第一話 鬼は俄に歌を聴く

 月の底は球状の鳥籠と似ている。ただし、月の内部をくり抜いて作られた鳥籠は、頭上に穿たれた大小さまざまの穴以外に、外界を覗く隙間を持たなかった。孤独な月の底に届けられるのは、太陽の光だけ。それもまた、穴が閉じられれば届かなくなる。

 朝に輝き、夜に沈むは、月の底の神殿都市である。どの神殿も高い柱の上に建ち、長い階段を備えていた。

 今、階段をのぼりきった神殿の入口で男が独り、フっと穴を見あげた。片手に戦斧を持ち、神殿の一部となって不動の姿勢を取り続けていた衛兵が、勤めを忘れたのは、穴から流れる歌の為である。

 それは静かな歌だった。夜半、母親が寝付けない幼子に歌ってやる子守歌のような哀愁が、大気に満ちていく。やるせなく、慈愛に満ちた歌声に神経を撫でられ、ここではないどこかに旅立つ自分を見送っているかのようにも思われた。

 郷愁が衛兵を襲う。感情に呑み込まれまいと、無意識の内に戦斧を握る手に力がこもり、石突きから階段に突き刺さって、我に返る。

 月に誰か来た。

 その事実が衛兵を突き動かした。咄嗟に引き抜けなかった戦斧から手を離し、己に術をかけて浮上する。穴から差す光が形作った一条の光に身を曝さらすと、砂塵が網目を通り抜けるように、穴から宇宙へと飛び出した。

 穴に張られた結界を複製し、自分の周りに空気の層を作る。

 光の筋の向こうには、嘘のような暗黒世界が広がっていた。その隔絶に奇妙な安堵感を覚えつつ、ぽっかりと浮かぶ青い惑星を見やる。もう、歌は聞こえない。しかし、道標(みちしるべ)をなくした旅人のように、迷いはしなかった。

 女が地球に額をつけて夢を見ていた。小さく虚空に横たわる身体は地球に寄り添い、広げられた腕が抱きしめる。永劫の孤独の中で、慰め続けている。長く伸びる黒髪が、地球と結びつく鎖のように見えた。


「いつまで」


 浮上した時と同じように術をかけ、自分を女の元へと向かわせる。ふっくらとした唇が薄く開かれているのを視認できる距離まで近づくと、男は無造作に女の腕を取った。奪い取るには優しすぎる力で、女をさらった。男は女を抱きかかえると、荒涼とした月面に戻っていった。

 暗黒世界からの帰還は、月の底を満たす水の乱反射する光に迎えられた。目を細めながら、衛兵をしていた神殿を探す。水とは異なる戦斧の煌めきに、すぐにそれと見付けだした。術で落下を抑制しながら、飛びたった時と同じく、音もたてずに着地した。

 戦斧を引き抜く為に、女の足を地に付け、腰に手を回して抱き寄せる。

 右手に力を込めた。それが左手にも伝わったものか、女はビクッと身を震わせる。そして、わななく唇がきれぎれの言葉を紡ぎだす――。


「……わたしは……ひとつになど……なりたくないのです……そんな……そんなものは……幻影です……あなたとあなたが……ひとつになるなど……夢……でしかないのに……わたしは……わ、わたしは……嫌なのです……それとも……これは……わたしの……罪でしょうか……?」


 ゆっくりと目尻に涙が溜まって、零こぼれ落ちる。

 男は物珍しそうにそれを眺めていたが、やがて唇で涙を受けた。

 戦斧を片手に、再び女を抱きかかえると歩きだした。

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