ムトも仕事机へ戻り、腰を落ち着ける。中途の計算を再開しようと机の上の乱雑さに手を伸ばした。探し物をするように紙片をつまんではその下を確認することを繰り返す。しかし、実際は数字よりもイェルミニアの方を気にしているのだった。
瞬(まばた)きする動きで姿を見る。彼女は肘掛けの上に両肘をつき、指を組んで顎を乗せた。身体をひねって片脚だけを長椅子の上へ置く。瞬間、彼はゆっくりと息を吐きだした。
「君に降伏するよ」
全てを投げ出すように背もたれに寄りかかり、足を組む。ただし、姿勢は崩さない。
「確かに俺はニヤーグの命日を忘れていたい。恐ろしいからだ」
同じ口で先程は何も恐ろしいことはないと言ったのだ。その現実に微苦笑して、机に肘をついて口元を隠すように親指と人差し指の間を上唇へ当てた。
「あなたが殺したんだもの」
イェルミニアが緩慢に立ち上がると獲物を求める白鷺のようにゆったりと近付いてくる。宝石の煌めきに目を射られ、目を眇(すが)めた。
「正当防衛だよ」
極自然な受け答えに聞こえる。それを表現する為に押し殺した痛みが目元に漂ってすぐに消えた。苦しみに耐えようとして細められた目元よりも心持ち笑う口元の方が印象に残る。
「いつまでたっても、イナークにニヤーグのことを知られる心構えができないだけさ。あいつが口の端(は)に上る日は秘密を守りきれない気がする」
「いつ壊れてしまっても同じことなのに」
ムトの傍らで立ち止まり、見下ろす。彼は子どもの去っていった方を見ていた。彼女の身体は窓の外へ向いている。
「ねえ」
腕をまっすぐ垂らしたままムトの頬へ手を添えた。彼は頬杖をつく姿勢を崩さない。
「他人に終わらされるより自分で終わらせた方が悔いが残らない」
「どうして、そうなる」
純粋に疑問を問う声は一つの陰りもない明るさだった。
「壊れるものか。変わるだけだ。それに心配しなくても、君とイナークは少しだけ血が繋がっているじゃないか」
視界の隅に収めた自分から離れていく指を頼りに彼女の腕を探る。手首に触れると撫でるように手を伸ばして掴んだ。立ち上がろうと椅子を後ろへ押したのと、イェルミニアが肘掛けに腰を下ろそうとしたのは同時だった。
とっさに姿勢を保てず、ムトの膝の上へ滑り込む。勢い余った上半身を支えられた衝撃で頭飾りが外れた。弾みで結い上げた髪がほどけ、その重みで垂れ下がる。露わになった髪は羽毛のように白い。
ムトは子どもの頃から家族ともども旅館で住み込みの仕事をしていたが、どんな旅行客からも生まれついて髪の色が抜けている者の話など聞いたことがなかった。
彼女はその虚弱さと奇異な色合いの為に屋敷の外へ出ることを戒められて育ってきた。両親の没後も急な来訪者から髪を隠すように古風な頭飾りをつけているが、自らの姿を隠さなければならない理由に納得してはいない。服飾品の色から娘は主張する。耳目に触れずとも事実は存在し続け、事なかれ主義者を怯えさせるのだと、言葉の届かなくなった愛すべき者たちへ訴えている。
イェルミニアの一番目の兄であるニヤーグが家人に無断でムトを本邸へ住まわせることを決めた時、彼女は髪を晒したまま挨拶にきた。それは新しく家に入る部外者へのささやかな威嚇だったと理解している。「本の世界で生きている妹」は「決闘の名誉に生かされる兄」と血よりも魂が近似していた。
「相変わらず、曲がったところのない気性よね」
支えを求めて空を掴んだ手がムトの後頭部へ触れる。まだ、イェルミニアは首を反らして天井を見ていた。
「なら、命日を悼むものではないわ。殺した者の責任は、生者が死者になったことを肯定することなのだから」
「死を祝えと?」
「そうよ」
髪を鷲掴みにされる。そのまま、上体を起こす為の支えにされた。
「詫びなど欲しくない。失われたことを喜んでよ。でなければ、なんの為に死ぬの」
ゆっくりと起き上がる彼女の顔が見えない。首の力だけが弛緩して、ずっと天井を向いたままだ。ムトは痛みに顔を顰(しか)めながら耐えている。視線の先には輝く肢体だけがあった。
「望まれて死ぬなら甲斐もある。殺したことが間違いだったと思うのは死者への侮蔑だわ。無意味な死にしないでちょうだい」
「どうして、君が俺と一緒になったのかわかった気がするよ」
彼女の背を支える手を横に滑らせて肉付きの悪い腕を掴む。イェルミニアが行動の意味を推しはかろうと顎を引くようにして顔を起こした。なんの判断もつかせない内に抱き込むようにして上体を起こす手助けをする。同時に頭部の痛みを霧散させる為に顔を近付けた。
瞳の底を覗き合う。今はまだ、誰もそこにあるものを理解できない。互いに確かめようと覗き込む心だけが透明のまま見えていた。
イェルミニアのわずかに開いた唇から言葉が漏れるよりも早く、自由な腕を持つムトが彼女の鎖骨に触れた。肩口の大きく開いたドレスは線の細さを強調して魅力を減じさせている。
「イェルミニアにはわかるか。俺が一緒になった訳を」
「貴族の一員に加わって身分を上げたわね。結構なお話じゃない? お兄さま方だって、軍功を上げて我が家を世襲貴族にしたんだもの。誰の為にもならないまま、人生を終えるであろう私よりロマンがある」
彼女の身体に影が落ちていた。もう、煌めく白は彼の目をくらまさない。女の中にある真実が心臓を痺れさせる。
「君があんまり丁寧に食事をするからさ」
少々、イェルミニアが目を細めた。
「感謝の仕方を知っているんだね。空腹を感じるより先に食事が運ばれてくる身分なのに」
いつも必ず、味わい尽くす。それが命を頂くことに対する彼女の責任の取り方だった。それがムトには堪らなく愛おしい。
「俺はこれほど慈愛に溢れた人を他に知らない」
イェルミニアの頬に赤味が差し、ムトの身体を引き剥がそうと胸に掌を押し当てた。声にならない言葉が唇に潰され、稚気を帯びた表情が良人を非難した。認められることに慣れていないので照れくさいのだろうと、彼には思われた。
ただ、イェルミニアは視線を逸らしたかっただけなのだ。あまりに優しく見つめる瞳に映す姿として、自分が相応しいと感じるのは気恥ずかしかった。また、嬉しくもあった。その気持ちを持て余している。
「暴れないでくれよ」
しだいに腕と足の動きが大きくなるイェルミニアへ余裕の笑顔で腕の力を解いてやる。それが癪に障ったのか、彼の太ももを踏みつけにして机の上へ逃れると立ち上がった。振り返りざまに紙片を蹴り上げる。片手を上げて顔を守ったムトの視界で白が充満し、舞い散った。視線が交わらないまま、その中をイェルミニアが机の向かい側へ飛び降りる。羽切りをされた鳥のような半端な跳躍だった。
「どうして、私に子供を抱かせるの」
問いを投げかける後ろ姿は返答など待たなかった。ムトも答えたいとは思わない。だから、置き忘れられた頭飾りを後で届ける役目は彼のものとなったのだ。
(どうして? そうだな……)
再び、陽光を背にして一人きりとなる。散らかった部屋を片付けようともせず、肘置きに両腕を投げ出した。横目で彼女の置き土産を見つめる。
(寂しいからさ)
このまま永遠に、とムトは思った。今が続いていけば良い。だが、その為に努力するような愚か者にはなれなかった。瞼を閉じると背もたれに頭を預けて薄く笑う。
(曲がったところのない気性、か)
妻はそれを求めるだろうか? 友はそれを望んだ為に死んだのだ。ムトはまた殺すだろう……。
そのまま、じっとしていると眠気を感じていることに気付く。少し横になって休もうかと目を開けると、薄暗闇の中にいた。まだ、日暮れには早いので、これは太陽が厚い雲に隠された為だとわかっても良いはずだった。
光の失せた空間は隙間のない直方体として完成されているように見える。その事実がムトの顔面を強張らせた。身体が微睡みを打ち捨てて立ち上げる。机を迂回することすら煩わしそうに小走りで扉へ向かった。ドアノブに触れようとしたところで、ようやく表情が緩む。扉はきちんと閉められていなかったのだ。
――お前はまっすぐ生きろよ。
彼の身代わりとなって死んだ兄の言葉が身体に満ちているのを感じる。いつだって、忘れた訳ではなかったのだ。
(ならば)
今度こそ、ぬるま湯の現状に別れを告げるべきだ。息子に実父の名を明かし、妻を自由にしなければならない。ムトは彼女の心が自分にないと知っている。だが、彼の眼光に力は宿らない。遺言に背いてまで女を繋ぎ止めたことだけが真実だ。
扉に触れたまま、前に進むことも後ろを振り返ることもできずに再び空から光が差してくるのを待った。曖昧な記憶となった亡兄の顔を思い出そうと努めながら。