神殿都市の神殿には入口が一つしかない。入口は水上と長い階段で結ばれている。
今、うわんは片手に戦斧を持ち、もう片方の手で肩に腰かける庫王を支えながら、慎重に階段を下りている。そよとも風の吹かない空間で、聞こえるのは一つの足音と――声。
(うわん)
隔たれた部屋から漏れ聞こえるような声が、足元から聞こえる。誰の声かは解っている。その声は主の寝室に閉じ込められたいつまでのものだ。うわんの一歩一歩につき纏うように、聞こえる筈のない声が、彷徨っている。牢の隙間から突き出る指を押し戻すように、声を踏み潰して歩く。
月の底は結界に覆われている。採光の為に穿たれたクレーターから空気を逃がさない為だ。通常、物理的な壁とはなりえない結界だが、それに手を加えたものを寝室に施した。その結界は外から入ることは叶うが、内から出ることは叶わない。ただし、空気だけは外からも内からも流動しない。
(うわん)
フと頭上から声がした。思わずうわんは穴を見上げる。
「危ないだろうが」
庫王に顎を引かれた。再び、なんの変化もなく、歩き続ける。
「どうした」
「はい」
「言いたくないか。許さん。申せ」
庫王にはいつまでの声が届いていないようだった。
「術をかけられたようです」
「あの女にか?」
「はい。閉じ込める寸前にかけられたものと思われます」
「何をされた」
階段を下りた先は水に沈んでいる。波一つ立たない水面みなもに、一艘の舟が泊まっていた。うわんは庫王を下ろすと、先に舟へ乗り込んだ。手を差し伸べる。
「出口の印をつけられたようです」
「言葉を尽くせ」
「はい」
二人が船へ乗り込んで、俄に水面が賑やかになる。戦斧を置いて、櫓を操りながら、背中を向けて座る庫王に説明をする。
「私めに命綱が結びつけられたとご想像下さい。いつまではその命綱を手繰って外に出ようと試みているのです」
「閉じ込めてから何日経った」
「七日です」
「それでも生きていると?」
「……解りかねます」
「確かめてみるが良かろうよ。いや、寧ろあの女が自力で脱出する様を見たいな。出来るか?」
「生きておれば」
水中から伸びる何本もの巨大な柱を巧みに避けて、船は進む。これらの柱には人類の叡智が刻み込まれている。月から叡智を借用したものが、その証として刻み込んだものだ。刻み込む位置の上下によって、その者の地球での身分の高さを表している。
かつて、月は神殿に仕えるもので溢れていた。各神殿に祭司が住み、庫王の命令に従って日々の仕事をこなしていた。失われた叡智を求め、地球から参る人々を向かえ、納められる知識を管理していた。しかしもう、誰も残ってはいない。
「忌々しい」
「庫王様?」
「水が満ちるのはいつだ」
片手を水に浸しながら、水中を覗き込む。
「皆、没するが良い。過去の栄光など」
「庫王様の威光は依然として御座います」
「お前だけだよ。お前だけ」
振り返って微笑む。
「あァあ。結局、儂みに残ったのはお前だけかあ!」
照れ隠しするように、のびをした。水が腕を伝い、袖を濡らす。
「お前も災難よな。ま、まあ、諦めてだな、これからも……」
一緒にいて欲しい、と言いたくて言葉にならなかった。言わずに伝わらないものかと顔を覗き込んで、目が合ってしまう。頬が熱を帯びた。でも、視線は逸らさない。視線の繋がりだけが、二人の繋がりだ。他に誰も見ない瞳が王のもの――
(うわん)
その声は王には届かない。他の誰でもなく、うわんを呼ぶ。王の求めに応じ、いつまでを自力で脱出させようと、声に意識を傾ける。暗中に彷徨う者のように、声は行き過ぎ、戻り、又も行き過ぎる。うわんは動かない。
「うわん? 聞いているのか?」
その声が初めて自分を呼んだのはいつだったか、うわんは覚えている。まだ、人と妖怪の見境もなく食い荒らしていた頃、眼前に立ちはだかった女がいつまでだ。その声の哀しみを、今でも覚えている。
(うわん)
「ここだ。いつまで」
虚空を掴んだのが先か、女が現れたのが先か。虚空に伸ばした手が女の手を取り、引き寄せる。何故かいつまでの髪には、何輪もの赤い曼珠沙華が挿してある。庫王には空から女が下りてきたように見えた。
少なくない衝撃で舟が大きく揺れる。そのまま、うわんといつまでは一体となって、水中に没した。