第九話 歌姫
一
教会の焼け落ちた廃村でクシャナが歌う。陽の昇りきらぬ朝靄(あさもや)の中を、一人で進んだ。くぐもった動物の鳴き声がそれに加わるが、近寄ってはこない。
彼女はきびきびとした足取りで周囲を散策する。記憶を辿るように風景を確かめながら道を決めた。やがて、一際大きな家が見えてくる。その家の門を易々とくぐりつつ、玄関先で品定めするように足を止めた。だが、それもわずかの間だ。すぐにその身をひるがえすと、庭へ向かう。
荒れ果てた庭の全容は朝靄に隠され、明らかではない。ただ、赤い花を咲かせた木の存在だけが確かめられる。風になぶられ、草花が騒めいた。耳朶を撫でる風音に混じり合うように歌声が流れる。クシャナの歌う子守唄は、母が全てを捧げて産まれた吾子よ、眠りなさいと繰り返し説く。
歌い手はそこにたたずみ、靄(もや)の覆う先へと歌を届けた。その瞳には一つの意志が宿っている。
彼女は何かを待っていた。
「それは私の為だね」
なんの前触れもなく、背後にある木の裏から声がした。歌うのをやめ、そちらへ振り返る。
「美しいが哀しい歌だ」
クシャナは答えず、声の主が姿を現すのを待った。
「そなたの母上が歌ってくれたのかな。どうやら、母上との思い出に哀しみがあるように思われる」
木の陰から人物が現れる。腕を組んだその人物は、風変わりな髪形をし、異国の帽子をかぶる若い男だ。
「君の心は悲哀に満ちている」
「庭の主よ」
会話を途切れさせるように、クシャナが言葉を発する。
「まず、姿を現してくれたことに礼を言う」
「どういたしまして」
鷹揚に頷いた。
「今、庭には私が一人だけでね」
「私はあなたの客人にはならない」
「ふむ」
興味深そうに顎へ手をやる。
「では、先程の歌は誰の為かな。私の勘違いだったらしい」
「一つ、教えて欲しいことがある」
問いには答えず、逆に問うた。
「君らしくない物言いをする。こちらの言葉には答えなさい。何を焦っているのかな? それとも、恐れている?」
風が大きく、二人の間をよぎる。
「私は悩んでいる……」
クシャナは握りしめた片手を胸に当てた。それ以上の言葉は形にならないとでも言うかのように。だが、庭の主が黙っている今、発言するのは彼女の役目だ。意志を貫くように前方の男を見据えると、その悩みを舌に乗せる。
「教えて欲しい。肉体を燃やされたヒドラは、脳が再生したとしても、その記憶は永遠に失われるのか」
「ナムリスが記憶を失ったとでも言うかのようだね」
庭の主はクシャナが直面しがたいと思っている問題をあっさりと議題に上げた。
「その通りだ……」
胸元の手を開き、額に当てて答える。
「君の困窮は良くわかるよ。クシャナ」
彼は腕を組んだまま、木の幹に寄りかかった。
「だが、この私がなんの代償も要求せずに、真実を与えるとは思うまいね」
「わかっている」
クシャナは腰の小刀を抜き払う。それを彼に向けずに自分へ向けると、結い上げた長い髪を切り落とした。
「これを捧げるのでは不足だろうか」
髪を掴んで差し出す。庭の主はじっとクシャナを見つめていたが、おもむろに木の幹から体を離すとそれを受け取った。
「君の覚悟は伝わったよ」
風で飛ばされないように髪を握りしめながら、もう片方の手でそれを撫でる。
「でも、何故だね?」
クシャナは小刀を収めない。
「彼にそれ程の価値があるのかな?」
「ナムリスは」
彼女はそこで一瞬だけ言葉を切る。その次の言葉を発するには自分自身と向き合わねばならない。それでも、クシャナは躊躇わずに答えた。
「私が取るに足らない人間の一人であると知っている。私の心が泣くのは、私の強がりも迷いも、そのままで生きよと願う人間と共にある時だけだ」
小刀を大地に投げ捨て、それ以上は何もないとでも言うかのよう両手を広げる。
「私は強がっていたいし、迷ってもいたい。それらを捨てて、素直(すなお)に生きることなどできはしない」
胸を張り、まっすぐに視線を送った。
「それではいけないだろうか?」
「今の君はとても素直だと思うがね」
間髪入れず、庭の主が口を挟む。
「面白い。君が求める自分自身と彼が願う君自身は一致するという訳だ。クシャナはナムリスが傍にいて欲しいのだね。時には素直に涙を流す為に」
彼はクシャナに近付くと、乱雑に切られた後ろ髪に触れた。
「この覚悟は頂いておくよ」
片手に彼女の切られた髪を握りしめたまま言う。
「ヒドラの再生について、私の知識をお答えしよう。肉体が再生し、きちんと動くことができるようになったヒドラは、脳も無事に復活したということになる。だから、彼がその足で自由に動き回わっているのなら、その肉体に過不足はない。脳に内包されていた記憶も、そこに戻ってきているはずだ。それを忘れているというのなら、思い出させてやれば良い。ただ、それだけだ。記憶が永遠に失われた訳ではない」
クシャナが口を開きかけると、彼は背を向けた。
「ヒドラについての知識は与えた。ナムリスについては、私よりも君の方が詳しいだろう。クシャナ」
彼は歩みだし、朝靄に消えていく。
「君の覚悟が彼に伝わると良いな」
クシャナは一人で取り残される。小刀を拾おうと大地に頭を向けると、不意に風の音が気になり始めた。久しく感じていなかった孤独を、女は感じ始めていた。
二
おおよそ、ナムリスの記憶はクシャナと出会う前で止まっているようだった。目覚めた当初は、トルメキアと土鬼(ドルク)が仮想敵国同士で表面上の友好関係を保っていると思っていたので、クシャナはその後に戦役が勃発し、ナムリスは戦場で重傷を負った為に一時的な記憶喪失に陥ったのだと説明した。戦役はトルメキアの勝利で終わり、皇兄は捕虜として戦勝国に囚われているのだということにした。
ナムリスの身柄は、クシャナの母が幽閉されていた塔に移された。ある程度、世俗から隔絶された上で、虜囚の面倒をみられる場所が、とっさに用意できなかったのだ。クシャナの母が亡くなった直後ということもあり、その塔の機能は使用人も含め、据え置きとなっていた。
誰も指図していないのに、ナムリスはクシャナの母が人形をあやしていた窓辺に座り、歌を口ずさんでいることが多かった。その歌声は塔の中庭まで届くので、使用人たちは虜囚を嘲って「歌姫」と呼んでいた。
「髪を切ったか」
母の生前から、クシャナはこの塔にはほとんど近寄らなかった。そこへ今、時間を作ってはナムリスへ会いにくるように心掛けている。多少の苦痛を感じながら……。
「どうでも良いことだろう。お前には」
彼女はいつか母に会った時のように扉の傍から離れず、虜囚と相対した。彼は単眼のヘルメットをかぶり、窓辺の椅子に腰かけている。
「お前はいつもカッカしているな」
口元だけはいつものように笑った。
「トルメキアの姫」
クシャナは自分の名を明かしていない。思い出すことを期待してのただの意地のようにも、自分自身で感じていた。
「もう少し、傍に寄っても良いぞ」
窓の外を眺めたまま、来訪者の相手をする。至極どうでも良いとでも言いたげな態度だ。
「恐ろしいか」
クシャナは動かない。今はこの男に触れられたくはない。その温もりの過去との等しさに打ちのめされてしまう。
「さて、それでは俺から近寄ろう」
やはり、顔をこちらへ向けぬまま言った。ナムリスの他者を歯牙にもかけぬ態度は女を安心させはしない。男が思っている程、些細な行為ではないのだ。緩慢に立ち上がると、ようやくクシャナの顔を見た。
「まずは一歩」
その瞳に彼女を捉えたまま、躊躇わずに足を踏み出す。それでも、クシャナは逃げたくはなかった。
「もう一歩」
「もしも、私に触れてみろ。その血の赤さを思い出させてやる」
腰から小刀を抜き払い、素早く歩を進めるとナムリスの首筋に突きつける。
「おっかない女だ」
愉快そうな笑い声をたてた。
「わかった。わかった。俺の負けだ」
なんの意地も張らずに、元の場所に腰かける。本当にクシャナのことなど眼中にないのだ。
「何か要望はあるか」
しばらくの無言の後(のち)、クシャナが口を開いた。
「即決裁判でもなんでも良いから、早く俺を殺してくれよ」
「殺しはしない」
「そんなに俺は罪深いかね」
膝の上で両手を合わせる。
「ここで退屈という永劫の罰を与えるつもりか?」
「お前にとっての罰は死ぬことではないのだな」
「まァな」
「哀れな男だ」
ひひひ……とナムリスは笑った。
「その慰めにお前が会いにきてくれるという訳か」
「調子に乗るな」
「ならば、良いではないか。哀れというのも」
「心にもないことを……」
「何故、悔しそうに言うのだ。トルメキアの姫よ。俺に何を期待する?」
「調子に乗るなと言っている」
まだ、クシャナの手には小刀が抜き身で握られている。
「お前を怒らせたら、それで俺の頭を砕いてくれるか?」
「ない」
きつく柄を握りしめた。
「絶対にない」
「情けを知らぬ女だ」
そう言いながら頬を緩ませる。
「なんだ」
「俺は強い者が好きだ」
好きだと言われ、クシャナの心中は複雑だった。その程度の言葉に心が揺さぶられてしまう。
「その口、縫いつけてくれようか」
「ついでに四肢も落とすが良い。だが、お前は絶対に頭を砕かぬのだろう?」
「くどい」
「ああ、全く好ましい女だよ。お前という奴は」
無性にナムリスの軽口が癇に障る。気軽に向けられる軽薄な好意が、かえって二人の間には何もないのだということを際立たせていた。
「なあ、トルメキアの姫よ。俺はどれほど眠っていた?」
「何故、そんなことを気にする?」
「随分と体が貧弱になってしまったからな。つまり、俺はずっとトルメキアで眠っていたということになる」
「一年程だ」
「目覚めた時分の記憶は霞がかかったように曖昧だが、その瞬間に俺はお前と出会わなかったか?」
その問いの為に、クシャナの胸が早鐘を打つ。ナムリスに思い出して欲しいことは、一年ぶりの邂逅がもたらした恋情の断絶ではない。むしろ、あの瞬間は存在しなかったことにしたいのだ。彼女はあの絶望を忘れていたい。
「なあ、俺たちは以前に会ったことがないか?」
「口説き文句としては三流だな」
それでも表面上は軽口を叩いてみせる。弱った心に鞭を打ち、全てをなんでもないことだと思い込ませる。ここに立つには心を愚鈍にする必要があった。早鐘は一瞬のこととして収まりつつある。
「お前は記憶を取り戻したいのか?」
「どうでも良いといえばどうでも良いが、他に考えることがないんでな」
「何か思い出したか」
「いいや。だが、わかったことがある」
「なんだ」
「お前は俺を知っているな」
瞬間、弱った心は動きを止める。
「そうかな」
反射的に唇から乾いた言葉が漏れた。
(私は知っている。私は知っている。だけど、お前は知らない。お前が知らないという事実を知らせたくない。きっと、風でも吹いたように事実はお前を通り過ぎる。どうでも良いと思うだろう?)
「そうだ」
ナムリスは頬杖をつき、クシャナに向き直る。
「その反応で知れるぞ。何を俺に思い出させたい? それとも、思い出させたくないのか?」
その言葉に追い詰められる。だが、やはり逃げなかった。ナムリスをまっすぐ見据える。発する言葉を考えるより早く、クシャナの手が動いた。小刀を投げつけ、彼の頬を切る。刃は壁に突き刺さった。
「その頬に流れる血のごとく、意識せずとも躍動する、休まらぬ情動だ」
「そんなものを俺に期待するか」
顔面の横の凶器を気にも留めずに会話を続ける。ちょっと肩をすくめた。
「本当にお前はこの俺を知っているのか?」
「言い出したのはそちらだ」
「自信をなくすな」
常とは変わらぬその態度に希望を見出しても良いものか? クシャナは決めかねていた。
「お前は何を思い出したい?」
「血だ」
即答する。
「この血を流した戦役の記憶が欲しい。俺はそれを百年も待った」
親指で頬の血を拭う。
「ろくでなし」
「ヒヒ……。確かにな。戦に敗れるろくでなしだ」
そのまま、小刻みに笑い続ける。
「破れかぶれに、こんなことをしてみよう」
立ち上がると窓を開け放した。
「待て……!」
次の行動を予測したクシャナが走り寄る。窓の外へ体を躍らせたナムリスの片腕を掴んだ。窓枠に腰かけ、片腕を吊られる形で彼の体が止まる。
「どうした? 触れたくなかったのではないのか?」
なおも体を外に持っていこうと体重を傾かせた。
クシャナが空いている方の手で、ヘルメットのバイザ―を持ち上げる。
「おあいこだ」
一瞬、驚いた顔をしたナムリスはにやりと笑うと、急に体重をかける向きを変えた。クシャナは避けきれずに受け止める。
「仕返しだ」
壁にはまだクシャナの小刀があった。持ち主の手に戻ったそれは引き抜かれると、ナムリスの背中に突き刺さる。
「おっかない女だ」
ヒヒヒ……と笑いつつ、腕から力が抜けた。クシャナはナムリスから逃れると空手で後退(あとずさ)る。
「そう、怒るな。慰めに歌でもどうだ」
いつも、母が人形を我が子としてあやしていた部屋で、同じように歌が流れる。
(かつて母が私を娘として見ていなかったように、ナムリスも又、私をクシャナとして見ていない。なのに……ああ、あの温もりは本物だった)
クシャナは顔を手で覆う。
「やめろ!」
ナムリスは歌い続ける。
(母上……母上……あなたは私に絶えることのない痛みを教えました……)
クシャナは耐えきれずに退室する。
「お前のことは見えぬらしい」
室内に己以外の人間がいなくなると、ナムリスは天井へ話しかける。背中の小刀を抜いて窓際へ置いた。
空中で座禅を組むミラルパが頷く。
「そのようにしている。ところで何故、彼女にあのような仕打ちを?」
「女は神秘だ」
ミラルパには良くわからない。
「不可思議なものさ。血を流すことを厭わぬ女なのに、ちょっと触れてやれば破裂してしまうような繊細さを持ち合わせている。それを知る為だけにでも近付く価値はあると思わないか? ま、お前にはそんなことはわかるまい」
「俺には苛めているようにしか見えん」
「はは。そうか」
軽薄に笑うと窓の外に目をやる。
「戦役で何が起こったかは思い出せないが、とにもかくにも俺たちは負けた」
「悔しいか」
「どうかな。ただ、ここでこうして生きていることが腑に落ちない」
ナムリスの眼差しに不自然なところはなく、涼やかですらあった。
「どうせなら、あのおっかない女に殺されてみたかったものだ」
ミラルパが眉間にしわを寄せる。
「何故」
「……さあ、何故だろうな」
天井にその身を向きなおらせる。
「ふいにそんな言葉が口から出てしまった」
不思議で堪らないとでも言いたげな表情だ。
「昔から命の価値に疎いところがある」
ミラルパはそう言うと少し考えた。
「覚えているか。幼き頃、二人で動物を飼おうとしたことがあった」
ナムリスは「忘れたよ」と言いたげに目配せするが、ミラルパは言葉を続ける。
「父君に頂いた図鑑に載っていた小動物だ。それを君が殺してしまった。……俺が気に食わなくて」
「お前は鼻持ちならない弟だったよ」
本音なのか嘘なのか、どちらとも取れるような口調で言う。
「俺は悲しかったし、憤ってもいた。だが、誰にも何も言わなかったし、仕返しもしなかった。それが少し、心残りだ」
「まるで、死霊の恨み言のようなことを言うな」
「だから、今ここで勝負をしないか。ナムリス」
「勝負にならないだろう。ミラルパ」
なんでもないように弟を見上げる。
「超常の力のない俺では」
「そうとも限らない」
こともなげに兄を見下ろす。
「勝負をしよう。それが終わったら、俺は消える」
「昔から言い出したら聞かない奴だよ」
ナムリスは立ち上がると腰に両手を当てた。
「それで、何をする?」
ミラルパは顎に手をかけると少しだけ考えてから真剣な眼差しで答える。
「鬼ごっこでもするか」
「馬鹿か、お前は。いや、お前が馬鹿でも構わないが、俺まで馬鹿に見えるだろうが」
思わず早口で反論した。
「良いではないか。夜にでもやれば、誰も見ていない」
「そういう問題ではない」
「鬼はナムリスだ」
「……勝手にしろ」
弟を尻目に、兄は部屋の隅の寝台へ向かうと横になり、背中を向ける。そして、夜がくるまで眠っていた。
「で、どうやるのだ」
暗闇の中でヘルメットをかぶりながらナムリスが問う。月光のみが光源だ。
「中庭に出よう。ナムリスが模範囚で良かったよ。警備がザルだ」
「そうか。残念だ。お陰で馬鹿の役をしなければならん」
窓を開けると木に飛び移り、中庭へ降り立つ。ミラルパも音もなく地面に足をつく。
「十を数えたらきてくれ」
(霊体だけの存在のくせに走る真似事をするとはな)
月光の下、ミラルパの入れ墨が浮かび上がった。体の動きに合わせて蠢いて見える。
(弟がその体に初めて入れ墨を彫った日を覚えている。その数日前に俺が最初の移植手術を終えたからだ。奇妙に感じたよ。入れ墨が増えていく毎にお前は生に執着していくようだった。反対に移植手術を重ねる毎に俺は生から身軽になっていったように思う)
一人で皮肉に微笑んだ。
(俺が執着したのは神聖皇帝の座だけだったな。要はお前ということになるのだろうか。本当に鼻持ちならない弟だよ、お前は)
遠のく背中に語りかける。
(今もまた、何か思惑があってこんな馬鹿なことをするのだろうが)
ナムリスは追いかけ始めた。すると途端にミラルパの体が走りながら透け始め、追い付く前に消えてしまった。
「なんだ。消えちまいやがった」
つい口から出てしまった言葉に既視感を覚える。
(いつだ? いつだったか、俺はこの台詞を吐いたことがある……)
立ち止まるナムリスの頭上にミラルパが浮いていた。ミラルパはゆっくりと腰を折ると、足元の事物を拾うようにヘルメットへ手を伸ばす。それに手がかかるかというところで、ナムリスが振り返りながら上を向いた。
「そうか。そのヘルメットは全方位が見渡せるのだった」
そう言いつつ、ミラルパは手を止めない。両手でヘルメットを奪い去る。上目遣いに見上げるナムリスの顔が晒された。
「悪いな。あの時は顔が良く見えなかったのでな」
「なんの話だ」
自分の知らない何かを弟だけが知っているのは快いものではない。
「何を言っている」
再び、ミラルパの体が透け始め、夜空に溶けて消えた。ナムリスはゆったりと周囲を見渡す。
「そっちじゃない。ここだ」
ミラルパの言葉に違和感を覚える。その台詞を彼が吐くのは間違っているはずだ。だが、その理由を思い出すことができない。ナムリスは虚空を見つめたまま動きを止める。視界に弟を捉えたくない。
「俺の心を読んでいるな」
無感動に話しかける。
「慣れているはずだが、何故かな。今は不愉快に感じる」
徐々にナムリスが振り返る。ミラルパは中庭の隅に立っていた。その距離は遠い。
「自分が理解していないことを、俺だけが理解していると思うからだろう」
だが、お互いの声は明瞭に聞こえた。夜気がひどく澄んでいる。
今、姿形から判断できる兄弟の年齢は釣り合って見えた。それがナムリスの癇に障る。唯一の優位性を奪われたような気持ちになる。
「お前はどこの空の下にいるのだ。どこにその本体を置く?」
「それが何か重要かな」
「それが俺の生きる目標だからだ」
ナムリスは腰に両手を当てる。
「いや、通過点と言った方が適当だろうな」
「もう、戦は望めまい」
ミラルパは空中で座禅を組むと膝の上にヘルメットを置いた。
「どうかな。あのおっかない女なら、こちらが仕掛けたら付き合ってくるだろうよ」
「何を根拠に?」
「根拠? 根拠など求めていては何もできない。ただ、目的があるのみだ」
ミラルパは溜息をつくと頭(かぶり)を振った。
「それが君の生きる術という訳か」
「ひひひ……。まあな。中々に虚無的だろう」
「その自覚が怖い。全く救いがない」
「救い?」
ナムリスは腰から手を放し、鷹揚に歩み始める。
「俺たちは救いから見放された兄弟ではないか。お前は土民も帝国も憎んでいた。それでいて、その職責から逃れようとはしなかった。もはや、ただの害悪だな」
「君は土民にも帝国にも有害だったからな」
ミラルパは動こうとしない。じっと兄がくるのを待っている。
「お前は生にしがみつく。俺は死にしがみつくという訳だ」
まだ、ミラルパから距離のある地点で歩みを止めると、中庭の真ん中で腹を抱えて笑い出した。声量だけは大きいが、その響きは空虚だ。
「怖いか。怖いだろう。俺たちの前にも後ろにも死体だらけだ。お前はその数を減らしたいと思いつつ、屍山血河を築いてきた。俺はその最後に自分の屍を飾るのだ」
「それで終いか?」
「いいや、俺たちの後にも愚者が続くだろうよ」
「それはあのトルメキアの姫か?」
あえてクシャナの名前を出さなかった。ナムリスに自力で思い出させたいのだ。
「良いねえ」
またも笑い出す。
「ひひひひ。是非ともお願いしたいものだ」
月光がさめざと泣くように降り注ぐ。その青白い光以外の色彩は死んだ。全てが静謐な空気の中、静まり返るその中心で一人の男が笑う。
「それが慈悲というものだろう?」
「彼女への慈悲はないのか」
「あの女にも次がいるさ」
「君の慈悲だ、ナムリス。君を殺すことで我らの地獄に続く女を憐れとは思わないのか」
ミラルパは一瞬だけ姿を消すと、ナムリスの眼前に現れた。
「俺を殺した君を殺して、更に血塗られた道を進めと言うのか」
ナムリスの脳裏に涙するクシャナの姿がよぎる。両手で顔を覆っている彼女の姿に既視感は感じない。むしろ、新鮮ですらあった。女を泣かしたことなど過去に幾度とあったのに、彼女の涙する姿がナムリスの琴線に触れる。
はっきりしていることが、ただの一つだけあった。ナムリスはクシャナの涙など欲しくはない。だが、あの時に歌うなと言われ、素直に従う気にもなれなかった。彼は強者が好きなのだ。そして、あの女が強者であることを、自分は感づいている。
――お前の傍でならな。
脳裏によぎったこの言葉はいつのものなのか、ナムリスには判然としない。だが、それが己の言葉であることを瞬時に理解した。
「そうだ。俺はお前を殺したな」
ミラルパは言葉を発して兄の思考を妨げるようなことはせず、視線を注いで見守っている。
ナムリスの視点は眼前のミラルパに固定されているが、彼を見てはいない。己の心の底に一人の少女を見出していた。
――私の傍にいられる?
あの時、自分はなんと答えたのか、もはや誰も覚えていない。その事実だけを思い出す。
――私の傍にいるのよ。
――私は傍にいろと言った。
その女の顔を彼は見なかった。
「思い出したのか?」
ようやく、ミラルパがナムリスの様子を窺う。段々と、ナムリスの焦点がミラルパに合ってくる。
「死んだお前は俺の元を去ったな」
「その先は?」
「なんだか胸糞悪いことを思い出すような気がしてならない」
ナムリスは踵(きびす)を返すと、虜囚の部屋の窓へ通じる木の下へ行った。
「今度こそ、俺のやることを脇で眺めているが良い」
三
クロトワは鏡の中の己を見た。額に傷がうっすらと残っている。
「落ち度はただの落ち度だ。責めはしない」
処刑時の騒動直後に死霊はその言葉を残して姿を消した。それ以来、クロトワの元には現れていない。その時のミラルパの目を思い出す度にぞうっとする。心の奥底を覗かれているようだった。
(兄弟揃って嫌な奴らだよ)
かつて、ナムリスが市場で好き勝手をする為の呼び水として使われたことを忘れてはいない。
「あの不死身の化け物がどんな目に遭おうと因果応報ってもんだろ」
そうと割り切れない自分を鼓舞するように呟いてみる。だが、心境に大した変化はなかった。深刻そうな顔をする自分に向かって溜息をつくと、肩の力を抜く。その表情に諦念の情が浮かび上がる。
「過ぎたことは過ぎたこと、か」
ただ、と彼は思う。自分に任せろと言った手前、クシャナに対して面目が立たない。さりとて、それを挽回する手立てもなかった。目下、クシャナの頭を悩ませているのはナムリスの記憶喪失であることは想像に難くない。彼女に対応できないことに、自分が何か役立てるとも思わなかった。
「恰好悪(かっこわり)い」
その言葉を自室に残して、彼は出仕した。
クシャナの変化には誰しもが気付いた。しかし、それを口に出して問うた者はいなかった。それをさせないだけの雰囲気が彼女にはある。だから、初めはクロトワも口にするつもりはなかった。いつもの通り、一人で彼女の机の前に立ち、その言葉を待つ。
常と変わらぬ沈黙が重荷に感じられたのは、処刑時の失態について主君が言及しない為だろうか? 段々と口をつぐんでいることに耐えられなくなってきた。
「御髪(おぐし)はどうなさったんで?」
その問いに対して、クシャナは書類から顔を上げずに答えた。
「似合わないか」
「そんなことは」
我ながら冴えぬ返答だと、クロトワは思う。
しばし、筆記するペンの硬質な音だけが続く。クシャナは一段落するとペンを置き、顔を上げた。
「ヒドラに渡した」
「誰にですって?」
クシャナは肘をついて両手を組むと、その上に己の顔を乗せた。
「気になるか」
「……いえ、やめておきましょう」
「流石に宮仕えが長いだけあって、長生きのコツを掴んでいるな。だが、私にその配慮は無用だ」
「では、お伺いしますがね。そのヒドラというのは、城内に囲ってある彼の人物で?」
「ヒドラはヒドラでも、他のヒドラだ」
内心、あんな化け物が他にもいると思うと胸糞が悪かったが、顔色には出さない。
「宜しいでしょう。世界は驚異に満ちていることはわかりましたよ」
手に負えませんとでも言うように、両方の掌を見せる。
「それで、なんの為に乙女の命を捧げたんです?」
「我が良人の記憶の為だ」
「と、おっしゃると奴の記憶は……」
「戻っていない。だが、戻らないと決まった訳ではないそうだ」
クシャナが誰かに助言を乞うたのは明らかだった。髪を切ったのはその決意の為だろうと、彼は推測した。
「陛下」
クロトワは自分の顔の筋が強張るのを感じた。正直、その次の言葉を発するのは、なんとなく怖いような気がする。
「処刑での失態についてのお沙汰を頂いておりません」
「そうか」
クシャナは背もたれに寄りかかると、視線を落とし、片手でペンを弄ぶ。
「大した騒ぎにはならなかったではないか。罪人は誰一人として逃亡しなかった。衆人に被害もない。参謀を罰する程のことは起きていないと思うが?」
「しかし……」
そこで言葉を呑んでしまう。彼女の良人について、どこまで踏み込むことが許されるのだろうか?
「ナムリスのことは気にするな」
クロトワの葛藤を知ってか知らずか、あっさりとその名を口に出すと、ペンを放り出す。
「元より、あれは生きているのも死んでいるのも同じようなものだ。公的な記録には何も残さん」
視線を起こし、クロトワの顔を見据えた。その瞳は「他に何か質問は?」と問うているようにも見えたし、「これ以上、何も聞くな」と命ずるようにも見えた。彼は自分の都合が良いように解釈した。
「もう、潮時でしょう」
クシャナの頬が一瞬だけ痙攣する。
「これ以上、周囲に隠しおおせるとお思いですか?」
「誤魔化すことはできる」
「ならば、あの男を人目のつかない場所へ監禁してしまうべきです」
机に片手をついて、主君に迫った。
「地下牢でもなんでもあるでしょう」
段々とクシャナの視線が下がっていくのを、クロトワは見つめていた。その視線が再び己を見る時、何かの断を下すだろうことを予測しながら。しかしそれまで、黙っているつもりはなかった。
「奴に自由など与えないことですよ。何をしでかすかわからないのは、ご自身が一番良くご存知でしょうに。これ以上、血が流される前に手を打つべきです。そうじゃあないですか?」
クロトワはちらっと己の頭上を窺った。あのミラルパがどこで何を聞いているともしれなかった。しかし今のところ、彼の姿は見えない。
「つまり」
と言って、クシャナが顔を上げた。
「クロトワは私に償いがしたいのだな?」
少々、返答に詰まった。
「そうは申しておりません」
何故か素直な言葉が出てこない。クロトワはクシャナを救いたいのに、面と向かうと及び腰になる。それは女の澄んだ瞳の為かもしれない。
「そうかな。私にはそう聞こえる。処刑での自分の落ち度の為に苦しむ私を救いたいと訴えているように思えるな」
そこで悪戯っぽく笑う。
「お人好しめ」
「からかわれては困ります」
机から手を離すと、苦々しく眉根を寄せた。
「ちょっと外に出ないか」
クシャナは返答を待たずに立ち上がる。
「良いでしょう」
クロトワもまた、目的地も聞かずに承諾した。
二人はトリウマに乗ると郊外へ出た。クシャナの先導で、ナムリスが根城にしていた廃村へ辿り着く。彼女は迷うことなく燃え尽きた教会まで進む。そこには多くの土饅頭があった。
「こりゃあ……」
「近くに墓守がいるはずだ」
クシャナは拳銃を抜くと空へ向かって引き金を引いた。殷々と銃声が乾いた空へ響き渡る。
丘の上の教会からは廃村が見渡せた。さほど遠くない道に一人の人間が現れる。その者は走りながらこちらへ向かってくるようだ。
「陛下! クシャナ代王陛下!」
その者――かつてのトルメキア軍の前線指揮官にして、ナムリスを火刑に処した男がクシャナの前に平伏した。
「この墓はお前か?」
「はっ。偽帝に惑わされ、手にかけた戦友の墓です」
男は顔を下げて元主君の言葉を待とうとしたが、待ちきれぬように上半身を起こし、捧げるように両手を上げた。
「陛下、クシャナ代王陛下、お赦し下さい」
「お前はすでに罰を受けたのではないか」
涼やかな声が馬上から答える。
「お聞き下さい、陛下。虚無が私の心を掴んだのです。それは今もなお私を放しません」
肩を落とすと俯いた。
「虚無が私の手を引き、血塗られた道を示します。奴は笑っている……笑っているのです。私にはそれが好ましく思えます」
男は両膝を大地についたままクシャナににじり寄る。
「恐ろしいことです……」
鐙(あぶみ)へ手をかけ、額をつけた。
「お赦し下さい、陛下。一言、赦すとおっしゃって下さい」
「私はお前を赦そう」
片手で手綱を握ったまま体を傾けると、もう片方の手を男の頭に置いた。
「だが、癒せぬ。これからも虚無はお前と共にあるだろう」
男の髪を掴むと顔を上向かせる。
「誰かの為に、トルメキアの為に働け。それだけがお前を慰める」
男を突き放す。
「行け」
大地に放り投げられた男は未練がましくクシャナを見た。
「行かぬか」
クシャナは拳銃を抜いた。
男は立ち上り、元主君と相対した。
「殺して下さい」
「断る」
「ならば何故、銃を構えるのですか」
男は憐れむように頬を緩ませた。
「私を赦すなら撃って下さい」
クシャナは苦々しく顔をしかめた。
「貴様もナムリスと同じか」
その名を聞いても男は無表情だった。
「虚無への供物として己を差し出すのだな」
「虚無への供物は我が死ではありません。陛下、あなた様です」
男は両手を捧げながら、ゆっくりとクシャナへ近付く。
「地獄への隊列の最後尾にあなた様を加えたいのです。永遠に続く地獄が慰めです。自分だけではなかったという実感だけが充足になるのです」
クシャナはナムリスのことを考えていた。生き飽きた、とあの男は言った。それに対して自分は、一人では楽にさせぬと言ったのだ。もしかしたら、それは奴への慰めになったのかもしれない。
男の手がクシャナの拳銃に伸びようとした時、横からクロトワが間髪入れずに発砲した。土饅頭の間に死体が倒れこむ。
「気にすることはありませんぜ。この男はナムリスと共に処刑されるべき人間だったというだけです」
ゆっくりと大地が人血を吸っていく。
「哀れみをかけるだけ無駄だったって訳です」
クシャナは虚無に取りつかれた人間の死体をじっと見ていたが、ふいに顔を上げて空を仰いだ。クロトワには彼女が涙をこらえているように見える。
「私はナムリスを赦さない。それでも結局、この男のように殺すしかないのだろう」
「それを確かめにきたんで?」
返答せずにトリウマを走らせる。クロトワも並走して続く。
「これが私の最後の鉄火場か」
クシャナの涙は風に飛ばされ、その痕跡を頬に留めはしなかった。
涙する女の言葉がクロトワの脳裏に住み着いた。
夜半、やにわにクロトワは寝台で起き上がる。それまでも眠っていた訳ではなく、まんじりともせずに横たわり、一つのことを考え続けていた。素早く、身支度を整えると再び寝台に腰かける。
彼の心中に一人の女がいた。女は悩み、苦しんでいる。だが、その姿を弱さとして他者に見せはしなかった。誰の助けも必要としないように、救いの手の介在を求めない。
それがクロトワにはやるせなかった。
女は良人を殺すしかないと言う。彼もその通りだと思う。だが、女がそれを行うには苦痛を伴うだろう。もしかしたら、それは永遠に女の心を蝕むかもしれない。
クロトワは考えている。自分が奴を殺してしまえば、女の苦痛は一瞬のこととして過ぎ、やがては心が癒されていくのではないか、と。その為に自分は憎まれるかもしれない。しかし、彼が逡巡するのはそれを恐れてのことではなかった。女の部下として、女の良人を殺すことが、新たな苦痛の種として芽吹くのではないかと危惧していた。
結局のところ、クロトワにとってナムリスは邪魔者でしかない。彼にとっても、彼の主君にとっても将来の障壁にしかならないと思う。それを取り除くことには、なんの迷いもない。
一昼夜もの間、クロトワを惑わせているのは、自分を見つめる女の澄んだ瞳が、弱さを見せようとしないからだ。そこに誰の出る幕もない。だが、このまま手をこまねき、自分が存在しないかの如くに事態が推移していくことには耐えられそうもなかった。
クロトワは立ち上がると拳銃を手に取り、虜囚のいる塔へ向かった。塔は王城から空中廊下で繋がっている。そこから塔へ通ずる扉の前に警備兵が一人だけいたが、酒瓶を手土産に労うと、適当に追い払ってしまった。もちろん、扉の鍵は頂いてある。
塔の中は月明かりの他に光源はなく薄暗い。だが、進む内に一つの部屋から光が漏れていることがわかる。
まさに今、部屋から何者かが出てきた瞬間だった。逆光でその人物の顔はわからなかったが、その背格好で虜囚と見当がつく。クロトワは勢い良く走り出すと、彼を突き飛ばして部屋へ押し込め、扉を閉めた。そのまま、拳銃の引き金を引こうとしたが、視界の隅に座禅を組んだ姿で空中に浮かぶミラルパの姿を収めてしまう。額の傷のことを思い出した刹那、足払いを受けて倒れる。
「よォ」
狂暴な笑みを浮かべたナムリスに見下ろされた。彼のヘルメットは、何故かミラルパの膝の上にある。クロトワは顔に思い切り足蹴をくらった。鼻の骨が折れ、血が噴き出る。
「何か用か?」
ナムリスは馬乗りになると明日の天気でも尋ねるように話しかけた。クロトワは上半身を軽く起こすと、彼の襟首を掴んで銃口へ引き寄せる。引き金を引くよりも早く、手刀で拳銃を弾き飛ばされた。
「なるほど」
ナムリスは暗殺者の仕事に納得すると、そのまま、殴打し続けた。クロトワの瞼が破れて血で視界が怪しくなり、口内を切って唇から血が流れた。腕でガ―ドしようとしたが、足で踏みつけられてしまう。
「さて」
ナムリスは立ち上がるとクロトワの腹を弱くない力で踏みつけた。
「こいつは誰だったかな?」
視線を獲物から離さずにミラルパへ尋ねる。
「トルメキアの姫の部下だ」
見るに堪えないとでも言いたげな、苦々しさのこもった言葉が返ってきた。
「ミラルパ、呼んでいるな。あの姫を」
「聞こえているのか」
「ああ、いつも聞こえていたさ」
クロトワの腹を一際強く踏みつけてから床に足を下ろし、力一杯に蹴りをくれる。
「弟の声は良く聞こえる。だが、この兄の声は聞こえまい」
続けざまに蹴られた為、内臓を損傷したのかクロトワが吐血する。
「遂に殺してくれるかと思ったが、こんな男に殺されてやる訳にはいかないな。こいつは恐れている」
ナムリスの脚を掴んだクロトワの手を、自由である方の足で踏みつけた。手首が折れたようだ。
「くるか。あの女が」
頭を蹴り上げる。
「楽しみだ」
クロトワは意識を失った。
四
クシャナは夢を見ていた。かつて、戦場で蟲の襲来を受けた時のことを追体験する。しかし、そこに部下たちはいない。周囲ではひたすらに人間が蟲に食われ続けている。その惨劇の中、彼女は無傷で塹壕の陰に座り込んでいた。千切れた腕や足、引きずり出された腸が降ってくる。己のものではない血潮に塗れながら、じっとしていた。
一対の首が塹壕の下へ転がり落ちてきた。それはクシャナに後頭部を向ける形で動きを止める。急にその顔を見なければならぬという気持ちになった。だが、同時にそれが恐ろしいような気持ちにもなる。座ったままでは届かぬと知りながら片手を伸ばした。やはり、届かない。その事実に安堵した直後、焦燥に駆られる。心が落ち着かない。
片手を伸ばした先、塹壕の向こうから一人の少女が歩いてくる。少女の行くところ、蟲たちは穏やかになり、慕うように舞い飛ぶ。徐々に人間への襲撃は収まっていった。しかし、すでに生きている人間は少女とクシャナの二人だけになっている。
蟲の羽音と鳴き声で世界が埋まってしまった空間で、二人は対峙した。少女は塹壕の端に立ち、クシャナは塹壕の中に座っている。まだ、クシャナの片手は首を求めていた。その指先に少女がいる。
「ナウシカ」
彼女はひどく静かな眼差しで見下ろした。それは微笑んではいない。ここではないどこか、ずっと遠くを見つめている。だが、不思議と拒絶されているとは思えなかった。ナウシカは膝に手をかけ、腰を屈(かが)めると手を差し伸べる。
クシャナはその手を取るべく、腰を浮かそうとしたが、体が重くて動かない。誰とも知れぬ腸が巻きつき、千切れた腕が衣服を引っ張る。自由になるのは上半身だけだ。命が終わったはずの物体を引き剥がすが、際限なくまとわりついてくる。肉塊の蠢く中、手の届かぬ先に首が静かに転がっていた。急にその距離に絶望する。
「これはあなたの心です」
クシャナへ手を伸ばしていたはずのナウシカが首を指さして言う。クシャナは再び、そちらへ手を伸ばすが、やはり届かない。
「大丈夫。それはもうあなたの胸の内にあるわ。消えようも逃げようもないのよ」
ふいに体が軽くなる。
「立てるわ」
その言葉でクシャナは夢から覚める。寝台の上で目を開き、ゆっくりと体を起こした。まだ、夜明け前の暗闇の中、サイドテ―ブルのランプに火を灯し、水差しから一杯の水を飲む。
何もかも忘れてしまったナムリスのことを考える。クシャナは彼に己の心を否定されることを恐れていた。だから、顔を合わせるだけで何も告げようとはしなかった。でも、心はここにある。否定しようもない気持ちがまだここで生きている。
自分の胸に手を当てた。
(そうだ。私は自らの望みを誰かに託すようなことはしてこなかった)
「行かなければ」
呟いたのと同時に、脳裏でクシャナを呼ぶ声がした。もちろん、周囲には誰もいない。脳裏の声が彼女を急き立てる。声は聞き取りにくく、全ての言葉を理解できる訳ではない。だが、その言葉の中に良人の名が出たのを、聞き漏らしはしなかった。
クシャナはマントだけを羽織ると裸足で虜囚のいる塔へ急いだ。塔へ向かう途中、不思議と警備兵の一人とも出くわさなかった。
ナムリスの部屋へ足を一歩踏み入れた瞬間に絶句する。そこには顔面を血だらけにしたクロトワが横たわり、その腹の上にナムリスが腰かけて頬杖をついていた。
「ナムリス」
「武器は持ってきたか。トルメキアの姫」
ナムリスはクシャナの小刀を握っている。
「先日、俺の背中に忘れていったな」
立ち上がるとクシャナへ向き直った。
わずかなクロトワの呻きでその生存を確認すると、彼女は全神経を変わり果てた良人へ集中させた。傍に落ちていたクロトワのものと思しき拳銃を手に取り、構えた。
「どうした。撃たないのか」
ナムリスがその手に刃を閃かせ、無遠慮に近付いてくる。クシャナの首筋へ小刀を押し付け、もう片方の手で銃口を自分のこめかみへ向けさせた。
「さあ、早くしろ。早くしないと手が滑っちまう」
クシャナは空いている方の手をナムリスの腰へ回すと引き寄せた。
「ただでは殺すものか」
そのまま振り回すようにしながら寝台へ向かうと互いに倒れこんだ。クシャナの首筋が軽く切れる。ナムリスは手を緩めない。
「それで良い」
彼女は艶然と微笑んだ。
「お前の記憶を一つ教えてやろう。私はお前を殺すと約束した」
「何をするつもりだ……?」
ナムリスが訝しむ。
「私はお前を恐れない」
クシャナはそっと口付けた。
「愛することを恐れない。お前は? ナムリス……」
ナムリスはクシャナの瞳を見た。その力強さ……。おもむろに刃を横へ引く。更に首の傷が深くなる。だが、女は逃げない。気が付くとこめかみに当てられていた拳銃が枕の上へ投げ出されていた。
「死にたいのか」
「いいや。生きる」
ナムリスはクシャナの手を振りほどき、上半身を起こすと組み伏せた。やはり、女は逃げもせず、抗いもしなかった。ただ、男の言葉を待っていた。
「俺と共に生きるというのか」
それは遠い昔、ナムリスが少女だったクシャナに初めて告げた言葉だったということを、二人は同時に思い出した。
「クシャナ」
男は憐れむように瞳を閉じる。女はその首へ腕を回すと抱き寄せた。
「お前は私の傍にいる」
ナムリスは刃を握った手を持ち上げると、そのまま手を離す。刃は寝台をそれ、床に突き刺さった。
白々と昇り始めた陽光が刃に反射し、クロトワの目を覚まさせた。
「トルメキア人、行くぞ」
そのすぐ傍でナムリスのヘルメットを持ち、空中に浮かんでいるミラルパが小声で促す。
「痛え……」
「足は無事だろう」
なんとか起き上がったクロトワは寝台をちらと見たが、何も言及しなかった。部屋を出ると、空中廊下へは向かわずに中庭へ降りる。
「どこへ行く」
「医者に決まってるでしょ。とりあえず、王城の奴らには見られたくねえ。騒がれたら事だ」
中庭から塔を降りようとした時、階上の部屋から男女の歌声が聞こえてきた。クロトワが足を止めて見上げると呟いた。
「さしずめ、歌姫の首は二つあるってとこか」
「何がだ」
「ここの使用人どもが怪しんだら、そう言って煙(けむ)に巻いてしまおうかと思ってな」
「さてはお前、お人好しだな」
「死んでからも兄貴の世話を焼く奴に言われたかないねえ」
ミラルパは手中のヘルメットをクロトワへ投げ渡した。
「返しておいてくれ」
「自分でやれ」
そうは言いつつも無事である方の手でヘルメットを小脇に抱える。
「ありがとう。迷惑をかけた」
ミラルパは輪郭を揺らめかせると消えていった。
「兄に待っていると伝えてくれ」
クロトワは誰もいなくなった中庭で、怪我の具合を確かめようと池に自分を映らせる。
「恰好悪(かっこわり)い」
そこには溜め息だけが残された。
ナムリスはクシャナの膝枕で寝台に横たわっていた。土鬼(ドルク)の歌をうたいながら、クシャナの首筋に流れる血をなぞって戯れている。
「痛いか」
突然、歌うのをやめると首筋からクシャナの瞳へ視線を移した。
「人並みにはな」
クシャナはナムリスの髪を撫でている。
「もう全てを思い出したか?」
「忘れていることを忘れたとは言えないな。だが、クシャナのことを覚えているのだから充分だ」
髪を撫でる手を止めぬまま、子守唄を歌い始めた。その瞳はナムリスを捉えている。
「何もかも覚えている。初めて会った時、その瞳で俺をどんな風に見たか」
ナムリスは血で汚れた指の腹でクシャナの頬に触れると、下瞼へ一筋の線を引いた。
「俺を見つめた瞳であんなに熱情的な女はいなかった。それは今も変わっていない」
両腕を伸ばし、女の頬を捕まえる。
「笑え。クシャナ」
歌いながら、微笑みを大きくした。
「もっと、もっとだ」
「おかしなムコ殿だ」
ささやかな笑い声をあげる。
「お前の勝ちだ。我が妻よ。憐れんでくれるな。俺はこの敗北を喜ぼう」
ナムリスは体を起こすと床に突き刺さる小刀を引き抜いた。
「俺を侍従にでも小間使いにでも好きなように使うが良い」
寝台から降りるとその場で片膝をついてひざまずく。小刀の柄を女に向け、差し出した。
「俺はお前に服従する。祝福してくれ」
クシャナは小刀を受け取ると、刃の切っ先に接吻する。寝台の上に立ち上がり、小刀を持った手を水平に持ち上げると、手を離した。寝台の端に小刀が突き刺さる。女は素足をその上へ乗せた。
男は足に接吻すると、その唇を徐々に上へ運びながら接吻を繰り返す。その顔を女が両手で掴むと上向かせた。口付けを交わす。
「しばらく、ここで暮らせ。私が会いにこよう」
「俺がそちらへ忍んで行っても怒るなよ」
ナムリスはクシャナを抱きしめると寝台から引き落とし、その胸に受け止めた。位置を反転させると床に手をつき、クシャナを見下ろす。
「恐ろしい女、俺の心はそこにある。もはや、逃れられない」
「愛しい男、お前の心はこの胸にある。死すともここに、永劫に」
首の傷へ唇を這わせた。女は声をたてて笑う。その顔を男はもう一度見る。クシャナの指が下から延びてきて、ナムリスの唇の血に触れた。その指を口中に含む。
クシャナは歌う。瞼を閉じ、ナムリスの温かさを感じながら、全てを捧げようと口ずさんだ。