナの顔は強張っている。強張り、目を見開いている。
「忘れたよ」
「俺は覚えている。泣きたいのだろう? なら、俺を殺して約束を果たすが良い」
「ナムリスの約束は?」
「俺がクシャナに何か誓ったか?」
「……私は傍にいろと言った」
それはわずかにペン先を白紙へ触れさせたような、微かな軌跡を彼の耳朶に残した。まだ、彼女は顔を背けている。
「こちらを向け」
今度は素直に従うと、わななく唇を彼に近付けた。朱に染まった頬が零れ落ちる寸前の涙を連想させる。だが、その瞳に涙はない。
ようやく、クシャナは指に力を込め始めた。ナムリスの顔には寸分の苦しみもない。
「力を込めろ。もっと、強く。だが、喉が潰れぬ内に言っておく。お前は正しい」
更に風が吹き、二人を優しく撫でさする。ナムリスは鎖で繋がれた手を持ち上げると、クシャナの結い上げた髪をほどいた。彼女の顔が見えにくくなる。
「それを知っているのが、俺だけだとしても、その事実だけが真実だ。お前は正しい」
ますます、クシャナはその指に力を込めつつあったが、ふいに脱力するとナムリスの胸に額をつけた。母の死に対する複雑な心境を肯定されて初めて、彼女は赦されるのを感じ、心の枷から解き放たれる。そのまま、ナムリスの首に指を絡めたまま、クシャナは泣いた。
鎖の音をたてて男は起き上がり、玉を扱うように女の顔を掌で包むと、自分の顔へ向けさせる。片手で乱れた髪を優しくすいて、額にそっと接吻した。
「お前を磔刑にする」
クシャナはナムリスの目をまっすぐに見ながら告げる。
「公衆の面前で裁かなければならぬ」
「好きにしろ。このまま、ここに繋がれているよりは良い」
「墓所は嫌いか」
「好きな奴がいるか?」
ナムリスはいつものように笑う。クシャナは彼の首から手を放し、立ち上がると涙を拭った。
「私はお前を墓所に埋めてしまうかもしれない」
祈るように指を組んで自身の腹に当て、罪人を見下ろす。その髪は乱れたままだ。
ナムリスは石棺に寄りかかると、頬杖をついた。
「俺の隣は空けておけ。女房殿」
「図々しい奴だ」
クシャナは皮肉に微笑んだ。
「約束なんだろう?」
男は意地悪く言うと、ひひひと笑う。
「失言だったな。私がお前を殺すのに」
「そうさ……」
ナムリスは真顔になる。
「だが、赦さない」
クシャナは断言する。
「お前の求める自由などくれてやるものか。処刑が済んだら、ナムリスは私の侍従になる」
その発言に対する言葉を探して口をやや開き、少したってからようやく声を発した。
「なんだと?」
「私の小間使いだと言った」
自身の乱れた髪を手櫛で整える。
「赦さないと言ったはずだ」
小首を傾げて片方の眉をやや持ち上げた。
「やはり、怒っているな」
「当たり前だ」
クシャナは後ろ手を組むと腰を曲げて、ナムリスに目線を合わせる。
「このまま、私にキスできるか」
二人の唇の距離は空いていた。
「できるのなら考え直してやっても良い」
細める両目には悪意がある。
腕を伸ばすにも立ち上がるにも、繋がれた鎖は短すぎる。少しの間(ま)の後(のち)、クシャナの背後から強風が吹く。ほどかれた長髪がナムリスの顔にかかると、彼はそれを咥えて自分の方へ引き寄せた。
「あ……」
腰をかがめ、重心が前に傾いていたこともあり、女はあっさりとよろめいた。男はそれを逃さず、腕に繋がれた鎖を、彼女の腕に絡め押し倒す。
「クシャナ」
ナムリスは笑っていた。
「クシャナ」
ただ、面白可笑しそうに笑っていた。
「俺が欲しいのは血だ。お前以外の血だ。血塗られた道で俺は斃れたいのだ」
「その機会は永遠に失われた。お前の弟が国土の半分を失い、土鬼(ドルク)軍が戦闘能力を失った時、皇兄が皇弟を追い落とした時にはすでに、ナムリスの望みは両の手から零れ落ちて戻すことは叶わなかったのだ。本当はわかるはずだ」
二人は何の感情も交えずに見つめ合う。
「お前の傍でならな」
ナムリスはクシャナを抱擁すると離さなかった。
四
処刑の前夜は月も見えず、ただ風の音だけが強く唸っていた。
「トルメキア人、儂は疑っている」
いつものように上半身の入れ墨を露わにしたまま、座禅を組むミラルパが、クロトワの横で浮いている。
「これを機に恋敵を葬ろうと企んでいないとどうして言える?」
尋問室で政務に励むクロトワを死霊が問いただす。
「それを俺が否定しても信じないでしょ」
クロトワは机に両肘をついて指を組み、顎を乗せた。
「念を押しておくが、皇兄が殺されそうになったら、お前の体をもらい受ける」
「公開処刑を実施したらという条件から譲歩して頂き恐懼に耐えません」
無表情に応じた。
「おい」
「はい」
「お前の行動を止められない儂と思うか?」
ようやく、クロトワはミラルパに視線を向ける。
「万人の誰をも操作できるなら、この俺に用などないんじゃないですか」
「何をしようとしている、トルメキア人」
クロトワは再び視線を前方の扉へ戻す。
「尋問室で行われるのは尋問だけですよ」
扉をノックする音が、やけに大きく響いた。
「入れ」
夜中に牢屋から連れ出された、トルメキア軍の元前線指揮官が両手を拘束されたまま、腕を引かれて入室する。
「こんな夜中にご苦労だったな。部屋の外で待て」
部下に退室を促すと、部屋の中は三人だけになった。元指揮官は踵を鳴らすと敬礼しようとしたので、クロトワが片手で制す。
「お前はもう軍人じゃない」
その言葉に男は苦々しそうに唇を噛んだ。
「だから、姿勢は楽にして良い」
思いやるような言葉を吐く。
「こんな男になんの用があるのだ?」
ミラルパはつまらないものをみるように男を眺めた。
「明日、処刑されてしまうというのに。それまでに更に虐めようというのか」
「一つだけ答えれば、すぐに帰してやる」
クロトワは尋問を始める。
「一つだけだと? 処刑を目前に控えた罪人の気持ちをご存じないと見える」
悪意を剥きだしに床へ唾を吐いた。
「俺たちが襲撃をかけた時、お前たちは充分に準備を整えて罠を張っていたはずだ」
それを無視して職務を続ける。
「実際、地の利はそちらにあり、それに対してこちらは手が足りなかった。時間をかけていれば、お前たちは戦闘を長引かせ、活路を見出せる可能性はあった。それが何故、処刑を待つ身の上になった?」
「お前たちの方が上手くやった。それだけのことだろう」
「違う」
ここでクロトワは立ち上がる。
「違う、と思わないか?」
安全な距離を保ったまま、男に歩み寄った。
「俺たちが上手くやったんじゃない。お前たちが下手を打った。そうは思わないか?」
「侮辱する気か」
「そうじゃあない」
クロトワは男の横を通り過ぎると、背中を向けて立ちどまる。
「お前たちは時間をかけるべき局面で時間をかけなかった。それを誰が望んだ?」
男は胸の痛いところを突かれたようにうなだれた。
「俺たちは……」
「違う。偽帝は」
そこで言葉を切る。
「偽帝は陛下へ向かって一人で斬りこんだ。そこに全ての答えがあると思わないか?」
「違う! 俺たちは……!」
男が勢い良く振り返ると、背中を向けていたはずのクロトワの顔が目の前に会った。
「死に場所を求めていた皇帝に、お膳立てとして使われた」
クロトワは顔を離し、机に戻ると着席した。
「だから、奴は下手を打った。わざとな」
男の額に脂汗が滲み出る。
「もう一度、訊く。お前が処刑されるのは誰のせいだ? それはお前たちが悪いのか?」
もはや、男には言葉もない。
「誰を恨むべきかわかったら、もう二度と進軍などと考えないことだ。明日、お前たちは公開処刑に立ち会い、衆目に顔をさらした後に解放される。仲間にそう伝えてやれ」
クロトワは尋問室の外の部下を呼び、男を牢屋へ戻すように伝えた。
再び、腕を引かれて連れていかれる男の顔には奇妙な喜びとともに、一つの明確な感情があった。それは殺意である。
「良くわからん」
二人きりに戻った尋問室でミラルパがぼやく。
「あれはトルメキア流の慈悲なのか? 残酷なのか?」
「酷い言われようだ」
机周りの整理をして退出の準備を進めながらクロトワもぼやく。
「明日になればわかるだろうよ」
そして、日は巡り、公開処刑の日がやってくる。
城下町で一番大きな広場に磔刑台が組まれ、その正面にトルメキア代王を含む国の要人の貴賓席が設(しつら)えられた。朝からの曇天で広場は暗く、松明すら掲げられた。その効果もあって、城下町の住人はお祭り気分である。後(のち)に磔刑の絵葉書すら売りに出された。
その貴賓席の真ん中にクシャナが座るが、クロトワはその隣にはいない。磔刑台の傍で現場の指揮に当たっている。
「クシャナ」
自分を呼ぶ声に彼女は驚いた。その時はまだ貴賓席には自分以外の誰もいなかったからだ。
「儂がわかるか」
貴賓席の外である空中に、クロトワに対するのと同様の姿格好でミラルパが話しかける。
「皇弟か? 奴の面影がある」
思わず腰が浮きかけるクシャナを、彼が視線で制する。徐々に周囲の喧騒が遠のいていく。
「お願いがある」
「聞こう」
「皇兄を見捨てないでくれ」
「三下り半を突きつけるなと? 奴が聞いたら怒るな」
クシャナは愉快そうにちょっと持ち口角を上げた。
「儂は皇兄に対する生前の行いを悔いるつもりはない。悔いずとも良いと思っている。我々は全力でぶつかり、争ったのだから」
同様に兄たちと争ったクシャナには、皇弟と皇兄の間に憎しみがないことを共感しかねた。
「儂が死んで、もう皇兄にはクシャナしかいない」
「どういう意味だ?」
「対等にぶつかり合える存在という意味だ。だから、お願いだ。いつでも、受け止めてやってくれ。互いに高みを目指せるように……。儂らは良い方向へは上っていけなかったから」
クシャナは立ち上ると欄干に手をかける。
「始まるな」
高らかに楽の音が響き渡った。罪状を読み上げる声が、ここまで届いてくる。まずは磔刑台に偽帝の一味が引き立てられ、横列に並ばされる。一名ずつ名を紹介されながら、面布を引きはがされていく。それが終わると、偽帝――ナムリスが引き立てられてくる。彼はいつも通りのヘルメットで顔面を覆われていた。そのまま、なんの紹介もないまま磔にされていく最中(さなか)、一味の人間の一人が松明を奪い取る。
減刑を命じていたクロトワは、命を永らえた人間がそんな支離滅裂な行動に出るとは想定していなかった。一味の人間たちは手枷すら外されていたのだ。
警備兵が止める間(ま)もあらば、その火は身動きの取れぬナムリスへ近付けられ、燃え盛る。焼ける罪人を助けるよりも、これ以上の損害を出さない為に錯乱者へ警備兵が殺到する。群衆は逃げ出しもせず、磔刑台上の騒動を囃し立てた。
錯乱者が喚いた大声に、答える声があったことは、その場の誰の耳にも届かなかった。
「悪くない」
喉を焼かれながらのナムリスの一言を知覚した者が一人だけいる。
遠く離れたミラルパである。その瞬間、クロトワの体を奪ったミラルパは炎を消そうと走り出した。それを見つけた群衆の一人が叫んだ。
「油をかけろ!」
周囲の者も叫びに続いた。
「罰を与えろ!」
クロトワであるミラルパは大きく顔を歪めると群衆を睨みつけた。瞬間、雷鳴が轟き渡る。昨晩からの風が雨雲を招いたのだ。一気に豪雨が広場を鎮圧する。群衆は屋根を求めて散り散りになり、磔刑台の炎は消えた。
クシャナは一歩も動けなかった。豪雨に声をかき消されながらクロトワを呼ぶ。その時には自分の体で意識を取り戻したクロトワが、彼女の元へ馳せ参じた。
「あれを私の庭へ」
炭化したヒドラは生きているのか死んでいるのか判別しかねた。彼女は黒焦げの良人を自身の空中庭園の池へ沈めた。そして、待った。瞬く間に一年が過ぎたある日、そこから立ち上がる者が現れる。
「若い女の一年は長いぞ。ナムリス」
クシャナは彼を寝室で出迎えた。
「誰だ」
それが脳細胞に曖昧な記憶を残したまま生還した彼の第一声だった。