第五話 赦し

   一

「なんと言った? クシャナ、それは誘いか」

「たまには外へ出ないかと言っただけだ」

「誘いだな」

 ナムリスは満足そうに頷きながら笑う。

 クシャナは表情を読ませない。

「それで? どこへ誘ってくれるのかな?」

 クシャナは何も言わず、寝台の下に置いてあった箱から装備を取り出して並べ始めた。

 ナムリスは窓辺から離れて寝台に近付く。

「狩りか?」

 野外用の装備を見て、まっさきに思い付いた言葉を口にする。

「郊外へ行くつもりだ。ナムリスは私の従者という設定にする」

「クシャナの露払いという訳だ」

 ナムリスはクシャナの顔を上から覗き込んだ。

「嫌か?」

「どうしてどうして、楽しくなりそうじゃないか」

 見上げるクシャナの額に己の額をつける。

「遠くへ行こう」

 クシャナはなんと答えるべきか一瞬だけ言葉に詰まった。

 彼女はトルメキアを民主的な国にするため、結婚や出産という女としての喜びを捨てた。長年の封建的な制度の名残として、彼女の死後に代王の氏族へ権力が集中するのを防ぐのが狙いだ。

 クシャナにとって、それが哀しみではないとは言わない。永劫、女は誰のものにもなってはならないのだ。

 自分の気持ちをナムリスに見透かされているような気がする。だが、トルメキア代王に飼われる神聖皇帝の気持ちを考えれば、むしろ遠くへ行きたいのは彼自身かもしれない。

「……支度をしろ」

 結局、言葉を濁したまま装備を押し付け、彼を自らから遠ざける。

「クシャナ、着つけてくれ」

 ナムリスはいたずらっ子っぽい笑顔を浮かべて言う。

「トルメキアの装備には明るくない」

 下女を呼ぶ訳にもいかないので、仕方なく彼女が不慣れな手つきで着せてやる。意外と不器用に悪戦苦闘するクシャナを、ナムリスは文句一つ言わず、楽しげに眺めていた。

「どれ。今度は俺が着つけてやる」

 クシャナが着つけ終わると、見様見真似ではあるが、ナムリスが手慣れた手つきで彼女に着つけていく。

「意外だな」

「俺は皇兄だ。可愛い弟がいたさ」

 そういえば、とクシャナは考える。皇弟の死因はなんだったのか? ナウシカに手酷くやられことが原因とも、ナムリス自身が手を下したとも聞いている。

「皇弟は何故、死んだのだ?」

「俺がミラルパの沐浴槽にちょっとばかし強力な薬液を混ぜてやっただけだ」

 クシャナの前で膝をつき、ボタンを留めていた彼が上を向く。昔の記憶を楽しんでいるような顔だった。

「それでお前の気持ちは晴れたか」

「いや。俺はミラルパを憎く思ったことはないからな。お前と違って。クシャナはどうだった兄皇子の一人は殺したろう?」

「蟲がかたをつけてくれただけだ」

「じゃ、お互いなんの感慨もなく政敵を排除した訳だ」

「兄弟なのに、な」

 ナムリスは上着をクシャナに羽織らせ、彼女の背後で背中の留め金をはめ始めた。

「兄弟だからこそ、手加減なくやれることもある」

 クシャナにその気持ちはわからなかったが、皇兄と皇弟は常に対等でぶつかり合ってきたようだ。

「弟が死んで悲しかったか?」

「いや、しばらくは俺の周囲をうろうろとしていたからな。ナウシカの方に行っちまった時はちょいとつまらなかったが」

「何故?」

「ん?」

 ナムリスは思案顔になる。

「皇兄が傍で見ていたのだから、皇弟も傍で見ていないと不公平だろ?」

「仲の良い兄弟だ」

「政務に忙しいために先帝不在の墓所で、二人っきりで過ごしてきたからな」

 ナムリスは手をとめた。クシャナへの着つけが終わったのだ。

 最後にお互い、向かい合って立つと、それぞれの衣服を整えあう。

「行こうか」

 寝室の扉を開けたのはナムリスだった。

 トルメキアの城内で代王と肩を並べて歩くナムリスを、通り過ぎる者は皆、奇異の目で見たが二人はまるで気にしなかった。

   二

「トリウマは一頭か」

「従者は徒歩と決まっている」

「ま、良い。俺はそういうものにあまり乗ったことがない」

「毛長牛は?」

「支配階級が乗るには野蛮だな」

 クシャナがスカーフで顔を隠して乗馬すると、ナムリスは知ったように轡を取ったが、王城から出るなりクシャナの後ろへ飛び乗ってしまった。

 駆け足で城下町を抜ける。

「良い気持ちだ。もっと飛ばしても構わないぞ」

「ここでは人が多すぎる。郊外まで待て」

 巧みな綱さばきでトリウマを制御しながら、クシャナが振り返らずに言った。

「女だてらに大したものだと言われて育ったろう?」

「前線の指揮官なら当然のことだ」

「皇女の身分でか。天晴なものだ」

「少し黙れ。舌を噛むぞ」

 ナムリスは大人しくクシャナに従うことにする。

 ほどなくして、城壁に辿りつく。そこを抜けると茫漠たる草原だった。

「飛ばすぞ」

 人気がなくなるまで走り続け、辺り一面が静寂に包まれる。

 クシャナは顔の覆いを外した。

「今ここでクシャナを殺しても誰にも分らないな」

 ナムリスは馬上でクシャナと密着しつつ、背後から耳元に囁く。

「殺せるか? 私のことを」

 やはり、クシャナは振り向かずに答える。

「そうさなあ。どっちが良い?」

「どっちが? まるで、私を殺せるような口ぶりだな」

 ゆっくりと振り向きながらクシャナが答え終わると、ナムリスが軽く口づけをした。

「拗ねるなよ。今はクシャナを殺す理由がねえ」

「弟を殺した時のような理由か?」

 ひひひ、とナムリスはいつものように笑う。

「あの時、俺は国が欲しかった。それにはミラルパが邪魔だった。今の俺には欲しいものなど何もない」

「欲のないことだ」

 クシャナを進行方向へ顔を戻す。

「クシャナがいるさ」

 一陣の風が二人を過ぎる。

「だから、殺す理由がない」

 クシャナは素早く振り返ってナムリスの肩を掴むと、馬上から払いのけた。馬上に慣れていないナムリスはあっさりと落馬する。

 クシャナはひらりと下馬すると、ナムリスに馬乗りになった。

「調子に乗るな。私は誰のものにもならない。なってはならないからだ」

「じゃ、証拠を見せな」

 クシャナはナムリスの襟首を掴み、引き起こす。

 ひひひ、とナムリスがまた笑った。

「おっかねえ女房殿だ」

 ナムリスはそのまま上半身を起こすと、簡単にクシャナを押し倒した。

「難しいものだ。誰かをものにするということは」

 クシャナの顔のすぐ横に手をつき、見下ろす形になる。彼はやるせなさそうだった。

「似合わぬぞ。そのような顔つき」

 クシャナは落ち着き払って答えた。

 ナムリスは立ち上がると、クシャナを大地に寝かせたまま、自分の顔を撫でる。

「いつもと違うか?」

 クシャナは草の切れ間から青空を見ていた。雲の進みが早い。二人の頭上には青空が広がっているが、遥かかなたは真っ黒だ。それが風に流され、こちらへやってきていた。

(哀れで孤独な狂おしい奴……。私とて救いのない人間だな)

 クシャナが寝転がったまま動かないので、ナムリスもその隣に腰を下ろす。

「雨になりそうだ」

 空を見たまま、クシャナが言った。ナムリスも空を見ながら答える。

「帰りたくないな。このまま、あの空を手に入れたい気分だ」

「どうやって?」

「簡単だ。あの空をクシャナにやるよ」

「それでは私のものでは?」

「クシャナにやったのはこの俺だ。つまり、クシャナのものになる前は俺のものだった。俺が手にいれた」

「おかしなことを」

 クシャナは目を細めて笑う。

「気に入ったか?」

「初めての贈り物を感謝しよう」

「感謝か……。悪くない気分だ」

 クシャナが立ち上がる。

「行こう」

「どこへ」

「この近くに廃村があるはずだ。人口減少で消えた村の一つが」

「なら、雨が降る前に行くか」

 ナムリスが大股でゆったりと歩き始める。

「乗らないのか?」

 クシャナは馬上の人となった。

「それは慣れん」

「お上品な育ちだな」

「お前ほどじゃない」

「ほら」

 馬上からクシャナが手を差し伸べる。 ナムリスは「 やれやれ」と呟くとその手を取った。

 だが、廃村へ到着する前に大雨となり、二人は王城へと引き返すこととなる。結局、どこへも行かれなかった。

   三

 クシャナは夢を見ていた。

 鍵穴から覗くような視界の狭さの中に、幼い兄弟がいる。その二人が兄弟だというのは、目鼻を見ればわかった。ただ、一方は穏やかな面差しをしていたが、もう一方は気性の強さが視線に表れていた。

 兄弟は一緒になって一抱えもある本を読んでいる。時折、ページを指差しでは、何かを相談していた。数ページをめくったところで、兄弟の意見が一致したらしく、盛んに頷きあう。

 気性の強そうな方が、胸に握りこぶしを当てて何かを請け負った。どうやら、彼が兄らしく思われた。

 ふいに鍵穴の視界から兄弟がかき消える。

 次に現れた時は、兄が胸に小動物を抱え、嬉しそうな顔をして走っていた。薄暗く巨大な建物の中で誰かを探している。

 曲がり角に弟の後姿が見えた。

「あなた様は誠に素晴らしい能力をお持ちです」

 曲がり角の向こうから大人たちが弟を誉めそやす。その言葉に兄は足をとめた。

「兄君にはない才能です」

「年若とて、引け目をお感じにならず、志は大きく抱かれるべきです」

「左様に御座います。兄君にお出来になることは、武芸の鍛錬で相手に怪我を負わせる程度のことです」

 兄から笑顔が消え、その表情が剣呑になる。

 ふと、弟が後ろを振り返った。彼は傷ましいものを見るように兄と視線をあわせた。

 兄は両手に抱く小動物を地面に思い切り叩きつけると、踵を返して走り去った。

「ナムリス」

 ミラルパの声と自分の声が重なったところで、クシャナは目を覚ます。

 月光で周囲が変に明るかった。

 横を見ると、ナムリスが体を起こしている。物思いにふけって、前方の虚空を見つめていた。

「眠れないのか」

「クシャナ、起こしたか」

 ナムリスがクシャナに顔を向ける。

「なんとなく、昔のことを思い出してな」

「私は夢を見たよ。お前たち兄弟の夢を」

「なるほど」

 ナムリスは自嘲気味に口角をあげ、眉根を寄せる。

「ガキの頃、奴と同じ夢を良く見たものだ。正確には、奴の夢を俺も見させられたと言うべきだがな」

 彼は横になる。

「俺が超常の力を得たか、クシャナが超常の力に目覚めたか。後者だと良いな」

「何故?」

「俺には無用だ」

 ナムリスがクシャナの手を握る。

「俺は他者に影響を与えるつもりはない。俺も他者から影響を受けるつもりはない」

「随分、自信があるのだな」

「そうやって生きてきたからな」

 クシャナがナムリスの手を握り返す。

「唯一無二の孤独とは死の同義ではないか?」

「小気味良い」

 彼は小さく声を立てて笑った。

「壊したくなっちまう」

「誰を? お前を? それとも、私を?」

「さあてな」

 握る手を引き寄せ、口付ける。

「こいよ」

「望んでいまい、そんなこと」

 ナムリスの手をすり抜けると、彼女は寝台から降りた。寝台の影に立つ。彼女の白い足だけが月光に照らされる。

「こい」

 月光に照らされたナムリスが起き上がる。

「怖いか」

 呟く彼が片手を差し伸べる。

「恐れる私と思うか?」

「いいや」

 手を伸ばしたまま素早く寝台から降り立ったナムリスはクシャナを抱きしめる。

「もしも、この世界が壊れるなら、お前は傍にいまい」

「私は生きる」

 クシャナは緩慢にナムリスを抱きしめた。

「お前がいなくとも生きねばならない。それだけの責任が私にはある」

「生きるが良いさ」

「ナムリスは?」

「その答えを持っているのは俺じゃない」

 ナムリスはクシャナを離す。

「お前が持っている。違うか?」

 クシャナは枕の下から拳銃を取り出すとナムリスへ突きつけた。

「やる」

「ああ、残酷な女だ」

 ナムリスは受け取ると、こめかみに銃口を押し付け、寸断の間もなく引き金を引いた。

 カチリと音がしただけで、銃弾は発射されない。

「本当に残酷な女だ」

 ナムリスはいつも通りに笑う。

 クシャナは笑いながら死ぬつもりでいるこの男を殺すのは、自分の役目だと知っていた。

   四

 日中の決まった時間にナムリスは空中庭園にいる。下女たちが掃除のために寝室へ入るからだ。

「土鬼(ドルク)の鳥が鳴かなくなったわね。あなたが呼びかけたら違うかもしれないわ」

「いいえ、結構です」

 土鬼(ドルク)の鳥の正体を知る下女は素知らぬ風に答える。彼女が人買いに売られる自分を拾ってくれた主人に、悪い風評が立たないように気を付ける理由は、職を失わないためだ。

 狙い通り、彼女の一言は大して気に留められることもなく、寝室の掃除が進行する。

(首の男は死んでもクシャナ様は何もおっしゃらない。きっと、このまま王城にいられるわ)

 彼女は掃除の終わりに部屋を確認する。それを咎める者も褒める者もいなかったが、彼女の癖となっていた。強迫症状めいた癖は、鳥籠の中にナムリスの首を見つけた時から始まっていたが、彼女自身もそれとは気付いていない。

 ナムリスは寝室内の下女たちを全く警戒していなかった。いつも、寝室の窓はカーテンで覆われていたため、今日も彼は頓着なく空中庭園を歩き回る。空中庭園へ通じる扉のすりガラスに自らの影を落としたことにも気がつかなかった。

 だが、彼女は気がつく。何故とはなしに、彼女の背中に怖気が走った。

(何かしら?)

 彼女はその理由を知るため、ナムリスの首を池へ投げた時と同じように、躊躇なく扉を開け放つ。

 五体満足のナムリスと目が合った。

「誰だ、お前は」

 その声音で男が誰と知れる。

「どうして、体があるの? 死ななかったの?」

 ナムリスを見る怯えた目が、下女の正体を物語っていた。

「なるほど。俺を殺そうとした下女か」

 それだけだった。ナムリスは空中庭園の奥へと足を進める。

「わ、私を殺さない? 復讐しない?」

「殺して欲しければこちらへ来い。寝室が汚れる」

 彼女へ視線を送りもしない。

「ねえ、私のことを誰にも言わないで」

「どうかね。クシャナとの寝物語にはするかもしれない」

「やめて」

 彼女は思わず、空中庭園へ足を踏み込み、ナムリスの足元にすがった。

「私のことをクシャナ様に言わないで」

「どうして?」

「だって、ご主人様の秘密を知っているのだもの。解雇されてしまうかもしれないわ」

「その前に俺に殺されるとは考えないのか」

「だって……さっきは、復讐するって言わなかったじゃない……」

「それはな、単なる俺の気まぐれだ」

 下女が理解するよりも早く、ナムリスは行動へ出た。彼女の髪を鷲掴みにして池まで引きずる。

 彼女は抵抗しようとしたが、逆らえば逆らうほどに頭皮が痛い。結局、なんの抵抗もできずに池まで引きずられてきた。

 ナムリスは有無を言わさず、仰向けにして彼女の首から上を池に沈める。

 地上にある下女の肉体はあらん限りの抵抗を始めたが、後の祭りだった。段々と抵抗が弱まっていく中で、彼女の表情も消えていく。

「それは誰だ、ナムリス」

 空中庭園の入口からクシャナが現れた。

「俺を池へ投げた下女だよ、クシャナ」

「殺したいのか?」

 ナムリスは下女の首から手を離す。

「その方が良いと思うがな。俺たちの秘密を知っているのだから」

 下女は動かない。

 クシャナは腰のものを抜刀しつつ、空中庭園に踏み込んだ。

「ふむ」

 ナムリスは空中庭園と外界との境の低い塀へ寄りかかる。

 クシャナは無言で駆けると、ナムリスの喉笛へ剣を水平に押し付けた。彼の前髪を掴み、喉笛を晒させる。

「私にはお前を救えない」

 ナムリスはクシャナの額を掴んだ。だが、抵抗するためではない。ただ、優しく彼女に触れた。

 クシャナはそのまま剣を振るう。

 ナムリスの体は塀をつたわりながら徐々に傾いていく。

 クシャナの手の中には彼の首が残された。首は血反吐を吐く。

「また、罰を与えるだけだ」

「これで俺が死ぬためには、クシャナの手が必要になった。良いのか?」

「一人で楽にはさせぬと言ったはずだ」

「嬉しいねえ」

 クシャナはナムリスを地面に置くと、下女の救命措置に入った。下女は息を吹き返したが、クシャナを見てひどく怯えた。

「怖がらなくて良い。辛い目に遭わせたな」

「私……私をどうなさるおつもりですか?」

「郷里に帰りなさい。仕事は用意する。おいで」

 下女の肩を抱くとナムリスの首に目がいかないようにしながら寝室へ戻ろうとする。それでも、血の匂いは隠せなかった。

 下女はあえて振り返ろうとはしなかったが、怯えて体を固くする。

「ここでのことは悪い夢だと思いなさい。薬草の見せた幻覚だ」

「幻覚……?」

「もう、現実へ戻ると良い」

 寝室に戻ると、下女の肩から手を離し、優しく命令した。

「政務室にクロトワという男がいるから、訳を話せ。良いようにしてくれる。行け」

 下女は逃げるように寝室から廊下へ飛び出ていった。

 クシャナは軽い眩暈を覚え、寝台に手をつく。

 悪夢めいた迷宮に紛れ込んでしまったような気がした。永遠に終わらない生き物が彼女の心を掴んだのだ。それは邪悪だが、彼女を愛している。

 クシャナは一筋の涙を落とす。涙は後には続かない。彼女の真摯なまなざしは何も見てはいなかった。

 ふいに鳥籠を覆っていた赤い布が落ちる。当然、籠の中には何もいない。

 彼女は緩慢な視線を送る。それに反して整然とした動きで鳥籠を掴むと空中庭園へ戻った。

 空中庭園への扉を開け放つ。

 ナムリスは首の断面から血を流しながら、目をつむっている。

(整えぬ死に顔はひどく疲れて眠っているようにみえるものだ)

 ナムリスはクシャナが髪に触れても目覚めない。しかし、彼女は彼の生を疑わない。

 鳥籠を横に開くと、ナムリスの首をしまった。その場にしゃがみ込むと、鳥籠を抱きかかえる。

(人を愛するのに何かを間違ったか?)

 ナムリスは目覚めない。すぐ傍で彼の身体が寝転んでいる。血だまりが迫って、彼女の服を染めた。

 しばらくしてから寝室の扉が開かれる大きな音が、空中庭園に届く。

「陛下」

「ここだ。クロトワ」

 クシャナの小さな声をクロトワは聞き逃さない。開け放たれたままの扉をくぐり、彼女の元までやってくる。

 クシャナの変に静かな様子が、彼には腑に落ちなかった。

「陛下、立って下さい」

「立てぬ」

 クシャナはクロトワを見ない。

「どうすりゃ、立てるんで? その鳥籠をお離しになったら?」

「これは私の心だ」

 籠に額をつける。

「いびつだが、精緻で美しい」

「お離し下さい」

 クロトワが鳥籠に手を伸ばすが、クシャナは首を振って制した。

「わかっているよ」

 クシャナは鳥籠をナムリスの体の近くに置くと立ち上がる。服の一部が赤黒く染まっていた。

「クロトワ、奴の体を埋めてくれないか。ここで良い」

「その首は?」

「言ったろう。これは私の心だ」

 再び、鳥籠を手に取ると、頼りなく歩き出し、寝室へ入る。

 クロトワは園芸用のスコップで人一人分の土をかきだすこととなった。

 クシャナは鳥籠を寝室の窓辺に吊るすと、寝台のベッドボードに寄りかかって横たわった。

「ナムリス、起きよ。ナムリス」

 ナムリスがゆっくりと瞼を開ける。

「呼んだか、クシャナ」

「眠っていたのか?」

「気を失ったらしい。切り離された直後は痛む」

「私が憎くないのか? 二度もお前の首を落とした女だ」

「憎いと言ったら?」

「お前の勝ちだ」

「勝ち、ね。勝利は好きだ。それでクシャナは? 破滅するとでも?」

「私は生きるよ」

「そうだったな」

「答えを聞こう」

「もう一度、俺に触れてくれないか。それでわかる」

 クシャナは躊躇わずに立ち上がると、籠を開けて首を取る。ナムリスの両頬に手をかけ、自分の目線に合わせる。

「クシャナ、すまない。苦しめているな」

 ナムリスの言葉にクシャナは驚いて目を開いた。

「本当にお前は狡い。こんな時ばかり真剣になる」

「血が俺を決める。俺は血を求めている」

「血は清めだと言った人がいた」

「ならば、俺のためにはより大勢の血が必要なのだろう。俺の体はまだあるか」

「あるが、どうしたい?」

「繋げてくれ。その上で俺を棄てるが良い」

「身勝手な……」

 クシャナはナムリスの首を抱きしめる。

「私から逃げるか」

「俺がお前から逃げるのだ。クシャナ、お前の勝利だ。俺は破滅する」

「赦さない」

「頼む」

 クシャナは再び、ナムリスと目線を合わせる。

「良いだろう。私が赦すまで生き続けよ」

「それでこそ俺の伴侶だ。さよなら」

「さよなら」

   次話